第18話:拒絶
暗い。
冷たい。
深い闇の底へ、ミレイユの意識は沈んでいた。
どこまで落ちても光はない。
足元も、自分の身体さえ見えず、輪郭まで闇へ溶けてしまいそうだった。
ここがどこなのかも分からない。
ただ一つ確かなのは、自分のものではない感情が絶え間なく流れ込んでくることだった。
寂しい。
苦しい。
そして、気が遠くなるほど長い孤独。
『どうして拒むの』
声が響く。
責めてはいない。
怒ってもいない。
本当に分からないのだ。
なぜ拒むのか。
なぜ、一つになることを恐れるのか。
『皆、一つになればいいのに』
『そうすれば、誰も苦しまない』
『誰も泣かなくて済む』
ミレイユは目を閉じた。
その願いを、完全に理解できないわけではなかった。
孤独を知っている。
大切な人を失う痛みも、一人きりで夜を明かす怖さも知っている。
だからこそ分かる。
苦しみがなくなればいいと願う気持ちは。
『君も寂しかったでしょう』
声が近づく。
温かい。
すべてを包み込み、痛みも悲しみも受け止めてくれるような温もりだった。
『もう一人じゃない』
意識が軽くなる。
自分と、それ以外の境目が曖昧になっていく。
このまま委ねれば、楽になれる。
けれど。
「……違います」
ミレイユは小さく呟いた。
『どうして』
「一人じゃないことと……一つになることは、違います」
声が止まった。
ほんの一瞬。
その静寂の中へ、遠くから何かが聞こえた。
「――ミレイユ!」
アロイスの声だった。
遠い。
それでも、はっきり分かる。
「ミレイユ!」
今度はクロウレイ。
二人の声が、闇の向こうから自分を呼んでいる。
ミレイユはそちらへ意識を向けた。
その瞬間、闇に僅かな亀裂が走る。
『行かないで』
声が変わった。
初めて、そこに明確な感情が滲んだ。
寂しさ。
「……ごめんなさい」
ミレイユは静かに答えた。
「でも、私は私でいたいんです」
『どうして』
「大切な人と、同じになりたいわけじゃありません」
一つになる必要なんてない。
違う人間だから、声を聞くことができる。
違う心だから、寄り添うことができる。
自分ではない誰かが差し伸べてくれる手に、救われることができる。
「違うままで……一緒にいたいんです」
闇が大きく揺れた。
『――――』
悲しみとも、困惑ともつかない感情が流れ込んでくる。
それが本当に“真なるもの”の感情なのか、ミレイユには分からない。
ただ、ひどく寂しかった。
「ミレイユ!」
再びアロイスの声が響く。
今度は近い。
ミレイユはそちらへ手を伸ばした。
*
「ミレイユ!」
呼び声と同時に、意識が跳ね上がった。
最初に感じたのは、頬に触れる冷たい手だった。
目を開く。
黒い瞳が、すぐ目の前にある。
「……アロイス、様……」
「俺が分かるか」
ミレイユは何度か瞬きをしてから、小さく頷いた。
「……はい」
その返事を聞いて、アロイスの肩から僅かに力が抜けた。
ミレイユは彼の腕の中にいた。
周囲には氷山遺跡の黒い壁。
蒼白く明滅する導線。
低く響く共鳴音。
そして、そのすぐそばにはクロウレイがいる。
「ミレイユ」
いつになく厳しい声だった。
「僕を見る」
ミレイユは素直に視線を向けた。
「ここは?」
「……北方国の、氷山遺跡です」
「僕は?」
「クロウレイ先生」
「今、誰に支えられてる?」
「……アロイス様です」
「よし」
クロウレイがようやく息を吐いた。
「戻ってる」
その場にいた者たちの緊張が、僅かに緩んだ。
だが、イリーナだけは青ざめた顔でミレイユを見つめていた。
「……今の、何だったんですか」
クロウレイが振り返る。
「何か感じた?」
「はい、でも……」
イリーナは胸元を押さえた。
「この遺跡じゃない」
その言葉に、エドガーが顔を上げる。
「どういう意味です?」
「分かりません。ただ……すごく遠かった」
イリーナは自信なさげに首を振る。
「ミレイユさんがここにいるのに、意識だけが、どこか遠くへ引っ張られていくような……」
ヴァルターの目が細くなった。
「遠く、ですか」
「はい」
クロウレイは壁面に刻まれた術式へ視線を向けた。
先ほど見つけた文字。
――深層接続。
――中枢への逆流。
「……まさか」
エドガーも同じものを見ていた。
「先ほどの術式ですか」
「可能性はあるね」
クロウレイはミレイユの手首を取り、脈を確認する。
「この遺跡の装置を経由して、もっと深いところへ接続しかけたのかもしれない」
シルヴァンが顔をしかめる。
「もっと深いって……この遺跡の地下?」
「違う」
クロウレイは即座に否定した。
「距離の話じゃないよ」
その目が険しくなる。
「装置群網の、もっと中枢に近い場所」
全員が黙った。
思い浮かべた場所は、おそらく同じだった。
帝都地下旧層。
未だ開かれていない巨大な扉。
その向こうに存在する可能性が高い、“真なるもの”。
ヴァルターが静かに口を開く。
「つまり、この氷山遺跡からでも、中枢へ至る経路が存在する可能性がある」
「まだ仮説です」
エドガーがすぐに釘を刺す。
「ですが、先ほど発見した術式と現象が無関係とは考えにくいでしょう」
ミレイユはアロイスに支えられたまま、蒼白く光る導線を見る。
あの闇。
あの声。
あれは、この遺跡の中から聞こえていたのではない。
もっと遠い。
けれど、繋がっていた。
「……帝都」
小さく呟く。
アロイスが視線を落とした。
「何だ」
「たぶん……あの声は、ここからじゃありません」
ミレイユは自分の胸元を押さえた。
「もっと遠くから聞こえていました」
「場所が分かるの?」
クロウレイが尋ねる。
ミレイユは首を横へ振った。
「いいえ。でも……」
脳裏に浮かぶ。
暗い場所。
長い孤独。
そして、何度も自分を呼び続ける声。
「この遺跡は……道なんだと思います」
エドガーが僅かに目を見開いた。
ミレイユは慌てて付け加える。
「そう感じただけです。確かなことは分かりません」
「それでいい」
クロウレイが答える。
「今は、感じたことだけ教えて」
ミレイユは頷いた。
「ここを通って……もっと遠いところと繋がったような気がします」
ヴァルターは壁面の術式へ視線を戻した。
「中枢への逆流……」
今度は誰も、その言葉を軽く受け流さなかった。
もし本当に、この装置から中枢へ接続できるのなら。
それは危険であると同時に、これまで存在しなかった道でもある。
“真なるもの”へ、こちら側から干渉するための道。
だが。
「駄目だよ」
クロウレイが言った。
全員の視線が集まる。
「少なくとも、今は絶対に駄目」
声は穏やかだった。
しかし、有無を言わせない響きがある。
「今の一瞬だけで、ミレイユの意識はほとんど持っていかれた」
ヴァルターが尋ねる。
「接続深度は?」
「測れるような状態じゃない。でも、今までで一番深かった」
クロウレイはミレイユを見る。
「自分で戻ってこられた?」
ミレイユは少し考えた。
「……先生と、アロイス様の声が聞こえました」
「それがなかったら?」
答えられなかった。
クロウレイは目を伏せる。
それだけで十分だった。
「撤退するよ」
ヴァルターも異論を挟まなかった。
「そうしましょう」
エドガーが記録をまとめ始める。
その時。
どくん――。
遺跡全体が大きく震えた。
「っ!」
天井から細かな氷が降り注ぐ。
黒い導線が一斉に蒼白く輝き、その光が遺跡の奥へ向かって走った。
イリーナが息を呑む。
「また……!」
「全員、入口へ!」
ヴァルターの声が響いた。
ライナーとシルヴァンが即座に動く。
エドガーも術式の記録を抱え、退路を確認した。
アロイスはミレイユを支えたまま立ち上がる。
「歩けるか」
「はい」
一歩踏み出した瞬間、膝から力が抜けた。
「……すみません」
「謝るな」
アロイスはそれだけ言うと、ミレイユを抱き上げた。
「アロイス様、自分で――」
「歩けてない」
反論の余地がなかった。
背後では、導線の光が次々と別の場所へ走っていく。
どこへ向かっているのかは分からない。
だが、ミレイユには一つだけ感じられた。
遠ざかっていく自分たちを、何かが見ている。
『行かないで』
胸が痛んだ。
ほんの少しだけ、振り返りたくなる。
けれど、ミレイユは目を閉じた。
「……帰ります」
アロイスの腕に、僅かに力がこもる。
「ああ」
そのまま一行は遺跡を離れた。
背後ではなお、低い共鳴音が響き続けていた。
どくん。
どくん。
氷山遺跡は、再び眠りにつかなかった。
*
宿舎へ戻って間もなく、ミレイユは高熱を出した。
精神干渉による過負荷に加え、これまでとは比較にならないほど深い接続を受けた反動だった。
クロウレイは寝台の傍らで診察を終えると、深く息を吐いた。
「……本当に危なかった」
アロイスが低く尋ねる。
「どの程度だ」
「あと少し深かったら、呼び戻せたか分からない」
部屋が静まり返る。
ライナーが苦い顔で頭を掻いた。
「洒落になってねぇぞ……」
「なってないよ」
クロウレイは椅子へ腰を下ろした。
疲労の滲む顔で、眠るミレイユを見る。
「でも、一つ分かったことがある」
エドガーが顔を上げる。
「氷山遺跡ですか」
「うん」
クロウレイは頷いた。
「ここに“真なるもの”がいるわけじゃない」
その言葉に、全員の注意が集まる。
「むしろ逆だ。あの装置を通して、ミレイユの意識が別の場所へ引っ張られた」
ヴァルターが目を細める。
「帝都地下」
「可能性は高いと思う」
クロウレイは断定しなかった。
「僕たちが考えていた以上に、装置同士の繋がりは深い。そしてミレイユは、その経路を辿れてしまう」
エドガーが静かに続ける。
「ならば、“中枢への逆流”という記述も……」
「使えるかもしれない」
クロウレイはそこで言葉を切った。
「でも、今のミレイユには使わせない」
珍しいほど強い口調だった。
「次も戻ってこられる保証なんてない」
誰も反論しなかった。
部屋の奥では、ミレイユが苦しそうな呼吸を繰り返している。
アロイスは寝台の傍らへ椅子を引き寄せ、黙って腰を下ろした。
その視線は、一度も彼女から離れない。
クロウレイはしばらくその背中を見つめていた。
やがて、眠る弟子へ視線を戻す。
「……絶対、死なせないよ」
誰に聞かせるでもなく、呟いた。
王国一の魔術師としてではない。
一人の師として、大切な弟子へ向けた言葉だった。




