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選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
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第25話:冷戦

帝都地下最深部からの帰還は、静かなものだった。

誰も喋らない。

もう、喋る余力がほとんど残っていなかった。

地下旧層の長い通路を抜けていく。

床を走る黒い導線からは光が消え、あれほど響いていた共鳴音も聞こえない。

“真なるもの”の声も。

静かだった。

本当に終わったのか。

まだ、誰にも実感できていなかった。

ミレイユはアロイスに半ば支えられながら歩いていた。

身体が熱い。

視界も時折揺れる。

深層接続の反動が、まだ身体にも意識にも残っていた。

「倒れるなら今のうちに倒れなさい」

クロウレイが隣から言う。

「地上に着いてからだと面倒だからねぇ」

ミレイユは苦笑した。

「先生も、人のことを言えないと思います」

「僕はまだ歩いてるから大丈夫」

「ミレイユも歩いてるじゃん……」

シルヴァンが疲れ切った声で突っ込んだ。

「若者は労働しなさい」

「理不尽……」

そう言うクロウレイ自身も、かなり酷い顔色をしている。

接続術式の維持に加え、ミレイユの精神状態を追い続けていたのだ。

魔力もほとんど残っていない。

シルヴァンも同様だった。

服は埃まみれで、肩口には落下してきた石片で裂けた跡がある。

その後ろを歩くライナーに至っては、さらに酷い。

中枢が激しく振動した際、術式から動けない三人を庇って落下物を引き受けたせいで、服のあちこちが破れ、額には乾いた血がこびりついていた。

「もう二度と地下行きたくねぇ……」

壁へ手をつきながら、心底嫌そうにぼやく。

「同感です」

エドガーも珍しく即答した。

「お前もかよ」

「当然でしょう」

エドガーの眼鏡にも細かな傷が入っている。

ライナーが少し笑った。

「なんだよ。お前でも嫌になることあんだな」

「あります」

「じゃあ次からお前だけ地上な」

「それは職務放棄です」

「真面目か」

「今更ですね」

そんなやり取りすら、妙に懐かしく感じられた。

生きて帰れた。

その実感が、ようやく少しずつ胸へ滲んでくる。

長い階段を上り、地上へ出る。

冷たい夜風が頬を撫でた。

帝都の灯りが見える。

誰かが大きく息を吐いた。

ライナーだった。

「……空だ」

シルヴァンも見上げる。

「空だねぇ……」

「もう地下嫌だ」

「さっきも言ってましたよ」

エドガーの指摘にも、今度は言い返さなかった。

アロイスも夜空を見上げ、小さく息を吐く。

それほど長い時間ではなかったはずなのに、地下で過ごした時間はひどく長く感じられた。

「……まずは戻りましょう」

ヴァルターが言った。

珍しく、その声にも疲労が滲んでいる。

さすがの特務捜査官も、無傷ではなかった。

外套の袖は裂け、頬には石片が掠めた細い傷が残っている。

誰も反対しなかった。

*

公爵邸へ戻ると、深夜にもかかわらず屋敷中が大騒ぎになった。

「何ですか、その有様は!!」

マルガレーテの悲鳴が玄関ホールへ響き渡る。

無理もない。

帰ってきた一行は、揃って酷い有様だった。

アロイスはミレイユを庇った際に肩と背を強く打ち、服の一部が裂けている。

ライナーは額と腕に傷を作り、全身埃まみれ。

エドガーも細かな擦り傷だらけで、シルヴァンとクロウレイは今にも倒れそうなほど顔色が悪い。

ヴァルターですら、いつもの涼しい顔を保つ余裕がない。

挿絵(By みてみん)

そして何より。

「ミレイユ様!」

マルガレーテの顔色が変わった。

ミレイユの身体がふらつく。

アロイスがすぐに腰を支えた。

「熱があります!」

額へ触れたマルガレーテが叫ぶ。

「まあ、そりゃそうだよねぇ」

クロウレイが壁に手をつきながら答えた。

「中枢とあれだけ深く繋がったんだから」

マルガレーテが振り返る。

「何をなさったんですか?」

「……説明は明日にしない?」

「何をなさったんですか?」

「怖いねぇ」

ライナーがぼそっと呟く。

「団長より怖ぇ……」

「聞こえています」

「すみません」

即座に謝った。

シルヴァンが小声で言う。

「帝国、女性陣が強い……」

「今更ですね」

エドガーが返す。

そのエドガーも、立ったまま僅かに身体が傾いた。

ルドルフが額を押さえる。

「全員、治療を」

「そうしてくれ」

アロイスもさすがに反論しなかった。

「今夜の報告は最低限で結構です。残りは明朝に」

「助かる」

「ただし」

ルドルフが一同を見回す。

「明朝までに皆様が起きられれば、ですが」

誰も答えなかった。

結局、一行は揃って治療を受け、そのまま半ば強制的に休まされることになった。

中でもミレイユは、そのまま寝室へ運ばれた。

身体が熱い。

重い。

ベッドへ横になっても、まだ世界が揺れているような感覚が残っていた。

「ミレイユ」

クロウレイの声がする。

「僕が誰か分かる?」

「……先生」

「ここは?」

「シュタルク公爵邸……私の部屋です」

「よし」

ようやくクロウレイの肩から力が抜けた。

「今のところ、意識の混濁はなさそうだね」

そう言った本人の方が倒れそうだった。

ミレイユは薄く笑う。

「先生も、休んでください」

「そうするよ。さすがに今日は無理」

珍しく素直だった。

クロウレイが部屋を出ようとした時、アロイスが入れ替わるように入ってくる。

彼も治療を受けたらしく、肩には包帯が巻かれていた。

「アロイス様も……怪我を」

「大したことはない」

「でも」

「お前が言うな」

返す言葉がない。

ミレイユは少しだけ困ったように笑った。

アロイスがベッドの横へ立つ。

しばらく何も言わなかった。

やがて、額へそっと手を触れる。

まだ熱い。

その眉が僅かに寄った。

「……帰って来たな」

ミレイユの胸が熱くなる。

「はい」

掠れた声で答える。

「帰ってきました」

アロイスは目を伏せた。

ほんの少しだけ。

それでも、心底安堵していることが分かった。

扉の外で、クロウレイが足を止めていた。

閉まりかけた扉の向こうから、二人の声が聞こえる。

昔なら。

ミレイユをこちら側へ呼び戻すのは、自分の役目だった。

熱を出した時も。

魔術で失敗した時も。

悪夢を見た夜も。

ずっとそうだった。

けれど今は。

自分以外にも、あの子を呼び戻せる人間がいる。

少し寂しい。

でも、それ以上に安心する。

クロウレイは小さく笑った。

「……よかった」

そして今度こそ、自分も休むために歩き出した。

*

数日後。

各国から、次々と報告が届いた。

北方国採掘場付近の遺跡。

神聖国聖都地下。

帝国北西部山岳地帯。

帝国砂漠地帯。

そして、王国と帝国の国境付近。

これまで精神干渉や共鳴反応が確認されていた各地で、装置の活動反応が大幅に低下していた。

新たな精神干渉も、今のところ報告されていない。

帝都地下最深部でも同様だった。

“真なるもの”からの声は途絶え、中枢から精神波はほとんど検出されていない。

だが。

完全に機能を失ったのか。

一時的に沈黙しているだけなのか。

それを断定できる者はいなかった。

だからこそ、帝都地下旧層の封鎖は継続された。

そしてもう一つ。

石板は残っている。

封印条約の基本合意を踏まえ、各国代表は再び円卓を囲んでいた。

今回の議題は、条約の具体的な運用だった。

石板の保管。

封印方法。

定期監査。

異常発生時の報告義務。

そして、各国による相互監視。

装置が沈黙したからといって、危険そのものが消えたわけではない。

北方国代表が口を開く。

「各国が現在保有する石板を、そのまま国内で管理する。それ自体に異論はない」

神聖国代表が続けた。

「問題は、その管理を誰が保証するかだ」

「保証などできませんわ」

アンネリーゼがあっさりと言った。

視線が集まる。

「国家間の取り決めに、絶対の保証を求めること自体が現実的ではございません」

微笑んでいる。

「ですから、確認するのです」

「封印状態を」

「使用記録を」

「そして、互いが条約を守っているかを」

静寂が落ちた。

レオニードが小さく頷く。

「同意します」

そして円卓を見渡した。

「互いを完全に信用する必要はないのでしょう」

その言葉に、何人かが視線を上げる。

「信用できないからこそ、監視する。その上で協力する」

穏やかな声だった。

だが、その内容はひどく現実的だ。

「人は、完全には分かり合えない」

ミレイユの胸が僅かに動いた。

「考えていることも、恐れていることも、すべて理解することはできません」

レオニードは続ける。

「それでも、同じ場所で生きていく方法を探すしかないのでしょう」

ミレイユは目を伏せた。

“真なるもの”は、すべてを繋ごうとした。

分からないものをなくそうとした。

孤独も。

恐怖も。

すれ違いも。

けれど、人間は違う。

分からないことがある。

疑うこともある。

それでも、信じることはできる。

全部を知っているからではない。

知らないものが残っているからこそ。

それでも側にいることを、自分で選ぶ。

会議を終え、ミレイユは廊下の窓辺で足を止めた。

眼下には帝都の街並みが広がっている。

以前と変わらないように見える。

人々が行き交い、馬車が走り、店先では声が飛び交っていた。

それでも、世界が元通りになったわけではない。

地下旧層は封鎖されたまま。

石板も残っている。

各国は互いを監視し、警戒しながら、それでも同じ条約の下に立とうとしている。

「……終わって、いないんですね」

隣に立ったアロイスが帝都を見る。

「ああ」

「人間同士の問題は残る」

ミレイユは少しだけ笑った。

「難しいですね」

「今更だ」

思わず、笑みが深くなる。

アロイスがそんなミレイユを見る。

「それでも」

「はい」

「生きていくしかない」

ミレイユは窓の外へ目を向けた。

別々のまま。

完全には分かり合えなくても。

それでも、人は誰かの隣にいられる。

「……はい」

帝都の風が、開いた窓から静かに吹き込んだ。

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