第6話:宣言
公爵邸、広間。
この日は珍しく、屋敷にいる者のほとんどが呼び集められていた。
ライナーは腕を組み、何事かと訝しげに周囲を見回している。
エドガーはすでに筆記の準備を整え、ヴァルターは壁際で様子を見ていた。
マルガレーテはどこか落ち着かず、ルドルフはいつも通り控えている。
メイドたちも整然と並んでいた。
その中央にいるのは、アロイスとミレイユだった。
二人の距離は近い。
最近では、それも珍しいことではない。
けれど、今日のアロイスにはいつもとは違うものを感じたのか、誰もがその言葉を待っていた。
やがて、アロイスが口を開く。
「前提を共有する」
相変わらず無駄のない言葉だった。
「ミレイユは王国所属の魔術師だ。現在は共同研究の名目で帝国に滞在している」
そこまでは、全員が知っている。
「所属が曖昧なままでは、今後必ず問題になる。王国と帝国、双方の利害が衝突する可能性もある」
全員にわずかな緊張が走る。
政治の話だ。
「手続きは煩雑だ。時間も無駄にする」
アロイスは眉間に皺を寄せた。
「――面倒だ」
ライナーが思わず顔を上げる。
「そこかよ」
小さなツッコミが入ったが、アロイスは気にせず続けた。
「よって、既成事実を作る」
そして、何の迷いもなく言い切る。
「ミレイユを伴侶に迎える」
広間が静まり返った。
「はぁぁぁああああ!?」
真っ先に爆発したのは、やはりライナーだった。
「なんでそこだけ決断が速いんだよ!!!」
「事実として、同衾は未観測ですね」
エドガーが淡々と付け加える。
「観測すんな!!!」
ライナーが即座に振り返る。
ヴァルターは特に動じることなく頷いた。
「合理性は担保されています。所属問題の解消としては、最短経路でしょう」
「だからって極端すぎるだろ!」
ライナーが頭を抱える一方で、マルガレーテだけは固まったまま、アロイスとミレイユを交互に見つめていた。
やがて、震える声が漏れる。
「……坊っちゃん……」
アロイスが視線を向ける。
「ついに……」
それ以上は言葉にならなかった。
マルガレーテの目から涙が一粒こぼれる。
ミレイユは驚いたように目を見開いたが、すぐに彼女のもとへ歩み寄った。
そして、以前自分がしてもらったように、そっとその肩を抱く。
「マルガレーテさん」
優しい声だった。
マルガレーテは顔を覆いながら、泣き笑いのような表情になる。
「よかった……本当に、よかった……」
何年も仕えてきた主の人生に、ようやく訪れた変化。
それが嬉しくて仕方がないのだろう。
その様子を見ていたルドルフも、息を吐いた。
「……ようやく、ですか」
かつての嘆きとは違う。
今度の声には、穏やかな安堵があった。
一方、後ろに控えていたメイドたちは、まだ整列したまま微動だにしていない。
だが、その顔には明らかな動揺が浮かんでいた。
「……今の」
誰かが呟く。
「……結婚……?」
別の誰かが、確かめるように返した。
その言葉を聞いた一人のメイドが、そっと顔を覆う。
目から涙がこぼれた。
それを見た隣のメイドも口元を押さえ、さらにその隣も目を潤ませる。
職務を崩すまいと必死に耐えているのに、嬉しさだけは隠しきれない。
やがて一人が、小さな声で言った。
「……おめでとうございます」
それを合図にしたように、全員の目が潤んだ。
けれど、声を上げて騒ぐことはしない。
ただ、嬉しくて仕方がないという顔で二人を見つめている。
しばらくして、一人が涙を拭いながら言った。
「……今夜、寝られないわね」
「無理よ」
すぐに別の声が返る。
「乾杯しなきゃ」
「推しの幸せを?」
「もちろん」
全員が深く頷いた。
その一致ぶりを見て、ルドルフは何も言わず遠い目をした。
ミレイユはそんな屋敷の者たちを眺めながら、少し驚いたように目を見開いていた。
けれど、その胸の奥には、じんわりと温かいものが広がっていく。
そして隣を見る。
アロイスはいつもと変わらない顔をしていた。
けれど、確かにここにいる。
ミレイユは小さく息を吸った。
「……本当に、いいんですか?」
今さらの確認だった。
アロイスは迷わず答える。
「ああ」
そう言って、ミレイユの手を取った。
ごく自然な動作だった。
けれど、しっかりと握られた手は、もう簡単には離れそうにない。
ミレイユも、その手を握り返した。
それで十分だった。
*
公爵邸、応接間。
それからしばらくして、再び客が訪れていた。
アンネリーゼである。
彼女はいつものように優雅な姿勢で紅茶を口に運び、対面にはアロイスとミレイユが並んで座っている。
以前なら少し距離を取っていた二人だが、今はもう隠すつもりもないらしい。
アンネリーゼはカップを置いた。
「……聞きましたわ」
柔らかな声だった。
だが、逃げ場はない。
「『面倒だから結婚する』と」
ミレイユが固まった。
アロイスは無言だったが、否定もしない。
アンネリーゼの口元が、わずかに引きつる。
「閣下は……本当にバカなんですの?」
以前にも聞いた言葉だった。
だが、今回は呆れの度合いが違う。
アロイスは黙って受け止める。
アンネリーゼは呆れたように息を吐いた。
「合理性を理由にして、ご自分の感情を説明しないおつもりですか?」
核心を突かれ、ミレイユの視線が揺れる。
アロイスはわずかに目を細めたが、それでも答えなかった。
アンネリーゼはそんな彼を見て、肩をすくめる。
「まあ、よろしいでしょう……では確認させていただきますわ」
そして、ミレイユを見る。
「ミレイユ様は、閣下と結婚なさるのね?」
真正面から問われる。
ミレイユは息を呑んだ。
それでも、もう迷わない。
「……はい」
はっきりと答えた。
アンネリーゼは満足そうに微笑む。
「よろしい」
続いて、アロイスへ視線を向ける。
「閣下も同意されているのですね?」
「ああ」
こちらも即答だった。
アンネリーゼは頷くと、わずかに身を乗り出した。
その目に、悪戯っぽい光が宿る。
「では、なぜ指輪を渡したのか、説明していただけます?」
ミレイユが固まる。
アロイスも黙った。
やがて、真面目な顔で答える。
「……礼だ」
今度はアンネリーゼが固まった。
「っ……!」
肩が震える。
「ふ、ふふ……!」
必死に笑いを堪えている。
だが、無理だった。
「礼で指輪を贈る殿方なんて、初めて見ましたわ……!」
とうとう笑いが漏れる。
ミレイユは顔を覆った。
「やめてください……!」
「意味も分からず渡して、そのまま結婚宣言ですもの」
アンネリーゼは目尻の涙を拭いながら、まだ笑っている。
「本当に、恐ろしい方ですわね」
褒めているのか呆れているのか、もはや分からない。
アロイスは黙ったままだった。
ただ、その手が自然にミレイユへ伸びる。
そっと手を握ると、アンネリーゼの笑みが少しだけ柔らかくなった。
「……まあ、これなら私が選ばれなかった理由も納得ですわ」
あっさりとした言葉だった。
そこに悔しさはない。
むしろ、どこか楽しそうだった。
「勝ち目のない勝負はしませんの」
それから、二人を交互に見る。
「ただし、その指輪の意味だけは、これからちゃんと理解なさって?」
アロイスは短く頷いた。
「ああ」
ミレイユも小さく笑う。
「……はい」
アンネリーゼは満足そうに立ち上がった。
「では、お幸せに」
最後まで優雅だった。
*
アンネリーゼが去った後の応接間には、先ほどまでとは打って変わって静けさが戻っていた。
ミレイユは自分の指を見る。
そこには、アロイスから贈られた指輪が光っていた。
「……意味」
アンネリーゼの言葉が、まだ胸に残っている。
その向かいで、アロイスも珍しく考え込んでいた。
ミレイユが顔を上げる。
「……本当に、分かっていなかったんですか?」
責めるような声ではない。
むしろ、少し可笑しそうだった。
アロイスは正直に頷く。
「……ああ」
ミレイユは小さく笑った。
「やっぱり」
そのまま、ゆっくりと彼のもとへ歩いていく。
アロイスは動かない。
ただ、ミレイユが近づいてくるのを待っている。
ミレイユは自分から手を伸ばし、アロイスの手に触れた。
そして、そっと指を絡める。
「じゃあ」
彼を見上げる。
「今は、分かりましたか?」
アロイスはすぐには答えなかった。
繋がれた手へ視線を落とし、そこに光る指輪を見る。
それから、ミレイユの顔を見た。
「……あれは、伴侶に贈るものだな」
確かめるような声だった。
ミレイユは小さく頷く。
「はい」
「なら、意図は一致している」
いかにもアロイスらしい結論だった。
合理的で、不器用で、それでも逃げてはいない。
ミレイユの目が柔らかくなる。
「……そうですね」
そのまま距離を縮める。
呼吸が触れそうなほど近づくと、アロイスの腕がミレイユの背へ回り、ゆっくりと引き寄せた。
ミレイユは小さく息を呑んだが、抵抗はしなかった。
そのまま身を預け、彼の胸に頬を寄せる。
これまでとは違う抱擁だった。
ただ守るためでも、安心させるためでもない。
二人が選んだ未来を、互いに確かめるような抱擁だった。
ミレイユが小さく呟く。
「……今度は、分かってますよね?」
アロイスは迷わず答える。
「ああ」
その腕に力がこもる。
ミレイユも服をそっと掴んだ。
離れたくないという気持ちを、そのまま伝えるように。
やがてミレイユが顔を上げる。
もう迷わなかった。
二人の唇が、そっと触れる。
短い口づけだった。
それでも、以前とは違う。
これはもう、未遂でも、勢いでも、偶然でもない。
互いが選んだ相手に向けた、確かな意思だった。
離れた後、ミレイユは頬を赤くしながら、それでも笑った。
「……それなら、いいです」
アロイスは何も言わず、もう一度ミレイユを抱き寄せる。
ミレイユも、その腕の中で目を閉じた。
指輪の意味も。
結婚という言葉の意味も。
今なら、二人とも分かっていた。




