第21話:最後の記録
帝都の空は、朝から重く垂れ込めていた。
鉛色の雲が空を覆い、冷たい風が街路を吹き抜けている。
一行が再び皇宮地下旧層へ足を踏み入れたのは、そんな日のことだった。
以前の調査以降、入口の警備と封印はさらに強化されている。
重厚な扉には新たな術式が幾重にも重ねられ、その向こうからは低い共鳴音が途切れることなく響いていた。
前回より強い。
地下旧層の活動が、以前より活発になっていることだけは間違いなかった。
扉の前で、ミレイユが小さく息を呑む。
『おいで』
頭の奥へ届く声。
以前より、はっきりしている。
「……またか」
隣にいたアロイスがすぐに気づいた。
ミレイユが頷くと、彼は何も言わず肩へ手を置く。
触れられた場所へ意識を向けた。
冷たい地下の空気。
足元の硬い床。
隣にいるアロイス。
ミレイユはゆっくり息を吐いた。
「行こうか」
クロウレイの声を合図に、封印扉が開かれた。
今回の目的は、地下旧層に残された記録の調査だった。
各地の装置が同じ仕組みの一部である可能性。
氷山遺跡で発見された“中枢への逆流”という記述。
そして、帝都地下に存在すると考えられている中枢機構。
それらを繋ぐ証拠を探す。
先頭を進むエドガーは、壁面へ残された古代文字を一定の距離から読み取っていた。
「……記録群ですね」
「読めますか?」
ヴァルターが尋ねる。
「部分的には。欠損が多いですが、これまで確認された古代文字と同系統です」
残された文字には、“統合”“共有”“感情接続”といった語が繰り返し現れていた。
「順調に嫌な単語しか出てこないなぁ」
シルヴァンが顔をしかめる。
「一個くらい明るいのねぇのかよ」
ライナーもげんなりしている。
「“幸福”などはあるかもしれませんね」
エドガーが淡々と答えた。
「この遺跡で出てくる幸福、絶対ろくな意味じゃねぇだろ」
「それは同意します」
一行はさらに奥へ進んだ。
壁を走る黒い導線には淡い光が宿り、低い共鳴音が絶え間なく続いている。
それに呼応するように、ミレイユの頭へ感情が流れ込んできた。
寂しい。
苦しい。
分かり合えない。
争いたくない。
誰も傷つけたくない。
自分の感情ではない。
それでも胸の内側へ直接流し込まれる感覚に、足元が僅かに揺れた。
「ミレイユ」
アロイスがすぐ腕を取る。
「……大丈夫です」
「大丈夫じゃないねぇ」
クロウレイが顔色を確認する。
ミレイユは反論しなかった。
ここでは、“真なるもの”が近い。
氷山遺跡では、遠い場所へ道が繋がったように感じた。
だが今は、その遠かった場所へ自分自身が近づいている。
「……ここです」
ミレイユが呟く。
「採掘場遺跡で繋がった先……たぶん、こちらです」
「方向は?」
クロウレイが尋ねる。
ミレイユは足元へ視線を落とした。
「もっと、下です」
「それ以上は追わなくていい」
すぐに止められる。
「はい」
ミレイユは素直に意識を戻した。
その先で、ヴァルターが足を止めた。
広い壁一面に、無数の古代文字と図形が刻まれている。
中央には一つの大きな円。
そこから無数の線が伸び、複数の小さな円へ繋がっていた。
「これは……」
エドガーの表情が変わる。
記録術式を展開し、読める文字を拾っていく。
「“精神統合”」
少し離れた場所に、
「“中枢”」
さらに、
「“連なるもの”」
ヴァルターが壁面の図を見上げた。
「中央に一つ、その周囲に複数の接続先」
「装置群網の構造を示している可能性があります」
エドガーが答える。
別の箇所には、目的と思われる記述が残されていた。
孤独の軽減。
感情共有による相互理解。
恐怖と悲嘆の分散。
争いの抑制。
シルヴァンから表情が消える。
「……本当に、人を助けるためだったのかな」
「そう読める記録ではあります」
エドガーは慎重に答えた。
「ただし、誰が、どの時期に記したものかは分かりません」
「理念を書いただけかもしれないし、後から美化した記録かもしれない」
クロウレイも壁面を見つめる。
その時、ミレイユの頭へ声が届いた。
『争わなくていいように』
続いて、
『悲しくないように』
『一人にならないように』
壁に残された言葉と、声の内容が重なる。
「……同じです」
ミレイユが呟く。
「何が?」
アロイスが尋ねる。
「ここに書いてあることと、“真なるもの”が言っていることが」
孤独をなくしたい。
悲しまなくていいようにしたい。
争わなくていいようにしたい。
ずっと、同じことを繰り返している。
エドガーは中央から伸びる線の周囲にも、複数の記述があることに気づいた。
疲労。
鎮静。
恐怖。
同調。
労働。
断片的な語ばかりで、それぞれがどの接続先を指すのかまでは判別できない。
だが、一行には思い当たるものがあった。
王国と帝国の国境付近で発見された装置では、誘眠と感情の平板化が確認されている。
北方国の氷山遺跡では、かつての採掘作業と結びついた労働統制型であった可能性が指摘されていた。
ほかの遺跡でも、それぞれ異なる精神作用が確認されている。
「各地の装置が、別々の役割を担っていた?」
シルヴァンが尋ねる。
「可能性は高くなりました」
エドガーが頷く。
「そして、この図が装置群網を示しているのであれば――」
視線が中央の大きな円へ移る。
「それらは、一つの中枢へ接続されていたことになります」
ライナーが低く呟いた。
「……全部、繋がってたのか」
少なくとも、そう考えればこれまでの現象には説明がつく。
ミレイユは中央の円を見つめる。
帝都地下。
各地から伸びる線。
そして、“真なるもの”。
これまで断片だったものが、ようやく一つの形を取り始めていた。
さらに進むと、壁面の記録が変わった。
整然としていた文字が途中から乱れ、刻まれた深さも間隔も不揃いになっている。
「後から追加された記録のようです」
エドガーが読み取れる部分を拾った。
「“統合率上昇”」
「“個体境界……”」
その先は欠けている。
「“感情連鎖”」
そして、
「“停止命令、応答なし”」
クロウレイの目が細くなる。
さらに下には、“中枢制御”という文字と、その先に残された“不能”の一語。
「……制御できなくなったってことか?」
ライナーが尋ねる。
「その可能性があります」
エドガーは頷いた。
「少なくとも、何らかの異常が発生し、停止させられない状態になった記録には見えます」
「古代帝国の滅亡と関係があると思うか」
アロイスが問う。
「可能性はあります。ただ、これだけで崩壊の原因だったとは断定できません」
「そこはまだ保留だねぇ」
クロウレイも同意する。
「分かるのは、古代帝国の末期にこの仕組みで何かが起きて、制御できなくなったらしいってことまで」
それでも十分に重い事実だった。
「……まだあります」
エドガーが奥を見る。
そこだけ、文字の刻み方がさらに荒れていた。
深く、乱れた文字。
まるで、何かに追われながら残したようにも見える。
「“目覚めさせてはならない”」
誰も動かなかった。
「“既に……”」
途中は失われている。
その下。
「“人の手を離れた”」
さらに、
「“繋がる者……戻らず”」
ミレイユの指が震えた。
精神干渉への適性。
声を聞く者。
深く接続できる者。
どうしても、自分と重ねずにはいられない。
「“残された我らには、声が届かない”」
エドガーの声が地下へ響く。
「“封じる術なし”」
「“壊す術なし”」
そして最後。
「“だから、隠す”」
その下に、もう一文。
「“二度と、誰にも届かぬように”」
静寂が落ちた。
「……止められなかったから、隠したのか」
ライナーが壁を見上げる。
「そうだった可能性は高いでしょう」
エドガーが答える。
シルヴァンが小さく息を吐いた。
「最後まで、どうにかしようとはしたんだな」
何が起きたのか。
全ては分からない。
それでも、この記録を残した誰かは、自分たちの後に生きる人間へ同じものを渡したくなかった。
その意思だけは、長い年月を越えて残っていた。
どくん。
突然、壁の奥を走る導線が大きく脈動した。
地下全体が低く震える。
「ミレイユ!」
大量の感情が一気に流れ込んできた。
寂しい。
怖い。
苦しい。
分かってほしい。
一人にしないで。
ミレイユは胸を押さえた。
『どうして拒むの』
優しい声。
『全部、一つになれば』
『苦しまないのに』
「ミレイユ」
アロイスの手が肩を掴む。
「こっちを見ろ」
ミレイユは顔を上げた。
黒い瞳へ意識を合わせる。
「飲まれるな」
「……はい」
震えながらも答える。
クロウレイもすぐそばへ来た。
「追わなくていい。今いる場所だけ考えて」
冷たい空気。
硬い床。
アロイスの手。
クロウレイの声。
一つずつ確かめるうちに、自分と流れ込んでくる感情との境目が戻ってくる。
その時だった。
黒い導線が一斉に光った。
壁から床へ。
床から、さらに地下深くへ。
蒼白い光が走る。
ミレイユの表情が強張った。
「……来ます」
「何が?」
クロウレイが尋ねる。
答えるより早く、声が届いた。
『ミレイユ』
呼吸が止まる。
「……っ」
アロイスが身体を支えた。
クロウレイの表情が変わる。
「今、何て言われた?」
ミレイユは震える唇を動かした。
「……名前を」
地下の奥から、巨大な共鳴音が響いた。
ゴォン――。
そして、もう一度。
『ミレイユ』
優しい声だった。
何百年も待っていた相手へ呼びかけるような。
ミレイユの背筋に冷たいものが走った。
氷山遺跡で、“何か”は自分を見つけた。
そして今。
それは初めて、自分の名前を呼んだ。
ヴァルターの笑みが消える。
「……これは、まずいですねぇ」
「ミレイユ」
クロウレイが正面から彼女を見る。
「まだ歩ける?」
「……はい」
「声と、自分の考えは分けられる?」
ミレイユは目を閉じた。
頭の奥では、まだ声が響いている。
『おいで』
『ミレイユ』
それでも。
「分かります」
自分の声で答えた。
「まだ、大丈夫です」
クロウレイはしばらくミレイユを見つめていた。
やがて、小さく息を吐く。
「分かった」
アロイスが眉を寄せた。
「進むのか」
「ここで引き返しても、向こうはもうミレイユを認識してる」
クロウレイは奥へ続く通路を見る。
「それに、僕たちはまだ中枢そのものを確認してない」
壁に残された記録。
各地へ伸びる導線。
“中枢”という文字。
そして、さらに地下から届く声。
ここまで来て初めて、断片だった情報が同じ場所を指し始めている。
「ただし」
クロウレイの声が低くなる。
「次にミレイユの意識が大きく持っていかれたら、そこで終わり」
誰も異論を挟まなかった。
「記録より、調査より、ミレイユを優先する。それでいいね?」
「当然だ」
アロイスが答える。
エドガーも頷いた。
「異常が確認された場合、即時退避します」
「じゃあ、行こう」
クロウレイが先へ視線を向ける。
その先には、さらに地下へ続く階段があった。
これまでとは違う。
壁面を走っていた黒い導線が、すべて同じ方向へ伸びている。
下へ。
より深く。
まるで、一行を案内するかのように。
ミレイユはその光を見つめた。
『ミレイユ』
また呼ばれる。
今度は答えなかった。
代わりに、隣にいるアロイスを見上げる。
視線が合った。
「行けるか」
「はい」
短く答える。
そして一行は、さらに深層へ向かって歩き始めた。
帝都の地下。
何百年ものあいだ封じられてきた場所へ。
“真なるもの”へと続く、その先へ。




