第24話:間(あわい)
白。
果てしない白の中で、上下も距離も時間も曖昧になっていた。
ミレイユの意識は、“深層”へ沈んでいく。
悲しみ。
孤独。
苦痛。
後悔。
恐怖。
そして、誰かを救いたいという願い。
膨大な感情が次々と流れ込み、自分のものとの境目が分からなくなっていく。
頭が壊れそうだった。
『大丈夫』
“真なるもの”の声は、優しく、暖かい。
『全部、分け合えばいい』
『苦しまなくていい』
白い空間には無数の光が漂っていた。
人々の感情。
記憶。
願い。
それらが互いに溶け合い、境界を失っている。
『君なら耐えられる』
『君なら、最後まで繋がれる』
ミレイユの意識が揺れた。
苦しくない。
寂しくない。
全部、分かってもらえる。
その感覚は甘かった。
危険なほどに。
『もう、一人じゃない』
幼い頃の記憶が浮かぶ。
暗い部屋。
寒い夜。
誰も来ない。
寂しかった。
怖かった。
だからこそ、その言葉はミレイユの最も弱い場所へ入り込んでくる。
『こっちへおいで』
自分の輪郭が薄れていく。
どこまでが“私”なのか。
分からなくなり始める。
その時だった。
「ミレイユ!!」
遠くから声が届いた。
白い世界が僅かに揺れる。
アロイス。
その名前を思い出した瞬間、自分の輪郭が少しだけ戻った。
『気にしなくていい』
“真なるもの”が囁く。
『全部、一つになれば』
『離れることもない』
大量の感情が流れ込んできた。
愛情。
安堵。
幸福。
暖かい。
あまりにも暖かくて、また意識が溶けそうになる。
現実。
地下最深部では、円環状構造物が激しく明滅していた。
ミレイユはその中央で目を閉じたまま動かない。
周囲に展開された補助術式が大きく揺らぎ、魔術陣の一部が次々と明滅する。
「接続深度が上がっています!」
エドガーが声を上げた。
「速すぎますねぇ」
ヴァルターは一歩引いた位置から、全体の状況を見ていた。
「右側の補助陣、出力が落ちています」
「分かってる!」
シルヴァンが即座に術式を重ねる。
クロウレイはミレイユの周囲へ展開した術式を維持しながら叫んだ。
「ミレイユ!聞こえる!?」
返事はない。
床を走る黒い導線が強い光を放つ。
そこを流れる膨大な魔力と精神波が、接続術式へ雪崩れ込んでいた。
「流入量を抑えられません!」
エドガーが告げる。
「中枢側から接続を強めています!」
「固定される前に引き戻すよ!」
クロウレイが術式を書き換える。
その時、地下全体が大きく揺れた。
ヴァルターが即座に後方を見る。
「後ろ、崩れますよ」
「ライナー!」
クロウレイが叫ぶ。
「分かってる!」
ライナーは落下してきた石片を弾き飛ばし、術式を維持する三人の前へ立った。
「お前らはそのまま続けろ!こっちは俺が見る!」
ヴァルターは再び周囲へ視線を巡らせる。
自分では術式に触れない。その代わり、全体を見渡して異常を拾い続けていた。
その中心で、アロイスはミレイユの手を握ったまま離さなかった。
「ミレイユ!」
返事はない。
握った手にも、ほとんど力がない。
それでも呼び続ける。
「戻れ!」
その声が、接続術式を通して深層へ届いていく。
白い世界。
『疲れたでしょう』
“真なるもの”が囁く。
『もう頑張らなくていい』
『全部、私が抱える』
ミレイユの意識が揺れた。
暖かい。
苦しくない。
全部、終わらせられる。
その時。
別の記憶が浮かんだ。
小さな家。
暖かな食卓。
少し焦げた料理を前に笑うクロウレイ。
初めて教わった魔術。
熱を出した夜、額へ触れてくれた手。
それから帝国。
装置の前で倒れた時に支えてくれた腕。
何度も聞いた声。
『離れるな』
不器用なくらい真っ直ぐな眼差し。
何度も。
何度でも。
自分をこちら側へ引き戻してくれた。
ミレイユの瞳から涙が零れる。
『……どうして』
“真なるもの”が問いかける。
『全部繋がれば、失わないのに』
その声は、悲しそうに聞こえた。
「……違う」
掠れた声が出た。
『違わない』
「違います」
今度は、はっきりと言う。
「失うのは、怖いです」
「一人は、寂しいです」
『なら』
「でも」
ミレイユは首を振った。
「だからって、全部同じになりたくない」
白い世界が揺れる。
『どうして』
本当に理解できないのだろう。
ミレイユは涙を流したまま答える。
「分からないから」
「怖いから」
「だから、側にいたいんです」
『……』
「全部分かってしまったら……」
言葉を探す。
そして、ようやく気づいた。
「誰かを信じることが、なくなってしまう」
白い世界から、すべての音が消えた。
現実では、補助術式が限界を迎えようとしていた。
「ミレイユ!」
クロウレイが呼ぶ。
魔術陣の一部が弾け、光の粒となって消える。
「制御術式が持ちません!」
エドガーが叫んだ。
「まだ引き戻せますか」
ヴァルターが問う。
「引き戻す!」
クロウレイは即答した。
「そのために繋いでるんだから!」
アロイスはミレイユの身体を支え、耳元で呼びかける。
「戻れ」
反応はない。
「帰って来い」
それでも呼ぶ。
「お前は、お前だ」
その声が、白い世界へ届く。
「誰とも違う」
「勝手に消えるな」
ミレイユの胸が熱くなった。
“真なるもの”が呟く。
『……孤独になる』
「なりません」
ミレイユは涙を拭う。
「私は、一人じゃなかった」
クロウレイ。
アロイス。
自分とは違う人たち。
分からないこともあった。
言葉にしなければ伝わらないこともあった。
それでも。
分かろうとしてくれた。
側にいてくれた。
だから、ミレイユは白い世界の向こうへ手を伸ばす。
現実へ。
“真なるもの”の表情が揺れた。
『……そうか』
小さな声だった。
次の瞬間。
ミレイユの意識が現実へ引き戻された。
「……っ!」
大きく息を吸う。
膝から力が抜けるより早く、アロイスが抱き止めた。
「ミレイユ!」
「……アロイス、様」
戻った。
そう思った直後、地下全体が大きく震えた。
円環から白い光が溢れ、黒い導線を伝って地下全域へ広がっていく。
「接続が切れていません!」
エドガーが叫ぶ。
クロウレイがすぐにミレイユを見る。
「まだ繋がってる?」
ミレイユは胸を押さえた。
聞こえる。
遠くなった。
それでも、まだ。
『待って』
“真なるもの”の声。
『まだ』
『まだ、救える』
ミレイユは目を閉じる。
ここで切らなければならない。
自分だけ戻っても、“真なるもの”が再び誰かへ手を伸ばすなら意味がない。
「先生」
「何する気?」
「接続を、閉じます」
クロウレイが眉を寄せる。
「できるの?」
「……分かりません」
「ミレイユ」
「でも、今なら道が分かります」
自分と“真なるもの”を繋いでいるもの。
採掘場遺跡から辿った、あの深い接続。
今なら、その境界を感じられる。
「壊しません」
ミレイユは円環を見る。
「閉じるだけです」
クロウレイは数秒、ミレイユを見つめた。
「……僕が支える」
エドガーとシルヴァンも術式へ魔力を重ねる。
暴走する中枢を力ずくで押さえ込むのではない。
ミレイユが接続を閉じるまで、現実側の術式を維持する。
それだけだ。
ミレイユはアロイスの腕の中で、もう一度目を閉じた。
『待って』
胸が痛む。
『一人にしないで』
初めて聞く言葉だった。
ミレイユの瞳から涙が落ちる。
それでも。
「……眠ってください」
優しく告げる。
「もう、誰も壊さないために」
接続を閉じる。
白い光が一気に膨れ上がった。
床を走る導線を伝い、光が遠ざかっていく。
一つ。
また一つ。
地下各所の反応が消えていく。
共鳴音が弱くなる。
円環の回転もゆっくりと止まった。
そして。
静寂。
ミレイユの身体から力が抜ける。
アロイスが抱き止めた。
「ミレイユ!」
必死な声だった。
薄く目を開ける。
ぼやけた視界の中に、アロイスがいる。
ちゃんと戻ってきた。
ミレイユは小さく笑う。
「……ただいまです」
アロイスの表情が、僅かに崩れた。
「……ああ」
それだけだった。
クロウレイがその場で大きく息を吐く。
「……ほんと、寿命縮む」
ライナーも床へ座り込んだ。
「死ぬかと思った……」
「俺ももう帰りたい……」
シルヴァンまで壁にもたれる。
エドガーは記録術式を確認していた。
しばらくして、顔を上げる。
「中枢反応、低下しています」
全員が彼を見る。
「精神波も、ほぼ検出されません」
クロウレイが尋ねた。
「止まった?」
「少なくとも、現在確認できる活動反応はありません」
断定はしない。
だが。
先ほどまで地下全体を満たしていた声は、もう聞こえなかった。
ミレイユは目を閉じる。
終わったのか。
眠っただけなのか。
それは、まだ分からない。
ただ今は。
静かな地下で、アロイスの腕の温かさだけが、確かにそこにあった。




