第20話:石板のゆくえ
『封印条約』の基本合意から、およそ一刻後。
各国代表は皇宮を去らず、そのまま中央棟の奥に設けられた封印保管室へ場所を移していた。
先ほど合意されたのは、あくまで共同管理という大枠である。
問題は、その先だった。
石板をどのように封じるのか。
誰が管理し、誰が監視するのか。
異常が発生した際、どこまで他国の介入を認めるのか。
それを決めなければ、条約は理念を掲げただけの紙に過ぎない。
重厚な石造りの部屋の中央には、一つの封印箱が置かれていた。
黒鉄製の箱には幾重もの封印術式が刻まれ、近づくだけで張り詰めた魔力が肌を刺す。
中に収められているのは、帝国が保管してきた石板だった。
一方、王国で保管されている石板はここにはない。
砂漠遺跡と対応していた、単体への精神干渉能力を持つ石板。
国家級危険物を国外へ持ち出すこと自体が、新たな危険を生む。
その判断から、王国で厳重な封印管理が続けられていた。
北方国代表がレオニードへ視線を向ける。
「王国の石板は、今後も国内で保管するつもりか」
「その予定です」
レオニードは淡々と答えた。
「不要な移送は、それ自体が危険です」
「しかし、それでは各国で管理条件が異なることになる」
帝国側の貴族が口を挟む。
「共同管理を掲げながら、実物は各国が手元へ置いたままというのでは、意味が薄いのではないか」
今度は、アンネリーゼはすぐには反論しなかった。
資料へ視線を落とし、問い返す。
「では、確認させていただきます」
穏やかな声音だった。
「皆様が懸念なさっているのは、石板が各国に分散していることですか?」
帝国側の貴族が僅かに眉を寄せる。
「それもある」
「それとも、自国の知らないところで石板が使用されることでしょうか」
今度は誰もすぐには答えなかった。
北方国代表が腕を組む。
「……後者だな」
神聖国代表も頷いた。
「保管場所そのものより、何をされているか分からないことの方が問題だ」
「でしたら、議論すべきは保管場所の統一ではございません」
アンネリーゼは微笑んだ。
「管理基準の統一です」
机上の資料へ指先を添える。
「保管場所は各国の責任下に置く」
「ただし、封印方式、監査基準、使用記録、異常発生時の報告義務については共通規定を設ける」
「さらに他国による査察を受け入れる」
北方国代表が目を細めた。
「つまり、石板を集めるのではなく、管理方法を揃えると」
「ええ」
アンネリーゼは頷く。
「危険物を一か所へ集めれば公平になる、というものでもございませんでしょう?」
柔らかな笑みのまま続ける。
「むしろ、全てを同時に奪われる場所を作ることになりますわ」
室内が静まった。
シルヴァンが小声で呟く。
「……そっちの方が怖いね」
「ええ」
エドガーも真顔で頷いた。
「襲撃する側からすれば、非常に親切な保管方法です」
「言い方」
ライナーが顔をしかめる。
クロウレイは小さく笑った。
「今回は論破する前に、議題そのものを変えちゃったねぇ」
「聞こえておりますわよ」
アンネリーゼの声が飛んできた。
クロウレイはにこやかに黙った。
王国一の魔術師、撤退が早かった。
やがてヴァルターが封印箱の前へ進む。
「では、実物をご覧いただきましょう」
封印術式が順番に解除されていく。
低い金属音とともに、黒鉄の蓋がゆっくり開いた。
その瞬間、ミレイユは僅かに肩を震わせた。
冷たい。
魔力そのものとは違う、不快な感覚が肌を撫でる。
箱の中には、一枚の黒い石板が横たわっていた。
鈍い光沢を帯びた表面。
一見すれば、ただの古びた石板にも見える。
だが、その内部には微かな魔力反応が残っていた。
『――』
ノイズ。
声とも呼べないほど小さな何かが、頭の奥を掠める。
ミレイユは息を止めた。
遠い。
けれど、繋がっている。
石板そのものが話しているわけではない。
その向こう側にある何かへ、細い糸が続いているような感覚だった。
「……ミレイユ」
後方からアロイスの声が届く。
ミレイユは視線を伏せたまま、小さく頷いた。
聞こえている。
アロイスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、すぐ動ける距離から離れない。
石板を前に、しばらく誰も口を開かなかった。
やがてエドガーが前へ出る。
もちろん、封印箱から十分な距離を取ったままだ。
「王国で確認されている石板と同様、こちらにも精神へ干渉する機能が存在します」
北方国代表が尋ねる。
「石板だけでも使用できるのか」
「確認されている範囲では」
答えたのはヴァルターだった。
「対応する遺跡装置から切り離された状態でも、精神干渉を発生させることは可能です」
「規模は?」
「条件によって変動します。適合者の有無、使用者、周囲の魔力環境――不明な点も多い」
ヴァルターは石板へ視線を落とす。
「少なくとも、安全に扱える代物ではありませんねぇ」
神聖国代表が低く呟いた。
「兵器として利用される可能性は」
誰も即答しなかった。
やがてエドガーが口を開く。
「否定できません」
それだけで十分だった。
石板は、装置を制御していた可能性のある遺物である。
同時に、それ自体が人間の精神へ干渉する力を持つ。
どこまで大規模な運用が可能なのか。
どの程度まで制御できるのか。
まだ分からない。
だからこそ危険だった。
ミレイユは黒い石板を見つめる。
かつて受けた精神干渉の感覚が、頭の奥を掠めた。
自分の意志とは関係なく流れ込んでくるもの。
もし、それを意図的に人へ向ける者が現れたら。
考えるだけで、胸が重くなった。
「管理案を再確認します」
レオニードが新たな資料を卓上へ置いた。
「各国が現在保有する石板については、原則として現所在地から移動させない」
「封印基準は統一」
「石板を用いた単独での実験および運用は禁止」
「適性者を接触させた場合、その目的と結果を記録する」
「定期監査を実施し、異常が確認された場合は速やかに共有する」
「必要に応じ、他国の立会人を受け入れる」
シルヴァンが資料を覗き込む。
「……厳しいなぁ」
「当然です」
エドガーは即答した。
「何が起こるか分からない物を管理するのですから、厳しすぎるくらいでちょうどいいでしょう」
北方国代表は資料を読みながら、低く尋ねた。
「問題は、これで全てなのかということだ」
視線が上がる。
「まだ発見されていない石板は?」
誰も答えない。
「帝都地下には?」
今度は帝国側へ。
「神聖国で破壊されたという石板は、本当に機能を完全に失っているのか?」
神聖国代表の表情が険しくなる。
疑念は残る。
条約が成立したからといって、国家同士が突然信頼し合えるわけではない。
レオニードは静かに答えた。
「未発見のものについては、存在しないと証明すること自体が不可能です」
「だから発見した場合の報告義務を条項へ加えます」
「隠した場合は?」
北方国代表が問う。
「条約違反です」
「証明できるのか」
「そのための相互査察です」
淡々とした応酬だった。
信用するから制度を作るのではない。
信用できないから、制度が必要なのだ。
ミレイユは僅かに眉を寄せた。
警戒。
猜疑。
恐れ。
そして、微かな欲。
周囲から流れ込んでくる感情が、断片となって頭の奥へ触れる。
――他国に渡したくない。
――先に知っておきたい。
――もし使えるのなら。
そこまで感じたところで、ミレイユは意識を切り替えた。
追わない。
誰の感情なのか確かめようとしない。
クロウレイから何度も言われている。
流れ込んできても、追いかけてはいけない。
「……大丈夫か」
アロイスの声が聞こえた。
「はい」
今度はすぐに答えられた。
その声を聞くだけで、自分の意識がはっきりする。
周囲の感情は消えない。
それでも、必要以上に引きずられることはなかった。
やがて第二皇子が、封印箱の中の石板へ目を向けた。
「……魅力的な力ではあるよね」
室内が静かになる。
「少人数で多数の人間へ干渉できる可能性がある」
「使い方次第では、戦争の形そのものを変えるかもしれない」
誰も否定しなかった。
第二皇子は石板を見つめたまま続ける。
「便利なものほど、人間は手放せない」
そこで、僅かに笑った。
「古代帝国もそうだったのかな」
クロウレイが腕を組む。
「そこは分からないねぇ」
「記録が足りない?」
「うん」
クロウレイは石板を見る。
「最初は善意だったのかもしれない。最初から別の目的があったのかもしれない」
「ただ、結果だけは残ってる」
人間の精神へ干渉する装置。
個人の境界を曖昧にする仕組み。
そして、大陸各地に残された遺構。
アンネリーゼが静かに口を開く。
「ですから、私たちは結果から判断するしかございません」
各国代表へ視線を巡らせる。
「理解できていない力を、理解したつもりで利用しない」
「利用価値があるからこそ、勝手に触れない」
「それを各国共通の原則といたしましょう」
北方国代表が長く息を吐いた。
「……厄介なものを残してくれたものだ」
「ええ」
アンネリーゼは穏やかに微笑んだ。
「ですが、厄介だと判断できるうちは、まだ救いがございますわ」
北方国代表が怪訝そうに彼女を見る。
アンネリーゼは石板へ視線を向けた。
「これを素晴らしいものだと、誰も疑わなくなった時の方が恐ろしいでしょう?」
返事はなかった。
必要もなかった。
『どうして……拒むの』
ミレイユの呼吸が止まる。
声。
石板の向こうからではない。
もっと遠い。
帝都の地下深くから、細い糸を伝って届いたような感覚だった。
『苦しくないのに』
責める声ではない。
怒ってもいない。
本当に分からないのだ。
なぜ拒むのか。
「……ミレイユ」
アロイスが小さく呼ぶ。
ミレイユは頷いた。
「聞こえました」
今度は隠さなかった。
クロウレイがすぐにこちらを見る。
「何て?」
「……どうして拒むの、って」
室内の視線がミレイユへ集まる。
その直後、ヴァルターが封印箱を閉じた。
重い金属音が響き、封印術式が順番に戻されていく。
だが。
声は消えなかった。
『どうして』
ミレイユは胸元を押さえる。
石板を閉じても聞こえる。
それなら。
やはり、声の主はここにはいない。
会合が終わると、各国代表は表向きには穏やかな態度で席を立った。
握手を交わす。
協力を約束する。
丁寧な外交辞令が飛び交う。
だが、それで疑念まで消えるわけではない。
廊下では各国の護衛が互いを観察し、使節たちは自国へ持ち帰る情報を整理している。
条約はできた。
しかし、それは信頼の証ではなかった。
信頼できない者同士が、それでも同じ危険へ対処するために作った仕組みだった。
*
その夜。
皇宮上層、第二皇子の私室。
静かな部屋に、紙をめくる音だけが響いていた。
机の上には、母方の家系に伝わっていた古い記録が広げられている。
《真なるもの》。
《石板》。
《精神統合》。
第二皇子は古びた文字をしばらく眺めたあと、本を閉じた。
窓の向こうには、帝都の灯が広がっている。
その遥か下。
今も何かが眠っているかもしれない。
あるいは、既に目を覚ましかけているのかもしれない。
「……結局」
第二皇子は小さく笑った。
「人は、誰かと繋がっていたい生き物なんだろうね」
だからこそ。
繋がることと、一つになることの境目はどこにあるのか。
第二皇子は答えを出さないまま、夜の帝都を見下ろしていた。




