第5話:意味
公爵邸の朝。
出立の準備はすでに整っていた。
馬車に護衛、荷物も最小限で無駄はない。
アロイスは外套を羽織り、いつものように仕事の顔で正面を見ていた。
後ろではライナーが大きく伸びをし、エドガーは最後の書類を確認している。
「久々だなぁ、現場」
ライナーが軽い調子で言う。
「確認しました。問題ありません」
エドガーは書類から顔を上げない。
少し離れた場所では、ミレイユが何も言わずにアロイスを見ていた。
やがて意を決したように歩み寄る。
その手には、小さな布があった。
「……これ」
アロイスが視線を落とす。
差し出されたのは、刺繍の施されたハンカチだった。
落ち着いた色合いの布地に、細かな糸で丁寧に模様が縫い込まれている。
「お守りに、と思って……」
アロイスはしばらくそれを見つめ、受け取った。
「どうか、ご無事で」
そこで言葉を切り、まっすぐアロイスを見る。
「帰ってきてください」
余計な言葉はなかった。
けれど、その一言に込められたものは十分すぎるほど伝わった。
アロイスは短く頷く。
「ああ」
それで十分だった。
「ミレイユ、俺のは?」
横から、ライナーが当然のように割り込んできた。
期待に満ちた顔をしている。
ミレイユは迷わず答えた。
「ありません」
「……え?」
「ありません」
二度目はさらに明確だった。
ライナーが固まる。
「差別だろぉぉぉ!!!」
そのまま膝から崩れ落ちた。
「当然の結果です」
エドガーが淡々と補足する。
「お前、そこまで言う!?」
ライナーが叫ぶ横で、アロイスは何も言わなかった。
ただ、わずかに口元が動く。
笑ったようにも見えたが、それはすぐに消えた。
「行く」
短く告げ、そのまま踵を返す。
馬車へ向かい、乗り込む直前に手元のハンカチへ視線を落とすと、大切そうに懐へしまった。
ミレイユはその背中を見送った。
馬車が動き出し、門の向こうへ消えていく。
見えなくなってからも、しばらく視線を外せなかった。
*
公爵邸は、その日だけ妙に静かだった。
ミレイユはいつも通り仕事をしている。書類も正確に処理され、仕事そのものは滞りなく進んでいた。
ただ、屋敷のメイドたちはどこか物足りなそうだった。
「……静かね」
「ネタがないわね……」
「つまらない……」
最低である。
マルガレーテが腕を組み、真剣な顔で頷いた。
「不足しているわね」
何が不足しているのか、誰にも分からない。
ルドルフだけが遠い目をしていた。
「……公爵家はいったいどこへ向かっているのでしょうな」
*
一方、国境付近。
兵士たちが緊張した面持ちで並ぶ中、その中心にアロイスが立っていた。
視線を向けるだけで、相手が一歩退くほどの威圧感がある。
「――下がれ」
それだけで十分だった。
鉄血公爵。
その名に相応しい、完全な制圧だった。
ライナーが横で呟く。
「相変わらずだな……」
感心半分、呆れ半分といった声だった。
エドガーは淡々と書き留める。
「国境防衛、問題なし」
昼のアロイスには、一分の隙もない。
*
夜。
野営地では焚き火が燃えていた。
兵士たちが休む中、少し離れた場所にアロイスは一人で座っている。
一見すれば、いつもと変わらない。
だが、しばらくすると手が懐へ伸びた。
取り出したのは、朝にミレイユから渡されたハンカチだった。
アロイスはそれを眺め、小さく息を吐いて懐へ戻す。
数秒後。
また取り出す。
見る。
戻す。
さらに数秒。
また取り出す。
――三回目だった。
「……何やってんだ、お前」
ライナーが呆れた顔で見ている。
アロイスは答えない。
またハンカチを見る。
「鉄血公爵の名が泣くぜ……」
ライナーが頭を抱える。
その横から、エドガーが淡々と言った。
「ポンコツです」
アロイスが睨む。
だが、何も言い返せない。
またハンカチを見る。
完全に重症だった。
ライナーは笑いをこらえながら、肩を震わせる。
「お前、帰りてぇだけだろ」
アロイスは答えなかった。
図星だった。
つまり、肯定である。
エドガーが真顔で記録する。
「禁断症状を確認、と」
「……やめろ」
*
二週間後。
公爵邸の門が開いた。
帰還したアロイスが屋敷へ入ってくる。
いつもと変わらない姿――のはずだった。
その先に、ミレイユが立っている。
長く待っていたのだろう。
目が合った。
二人の足が止まる。
けれど次の瞬間、アロイスは迷うことなく歩み寄り、ミレイユを強く引き寄せた。
そのまま抱きしめる。
ミレイユは驚いて息を呑んだが、すぐに身体の力を抜き、その腕の中で小さく笑った。
「……おかえりなさい」
「ああ」
アロイスは短く答える。
「戻った」
それだけで十分だった。
「俺もいるからな!!!」
後ろからライナーが叫ぶ。
完全に無視された。
エドガーが小さく頷く。
「予定通りです」
何の予定なのかは誰にも分からない。
「赤飯よ!!!」
マルガレーテが両手を上げる。
結局、それだった。
ルドルフは目を閉じる。
「……公爵家はいったいどこへ……」
だが、誰も困ってはいなかった。
*
その日の夜。
公爵邸の執務室で、アロイスは一人、机の前に立っていた。
手には、例のハンカチがある。
ミレイユが自分のために作ったものだ。
何度眺めても、それは変わらない。
だからこそ、何か礼をしたいと思った。
問題は、その「何か」が分からないことだった。
「……礼をするべきか」
それは当然だ。
だが――。
「何を渡せばいい」
分からない。
完全に分からない。
考えた末、アロイスはエドガーを呼んだ。
「はい」
「女性に贈る礼として適切なものは何だ」
あまりにも直球だった。
エドガーは無表情のまま答える。
「私に聞いてどうするんですか」
「一般論で構わない」
エドガーは少し考える。
「関係性によります。友人か、家族か、恋人か……それによって全く異なります」
アロイスが黙り込んだ。
その三つのどれに分類すればいいのか、本人にも分からない。
そんなアロイスを見て、エドガーが付け加える。
「なお、ライナーに聞くのは推奨しません」
「……分かっている」
「ヴァルターも同様です」
「それも分かっている」
相談相手の選択肢が、見事なまでに消えていった。
結局、アロイスは無言で立ち尽くしていた。
*
帝国、アダルベルト侯爵邸。
応接室では、アンネリーゼが優雅に紅茶を飲んでいた。
完璧な所作でカップを置く彼女に対し、その向かいに座っているアロイスはどうにも場違いだった。
アンネリーゼが口を開く。
「……閣下、何をしにいらしたのです?」
「相談だ」
「私に?」
「ああ」
珍しいことだった。
それだけで、アンネリーゼは事情を察したらしい。
口元がわずかに緩む。
「なるほど、お続けください」
アロイスは真面目な顔で言った。
「贈り物だ」
「どなたに?」
「……」
アロイスは黙った。
だが、アンネリーゼには十分だった。
「ミレイユ様に、ですわね?」
否定はない。
アンネリーゼは楽しそうに笑う。
「それで、何を選べばいいか分からない、と」
「そうだ」
しばらくアロイスを見つめたあと、アンネリーゼは優雅にため息をついた。
「……閣下はバカなんですの?」
「……」
否定できない。
アンネリーゼはカップを指先で回しながら続ける。
「女性に贈るものなんて、決まっているでしょう」
口元に、少し意地の悪い笑みが浮かんだ。
「意味のあるものですわ」
アロイスの視線が動く。
「意味……」
「ええ。形に残るものを選びなさいな」
助言としては、実に的確だった。
アロイスは短く頷く。
「分かった」
そのまま帰ろうとする。
アンネリーゼはその背中へ声をかけた。
「……本当に分かっているのかしら」
アロイスは振り返らず、そのまま出ていった。
アンネリーゼは小さく笑う。
「……楽しみですわね」
*
夜。
公爵邸のバルコニーには、穏やかな風が吹いていた。
ミレイユとアロイスは並んで立ち、以前より自然に近くなった距離で、取り留めのない話をしていた。
やがてアロイスが懐へ手を入れる。
「……これを」
差し出されたのは、小さな箱だった。
ミレイユが目を瞬かせる。
「……え?」
受け取って蓋を開けた途端、その動きが止まった。
箱の中には、一つの指輪が収められていた。
上品で繊細な意匠ながら、確かな存在感がある。夜の光を受けて、淡く輝いていた。
ミレイユはしばらく言葉を失い、やがて顔を上げる。
「……これ」
小さく息を吸う。
「意味、分かってプレゼントしてくれたのですか?」
核心だった。
アロイスは黙った。
「意味……?」
ミレイユが固まる。
やがて、ふっと笑った。
「……やっぱり」
呆れたような、けれど嬉しそうな笑顔だった。
ミレイユは指輪へ視線を落とし、もう一度アロイスを見る。
「そういうところもまとめて」
少しだけ笑って。
「好きです」
その一言に、アロイスの目がわずかに開いた。
珍しい反応だった。
けれど、逃げない。
アロイスはミレイユの手を取り、指輪をその指にはめた。
少し余裕はあるものの、不自然なほどではない。
そのまま、そっと手を握る。
言葉はなかった。
けれど、それで十分だった。
*
翌朝。
食堂の机には、山のような赤飯が並んでいた。
過去最大である。
ミレイユは目の前の光景を見つめ、しばらく言葉を失った。
「……えぇと」
恐る恐る尋ねる。
「これは……」
ライナーが満面の笑みを浮かべた。
「聞いた聞いた!!!」
早い。
あまりにも早い。
エドガーが淡々と補足する。
「指輪の確認が取れています」
「どこで!?」
ミレイユが思わず声を上げる。
ヴァルターが頷いた。
「確定」
短い。
それだけだった。
ルドルフはゆっくりと目を閉じる。
「……公爵家はいったいどこへ……」
ミレイユは顔を覆った。
「やめてください……!!!」
だが、その指には指輪が輝いている。
隠してはいない。
隠せるはずもない。
そしてアロイスは、何も言わずにその隣にいる。
それが何より雄弁な答えだった。
*
その日の午後。
公爵邸の応接間には、珍しい客が訪れていた。
アンネリーゼだった。
完璧な所作と微笑みで椅子に座っているだけなのに、自然とその場が引き締まる。
マルガレーテは嬉しそうに迎えた。
「まあまあ、よく来てくださったわ!」
完全歓迎である。
一方、ライナーは露骨に警戒していた。
「……なんで来た」
アンネリーゼは優雅に微笑む。
「ご挨拶ですわ……お祝いの」
「は?」
ライナーが固まる。
エドガーは目を細めた。
理解が早い。
その時、扉が開いた。
ミレイユとアロイスが入ってくる。
アンネリーゼの視線は、まっすぐミレイユの手へ向かった。
そこに輝く指輪を確認すると、満足そうに頷く。
「やはり」
「アンネリーゼ様……」
ミレイユが慌てる。
二人の距離は、以前より明らかに近かった。
もう隠しているつもりもない。
アンネリーゼは立ち上がるとミレイユの前まで歩み寄り、そっとその手を取った。
指輪を眺めながら、柔らかく言う。
「素敵ですわね、とても」
ミレイユの頬が赤くなる。
「やめてください……」
だが、もう遅い。
アンネリーゼは顔を上げ、全員に聞こえる声で告げた。
「婚約の証としては、申し分ありませんわ」
場が凍った。
「はぁぁぁああああ!?」
ライナーが爆発する。
「婚約!?」
誰も聞いていない。
だが、ここで重要なのは――誰も否定しなかったことだった。
全員の視線がアロイスへ集まる。
アロイスは無言。
否定しない。
次にミレイユを見る。
ミレイユも固まっている。
けれど、指輪を外そうとはしなかった。
エドガーが頷く。
「……成立していますね」
ヴァルターが続ける。
「確定ですねぇ」
「聞いてねぇぞ!!!」
ライナーが頭を抱える。
アンネリーゼは、そんな騒ぎを楽しそうに眺めていた。
「言葉にしていないだけで、事実は変わりませんわ」
逃げ道は完全になくなった。
ミレイユは小さく息を吐き、観念したようにアロイスへ寄る。
そして、小さな声で尋ねた。
「……否定、しませんよね?」
アロイスは迷わず答える。
「ああ」
それだけだった。
完全終了である。
ライナーがその場に崩れ落ちる。
「終わった……」
何が終わったのかは分からない。
その直後、メイドたちの歓声が屋敷中に響き渡った。
「きゃあああああああああああ!!!!!!!」
マルガレーテも負けじと叫ぶ。
「赤飯よ!!!!!」
最終形態である。
ルドルフはゆっくりと天を仰いだ。
「……公爵家はいったいどこへ……」
誰も答えない。
その騒ぎを眺めながら、アンネリーゼは満足そうに微笑んだ。
「これで、よろしいですわね」
誰に向けた言葉なのかは分からない。
けれど、その表情には、完全に「よくやりましたわ」と言わんばかりの満足感が浮かんでいた。




