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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第1話:距離、未測定

公爵邸の執務室は、昼下がりだというのに妙に静かだった。

いや、静かすぎる。

その中心にいるのはアロイスだった。

椅子に座り、姿勢はいつも通り崩れていないものの、どこか居心地が悪そうにしている。

その向かいでは、ライナーがにやにやと笑っていた。どう見ても、ろくでもないことを企んでいる顔である。

「でさ」

軽い調子で、ライナーが切り出した。

「どこまでいったの?」

完全に下世話な質問だった。

アロイスの眉がぴくりと動く。

「……何の話だ」

低い声だが、明らかに逃げている。

もちろん、ライナーがそれを見逃すはずもない。

「何って、あれだよ、あれ。『隣にいろ』とか言ったんだろ?」

身を乗り出し、にやりと笑う。

「その後だよ」

アロイスは黙った。

答えない。

いや、答えられない。

その沈黙を横から切ったのは、エドガーの淡々とした声だった。

「確認できている範囲では、手すら繋いでいませんね」

いつの間にか資料をめくりながら、余計な感情を一切交えず、ただ事実だけを述べている。

ライナーが固まった。

「……は?」

間の抜けた声が漏れた次の瞬間、

「……はぁぁあ!?」

絶叫とともに立ち上がる。

「おまえら、いい年して思春期か!?拗らせたのか!?」

机を叩きながら、さらに畳みかける。

「これだから女と関わってこなかった奴は!」

勢いのまま言い切ったところで、エドガーが顔も上げずに尋ねた。

「ライナーは、女性と関わってきた経験が豊富なんですか?」

静かな一撃だった。

ライナーの動きが止まり、視線が泳ぐ。

「……」

何も言えない。

エドガーは一枚ページをめくった。

「そうですか」

それだけで話を終わらせる。

ライナーは顔を覆った。

「くっ……」

どうやら相当なダメージだったらしい。

その時、応接室の扉が開いた。

入ってきたのはマルガレーテだった。

いつもの笑顔を浮かべているが、その目だけは違う。部屋の状況を瞬時に理解した者の目だった。

そして、きっぱりと言う。

「デートです」

場が止まった。

「デートにお誘いするのです」

逃げ道を塞ぐように、さらに言葉を重ねる。

ライナーが勢いよく振り返った。

「それだ!!!」

完全に乗った。

「それだよ、それ!!!」

エドガーがため息をつく。

「騒がないでください」

しかし、もう遅い。

背後から、ざわざわと気配が集まってくる。

「きゃー!」

「やっと進展するの!?」

「もどかしいったら!」

「閣下、ファイト!」

メイドたちまで参戦していた。もはや止められない。

アロイスがゆっくり立ち上がる。

無言の圧が広がり、室内はたちまち静まり返った。

……はずだった。

「で?」

ライナーが懲りずに尋ねる。

「いつ行く?」

アロイスは目を細めた。

だが、今回は逃げなかった。

短く息を吐き、マルガレーテを見る。

「……誘えばいいんだな」

マルガレーテが満面の笑みで頷いた。

「ええ!」

即答だった。

「女性は、きちんと誘われるのを待っているものです!」

妙に確信に満ちた理論だったが、周囲のメイドたちも一斉に頷く。

「そうそう!」

「大事よ!」

「雰囲気もね!」

情報量が多すぎる。

アロイスは目を閉じ、やがて腹を決めたように立ち上がった。

「……分かった」

そう言うと、そのまま踵を返して部屋を出ていく。

向かう先は決まっている。

ミレイユだった。

廊下を進んだところで、ちょうど角を曲がってきたミレイユと鉢合わせする。

目が合った。

「……どうかしましたか?」

ミレイユが不思議そうに首を傾げる。

アロイスはまっすぐ彼女を見た。

今度は逃げない。

「時間はあるか」

「はい」

驚いた様子を見せながらも、ミレイユは素直に頷く。

アロイスは続けた。

「出かける」

命令のようにも聞こえるが、その声には以前とは違うものがあった。

ミレイユが目を丸くする。

「……二人で?」

「ああ」

アロイスは頷き、わずかに迷ってから尋ねた。

「嫌か」

真正面からの問いだった。

ミレイユは息を呑んだが、やがて小さく笑った。

「……いいえ」

そして、頬を赤くしながら続ける。

「嬉しいです」

その言葉で、全部が決まった。

ただし、背後の応接室からは、

――どさっ。

誰かが崩れ落ちる音がした。

続いて、

「今の聞いた!?」

「聞いた!!!」

「やったぁぁぁ!!!」

という声まで響いてくる。

どうやら、まったく隠れていなかったらしい。

ミレイユは苦笑し、アロイスは無言だった。

それでも二人は、その場から動かなかった。

ほんの少し距離を残したまま。

けれど確かに、一歩だけ前へ進んでいた。

*

帝都の街中は、昼下がりを過ぎても大勢の人で賑わっていた。

普段なら気にも留めない人混みだが、今日はミレイユにとって少しだけ違って見える。

ミレイユは一歩前を歩きながら、ふと振り返った。

アロイスが少し後ろにいる。

一定の距離を保っているのは、いつもの護衛の癖だろう。

ミレイユは立ち止まった。

「……近くに来てください」

アロイスがわずかに眉を動かす。

「問題ない」

周囲を確認しながら答えた。

「護衛は――」

「今日は違います」

少し強い声で遮られ、アロイスが言葉を止める。

ミレイユは一歩戻り、そのまま自然に距離を詰めて隣に並んだ。

「……こうです」

小さく言う。

視線は前を向いているものの、頬は赤い。

アロイスは何も言わず、ただその位置にいる。

少しだけぎこちない。

けれど、それでよかった。

二人はそのまま店が並ぶ通りを歩いた。

やがて、ミレイユが一軒の店の前で足を止める。

店先に並んだガラス細工が、午後の光を受けてきらきらと輝いていた。

「これ、綺麗ですね」

ミレイユが眺めていると、アロイスも視線を向ける。

しばらくガラス細工を見たあと、ぽつりと言った。

「似合う」

「……え?」

聞き返すと、アロイスは同じ調子で続けた。

「お前に」

それだけだった。

余計な言葉はない。

ミレイユの耳が赤くなる。

「……ありがとうございます」

小さく礼を言い、視線を逸らしたまま店へ入っていく。

アロイスも少し間を空けて後に続いた。

店内を見て回り、いくつか手に取って迷ったものの、結局二人とも何も買わなかった。

それでも、外へ出た時には何かが少し変わっていた。

再び歩き出す。

今度は、さっきよりもわずかに近い。

人混みが増え、肩が触れる。

一度は離れ、また触れる。

今度は、どちらも離れなかった。

その時、人の流れが大きく動いた。

押されたミレイユの身体が揺れる。

アロイスが反射的に腕を伸ばし、その手がミレイユの手首を掴んだ。

二人の動きが止まる。

けれど、アロイスはその手を離さなかった。

ミレイユが息を呑み、視線を落とす。

繋がっている。

手と手が、強くも弱くもない自然な力で触れ合っていた。

少し遅れて、アロイスが言う。

「……この方が、安全だ」

理由をつける声が、ほんの少しだけ遅かった。

ミレイユはそれが可笑しくて、小さく笑う。

分かっている。

けれど、あえて言わない。

「……そうですね」

そう答えて、指に力を込める。

握り返す。

はっきりと。

アロイスの指がわずかに動き、それに応えるようにしっかりと握り返した。

それで十分だった。

二人はそのまま歩き続ける。

並んで。

同じ速さで。

同じ方向を見ながら。

夕方の光が街へ差し込み、少しずつ景色の色が変わっていく。

その中を、二人は手を繋いだまま歩いていった。

もう、離さないまま。

*

公爵邸へ戻る頃には、空はすっかり夕暮れ色になっていた。

玄関の扉を開ける。

「……」

静かだった。

妙に静かだ。

いつもなら誰かしらの気配があるはずなのに、今はそれすらない。

ミレイユが首を傾げる。

「……静かですね」

アロイスも周囲を見渡した。

違和感はあるが、危険は感じない。

「問題は――」

言いかけた、その瞬間。

――バァンッ!!!

扉が一斉に開いた。

「おかえりなさいませぇぇぇ!!!!」

メイド隊が総出で叫ぶ。

紙吹雪が舞い、どこから出したのか花びらまで降ってきた。

完全に祝祭だった。

ミレイユはその場で固まる。

「……え?」

理解が追いつかない。

その最前列では、ライナーが満面の笑みを浮かべて腕を組んでいる。

「で?」

期待に満ちた顔で、二人を見る。

「どこまでいった?」

直球だった。

アロイスは無言。

ミレイユの顔が一気に赤くなる。

それを見たライナーが身を乗り出した。

「おっ」

期待値が一気に跳ね上がる。

「キス?それとも――」

「手です」

横からエドガーが即答した。

なお、二人の外出中、護衛として一定の距離から行動を確認していたのはエドガーである。

当人たちには気づかれていなかった。

ライナーが静止する

「……は?」

空気が止まった。

そして、

「……はぁぁぁあああああ!?」

大爆発した。

「手だけかよ!!!なんでだよ!そこまでいって!!!」

床を踏み鳴らしながら叫ぶライナーに、メイドたちも一斉に声を上げる。

「えー!?」

「手だけ!?」

「でも尊い……!」

「尊いのは尊い!!」

意見が割れている。

そこへマルガレーテが堂々と前へ出た。

「いいのよ!!」

全員が振り返る。

「これは大いなる一歩なの!!距離は一歩ずつ縮めるものよ!」

力強い正論だった。

メイドたちも次々に頷く。

「そうよね……!」

「焦りは禁物……!」

なぜか全員が納得している。

ただ一人、ライナーだけが納得していない。

「いや、遅いだろ!!!」

まだ言う。

するとエドガーが淡々と続けた。

「なお、握り返しは確認されています」

場が静まり返る。

そして次の瞬間。

「きゃああああああ!!!!」

大絶叫。

「握り返し!?」

「両想い確定じゃない!!」

「赤飯よ!!!」

マルガレーテが即座に反応した。

「赤飯追加!!!」

どこからともなく運ばれてくる、山盛りの赤飯。

しかも、さっきより多い。

完全に逃げ場がない。

挿絵(By みてみん)

ミレイユは顔を覆った。

「……やめてください……」

小さな声だったが、誰にも止められない。

アロイスは相変わらず無言だった。

ただ、ほんのわずかに耳が赤い。

それを見たルドルフが告げる。

「……本日は祝いと判断します」

もう誰も止める気はなかった。

ライナーが天を仰ぐ。

「くそ……甘酸っぱすぎる……」

しばらくして、二人へ視線を戻す。

「でもまぁ……」

ほんの少し笑う。

「いいじゃねぇか」

それだけだった。

ミレイユはそっと自分の手を見る。

まだ、アロイスの温もりが残っている気がする。

隣を見る。

そこには、いつもと変わらない無愛想な男が立っていた。

周囲は騒がしい。

本当に騒がしい。

けれど、不思議と悪くない。

むしろ、少しだけ心地よかった。

ミレイユはほんのわずかにアロイスとの距離を縮める。

自然に。

誰にも気づかれないくらい小さな変化だった。

それでも確かに、また一歩。

二人の距離は近づいていた。

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