第19話:封印条約
北方国から帰還した一行を待っていたのは、静かな混乱だった。
表向き、帝都は何一つ変わっていない。
貴族たちは夜会へ集い、官僚たちは山積みの書類に追われ、市場では商人たちがいつも通り声を張り上げている。
誰の目にも、平穏な帝都だった。
だが、その水面下では、大陸の勢力図そのものが音もなく動き始めていた。
北方国で確認された採掘場遺跡の再活性化。
神聖国で明らかになった精神干渉装置。
各地の遺跡で相次ぐ異常反応。
そして、それらの中枢に存在する可能性が高い“真なるもの”。
帝国は、これ以上調査結果を自国内だけに留めることは危険だと判断した。
各国上層部への情報開示が始まった瞬間から、状況は一変した。
戦争ではない。
だが、決して平和とも言えなかった。
古代遺跡に残された装置と、それを制御していたと考えられる石板。
扱い方を誤れば、一国どころか大陸全体を揺るがしかねない。
だからこそ誰もが恐れた。
同時に、その力を他国だけに委ねることも望まなかった。
皇宮中央棟。
最上階に設けられた極秘会議室には、この日、大陸各国の代表者が集められていた。
帝国。
王国。
北方国。
そして、神聖国の暫定統治機構を代表する使節団。
これほどの顔ぶれが一堂に会すること自体、ほとんど前例がない。
それだけ事態は深刻だった。
だが、会議室へ足を踏み入れた者たちは、ほどなく別の意味でも緊張することになる。
盤面は、会議が始まる前から整えられていた。
中心にいるのは、アンネリーゼだった。
会議に相応しい落ち着いたドレスを纏い、柔らかな微笑を浮かべる姿だけを見れば、優雅な侯爵令嬢にしか見えない。
しかし、誰をどこへ座らせるのか。
誰と誰を向かい合わせるのか。
誰の視界に誰を入れるのか。
そのすべてに意図があった。
北方国代表の正面には、帝国内でも強硬な意見を持つ者たち。
神聖国代表は第二皇子に近い位置へ置かれ、王国のレオニードには会議室全体を見渡せる席が与えられている。
そしてミレイユは、アンネリーゼ自身からさほど離れていない位置だった。
必要以上に注目を集めさせず、それでも発言が必要になれば全員の視界に入る。
絶妙な配置だった。
それを見渡したシルヴァンが、小声で呟く。
「……席順だけで戦争してません?」
「してるねぇ」
クロウレイが苦笑する。
「政治って怖い」
ライナーも顔をしかめた。
「俺、この別嬪だけは敵に回したくねぇ……」
「全面的に同意します」
エドガーまで真顔で頷いた。
「何か?」
穏やかな声が飛んできた。
四人の姿勢が揃って正される。
いつの間にか、アンネリーゼがこちらを見ていた。
笑っている。
全部聞こえていたらしい。
「……いえ」
「何でもありません」
見事な即答だった。
アンネリーゼは満足そうに微笑むと、そのまま前へ向き直った。
やがて重厚な扉が閉ざされる。
会議が始まった。
最初に口を開いたのは、北方国代表だった。
「……つまり」
低い声が室内を渡る。
「その“真なるもの”とやらは、現在も活動を続けている可能性がある、と」
ヴァルターが頷いた。
「ええ」
いつもの落ち着いた口調だった。
「少なくとも、完全な停止は確認できておりません」
「帝都地下旧層との関連も?」
神聖国代表が問いかける。
「非常に高いと見ています」
答えたのはエドガーだった。
「ただし、現時点では“真なるもの”そのものを直接確認したわけではありません。帝都地下に中枢が存在する可能性が高い、という段階です」
北方国代表の眉間に深い皺が寄る。
「それほどの情報を、なぜ今まで共有しなかった」
鋭い声だった。
ヴァルターは表情を変えない。
「確認の取れていない情報だったためです」
「建前だな」
「そう受け取られても仕方ありません」
あっさり認める。
「ですが、不確定な情報を大陸中へ流し、各国が独自に遺跡へ手を出す事態も避ける必要がありました」
北方国代表は黙った。
納得したわけではない。
だが、一理あることも否定できない。
ヴァルターは穏やかに続けた。
「そして現在は、共有すべき段階に入ったと判断しております」
「それが帝国の誠意というわけか」
「少なくとも、そのつもりではありますねぇ」
最後の語尾で、少しだけいつもの調子が戻る。
ライナーが小さく呟いた。
「怖ぇな……外交って」
「ええ」
エドガーは資料から目を上げない。
「剣より面倒でしょうね」
「お前まで嫌なこと言うなよ」
「論点を整理いたしましょう」
アンネリーゼの声が会話を断ち切った。
一枚の資料が机上へ広げられる。
それだけで、室内の視線が集まった。
「現在、各国で協議すべき問題は大きく三つございます」
細い指先が資料の上を滑る。
「第一に、“真なるもの”と呼ばれている存在、あるいは中枢機構への対処」
「第二に、各地で確認されている装置群の再活性化」
そして、参加者たちをゆっくり見渡した。
「第三に、石板の管理です」
会議室の緊張が一段強くなった。
誰もが、その言葉の意味を理解していた。
石板は単なる古代遺物ではない。
これまでの調査では、それぞれの装置に対応し、何らかの制御機能を持っていた可能性が高い。
神聖国では、石板を破壊しても装置そのものは停止しなかった。
むしろ制御手段だけが失われた可能性さえある。
つまり石板は、装置を自由に動かすための万能な鍵ではない。
それでも、扱い方次第では装置へ干渉できる数少ない手段だった。
アンネリーゼは資料をめくる。
「現在、存在が確認、あるいは記録上推定されている石板についても、各国で情報を共有する必要がございます」
王国。
帝国。
北方国。
神聖国。
既に失われたもの。
破壊されたもの。
所在そのものが分からないもの。
資料が並ぶにつれ、各国代表の表情は険しくなっていった。
疑念。
警戒。
打算。
誰もが他国を完全には信用していない。
ミレイユは小さく息を吐いた。
最近は、以前ほど強くはないものの、周囲の感情が不意に流れ込んでくることがある。
牽制。
不信。
焦り。
欲。
それらが混ざり合い、胸の奥がざわついた。
そんな中で、後方に控えているアロイスの気配だけは不思議なほど変わらない。
周囲への警戒。
ミレイユの状態への注意。
そこに余計な迷いがない。
それを確認しただけで、頭の中のざわめきが僅かに遠のいた。
アンネリーゼは続ける。
「以上を踏まえ、帝国としては共同管理体制の構築を提案いたします」
北方国代表が腕を組んだ。
「共同管理、か」
「ええ」
アンネリーゼは微笑む。
「一国のみが情報と石板を独占すれば、必ず他国の不信を招きます」
「ならば、最初から互いに監視できる体制を整える方が現実的です」
神聖国代表が口を開く。
「具体的には?」
そこでレオニードが資料を引き寄せた。
「各国への定期報告義務」
「保管状況に対する相互査察」
「遺跡および装置に対する単独での実験禁止」
「石板を用いた未承認の干渉行為の禁止」
「違反が確認された場合の共同調査」
淡々と条項を読み上げていく。
北方国代表が苦々しく言った。
「帝国を信用しろと言うのか」
「いいえ」
レオニードは即座に否定した。
「信用する必要はありません」
室内が静まった。
本人は至って真顔だ。
「帝国も王国を信用しなくて結構です。北方国も神聖国も同様です」
「だからこそ、互いに確認できる制度を作るのです」
理想論ではない。
国家は自国の利益を優先する。
秘密も持つ。
時には約束を破る。
それを前提にした仕組みだった。
クロウレイが苦笑する。
「相変わらず夢がないねぇ、レオニード」
「政治制度に夢を求めないでください」
「そういうとこだよ」
少しだけ空気が緩んだ。
だが、すぐに別の声が上がる。
「ならば、帝国が一括して管理する方が効率的ではないか」
帝国側の貴族の一人だった。
その瞬間、他国の代表者たちが一斉に警戒を露わにする。
北方国。
王国。
神聖国。
アンネリーゼはそれらを見渡し、柔らかく笑った。
「もちろん、各国の皆様が賛同なさるのであれば、その案も検討できます」
北方国代表が即座に言う。
「あり得ん」
神聖国代表も続いた。
「論外だ」
王国側からも賛同する気配はない。
「でしょうね」
アンネリーゼはあっさり頷いた。
「では、一国による一括管理案は現実的ではないということで」
それだけだった。
帝国案を自分で否定することなく、他国自身に否定させた。
ライナーが口元を引きつらせる。
「……強ぇ」
「実に鮮やかですね」
エドガーが感心したように呟く。
シルヴァンはアンネリーゼを見ながら、真顔で言った。
「怒らせたら、気づいた時には人生詰んでそう」
「僕もそう思う」
クロウレイまで頷いた。
少し離れた場所で、アンネリーゼの視線がこちらへ向いた。
四人は黙った。
学習していた。
その後も議論は続いた。
そこで静かに口を開いたのは、第二皇子だった。
「でも、この技術そのものに魅力がないとは言えないよね」
会議室が静まる。
第一皇子の側に座る者たちが僅かに顔をしかめたが、第二皇子は気に留めない。
「感情を共有できれば、争いを減らせるかもしれない」
「悲しみや恐怖を、一人で抱えなくても済む」
穏やかな声だった。
「理論だけを見れば、とても美しい思想だ」
そこで僅かに視線を伏せる。
「だからこそ、危険なんだろうけど」
以前のような面白半分の響きはなかった。
実際に起きている精神干渉。
人間の境界が失われていく危険。
それを知った上での言葉だった。
クロウレイが静かに答える。
「“苦しまなくていい”って言われたら、そっちへ行きたくなる人はいるからねぇ」
「だが、その先に残るのが本人とは限らない」
第一皇子が続けた。
低い声だった。
「利用するという選択肢は取らない」
室内の視線が集まる。
「封じる」
短い言葉だった。
「少なくとも、安全な制御方法と、その影響の全容が判明するまではな」
アンネリーゼが頷く。
「その方針を、共同管理体制の基本原則とするのがよろしいでしょう」
装置を奪い合わない。
勝手に利用しない。
情報を共有する。
互いに監視する。
そして、危険性が解明されるまで封じる。
細部については、まだ多くの交渉が必要だった。
それでも、その日。
大陸の主要国は初めて、古代装置と石板を一国だけの問題として扱わないという原則で一致した。
後に“封印条約”と呼ばれることになる取り決めは、この会議から形を取り始める。
会議が終盤へ差しかかった頃だった。
『まだ終わっていない』
ミレイユが息を呑む。
誰も反応していない。
聞こえたのは、自分だけだ。
「……ミレイユ?」
すぐ後ろからアロイスの声が届く。
ミレイユは振り返らず、小さく答えた。
「また……聞こえました」
アロイスの表情が険しくなる。
「何と」
「……まだ、終わっていない、と」
会議室では、条約案についての協議が続いている。
人々は封じる方法を話している。
監視する仕組みを作ろうとしている。
それでも。
“真なるもの”は消えていない。
帝都の遥か地下。
未だ開かれていない場所の向こうで、何かが存在し続けている。
眠っているのか。
待っているのか。
それすら、まだ分からない。
ただ。
ミレイユには、その声が以前よりもはっきり聞こえていた。
『まだ終わっていない』
胸の奥に、冷たい予感が残った。




