第25話:冷戦
帝都地下最深部からの帰還は、静かなものだった。
誰も喋らない。
もう、喋る余力がほとんど残っていなかった。
地下旧層の長い通路を抜けていく。
床を走る黒い導線からは光が消え、あれほど響いていた共鳴音も聞こえない。
“真なるもの”の声も。
静かだった。
本当に終わったのか。
まだ、誰にも実感できていなかった。
ミレイユはアロイスに半ば支えられながら歩いていた。
身体が熱い。
視界も時折揺れる。
深層接続の反動が、まだ身体にも意識にも残っていた。
「倒れるなら今のうちに倒れなさい」
クロウレイが隣から言う。
「地上に着いてからだと面倒だからねぇ」
ミレイユは苦笑した。
「先生も、人のことを言えないと思います」
「僕はまだ歩いてるから大丈夫」
「ミレイユも歩いてるじゃん……」
シルヴァンが疲れ切った声で突っ込んだ。
「若者は労働しなさい」
「理不尽……」
そう言うクロウレイ自身も、かなり酷い顔色をしている。
接続術式の維持に加え、ミレイユの精神状態を追い続けていたのだ。
魔力もほとんど残っていない。
シルヴァンも同様だった。
服は埃まみれで、肩口には落下してきた石片で裂けた跡がある。
その後ろを歩くライナーに至っては、さらに酷い。
中枢が激しく振動した際、術式から動けない三人を庇って落下物を引き受けたせいで、服のあちこちが破れ、額には乾いた血がこびりついていた。
「もう二度と地下行きたくねぇ……」
壁へ手をつきながら、心底嫌そうにぼやく。
「同感です」
エドガーも珍しく即答した。
「お前もかよ」
「当然でしょう」
エドガーの眼鏡にも細かな傷が入っている。
ライナーが少し笑った。
「なんだよ。お前でも嫌になることあんだな」
「あります」
「じゃあ次からお前だけ地上な」
「それは職務放棄です」
「真面目か」
「今更ですね」
そんなやり取りすら、妙に懐かしく感じられた。
生きて帰れた。
その実感が、ようやく少しずつ胸へ滲んでくる。
長い階段を上り、地上へ出る。
冷たい夜風が頬を撫でた。
帝都の灯りが見える。
誰かが大きく息を吐いた。
ライナーだった。
「……空だ」
シルヴァンも見上げる。
「空だねぇ……」
「もう地下嫌だ」
「さっきも言ってましたよ」
エドガーの指摘にも、今度は言い返さなかった。
アロイスも夜空を見上げ、小さく息を吐く。
それほど長い時間ではなかったはずなのに、地下で過ごした時間はひどく長く感じられた。
「……まずは戻りましょう」
ヴァルターが言った。
珍しく、その声にも疲労が滲んでいる。
さすがの特務捜査官も、無傷ではなかった。
外套の袖は裂け、頬には石片が掠めた細い傷が残っている。
誰も反対しなかった。
*
公爵邸へ戻ると、深夜にもかかわらず屋敷中が大騒ぎになった。
「何ですか、その有様は!!」
マルガレーテの悲鳴が玄関ホールへ響き渡る。
無理もない。
帰ってきた一行は、揃って酷い有様だった。
アロイスはミレイユを庇った際に肩と背を強く打ち、服の一部が裂けている。
ライナーは額と腕に傷を作り、全身埃まみれ。
エドガーも細かな擦り傷だらけで、シルヴァンとクロウレイは今にも倒れそうなほど顔色が悪い。
ヴァルターですら、いつもの涼しい顔を保つ余裕がない。
そして何より。
「ミレイユ様!」
マルガレーテの顔色が変わった。
ミレイユの身体がふらつく。
アロイスがすぐに腰を支えた。
「熱があります!」
額へ触れたマルガレーテが叫ぶ。
「まあ、そりゃそうだよねぇ」
クロウレイが壁に手をつきながら答えた。
「中枢とあれだけ深く繋がったんだから」
マルガレーテが振り返る。
「何をなさったんですか?」
「……説明は明日にしない?」
「何をなさったんですか?」
「怖いねぇ」
ライナーがぼそっと呟く。
「団長より怖ぇ……」
「聞こえています」
「すみません」
即座に謝った。
シルヴァンが小声で言う。
「帝国、女性陣が強い……」
「今更ですね」
エドガーが返す。
そのエドガーも、立ったまま僅かに身体が傾いた。
ルドルフが額を押さえる。
「全員、治療を」
「そうしてくれ」
アロイスもさすがに反論しなかった。
「今夜の報告は最低限で結構です。残りは明朝に」
「助かる」
「ただし」
ルドルフが一同を見回す。
「明朝までに皆様が起きられれば、ですが」
誰も答えなかった。
結局、一行は揃って治療を受け、そのまま半ば強制的に休まされることになった。
中でもミレイユは、そのまま寝室へ運ばれた。
身体が熱い。
重い。
ベッドへ横になっても、まだ世界が揺れているような感覚が残っていた。
「ミレイユ」
クロウレイの声がする。
「僕が誰か分かる?」
「……先生」
「ここは?」
「シュタルク公爵邸……私の部屋です」
「よし」
ようやくクロウレイの肩から力が抜けた。
「今のところ、意識の混濁はなさそうだね」
そう言った本人の方が倒れそうだった。
ミレイユは薄く笑う。
「先生も、休んでください」
「そうするよ。さすがに今日は無理」
珍しく素直だった。
クロウレイが部屋を出ようとした時、アロイスが入れ替わるように入ってくる。
彼も治療を受けたらしく、肩には包帯が巻かれていた。
「アロイス様も……怪我を」
「大したことはない」
「でも」
「お前が言うな」
返す言葉がない。
ミレイユは少しだけ困ったように笑った。
アロイスがベッドの横へ立つ。
しばらく何も言わなかった。
やがて、額へそっと手を触れる。
まだ熱い。
その眉が僅かに寄った。
「……帰って来たな」
ミレイユの胸が熱くなる。
「はい」
掠れた声で答える。
「帰ってきました」
アロイスは目を伏せた。
ほんの少しだけ。
それでも、心底安堵していることが分かった。
扉の外で、クロウレイが足を止めていた。
閉まりかけた扉の向こうから、二人の声が聞こえる。
昔なら。
ミレイユをこちら側へ呼び戻すのは、自分の役目だった。
熱を出した時も。
魔術で失敗した時も。
悪夢を見た夜も。
ずっとそうだった。
けれど今は。
自分以外にも、あの子を呼び戻せる人間がいる。
少し寂しい。
でも、それ以上に安心する。
クロウレイは小さく笑った。
「……よかった」
そして今度こそ、自分も休むために歩き出した。
*
数日後。
各国から、次々と報告が届いた。
北方国採掘場付近の遺跡。
神聖国聖都地下。
帝国北西部山岳地帯。
帝国砂漠地帯。
そして、王国と帝国の国境付近。
これまで精神干渉や共鳴反応が確認されていた各地で、装置の活動反応が大幅に低下していた。
新たな精神干渉も、今のところ報告されていない。
帝都地下最深部でも同様だった。
“真なるもの”からの声は途絶え、中枢から精神波はほとんど検出されていない。
だが。
完全に機能を失ったのか。
一時的に沈黙しているだけなのか。
それを断定できる者はいなかった。
だからこそ、帝都地下旧層の封鎖は継続された。
そしてもう一つ。
石板は残っている。
封印条約の基本合意を踏まえ、各国代表は再び円卓を囲んでいた。
今回の議題は、条約の具体的な運用だった。
石板の保管。
封印方法。
定期監査。
異常発生時の報告義務。
そして、各国による相互監視。
装置が沈黙したからといって、危険そのものが消えたわけではない。
北方国代表が口を開く。
「各国が現在保有する石板を、そのまま国内で管理する。それ自体に異論はない」
神聖国代表が続けた。
「問題は、その管理を誰が保証するかだ」
「保証などできませんわ」
アンネリーゼがあっさりと言った。
視線が集まる。
「国家間の取り決めに、絶対の保証を求めること自体が現実的ではございません」
微笑んでいる。
「ですから、確認するのです」
「封印状態を」
「使用記録を」
「そして、互いが条約を守っているかを」
静寂が落ちた。
レオニードが小さく頷く。
「同意します」
そして円卓を見渡した。
「互いを完全に信用する必要はないのでしょう」
その言葉に、何人かが視線を上げる。
「信用できないからこそ、監視する。その上で協力する」
穏やかな声だった。
だが、その内容はひどく現実的だ。
「人は、完全には分かり合えない」
ミレイユの胸が僅かに動いた。
「考えていることも、恐れていることも、すべて理解することはできません」
レオニードは続ける。
「それでも、同じ場所で生きていく方法を探すしかないのでしょう」
ミレイユは目を伏せた。
“真なるもの”は、すべてを繋ごうとした。
分からないものをなくそうとした。
孤独も。
恐怖も。
すれ違いも。
けれど、人間は違う。
分からないことがある。
疑うこともある。
それでも、信じることはできる。
全部を知っているからではない。
知らないものが残っているからこそ。
それでも側にいることを、自分で選ぶ。
会議を終え、ミレイユは廊下の窓辺で足を止めた。
眼下には帝都の街並みが広がっている。
以前と変わらないように見える。
人々が行き交い、馬車が走り、店先では声が飛び交っていた。
それでも、世界が元通りになったわけではない。
地下旧層は封鎖されたまま。
石板も残っている。
各国は互いを監視し、警戒しながら、それでも同じ条約の下に立とうとしている。
「……終わって、いないんですね」
隣に立ったアロイスが帝都を見る。
「ああ」
「人間同士の問題は残る」
ミレイユは少しだけ笑った。
「難しいですね」
「今更だ」
思わず、笑みが深くなる。
アロイスがそんなミレイユを見る。
「それでも」
「はい」
「生きていくしかない」
ミレイユは窓の外へ目を向けた。
別々のまま。
完全には分かり合えなくても。
それでも、人は誰かの隣にいられる。
「……はい」
帝都の風が、開いた窓から静かに吹き込んだ。




