第27話:あなたの帰る場所
春は、まだ遠かった。
帝都の空気は冷たい。
けれど、あの日まで街を覆っていた重苦しさは、もうなかった。
“真なるもの”の声は消えた。
世界を飲み込もうとしていた危機は、ひとまず去った。
平和になったわけではない。
それでも、少なくとも今日の帝都は穏やかだった。
公爵家の朝食の席には、久しぶりに全員が揃っていた。
ミレイユの体調もようやく戻り、クロウレイも顔色が良くなっている。
シルヴァンは相変わらず元気で、ライナーに至っては元から元気だった。
エドガーだけが、少しばかり疲れた顔をしている。
「それで」
ライナーがパンをかじりながら言った。
「本当に帰るのか」
クロウレイが頷く。
「そろそろねぇ」
いつまでも帝国にいるわけにはいかない。
シルヴァンも肩をすくめた。
「俺も帰りますよー。王国も色々ありますし」
マルガレーテが少し寂しそうな顔をする。
「賑やかだったのに」
「ご飯も美味しかったけど」
クロウレイが笑った。
「食べさせすぎだよ~」
「細かったんですもの」
即答だった。
ルドルフが言う。
「最初より三割ほど健康的になられましたな」
「やめて」
クロウレイが真顔になる。
ライナーが吹き出した。
朝食の席は、いつものように賑やかだった。
その様子を眺めながら、ミレイユは少しだけ寂しさを覚える。
クロウレイは師匠だ。
そして、家族だ。
ずっと一緒だった。
離れることには慣れている。
それでも、やはり寂しい。
そんなミレイユを見て、クロウレイは小さく笑った。
「そんな顔しない。また会えるよ」
ミレイユも苦笑する。
「はい」
その日の午後。
公爵家の庭には、冬枯れの木々を抜ける冷たい風が吹いていた。
クロウレイは、その庭に一人で立っていた。
そこへアロイスが現れる。
少しの間、どちらも口を開かなかった。
やがて、クロウレイが先に笑う。
「珍しいねぇ。そっちから来るなんて」
「話がある」
「僕も」
クロウレイが笑った。
冷たい風が二人の間を通り抜ける。
やがて、クロウレイが息を吐いた。
「……ありがとう」
アロイスが目を細める。
「ミレイユを守ってくれて」
先ほどまでの軽い調子とは違う声だった。
「帝国へ連れて行かれたって聞いた時、正直、後悔したんだよねぇ」
アロイスは黙って聞いている。
「僕がもっと力を持っていたら。もっと早く気づいていたら、断れたかもしれないって」
そこでクロウレイは苦笑した。
「まあ、無理だったけど」
アロイスは首を振る。
「違う」
クロウレイが視線を向けた。
「お前が育てたからだ」
アロイスは続ける。
「だから、あいつは折れなかった」
クロウレイは少しだけ目を見開いた。
やがて、ふっと笑う。
「……褒めるの下手だねぇ」
アロイスは答えなかった。
その沈黙が、何よりの肯定だった。
クロウレイは少し考え、それから真面目な顔になる。
「ミレイユのことは任せる」
アロイスが彼を見る。
「……けど」
クロウレイはにっこりと笑った。
穏やかな笑顔なのに、少し怖い。
「泣かせたら速攻連れ帰るからね」
アロイスは数秒黙った。
そして。
「ない」
即答だった。
クロウレイが吹き出す。
「言うと思った」
*
翌日。
クロウレイとシルヴァンは王国へ戻ることになった。
屋敷前には馬車が止まり、見送りの人々が集まっている。
マルガレーテは、二人に大量の焼き菓子を持たせていた。
クロウレイが本気で困った顔をする。
「多い」
「道中で食べてください」
「多い」
「足りませんか?」
「増やさないで」
そのやり取りを見て、ライナーが笑い転げる。
シルヴァンも肩を震わせていた。
やがて、別れの時間が来る。
ミレイユが頭を下げた。
「ありがとうございました」
クロウレイが笑う。
「じゃ、またそのうち」
ミレイユが目を瞬く。
「そのうち、ですか?」
「定期報告にも来るんでしょ」
「来ますけど」
「じゃあ、その時。また顔を見せなさい」
それ以上は何も言わなかった。
馬車が動き出す。
少しずつ遠ざかり、小さくなっていく。
やがてその姿が見えなくなっても、ミレイユはしばらく同じ方向を見つめていた。
*
夕方。
公爵家の庭園には、人の姿がなかった。
冬の終わりを告げるような冷たい風が、枯れた木々の間を抜けていく。
ミレイユは一人で立っていた。
いや。
正確には、一人ではなかった。
足音が聞こえ、振り返る。
アロイスだった。
いつも通り無愛想で、表情もほとんど変わらない。
けれど今日は、どこか緊張しているように見えた。
二人の間に沈黙が落ちる。
ライナーなら死ぬほど茶化しただろう。
エドガーなら気まずそうに視線を逸らしたかもしれない。
だが、ここには二人しかいない。
やがて、アロイスが口を開いた。
「終わったな」
ミレイユは頷く。
「はい」
“真なるもの”。
石板。
古代帝国。
長い戦いだった。
アロイスはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「お前は」
視線は逸らさない。
「どこに立つ」
前にも聞かれたことがある。
けれど、あの時とは違う。
ミレイユはもう迷っていなかった。
ゆっくり息を吸い、まっすぐ答える。
「王国でも、帝国でもなく」
「その間で」
冬の風が髪を揺らす。
「両方を知ったから」
「両方に、大切な人がいるから」
そして、小さく笑った。
「だから、その間に立ち続けます」
はっきりと言い切る。
アロイスは黙って聞いていた。
やがて、わずかに目を細める。
そして、ミレイユへ一歩近づいた。
距離が縮まる。
以前なら、思わず身を引いていたかもしれない。
けれど今は、その必要を感じなかった。
「なら」
アロイスが言う。
「隣にいろ」
ミレイユの心臓が跳ねた。
それでも目は逸らさない。
「……それは」
少しだけ意地悪く笑う。
「命令ですか?」
アロイスは首を振った。
「違う」
そして、迷いなく続ける。
「俺の意思だ」
ミレイユは小さく息を吐いた。
もう、分かっている。
ずっと前から。
帝国へ来た日。
初めて助けられた日。
何度も支えられた日。
そのすべての中で、少しずつ気づいていた。
「……私も」
小さな声。
でも、確かに届く。
「あなたの隣にいたい」
アロイスの瞳が僅かに揺れる。
「それを、選びます」
沈黙が落ちた。
アロイスは真っ直ぐミレイユを見つめる。
「ミレイユ」
名前を呼ばれる。
それだけで胸が苦しくなった。
「お前を、愛している」
飾らない言葉だった。
不器用で。
真っ直ぐで。
だからこそ、アロイスらしかった。
帝国へ来た日。
守られた日。
何度も名前を呼ばれた日。
深層で、「帰って来い」と叫ばれたあの日。
そのすべてが胸へ蘇る。
視界が滲んだ。
アロイスが僅かに眉を寄せる。
「泣くな」
「……無理です」
ミレイユは泣きながら笑った。
アロイスも、ほんの少しだけ笑う。
涙を拭い、ミレイユはもう一度彼を見る。
「私も」
声は震えていた。
それでも、もう逃げない。
「あなたを、愛しています」
アロイスは何も言わなかった。
ただ、心底安堵したように目を細める。
やがて、彼が言った。
「帰って来い」
ミレイユが瞬く。
「あの時みたいに」
深層。
白い世界。
自分が自分でなくなりかけた場所。
そこから、何度もこの声に呼び戻された。
「これからも」
アロイスは真っ直ぐ彼女を見る。
「俺のところへ帰って来い」
また涙が溢れた。
けれど今度は、笑って答えられた。
「はい」
そして、もう一度。
「帰ります」
アロイスが頷く。
夕暮れの空の下、二人はしばらく並んで立っていた。
世界は平和ではない。
国同士の問題も、石板の問題も残っている。
それでも。
ミレイユには帰る場所がある。
そして、自分から帰りたいと思える人がいる。
二人は並んで歩き出した。
同じ方向へ。
*
二人の姿が庭園の奥へ消えていく。
しばらくして。
植え込みの陰から、ライナーが顔を出した。
「終わったか?」
エドガーが深いため息を吐く。
「今回ばかりは邪魔しないでくださいよ」
「さすがに、それくらいの空気は読める」
珍しくまともだった。
マルガレーテは両手を合わせる。
「赤飯よ!」
「気が早いです」
エドガーが即座に突っ込む。
「早くありません?」
「お祝い事です!」
「まだ婚約もしてません」
「時間の問題です!」
妙に説得力があった。
その後ろで、ルドルフが遠い目をする。
「公爵家は、どこへ向かっているんでしょうな……」
誰も答えない。
その時。
「ハッピーエンドにたどり着いたんじゃないですか」
聞き慣れた声に、全員が振り返った。
エドガーが真顔になる。
「なんであなたがここにいるんですか」
ヴァルターだった。
当然のように立っている。
首を傾げる。
「特務捜査官なので」
「帰れ」
ライナーが即答した。
「皇宮から出てくんな」
「失礼ですねぇ」
「一番失礼なのはお前だ」
エドガーが頷く。
「同意します」
珍しくライナーと意見が一致した。
ヴァルターは肩をすくめる。
「良いじゃないですか。めでたい場なんですから」
マルガレーテが力強く頷いた。
「その通りです!」
「赤飯ですね!」
「だから早いです」
エドガーが額を押さえる。
「早くありません!」
騒がしい。
本当に、騒がしい。
けれど誰も、その騒がしさを嫌だとは思わなかった。
冬の終わりの風が庭を抜けていく。
その先では、ようやく想いを伝え合った二人が並んで歩いていた。
公爵家は、今日も賑やかだった。




