第28話:戴冠
王都の大聖堂には、高い天井から柔らかな光が差し込み、磨かれた床へ美しい模様を描いていた。
静かな空間だったが、以前のような張り詰めた緊張はない。
長い冬を越えた後のような、穏やかで、それでいて厳かな空気が満ちている。
貴族、騎士、魔術師、各地の有力者。
そして他国からの来賓たち。
王国の新たな時代を見届けるため、誰もがこの場所へ集まっていた。
その中に、ミレイユも立っている。
王宮魔術師として定められた位置。
けれど、かつてとは違う。
誰かに与えられた場所ではない。
自分で選び、自分でここに立つと決めた場所だった。
ミレイユは、ふと視線を横へ向ける。
少し離れた来賓席には、帝国使節団がいた。
その中にアロイスがいる。
黒い正装に身を包み、相変わらず無表情のまま立っていた。
護衛として、そして帝国使節団の一員として、無駄な動きは一切ない。
ただ、そこにいる。
確かに、いる。
ミレイユは小さく微笑んだ。
アロイスは何も言わない。けれど、こちらに気付いていることだけは分かる。
それで十分だった。
さらに視線を巡らせると、第二皇子の姿もあった。
いつもの穏やかな笑みを浮かべ、その後ろにはヴァルターが控えている。
相変わらず、何を考えているのか分からない顔だった。
そして、その隣にはアンネリーゼ。
完璧な姿勢に、完璧な微笑み。誰が見ても理想的な淑女だ。
けれど、ミレイユは知っている。
あの微笑みの裏で、誰よりも冷静に盤面を読み、誰よりも鋭く世界を見ていることを。
アンネリーゼはミレイユの視線に気付いたのか、ほんの僅かに微笑みを深くした。
それだけなのに、不思議と安心する。
王国側へ視線を移す。
前方にはレオニードが、王国を支える者として堂々と立っていた。
その隣にはシルヴァンがいる。
相変わらず力の抜けた立ち姿だが、視線だけは周囲をしっかりと見ていた。
何かあれば、誰より早く動くのだろう。
少し後ろにはリディアが控えている。
彼女が見つめているのは、ただ一つ。
玉座へ続く道、その先だけだった。
その近くにはアルベルトがいる。
新たな任を与えられた騎士であり、王女付きの護衛騎士として、背筋を伸ばして微動だにせず立っている。
そのアルベルトが、一瞬だけミレイユへ視線を向けた。
すぐに正面へ戻る。
それで十分だった。
互いに、ここまで来たのだ。
さらに遠く、柱の影にはクロウレイがいた。
壁にもたれ、いかにも気楽そうな顔をしている。
けれど、その視線だけは真っ直ぐ前を見ていた。
「……やっとだねぇ」
誰にも聞こえないほど小さな声で呟く。
やがて、大聖堂の奥から音が響いた。
ゆっくりと扉が開き、差し込んだ光の向こうから、一人の少女が姿を現す。
エリシアだった。
一歩ずつ、迷いなく前へ進んでいく。
誰もがその姿を見つめていた。
ここへ至るまでの道は、決して平坦ではなかった。
失いかけたものもあった。
崩れそうになったこともあった。
それでも彼女は歩みを止めなかった。
だから今、ここにいる。
エリシアは壇上へ上がると振り返らず、ただ前だけを見つめた。
そして、戴冠の儀が始まる。
古い言葉。
代々受け継がれてきた誓い。
王として背負う歴史と責任。
そのすべてが、一つずつ彼女の肩へ重ねられていく。
やがて、冠が掲げられた。
差し込む光を受けて、静かに輝いている。
大聖堂が息を潜める。
そして、ゆっくりと冠がエリシアの頭上へ置かれた。
その瞬間だけは、世界そのものが止まったようだった。
エリシアは目を閉じない。
冠の重みも、背負う責任も、王になるということの意味も、そのすべてを受け止めるように真っ直ぐ顔を上げる。
揺るがない瞳だった。
その姿を見た誰もが理解した。
王が、ここにいる。
次の瞬間、拍手が広がった。
最初は静かに。
やがて波のように大聖堂全体へ広がり、力強く響き続ける。
ミレイユは、その光景を見つめていた。
終わったわけではない。
世界はまだ不安定で、冷戦も始まったばかりだ。
解決しなければならない問題も、これから先いくつも出てくるだろう。
それでも確かに、ここまで来た。
それだけは間違いなかった。
ミレイユは息を吐き、もう一度前を見る。
自分もまた、選んでこの場所に立っている。
これからも、きっと選び続ける。
その先に何が待っていたとしても、自分自身で決めて進んでいく。
*
戴冠の儀が終わると、人の流れが少しずつ大聖堂の外へ解けていった。
夕暮れの光が回廊を淡く染めている。
ミレイユは、その中を一人で歩いていた。
胸の奥に、ずっと残っているものがある。
今日、どうしても伝えなければならない言葉だった。
回廊の先へ進む。
柱の影には、クロウレイがいた。
壁にもたれ、いつも通り気の抜けた顔をしている。
こちらに気付いているはずなのに、何も言わない。
ミレイユはゆっくり歩み寄り、その前で足を止めた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、ミレイユが口を開いた。
「……ありがとうございました」
クロウレイが眉を動かす。
「ん?」
いつも通り、とぼけた返事だった。
ミレイユは小さく息を吸ってから続ける。
「私を救ってくれて、守ってくれて……何も言わずに、ずっと見ていてくれて」
一つ一つ、胸の中にあった言葉を形にしていく。
「……ずっと、ありがとうございました」
クロウレイは何も言わない。
ただ、黙って聞いていた。
それでよかった。
ミレイユはもう一度息を吸い、顔を上げる。
逃げない。
「一度だけ」
小さな声だった。
「呼ばせてください」
クロウレイの表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
ミレイユは、震える声で言った。
「……お父さん」
静かな言葉だった。
けれど、はっきりと二人の間へ落ちた。
クロウレイは一瞬だけ目を細める。
それから、ふっと笑った。
いつも通りの顔で。
「おいで、可愛い子」
軽い言葉だった。
それだけだった。
けれど、ミレイユは迷わなかった。
一歩踏み出し、そのままクロウレイへ抱きつく。
強く。
顔を胸へ埋めた瞬間、涙が溢れた。
止めようとしても止まらない。
クロウレイは何も言わず、ミレイユを抱きしめた。
優しく。
けれど、離さないように。
「よしよし」
昔と同じ声だった。
「大丈夫だよ」
ミレイユは何度も頷く。
クロウレイは、その髪をゆっくり撫でた。
「君はもう、自分で歩いていける」
ミレイユは涙を流したまま頷いた。
クロウレイは小さく笑う。
「それに、そばにいてくれる人もいるだろうしねぇ」
その言葉に、ミレイユの脳裏へ一人の姿が浮かんだ。
思わず、小さく笑ってしまう。
クロウレイは満足そうに頷いた。
そして最後に、静かに言う。
「幸せになりなさい」
昔、狭い部屋で震えていた少女へ、ずっと言えなかった言葉だった。
命令でもない。
約束でもない。
ただ、心からの願いだった。
ミレイユは目を閉じ、しっかりと頷く。
「……はい」
それで十分だった。
クロウレイは笑った。
「いい顔だ」
いつも通りの声。
だからミレイユは気付かなかった。
その声が、ほんの少しだけ震えていたことに。
ミレイユも笑いながら涙を拭い、一歩だけ後ろへ下がった。
もう、昔のように守られるだけの子ではない。
自分で立てる。
自分で選べる。
だから、前を向く。
回廊の先には、アロイスが待っていた。
いつものように、何も言わずに。
ミレイユは歩き出し、アロイスの隣で足を止めた。
「待たせましたか?」
アロイスは首を振る。
「いや」
短い返事だった。
それだけで十分だった。
ミレイユが小さく笑う。
すると、アロイスが言った。
「帰るぞ」
その言葉に、ミレイユは頷いた。
「はい」
星明かりが、二人の歩く回廊を柔らかく照らしている。
二人は並んで歩き出した。
今度は、自分で選んだ道を。
第4章、これにて完結です。
ここまでお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
ここへたどり着くまで長くなりましたが、第四章の終わりまで読んでいただけたこと、とても嬉しく思います。
個人的には、ずっと書きたかったクロウレイの「おいで、可愛い子」を、ようやくここで書くことができました。
ミレイユとクロウレイの関係をここまで書いてきたこともあって、作者としてもとても感慨深い場面になりました。
そして次回から、第五章が始まります。
世界の危機やら古代帝国やらで大変なことになっていた第四章から一転、今度はラブコメ&家族劇へ。
ようやく想いが通じ合った二人がどうなるのか、公爵家の面々とともに見守っていただけたら嬉しいです。
ここまで読んで「続きも読んでみよう」と思っていただけましたら、ブックマークしていただけると、とても励みになります。
それでは、第五章もよろしくお願いいたします!




