第8話:画策
公爵邸へ戻った二人を迎えたのは、いつものような騒がしさだった。
玄関ホールには使用人たちが集まり、何食わぬ顔をしながら、その実、ミレイユとアロイスの一挙一動をしっかりと観察している。
当の二人は、そんな視線を気にする様子もなく並んで歩いていた。
しかも、手を繋いだままだ。
あまりにも自然になってしまったせいか、本人たちには特別なことをしているという自覚すら薄いらしい。
そんな二人を眺めていたライナーが、とうとう我慢できなくなったように腕を組んだ。
「……で?」
指差した先には、当然ながら二人がいる。
「婚約してるのに、全然進展なくね?」
ミレイユが固まった。
アロイスは無言だったが、眉がわずかに動く。
ライナーはそれを見逃さない。
「やっぱりお前ら思春期か!?婚約までして、その距離感で済むか普通!?」
「進展が緩徐すぎますね」
エドガーが淡々と補足した。
そして、もう一言。
「ヘタレ」
アロイスの眉がぴくりと動く。
その隣でヴァルターが何の感情もない顔のまま、懐から手帳を取り出した。
「公爵、ヘタレ……と」
「記録するな」
「どこに報告するつもりですか……」
ルドルフがこめかみを押さえる。
しかし、ライナーは止まらない。
「だってよ!婚約だぞ!?婚約してんだぞ!?それでまだその距離感って、どういうことだよ!」
「理論上、もう少し進展していてもおかしくありません」
エドガーが真面目に頷く。
「理論上ってなんだよ……理論はいらねぇよ」
ミレイユは両手で顔を覆った。
「もう、やめてください……」
切実な訴えだったが、誰一人として引く気配がない。
むしろ、アロイスが黙ったままミレイユの手を握る力を少し強めたことで、事態はさらに悪化した。
ミレイユが気づいて隣を見る。
目が合うと、小さく笑った。
それだけで、外野には十分だった。
ライナー、エドガー、ヴァルター、ルドルフ、そしてマルガレーテ。
全員の視線が交差する。
言葉は必要なかった。
意思疎通は、完全に成立した。
「……なあ」
ライナーが声を落とす。
「はい」
エドガーが頷く。
「必要ですね」
ヴァルターも同意した。
ルドルフだけが目を閉じる。
「……やるのですか」
誰も答えなかった。
ただ、ルドルフ以外の全員が頷いた。
――絶対に進展させてやる。
そんな、どうでもいいところで強固な共同戦線が生まれていた。
ミレイユはそれを見て、嫌な予感を覚える。
「……なんですか、その顔……」
「別に?」
ライナーがにやりと笑う。
明らかな嘘だった。
エドガーも平然と答える。
「通常業務です」
「絶対違いますよね……?」
ヴァルターは短く言った。
「支援です」
その言葉のほうが怖い。
ルドルフは遠い目をした。
「……公爵家はいったいどこへ……」
誰も彼の嘆きを聞いていなかった。
*
その日の夕刻。
公爵邸の廊下には、妙に人の気配がなかった。
正確には、見える場所には誰もいない。
角を曲がった先には、ライナー、エドガー、ヴァルター、マルガレーテ、そして巻き込まれたルドルフが集まっていた。
全員、声を潜めている。
「配置は?」
ライナーが尋ねる。
エドガーが即答した。
「扉は内開き、外から施錠可能です。窓は高所にあるため、脱出は困難でしょう」
「……本当にやるのですか?」
ルドルフが確認する。
「やるわ」
マルガレーテは即答した。
一切の迷いがない。
彼らの目的は一つ。
二人きりの時間を作ること。
数分後。
談話室には飲み物が用意され、ソファにはクッションが並べられていた。
灯りも普段より少し落とされ、妙に柔らかな雰囲気に整えられている。
どう見ても、何かを企んでいた。
そこへ、何も知らないミレイユが入ってくる。
「こちらでお待ちください、と言われたのですが……」
周囲を見回し、首を傾げる。
どうにも妙だ。
その直後、反対側からアロイスも入ってきた。
二人の視線が合う。
――カチリ。
背後で扉が閉まり、外から鍵がかかった。
二人は同時に振り返る。
ミレイユが扉へ歩み寄り、取っ手を回した。
動かない。
「……」
アロイスを見る。
そして、両手で顔を覆った。
「……やめてください……」
完全に理解したらしい。
アロイスも扉を確認する。
「……出られないな」
「ですよね……」
ミレイユは深々と息を吐いた。
*
一方、扉の外では。
「……初動が遅いな」
ライナーが小声で呟く。
「様子見です」
エドガーが答える。
「まだ接触していませんねぇ」
ヴァルターも冷静だった。
「……帰ってよろしいですか」
「静かに」
マルガレーテの一言で、ルドルフまで黙らされた。
室内では、ミレイユが観念したようにソファへ腰を下ろしていた。
アロイスもその隣に座る。
近い。
けれど、不思議と気まずくはなかった。
ミレイユは膝の上で手を組みながら、ちらりと隣を見る。
「……あの」
「何だ」
「こういうの、慣れていますか?」
アロイスは少し考え、正直に答えた。
「……いや」
ミレイユが小さく笑う。
「ですよね」
どこか安心したような声だった。
それから、自分から少しだけ身体を寄せる。
アロイスはその距離を受け入れるように、ミレイユの手を取った。
指を絡める。
ミレイユの呼吸がわずかに揺れた。
それでも、手は離さない。
「……今度は」
ミレイユが顔を上げる。
「分かって、していますよね?」
アロイスは彼女の目を見る。
「ああ」
迷いのない返事だった。
その一言で、ミレイユの頬が赤くなる。
それでも目は逸らさない。
二人の距離が、ゆっくりと縮まっていった。
やがて、唇が触れる。
以前より少し長く、互いを確かめるような穏やかな口づけだった。
離れると、ミレイユは真っ赤になった顔を両手で覆う。
「……心臓が、持ちません……」
けれど、逃げることはなかった。
アロイスも離れない。
*
扉の外では、全員が耳を澄ませていた。
「……なあ」
ライナーが囁く。
「なんで急に静かになった?」
「会話が途切れました」
エドガーが事実だけを述べる。
ライナーの目が輝いた。
「ってことは……!」
「分かりません」
「なんでだよ!」
「見えていませんので」
「お前、さっきから役に立たねぇな!」
「当然です。扉があります」
正論だった。
ヴァルターが手帳を開く。
「会話、途絶――」
「記録すんな!」
「状況証拠としては興味深いですねぇ」
「状況証拠で何を立証するつもりなんですか……」
ルドルフが疲れ果てた声で呟く。
マルガレーテだけは、祈るように両手を組んでいた。
「頑張って、坊ちゃん……」
「何をですか」
ルドルフの問いには、誰も答えなかった。
*
客間の中では、ミレイユがまだ頬を赤くしたまま、繋いだ手を見つめていた。
「……閉じ込められるの、初めてです」
「俺もだ」
ミレイユが少し笑う。
「そうですよね」
それから、今度は真面目な顔でアロイスを見た。
「……こういうの、嫌じゃないですか?」
閉じ込められていることも、外野に騒がれていることも。
その状況で、こうして二人きりにされていることも。
アロイスは少し考えた。
「……問題ない」
そして続ける。
「お前といる時間が増えるだけだ」
ミレイユの顔が一気に赤くなった。
けれど、今度は顔を覆わない。
なんとか耐えるようにアロイスを見つめる。
「……ずるいです」
「何がだ」
「そういうことを、さらっと言うところです」
困ったように笑うミレイユを見て、アロイスは繋いだ手を軽く引いた。
身体が近づき、肩が触れる。
アロイスの手が頬へ触れた。
ミレイユは逃げない。
二人の距離が、もう一度縮まる。
その時だった。
――カチリ。
どこかで、何かが操作される音がした。
室内の灯りが、さらに落ちる。
ミレイユが固まった。
ゆっくりと扉を見る。
「……やめてください」
当然、扉の向こうへ向けた言葉だった。
外から、慌てて声が返ってくる。
「……バレた」
ライナーだった。
「当たり前でしょう!」
ミレイユはとうとう声を上げた。
「何をしているんですか!」
「支援です」
エドガーが答える。
「いりません!」
「最適化です」
今度はヴァルター。
「もっといりません!」
「私は止めました」
ルドルフの声まで聞こえてきた。
「ルドルフさん……!」
唯一の味方を見つけたような声だった。
「裏切るなよ!」
「最初から賛成しておりません」
外で仲間割れが始まっている。
ミレイユは額を押さえた。
「ほんとに、もう……」
やがて諦めたように息を吐き、アロイスを見る。
「……すみません」
「何がだ」
「巻き込まれて」
「問題ない」
アロイスは迷わず答えた。
「お前といられる」
ミレイユの表情が柔らかくなる。
困ったような、それでいて嬉しそうな笑顔だった。
今度は彼女のほうから近づいた。
アロイスの手がミレイユの腰へ回る。
ゆっくりと引き寄せられ、二人の距離が消える。
ミレイユは息を呑んだ。
けれど、逃げない。
目を閉じる。
そのまま――と思った、その時。
アロイスの動きが止まった。
ミレイユが目を開く。
「……?」
アロイスはわずかに距離を取った。
「……ここまでだ」
「え……」
「これ以上は、場所が悪い」
ミレイユはその言葉の意味を理解し、頬を赤くした。
「……そう、ですね」
小さな返事だった。
けれど、どこかほっとしているようでもあった。
*
扉の外では、相変わらず何も分かっていなかった。
「……静かだな」
ライナーが扉に耳を寄せる。
「静かですね」
エドガーも同意する。
「で、どうなってんだ?」
「分かりません」
「お前、それしか言わねぇな!?」
「見えませんので」
「役に立たねぇ!」
「そもそも、何の役に立つことを期待しているのですか……」
ルドルフが疲れ切った声で呟いた。
ヴァルターは手帳へ何かを書き込んでいる。
「長時間の沈黙、と」
「だから記録すんな!」
マルガレーテだけは、じっと扉を見つめていた。
「坊ちゃん……」
「何も分かってないですからね!?」
ライナーの突っ込みが飛ぶ。
その直後だった。
――ガンッ!
扉の鍵が破られた。
「うおっ!?」
全員が飛び退く。
内側から開いた扉の向こうには、アロイスが立っていた。
無言。
その背後には、頬を真っ赤にしたミレイユがいる。
外野の視線が、一斉に二人へ向いた。
そして。
「……進展したな」
ライナーが呟いた。
「状況証拠としては有力です」
エドガーが頷く。
「記録しておきましょう」
ヴァルターが手帳を開く。
「やめろ」
アロイスの声が落ちた。
全員が黙った。
「……何をしている」
逃げ場はなかった。
ライナーが笑顔を作る。
「いや、その……」
無理だった。
エドガーが即答する。
「後方支援です」
ヴァルターも頷いた。
「最適化です」
ルドルフはそっと一歩後ろへ下がる。
「私は止めました」
「裏切るなよ!」
「最初から賛成しておりません」
マルガレーテは微笑んだ。
「ちょっとしたお節介ですわ」
開き直りが強い。
ミレイユは両手で顔を覆った。
「……やめてください……」
完全に限界だった。
しばらくして、ライナーが恐る恐る口を開く。
「……で」
アロイスの眉が動く。
「なんだ」
「いや……その顔見る限り、途中で止めたんだろ?」
「何を根拠に言っている」
「勘」
「黙れ」
「はい」
即座に引き下がった。
エドガーが静かに口を開く。
「少なくとも、公爵が冷静であることは確認できます」
「そこだけは確かですねぇ」
ヴァルターも頷いた。
ルドルフは、ようやく少しだけ安堵したように息を吐く。
「……まともでいらっしゃった……」
「そこに感動するなよ」
ライナーが小声で突っ込んだ。
マルガレーテは満足そうに頷く。
「さすが坊ちゃん。いい男ですわ」
「なぜ評価が上がっているんですか……」
ミレイユの声は、まだ両手の向こうから聞こえていた。
アロイスは何も答えず、その手を取る。
しっかりと握った。
「……当然だ」
そして、当たり前のことを告げるように言った。
「伴侶だ」
全員が停止した。
次の瞬間。
「うおおおおおおおおおおお!!!!!」
ライナーが爆発した。
騒ぎを聞きつけたメイドたちも、一斉に歓声を上げる。
「きゃあああああああ!!!」
「閣下が言った!」
「伴侶って言ったわよ!」
ミレイユは完全に顔を覆った。
「やめてください……!!!」
けれど、アロイスはその手を離さない。
騒ぎの中でも、ただ隣にいる。
その姿を見て、ライナーはとうとう頭を抱えた。
「……もういい。お前ら、勝手に幸せになれ……」
「最初からその予定です」
エドガーが淡々と返す。
「うるせぇ!」
公爵邸は、今日も平和だった。




