第22話:深層
帝都地下旧層。
一行はさらに深く、これまで立ち入ったことのない封鎖区域へ進んでいた。
冷たい石壁を黒い導線が縦横に走り、淡い光を脈打たせている。
低い共鳴音も絶えない。
以前とは明らかに違う。
地下旧層全体が、一つの巨大な機構として動き始めているようだった。
ミレイユは小さく息を呑む。
近い。
“真なるもの”が。
『おいで』
優しい声が、頭の奥へ触れる。
怖いほどに優しい。
隣にはアロイスがいた。
何も言わない。
ただ、いつでも手が届く距離を保っている。
それだけで、呼吸が少し楽になった。
クロウレイが周囲を確認する。
「かなり危険域だねぇ」
ヴァルターも導線へ目を向けた。
「ここから先は、干渉がさらに強まる可能性がありますねぇ」
「毎回、危険って言ってんな」
ライナーが嫌そうに顔をしかめる。
「実際に危険なので」
エドガーが淡々と返した。
「もうちょっと安心する言葉ない?」
シルヴァンが尋ねたが、誰も答えなかった。
どうやら、ないらしい。
奥へ進むにつれ、壁を覆う導線は増えていった。
やがて、低い共鳴音に別のものが混じり始める。
笑い声。
泣き声。
誰かの囁き。
「……これ、嫌だなぁ」
シルヴァンが顔をしかめる。
「気味悪ぃ」
ライナーも周囲を見回した。
だが、ミレイユにはもっとはっきり聞こえていた。
寂しい。
苦しい。
助けて。
一緒に。
繋がって。
無数の声と感情が重なっている。
本当に古代の人々の記憶なのか、それとも装置が見せているものなのか。
それすら分からなかった。
やがて、一行の前に巨大な扉が現れた。
以前、遠くから確認した最深部の封鎖扉。
黒い扉の中央には巨大な円形紋様が刻まれ、そこへ無数の導線が集まっている。
ヴァルターが目を細めた。
「……ここですか」
ミレイユの鼓動が速くなる。
扉の向こう。
そこから声がする。
『来て』
思わず足が動きそうになった。
肩へ手が置かれる。
「離れるな」
アロイスだった。
「……はい」
ミレイユは小さく頷く。
エドガーは扉へ近づきすぎない位置で足を止め、記録術式を展開した。
「封印構造を確認します」
古代文字と導線の配置を、一つずつ読み取っていく。
「神聖国地下遺構で確認された構造と共通点があります。ただ、こちらの方が遥かに複雑です」
「開けられますか?」
ヴァルターが尋ねる。
「現在の封印は、古代のものだけではありません。後世に追加された封印が複数重なっています」
つまり。
ここを隠した人々は、一つの時代だけではない。
何世代にもわたって、誰かがこの場所を閉ざし続けてきた。
クロウレイがミレイユを見る。
「まだ平気?」
「はい」
声は聞こえる。だが、自分が誰なのかは分かる。
クロウレイはその様子を確かめてから、アロイスへ視線を向けた。
アロイスが短く頷く。
「開けろ」
解除は慎重に行われた。
古代の封印構造を傷つけないよう、後世に追加された術式だけを一つずつ停止させていく。
最後の封印が消えた時。
重い振動音とともに、巨大な扉がゆっくりと開いた。
その向こうは、広大な空間だった。
天井は高く、奥までは見通せない。
壁も床も白灰色の未知の素材で造られ、その全体を黒い導線が覆っている。
そして中央。
巨大な円環状の構造物があった。
幾重もの輪が重なり、その中心だけが暗い。
「……これが」
エドガーが息を呑む。
誰も続きを言わなかった。
中枢なのか。
“真なるもの”そのものなのか。
まだ分からない。
その瞬間。
円環が光った。
「ミレイユ!」
クロウレイの声。
白い光が視界を埋め尽くした。
気づいた時、ミレイユは白い世界に立っていた。
床も空もない。
上下すら分からない。
果てのない白だけが広がっている。
「……何だ、ここ」
ライナーの声がした。
振り返る。
アロイス。
クロウレイ。
シルヴァン。
エドガー。
ヴァルター。
ライナー。
全員いる。
「精神干渉か」
アロイスが周囲を警戒する。
「たぶんね」
クロウレイの表情は険しい。
「全員まとめて巻き込まれたみたいだ」
現実の身体がどうなっているのか。
ここが同じ幻覚を共有しているだけなのか。
それすら今は分からない。
やがて、遠くに人影が現れた。
白い衣。
長い髪。
男とも女ともつかず、年齢すら分からない。
輪郭そのものが僅かに揺らいでいる。
ただ、その表情だけは穏やかだった。
『ようやく来てくれた』
声が直接、頭へ響いた。
シルヴァンが青ざめる。
「……喋った」
「見りゃ分かる」
ライナーは剣へ手を伸ばしかけ、止めた。
ここで剣が意味を持つのかすら分からない。
人影は、まっすぐミレイユを見ていた。
『ずっと待っていた』
ミレイユの呼吸が揺れる。
『君は、繋がれる』
そして。
『寂しかったでしょう』
暗い部屋。
冷たい床。
母の死。
焼かれた肖像画。
誰も来なかった夜。
突然流れ込んできた自分自身の記憶に、ミレイユは胸を押さえた。
「ミレイユ!」
アロイスが腕を掴む。
その感触だけは、ここでもはっきりしていた。
『孤独は苦しい』
人影が告げる。
『人は、分かり合えない』
『だから争う』
『傷つける』
『一人で苦しむ』
憎しみも怒りも感じられない。
ただ、それを悲しんでいるように聞こえた。
『だから、繋げた』
白い空間に、無数の光が浮かぶ。
一つ一つの光の中に、人がいた。
泣く者。
笑う者。
怯える者。
怒る者。
それらの感情が流れ、混ざり、やがて境界を失っていく。
『悲しみを分け合えば、苦しみは薄れる』
『恐怖を分け合えば、一人で怯えなくていい』
『孤独がなくなれば、誰も一人ではない』
ミレイユは何も言えなかった。
分かってしまう。
孤独は苦しい。
誰にも理解されないことも。
助けを求めても誰も来ないことも。
だから、この言葉が優しく聞こえてしまう。
クロウレイが人影を見つめた。
「でも、うまくいかなかった」
人影が初めてミレイユ以外を見る。
「さっき、記録を読んできたよ」
クロウレイは続ける。
「止めようとしても止まらなくなった。そう書いてあった」
長い沈黙のあと。
『……失敗した』
人影は否定しなかった。
『急ぎすぎた』
『人は、耐えられなかった』
ライナーが眉を寄せる。
「じゃあ、またやる気かよ」
『今度は違う』
すぐに答えが返った。
そして、再びミレイユを見る。
『君がいる』
ミレイユの背筋が冷える。
『君は深く繋がれる』
『多くの声を聞いても、自分でいられる』
『君なら、最後まで繋がっていられる』
暖かな感情が流れ込んでくる。
苦しくない。
怖くない。
全部分かってもらえる。
隠さなくていい。
頑張らなくていい。
『もう、一人にならなくていい』
ミレイユの瞳が揺れた。
「見るな」
アロイスの声。
掴まれた腕へ力が加わる。
「俺を見ろ」
ミレイユは顔を向けた。
「……アロイス様」
「勝手に救われるな」
その言葉に、人影が首を傾げる。
『救いたいだけだ』
「違う」
アロイスは即座に返した。
「全部同じにしたいだけだ」
白い空間が僅かに揺れる。
『孤独は苦しい』
「そうだな」
アロイスは否定しなかった。
「それでも、個は別だ」
ミレイユの胸が震えた。
別のまま、隣にいる。
全部を分かり合えなくても。
同じものにならなくても。
クロウレイと暮らした小さな家。
暖かな食卓。
熱を出した夜、額へ触れてくれた手。
王国で出会った人々。
帝国で出会った人々。
そして、今も自分の腕を掴んでいる手。
誰も、ミレイユと同じではない。
だからこそ。
ミレイユは自分からアロイスの手を握った。
「……私は」
声が震える。
「一人は、嫌です」
人影がミレイユを見る。
「でも、一つにはなりたくありません」
『なぜ』
「……大切だからです」
ミレイユは涙を拭わなかった。
「大切な人と、同じになりたいわけじゃありません」
以前、あの暗い場所で伝えた言葉。
今度は、はっきりと声にする。
「違うままで……一緒にいたいんです」
白い世界が静まり返った。
人影は長い間、何も言わなかった。
『……理解できない』
その声は、ひどく寂しそうに聞こえた。
『なぜ、一つにならない』
ミレイユはその表情を見つめた。
胸の奥へ、深い孤独が流れ込んでくる。
以前、氷山遺跡で感じたものとよく似ていた。
これが“真なるもの”自身の感情なのか。
取り込まれた誰かのものなのか。
あるいは、そう感じさせられているだけなのか。
分からない。
それでもミレイユには、この存在もまた、ずっと誰かを求めているように思えた。
「……あなたも」
言葉が零れる。
「一人なのですか?」
初めて。
人影の表情が揺れた。
答えはなかった。
代わりに、白い空間全体が大きく脈動した。
轟音。
無数の光が乱れ始める。
「まずい!」
クロウレイが叫ぶ。
「接続が不安定になっています!」
エドガーの声が響いた。
白い世界に亀裂が走る。
それでも人影は、ミレイユだけを見ていた。
『でも』
優しい声が響く。
『私は、まだ諦められない』
白い世界が大きく崩れ始めた。




