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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第5話:意味

公爵邸の朝。

出立の準備はすでに整っていた。

馬車に護衛、荷物も最小限で無駄はない。

アロイスは外套を羽織り、いつものように仕事の顔で正面を見ていた。

後ろではライナーが大きく伸びをし、エドガーは最後の書類を確認している。

「久々だなぁ、現場」

ライナーが軽い調子で言う。

「確認しました。問題ありません」

エドガーは書類から顔を上げない。

少し離れた場所では、ミレイユが何も言わずにアロイスを見ていた。

やがて意を決したように歩み寄る。

その手には、小さな布があった。

「……これ」

アロイスが視線を落とす。

差し出されたのは、刺繍の施されたハンカチだった。

落ち着いた色合いの布地に、細かな糸で丁寧に模様が縫い込まれている。

「お守りに、と思って……」

アロイスはしばらくそれを見つめ、受け取った。

「どうか、ご無事で」

そこで言葉を切り、まっすぐアロイスを見る。

「帰ってきてください」

余計な言葉はなかった。

けれど、その一言に込められたものは十分すぎるほど伝わった。

アロイスは短く頷く。

「ああ」

それで十分だった。

「ミレイユ、俺のは?」

横から、ライナーが当然のように割り込んできた。

期待に満ちた顔をしている。

ミレイユは迷わず答えた。

「ありません」

「……え?」

「ありません」

二度目はさらに明確だった。

ライナーが固まる。

「差別だろぉぉぉ!!!」

そのまま膝から崩れ落ちた。

「当然の結果です」

エドガーが淡々と補足する。

「お前、そこまで言う!?」

ライナーが叫ぶ横で、アロイスは何も言わなかった。

ただ、わずかに口元が動く。

笑ったようにも見えたが、それはすぐに消えた。

「行く」

短く告げ、そのまま踵を返す。

馬車へ向かい、乗り込む直前に手元のハンカチへ視線を落とすと、大切そうに懐へしまった。

ミレイユはその背中を見送った。

馬車が動き出し、門の向こうへ消えていく。

見えなくなってからも、しばらく視線を外せなかった。

*

公爵邸は、その日だけ妙に静かだった。

ミレイユはいつも通り仕事をしている。書類も正確に処理され、仕事そのものは滞りなく進んでいた。

ただ、屋敷のメイドたちはどこか物足りなそうだった。

「……静かね」

「ネタがないわね……」

「つまらない……」

最低である。

マルガレーテが腕を組み、真剣な顔で頷いた。

「不足しているわね」

何が不足しているのか、誰にも分からない。

ルドルフだけが遠い目をしていた。

「……公爵家はいったいどこへ向かっているのでしょうな」

*

一方、国境付近。

兵士たちが緊張した面持ちで並ぶ中、その中心にアロイスが立っていた。

視線を向けるだけで、相手が一歩退くほどの威圧感がある。

「――下がれ」

それだけで十分だった。

鉄血公爵。

その名に相応しい、完全な制圧だった。

ライナーが横で呟く。

「相変わらずだな……」

感心半分、呆れ半分といった声だった。

エドガーは淡々と書き留める。

「国境防衛、問題なし」

昼のアロイスには、一分の隙もない。

*

夜。

野営地では焚き火が燃えていた。

兵士たちが休む中、少し離れた場所にアロイスは一人で座っている。

一見すれば、いつもと変わらない。

だが、しばらくすると手が懐へ伸びた。

取り出したのは、朝にミレイユから渡されたハンカチだった。

アロイスはそれを眺め、小さく息を吐いて懐へ戻す。

数秒後。

また取り出す。

見る。

戻す。

さらに数秒。

また取り出す。

――三回目だった。

挿絵(By みてみん)

「……何やってんだ、お前」

ライナーが呆れた顔で見ている。

アロイスは答えない。

またハンカチを見る。

「鉄血公爵の名が泣くぜ……」

ライナーが頭を抱える。

その横から、エドガーが淡々と言った。

「ポンコツです」

アロイスが睨む。

だが、何も言い返せない。

またハンカチを見る。

完全に重症だった。

ライナーは笑いをこらえながら、肩を震わせる。

「お前、帰りてぇだけだろ」

アロイスは答えなかった。

図星だった。

つまり、肯定である。

エドガーが真顔で記録する。

「禁断症状を確認、と」

「……やめろ」

*

二週間後。

公爵邸の門が開いた。

帰還したアロイスが屋敷へ入ってくる。

いつもと変わらない姿――のはずだった。

その先に、ミレイユが立っている。

長く待っていたのだろう。

目が合った。

二人の足が止まる。

けれど次の瞬間、アロイスは迷うことなく歩み寄り、ミレイユを強く引き寄せた。

そのまま抱きしめる。

ミレイユは驚いて息を呑んだが、すぐに身体の力を抜き、その腕の中で小さく笑った。

「……おかえりなさい」

「ああ」

アロイスは短く答える。

「戻った」

それだけで十分だった。

「俺もいるからな!!!」

後ろからライナーが叫ぶ。

完全に無視された。

エドガーが小さく頷く。

「予定通りです」

何の予定なのかは誰にも分からない。

「赤飯よ!!!」

マルガレーテが両手を上げる。

結局、それだった。

ルドルフは目を閉じる。

「……公爵家はいったいどこへ……」

だが、誰も困ってはいなかった。

*

その日の夜。

公爵邸の執務室で、アロイスは一人、机の前に立っていた。

手には、例のハンカチがある。

ミレイユが自分のために作ったものだ。

何度眺めても、それは変わらない。

だからこそ、何か礼をしたいと思った。

問題は、その「何か」が分からないことだった。

「……礼をするべきか」

それは当然だ。

だが――。

「何を渡せばいい」

分からない。

完全に分からない。

考えた末、アロイスはエドガーを呼んだ。

「はい」

「女性に贈る礼として適切なものは何だ」

あまりにも直球だった。

エドガーは無表情のまま答える。

「私に聞いてどうするんですか」

「一般論で構わない」

エドガーは少し考える。

「関係性によります。友人か、家族か、恋人か……それによって全く異なります」

アロイスが黙り込んだ。

その三つのどれに分類すればいいのか、本人にも分からない。

そんなアロイスを見て、エドガーが付け加える。

「なお、ライナーに聞くのは推奨しません」

「……分かっている」

「ヴァルターも同様です」

「それも分かっている」

相談相手の選択肢が、見事なまでに消えていった。

結局、アロイスは無言で立ち尽くしていた。

*

帝国、アダルベルト侯爵邸。

応接室では、アンネリーゼが優雅に紅茶を飲んでいた。

完璧な所作でカップを置く彼女に対し、その向かいに座っているアロイスはどうにも場違いだった。

アンネリーゼが口を開く。

「……閣下、何をしにいらしたのです?」

「相談だ」

「私に?」

「ああ」

珍しいことだった。

それだけで、アンネリーゼは事情を察したらしい。

口元がわずかに緩む。

「なるほど、お続けください」

アロイスは真面目な顔で言った。

「贈り物だ」

「どなたに?」

「……」

アロイスは黙った。

だが、アンネリーゼには十分だった。

「ミレイユ様に、ですわね?」

否定はない。

アンネリーゼは楽しそうに笑う。

「それで、何を選べばいいか分からない、と」

「そうだ」

しばらくアロイスを見つめたあと、アンネリーゼは優雅にため息をついた。

挿絵(By みてみん)

「……閣下はバカなんですの?」

「……」

否定できない。

アンネリーゼはカップを指先で回しながら続ける。

「女性に贈るものなんて、決まっているでしょう」

口元に、少し意地の悪い笑みが浮かんだ。

「意味のあるものですわ」

アロイスの視線が動く。

「意味……」

「ええ。形に残るものを選びなさいな」

助言としては、実に的確だった。

アロイスは短く頷く。

「分かった」

そのまま帰ろうとする。

アンネリーゼはその背中へ声をかけた。

「……本当に分かっているのかしら」

アロイスは振り返らず、そのまま出ていった。

アンネリーゼは小さく笑う。

「……楽しみですわね」

*

夜。

公爵邸のバルコニーには、穏やかな風が吹いていた。

ミレイユとアロイスは並んで立ち、以前より自然に近くなった距離で、取り留めのない話をしていた。

やがてアロイスが懐へ手を入れる。

「……これを」

差し出されたのは、小さな箱だった。

ミレイユが目を瞬かせる。

「……え?」

受け取って蓋を開けた途端、その動きが止まった。

箱の中には、一つの指輪が収められていた。

上品で繊細な意匠ながら、確かな存在感がある。夜の光を受けて、淡く輝いていた。

ミレイユはしばらく言葉を失い、やがて顔を上げる。

「……これ」

小さく息を吸う。

「意味、分かってプレゼントしてくれたのですか?」

核心だった。

アロイスは黙った。

「意味……?」

ミレイユが固まる。

やがて、ふっと笑った。

「……やっぱり」

呆れたような、けれど嬉しそうな笑顔だった。

ミレイユは指輪へ視線を落とし、もう一度アロイスを見る。

「そういうところもまとめて」

少しだけ笑って。

「好きです」

その一言に、アロイスの目がわずかに開いた。

珍しい反応だった。

けれど、逃げない。

アロイスはミレイユの手を取り、指輪をその指にはめた。

少し余裕はあるものの、不自然なほどではない。

そのまま、そっと手を握る。

言葉はなかった。

けれど、それで十分だった。

*

翌朝。

食堂の机には、山のような赤飯が並んでいた。

過去最大である。

ミレイユは目の前の光景を見つめ、しばらく言葉を失った。

「……えぇと」

恐る恐る尋ねる。

「これは……」

ライナーが満面の笑みを浮かべた。

「聞いた聞いた!!!」

早い。

あまりにも早い。

エドガーが淡々と補足する。

「指輪の確認が取れています」

「どこで!?」

ミレイユが思わず声を上げる。

ヴァルターが頷いた。

「確定」

短い。

それだけだった。

ルドルフはゆっくりと目を閉じる。

「……公爵家はいったいどこへ……」

ミレイユは顔を覆った。

「やめてください……!!!」

だが、その指には指輪が輝いている。

隠してはいない。

隠せるはずもない。

そしてアロイスは、何も言わずにその隣にいる。

それが何より雄弁な答えだった。

*

その日の午後。

公爵邸の応接間には、珍しい客が訪れていた。

アンネリーゼだった。

完璧な所作と微笑みで椅子に座っているだけなのに、自然とその場が引き締まる。

マルガレーテは嬉しそうに迎えた。

「まあまあ、よく来てくださったわ!」

完全歓迎である。

一方、ライナーは露骨に警戒していた。

「……なんで来た」

アンネリーゼは優雅に微笑む。

「ご挨拶ですわ……お祝いの」

「は?」

ライナーが固まる。

エドガーは目を細めた。

理解が早い。

その時、扉が開いた。

ミレイユとアロイスが入ってくる。

アンネリーゼの視線は、まっすぐミレイユの手へ向かった。

そこに輝く指輪を確認すると、満足そうに頷く。

「やはり」

「アンネリーゼ様……」

ミレイユが慌てる。

二人の距離は、以前より明らかに近かった。

もう隠しているつもりもない。

アンネリーゼは立ち上がるとミレイユの前まで歩み寄り、そっとその手を取った。

指輪を眺めながら、柔らかく言う。

「素敵ですわね、とても」

ミレイユの頬が赤くなる。

「やめてください……」

だが、もう遅い。

アンネリーゼは顔を上げ、全員に聞こえる声で告げた。

「婚約の証としては、申し分ありませんわ」

場が凍った。

「はぁぁぁああああ!?」

ライナーが爆発する。

「婚約!?」

誰も聞いていない。

だが、ここで重要なのは――誰も否定しなかったことだった。

全員の視線がアロイスへ集まる。

アロイスは無言。

否定しない。

次にミレイユを見る。

ミレイユも固まっている。

けれど、指輪を外そうとはしなかった。

エドガーが頷く。

「……成立していますね」

ヴァルターが続ける。

「確定ですねぇ」

「聞いてねぇぞ!!!」

ライナーが頭を抱える。

アンネリーゼは、そんな騒ぎを楽しそうに眺めていた。

「言葉にしていないだけで、事実は変わりませんわ」

逃げ道は完全になくなった。

ミレイユは小さく息を吐き、観念したようにアロイスへ寄る。

そして、小さな声で尋ねた。

「……否定、しませんよね?」

アロイスは迷わず答える。

「ああ」

それだけだった。

完全終了である。

ライナーがその場に崩れ落ちる。

「終わった……」

何が終わったのかは分からない。

その直後、メイドたちの歓声が屋敷中に響き渡った。

「きゃあああああああああああ!!!!!!!」

マルガレーテも負けじと叫ぶ。

「赤飯よ!!!!!」

最終形態である。

ルドルフはゆっくりと天を仰いだ。

「……公爵家はいったいどこへ……」

誰も答えない。

その騒ぎを眺めながら、アンネリーゼは満足そうに微笑んだ。

「これで、よろしいですわね」

誰に向けた言葉なのかは分からない。

けれど、その表情には、完全に「よくやりましたわ」と言わんばかりの満足感が浮かんでいた。

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