第26話:雪解け
冷戦会議が終わった、その夜。
帝都皇宮、執務棟最上階。
窓の外には無数の灯りが広がっていた。
つい数日前まで世界の終わりが迫っていたとは思えないほど、帝都の夜は穏やかだった。
重厚な机の上には、外交報告、封印監視記録、石板管理案など、山のような書類が積まれている。
その部屋にいるのは、第一皇子、第二皇子、そしてヴァルターの三人だった。
第一皇子は書類へ視線を落としたまま、低く口を開く。
「結局、世界は救われたのか」
第二皇子が小さく笑った。
「救われたんじゃないかな。少なくとも、滅亡は回避された」
「楽観的だな」
「兄上ほど悲観的ではないので」
いつものやり取りだった。
だが、以前ほど刺々しくはない。
二人とも分かっていた。
今回ばかりは、どちらか一人だけではどうにもならなかったのだ。
第一皇子が窓の外へ目を向ける。
眼下に広がる帝都は、自分が守ろうとしてきた国そのものだった。
その隣で、第二皇子も同じ景色を見ている。
考え方は違う。
政治的な立場も違う。
それでも、守りたいものだけは同じだった。
しばらくして、第一皇子が小さく息を吐く。
「……礼は言わん」
第二皇子が吹き出した。
「言うと思ってませんよ」
ヴァルターも肩を震わせる。
第一皇子が睨みつけた。
「笑うな」
「失礼しました」
そう言いながら、まったく反省していない顔だった。
第一皇子はさらに眉間へ皺を寄せ、今度は第二皇子を見る。
「お前もだ。随分と厄介なものを隠していたな」
側妃家系に伝わっていた記録。
“真なるもの”。
地下旧層。
帝都地下に眠っていた古代帝国の遺構。
第二皇子は肩をすくめた。
「確証がなかったので」
「だから黙っていたと?」
「興味深い昔話だと思っていました」
第一皇子は額を押さえた。
「頭が痛い」
「私もです」
ヴァルターが頷く。
第一皇子が即座に睨んだ。
「お前は黙れ」
「はい」
素直な返事だった。
だが、やはり反省している様子はない。
少しして、第二皇子が思い出したように口を開いた。
「しかし、今回一番予想外だったのは」
「何だ」
「アンネリーゼ嬢ですね」
ヴァルターも頷く。
「それは同意します」
第一皇子も否定しなかった。
今回の会議。
各国との外交。
そして、石板を巡る均衡。
あれだけの国を相手に一歩も引かず、気づけば議論そのものを自分の望む方向へ動かしていた。
第二皇子が肩をすくめる。
「我らが帝国は、恐ろしい人材を抱えていますね」
「同感だ」
第一皇子も珍しく即答した。
そこで、ヴァルターが口を開いた。
「ところで」
二人が同時に見る。
ヴァルターは首を傾げた。
「なんで皇子妃にしないんですか?」
沈黙。
第一皇子がゆっくり顔を上げ、第二皇子も目を瞬く。
ヴァルターだけが真顔だった。
本気で聞いている。
第一皇子が頭を抱えた。
「お前は本当に……」
「何です?」
分かっていない。
第一皇子は深くため息を吐き、それから低く言った。
「あれは」
言葉を選ぶように、僅かに眉を寄せる。
「妃の器に収まるような奴じゃない」
ヴァルターが瞬いた。
第二皇子が吹き出す。
第一皇子は構わず続けた。
「あれを皇宮へ閉じ込めてみろ。三年で帝国政治を乗っ取る」
「三年も要りませんね」
第二皇子が笑った。
「一年でしょう」
ヴァルターも頷く。
「確かに」
全員一致だった。
第二皇子が面白そうに続ける。
「そもそも、私たちが制御できるほど大人しい淑女じゃないからね」
「確かに」
ヴァルターが頷く。
第一皇子も否定しなかった。
アンネリーゼ・フォン・アダルベルト。
あれは、誰かの隣へ置いておくような人材ではない。
盤面を作る側の人間なのだ。
「宰相も苦労していそうですね」
第二皇子が笑う。
「胃に穴が開くだろうな」
第一皇子がぼそりと言った。
それもまた、間違いではなかった。
少しの沈黙。
けれど、居心地の悪いものではない。
数年前なら、兄弟でこんな話をすること自体、考えられなかっただろう。
その時、ヴァルターが時計へ目を向けた。
「ああ、そろそろ失礼します」
立ち上がる。
第一皇子が眉を寄せた。
「まだ仕事が残っている」
「残っていますねぇ」
「なら座れ」
ヴァルターは爽やかに笑った。
「嫌です」
即答だった。
第一皇子のこめかみに青筋が浮かぶ。
第二皇子は肩を震わせた。
ヴァルターは何事もなかったかのように一礼する。
「では、お先に」
そう言って、さっさと退出していった。
扉が閉まる。
第一皇子が深くため息を吐いた。
「……あいつも、最後まで喰えんやつだ」
第二皇子が小さく笑う。
「私は嫌いではないですよ」
「私は嫌いだ」
「知っています」
「嫌いだ」
「ええ」
「本当に嫌いだ」
とうとう第二皇子が吹き出した。
第一皇子はさらに顔をしかめる。
だが、その肩からはほんの少しだけ力が抜けていた。
窓の外には、変わらず帝都の灯りが広がっている。
世界が平和になったわけではない。
それでも、少なくとも今日だけは。
ほんの少し穏やかな夜だった。
*
数日後。
北方国首都、王城会議室。
雪国らしい重厚な石造りの部屋で、北方国代表は資料を閉じた。
「帝国から共有された資料は以上だ」
周囲の貴族たちが顔を見合わせる。
精神干渉能力。
古代帝国。
“真なるもの”。
これまで知られていなかった事実が、次々と明らかになっていた。
長い沈黙の後、年嵩の貴族が口を開く。
「では、精神干渉能力者は危険ではないと?」
北方国代表は首を振った。
「危険だ」
即答だった。
何人かの表情が強張る。
だが、代表はそのまま続けた。
「剣が危険であるのと同じだ。火が危険であるのと同じだ」
資料を机へ置く。
「力そのものを恐れて遠ざけ、知ろうとしないことの方が危険だ」
誰も反論しなかった。
「今後、精神干渉能力者に対する支援制度を整備する」
貴族たちが顔を上げる。
「能力の把握と登録だけではない。教育支援、生活保障、能力事故発生時の補助制度を設ける」
そして、少し間を置いて付け加えた。
「保護も含める」
部屋が静まり返った。
精神干渉能力者。
これまで気味悪がられ、避けられ、時には腫れ物のように扱われてきた者たち。
その扱いを変える。
簡単なことではない。
反発もあるだろう。
時間もかかる。
それでも、代表は続けた。
「我々はこれまで、知らないというだけで彼らを遠ざけてきた」
誰も口を挟まない。
「今回、その力に助けられもした」
代表は集まった者たちを見渡した。
「ならば、知る努力くらいはすべきだろう」
窓の外では、雪が降っていた。
世界は一夜で変わるわけではない。
それでも確かに、少しずつ前へ進み始めていた。
*
北方国、辺境集落。
そこにも雪が降っていた。
山々は白く染まり、冷たい風が吹き抜けていく。
イリーナは小さく息を吐いた。
白い吐息が空へ溶けていく。
久しぶりの故郷だった。
帝国での会議。
地下旧層。
“真なるもの”。
世界規模の騒動。
それらがようやく落ち着き、彼女もこの集落へ戻ってきていた。
もっとも、帰ってきたところで何かが変わるとは思っていなかった。
昔からそうだった。
精神干渉能力者。
ただ、それだけでどこか気味悪がられる。
露骨に迫害されるほどではない。
けれど、距離を置かれる。
腫れ物のように扱われる。
イリーナも、もう慣れていた。
だから市場へ降りた時も、いつも通り買い物を済ませて帰るつもりだった。
「おう」
声がして、顔を上げる。
肉屋の店主だった。
大柄な男で、昔からこの店にいる。
イリーナとは、これまでほとんど話したことがない。
男は少し気まずそうに頭を掻いた。
「帝国の件」
イリーナが瞬く。
「大変だったらしいな」
少し黙ってから頷く。
「……まあ」
「無茶しやがって」
ぶっきらぼうな声だった。
だが、以前のような警戒は感じられない。
むしろ、心配しているようにも聞こえた。
イリーナが少しだけ目を見開くと、男は気まずそうに視線を逸らした。
「なんだ」
「別に」
「礼なんか言わねぇぞ」
そう言いながら、干し肉を一袋放ってよこす。
イリーナが慌てて受け取った。
「え?」
「余りもんだ」
絶対に嘘だった。
けれど、男はそれ以上何も言わない。
イリーナはしばらく、その袋を見つめていた。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる。
市場を歩いていると、今度は小さな女の子が近寄ってきた。
七歳くらいだろうか。
じっと見上げてくる少女に、イリーナはしゃがみ込んだ。
「どうしたの?」
少女は真剣な顔で尋ねた。
「お姉ちゃん、声聞こえるの?」
イリーナは思わず笑った。
いったい、どこでそんな話を聞いてきたのだろう。
「少しだけ」
そう答えると、少女の目が輝いた。
「すごい!」
イリーナは苦笑する。
昔なら、親が慌てて引き離した。
気味が悪いから近づくな。
そう言われることもあった。
けれど、今日は違った。
少し離れた場所で見ていた母親が、困ったように笑っている。
「すみません。この子、帝国の話を聞いてから興味津々で」
「気にしてません」
母親は少し迷うように黙り、それから言った。
「……ありがとうございました」
イリーナは言葉を失った。
何に対してなのか。
分かっている。
帝国での出来事。
“真なるもの”。
あの一連の騒動は、北方国の辺境にまで伝わっていた。
母親は深く頭を下げる。
「助かりました」
それだけ言うと、少女の手を引いて去っていった。
少女は最後まで、イリーナへ手を振っていた。
イリーナはその小さな背中を見送る。
すべてが変わったわけではない。
明日になれば、また警戒されることもあるだろう。
嫌われることも。
恐れられることも、きっとなくならない。
それでも。
ほんの少しだけ、世界は変わった。
イリーナは空を見上げた。
白い雪が頬へ落ちる。
冷たい。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……変われるんだ」
小さく呟く。
長い冬は、まだ終わっていない。
それでも確かに、雪解けは始まっていた。




