第2話:あと一歩
公爵邸の食堂は、昼時だというのに穏やかな空気とは程遠かった。
原因は一つ。
ヴァルターが、何食わぬ顔で席についている。
紅茶を飲み、食事を取り、まるで以前からここに住んでいるかのように馴染んでいた。
ライナーがフォークを止める。
「……なんでいるの?」
率直な疑問だった。
ヴァルターは顔も上げずに答える。
「食事の時間でしたので」
あまりにも当然の返答だった。
「いや、そうじゃねぇよ」
ライナーのツッコミが追いつかない。
すると、隣からエドガーが淡々と補足した。
「本日で三日連続です」
きっちり数えている。
ミレイユも困ったようにヴァルターを見る。
「……ご予定は大丈夫なんですか?」
「問題ありません」
ヴァルターは紅茶を一口飲んでから、何でもないことのように続けた。
「効率的です」
何が効率的なのか、誰にも分からない。
ライナーが頭を抱える。
「効率ってなんだよ……」
その横では、アロイスが黙って食事を続けていた。
ただし、ヴァルターへ向けられる視線には明らかな圧がある。
「……何の用だ」
尋ねられ、ヴァルターはようやく視線を向けた。
「特に」
即答だった。
「経過観察です」
ライナーが吹き出す。
「誰のだよ!」
完全に面白くなっている。
ヴァルターは平然と答えた。
「関係の進展です」
ミレイユの手が止まり、アロイスの眉がわずかに動く。
食堂には、エドガーがページをめくる音だけが響いた。
「現状、進捗は緩慢です」
あまりにも冷静な評価だった。
ライナーが机を叩く。
「言ったれ!もっと言ったれ!」
大喜びである。
アロイスの視線がさらに鋭くなる。
「……余計なことを言うな」
だが、ヴァルターは止まらない。
「戦場では即応性が高かったはずですが、現在は判断が遅延しています」
分析としては正確すぎた。
ライナーが腹を抱えて笑う。
「はははは!言い方ァ!」
ヴァルターは紅茶を置くと、淡々と付け加えた。
「情けない」
食堂が静まり返った。
次の瞬間、ライナーが崩れ落ちる。
「直球きた!!!」
アロイスがゆっくり立ち上がった。
その圧は、完全に戦闘前のそれである。
しかし、ヴァルターは微動だにしない。
紅茶を一口飲んでから言った。
「事実です」
それだけだった。
ミレイユが小さく咳払いをする。
「あの……」
全員の視線が集まった。
ミレイユは頬を赤くしながらも、逃げずに続ける。
「進んで、いないわけでは……」
「おっ?」
ライナーがすかさず食いついた。
「どこまで?」
「……」
ミレイユの視線が泳ぐ。
その沈黙を、エドガーが容赦なく埋めた。
「手です」
即答だった。
場が静まり返る。
ヴァルターが小さく頷いた。
「確認済みです」
マルガレーテも満足そうに頷いている。
「順調ね……」
完全に保護者の顔である。
アロイスは無言で椅子へ座り直したが、耳がわずかに赤い。
ヴァルターはその様子を見つめ、ほんのわずかに口元を緩めたようにも見えた。
だが、すぐにいつもの無表情へ戻る。
「次は、段階を上げるべきです」
ライナーが即座に身を乗り出した。
「具体的に!」
ヴァルターは少し考えてから、淡々と答える。
「再現性のある接触」
全員が固まった。
「……は?」
ライナーの声が間の抜けたものになる。
ヴァルターは何でもないことのように続けた。
「手ではなく、より長時間の近接です」
完全に余計な助言だった。
ミレイユが顔を覆う。
「やめてください……」
しかし、ライナーは大笑いしている。
「お前、ほんと何者だよ!」
ヴァルターは紅茶を飲みながら、真顔で答えた。
「特務監査官です」
それが一番面白かった。
*
その夜、公爵邸の中庭は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
灯りは少なく、冷たい風が庭木の間をゆっくり抜けている。
ミレイユは一人でベンチに座り、自分の手を眺めていた。
あの日、アロイスと繋いだ手。
その感触が、まだ指先に残っているような気がする。
小さく息を吐いたところで、背後から声がした。
「……ここにいたか」
振り返ると、アロイスが歩いてくる。
「はい」
ミレイユが頷く。
アロイスはそのまま隣へ腰を下ろした。
以前よりも自然に近い距離だった。
しばらく二人とも黙っていた。
けれど、不思議と気まずくはない。
むしろ、落ち着く。
やがてミレイユが口を開いた。
「……今日も、忙しかったですね」
正直な言葉だった。
アロイスは考えるように視線を伏せてから答える。
「……ああ」
短い。
それでも、ちゃんと返してくれた。
ミレイユが小さく笑う。
「それだけですか?」
からかうように尋ねると、アロイスがこちらを見る。
「他に必要か」
真顔だった。
どうにも、この男はこういうところがずれている。
ミレイユは吹き出しそうになるのを堪えながら、ほんの少し身を寄せた。
「……あります」
小さな声だった。
アロイスの目がわずかに細くなる。
距離が近い。
かなり近い。
互いの息が触れそうなほどだった。
それでも、どちらも離れない。
ミレイユの視線が揺れる。
それでも逸らさない。
アロイスも同じだった。
やがて、ゆっくりと顔が近づいていく。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
――その瞬間。
「団長ぉぉぉ!!!!」
爆音が響いた。
静寂が吹き飛ぶ。
外扉が勢いよく開き、ライナーが全力で駆け込んでくる。
「報告が――」
そこで止まった。
完全に止まった。
目の前の光景を理解するまで、数秒。
そして、
「邪魔したぁぁぁぁぁ!!!!!」
絶叫とともに全力でUターンした。
転びそうになりながら、そのまま去っていく。
遅い。
完全に遅かった。
壊れた空気の中で、ミレイユもアロイスも固まっている。
やがてミレイユが、ゆっくりと顔を離した。
頬は真っ赤だった。
「……今のは」
言葉が続かない。
アロイスが先に口を開く。
「……不可抗力だ」
声はいつも通りだったが、どこか不自然だった。
ミレイユは小さく笑う。
「そう、ですね」
そして、ためらいながらも、もう一度ほんの少しだけ身を寄せた。
今度は、先ほどほどではない。
それでも十分に近い。
「……嫌では、なかったです」
小さく、けれど確かな声だった。
アロイスの手がわずかに動く。
何かを言おうとして、やめる。
それでも、目は逸らさなかった。
その時だった。
物陰から、聞き慣れた声がする。
「……未遂」
ヴァルターだった。
いつからいたのか、誰にも分からない。
「進展あり」
まるで記録をつけるように呟く。
その隣から、
「きゃあああああああ!!!!」
という声が響いた。
メイドたちが全員いた。
なぜいる。
完全に覗いていた。
ミレイユが顔を覆う。
「……やめてください……」
切実な訴えだった。
そこへ遠くからライナーの声が飛んでくる。
「今のいけただろぉぉぉぉ!!!」
「あなたが邪魔をしました」
エドガーの冷静な声が重なる。
致命的な正論だった。
ライナーの悲鳴が響き、完全なカオスと化した中で、アロイスはゆっくり立ち上がった。
そして、ミレイユへ手を差し出す。
ミレイユはその手を見つめ、すぐに自然な動作で取った。
立ち上がる。
そして、そのまま手を離さない。
二人は騒がしい背後を置き去りにして歩き出した。
今度は、さっきより近い距離で。
そして、今度こそ止まらない。
*
中庭の喧騒は、まだ遠くに残っていた。
ライナーの騒ぐ声と、それを咎めるエドガーの声が、時折こちらまで聞こえてくる。
ミレイユとアロイスは、その喧騒から逃れるように屋内へ入り、人の気配のない廊下までやって来た。
ようやく落ち着ける。
……はずだった。
ミレイユはまだ顔が熱かった。
先ほどの距離を思い出すだけで、呼吸がわずかに乱れる。
「あの……」
小さく声を出す。
アロイスが足を止め、振り返った。
距離は近いままだ。
「先ほどは……その……」
うまく言葉にできない。
アロイスは急かさず待っている。
それが余計に意識させる。
ミレイユは視線を逸らした。
「……何を」
アロイスが真顔で尋ねる。
ミレイユは言葉を失った。
「……その、分かっていて言ってますよね……?」
わずかに睨む。
ただし、その迫力はほとんどない。
アロイスは息を吐き、認めた。
「分かっている」
短い言葉とともに、一歩近づく。
距離がさらに縮まった。
ミレイユの背が壁に触れる。
逃げ場はない。
けれど、不思議と怖くなかった。
視線が重なる。
今度は、誰もいない。
物音もしない。
アロイスの手が伸び、ミレイユの頬へ触れる。
そっと、確かめるような触れ方だった。
親指がわずかに動き、熱をなぞる。
ミレイユの息が止まる。
アロイスは手を離さない。
そのまま顔を近づけていく。
今度こそ、止まらない。
距離が消えていく。
あと少し。
本当に、あと少しだった。
「あの……私、そこを通りたいのですが……」
背後から声がした。
ルドルフだった。
いつからいたのか、誰にも分からない。
ただ、そこに立っている。
そして、完全に見ている。
時間が止まった。
アロイスも停止した。
ミレイユも完全に停止する。
やがてミレイユが両手で顔を覆った。
真っ赤だった。
逃げたい。
が、もう無理だった。
ルドルフは目を閉じ、深く息を吐く。
「……公爵家はいったいどこへ……」
その重い呟きに、遠くからライナーの声が飛んできた。
「また邪魔入ったぁぁぁぁ!!!」
まったく学習していない。
「静かにしてください」
エドガーの声が続く。
だが、当然止まらない。
「再未遂」
ヴァルターが淡々と記録する。
その直後、メイドたちの悲鳴が重なった。
「きゃあああああああ!!!」
「あとちょっとだったのに!!!」
「惜しいぃぃぃ!!!」
完全に実況である。
ミレイユはその場にしゃがみ込んだ。
「……やめてください……もう……」
限界だった。
アロイスはゆっくり手を下ろす。
それでも、ミレイユへ手を差し出した。
無言のまま。
ミレイユは少し躊躇したものの、やがてその手を取る。
立ち上がった顔はまだ真っ赤で、視線も合わせられない。
それでも、手は離さなかった。
二人はそのまま歩き出す。
今度は少しだけ足が速い。
逃げるように。
それでも、繋いだ手だけは離さない。
背後では、ルドルフが二人の後ろ姿を見送りながら、もう一度呟いていた。
「……公爵家はいったいどこへ……」
誰も答えなかった。




