第16話:声を聞く者
北方国の辺境都市へ到着した一行を迎えたのは、視界を覆い尽くすような重い吹雪だった。
雪も空も大地も白く染まり、世界そのものから色が抜け落ちてしまったかのように見える。
採掘場遺跡に最も近いその街は、厚い石造りの建物が立ち並び、各家には大きな暖炉が備えられている。
厳しい冬を生き抜くための工夫が、街の至るところに見て取れた。
「あったけぇ!!」
宿舎へ足を踏み入れた途端、ライナーが暖炉へ向かって叫んだ。
「やっぱ北方国おかしいだろ!外で息すると肺が痛ぇんだよ!」
その様子に、シルヴァンが肩を震わせる。
「もしかして、前回来た時も同じこと言ってなかった?」
「一回来たら寒さに強くなるとでも思ってんのか!」
エドガーは外套に積もった雪を淡々と払い落とした。
「騒いでも気温は上がりません」
「分かってるわ!!」
一方、クロウレイは誰よりも早く暖炉の前を陣取っていた。
「僕、寒いの嫌いなんだよねぇ」
「先生、王国でも冬はずっと暖炉の前にいましたもんね」
ミレイユが笑うと、クロウレイは懐かしそうに目を細める。
「そういえば、ミレイユも昔は冬になると、ずっと僕に張り付いてたよねぇ」
「先生……」
ミレイユが困ったように頬を染めると、ライナーが意味ありげに口角を上げた。
「へぇ」
その瞬間、アロイスの視線がライナーへ向いた。
「……何でもないです」
撤退が早い。
シルヴァンが小さく吹き出した。
そんなやり取りをしながらも、誰も今回の遠征を楽観してはいなかった。
前回、アロイスたちが北方国の遺跡へ足を踏み入れた時は、商人を装った極秘潜入だった。
だが今回は違う。
北方国側も採掘場遺跡周辺で起きている異変を把握しており、帝国からの調査協力の申し入れを受け入れている。
一行も正式な手続きを経て入国していた。
帝都で起こり始めた異変。
各地の古代遺跡で確認される反応。
そして、北方国でも増え始めた奇妙な夢と声。
互いに腹の内まで明かしたわけではない。
それでも今は、国家間の駆け引きを優先している場合ではなかった。
*
宿舎奥の応接室では、北方国側の責任者たちが一行を待っていた。
並んでいるのは、いずれも北方国の軍や術士団に属する者たちだ。
歓迎ムードとは言い難い。
以前の潜入について北方国側がどこまで把握しているのかは分からないが、少なくとも帝国から来た一団へ向けられる視線は決して友好的なものばかりではなかった。
ライナーが小声で漏らす。
「歓迎されてねぇなぁ」
「当然でしょう」
エドガーも声を落として返す。
「帝国から大人数で押しかけて、古代遺跡を調べさせてください、ですからね」
「言い方」
「事実です」
その中に、一人だけ若い女性がいた。
白銀の髪に、灰色の瞳。
年齢はミレイユとそれほど変わらないように見える。
彼女は一行へ向かって丁寧に頭を下げた。
「イリーナです。北方術士団に所属しています」
少しだけ視線を伏せる。
「精神干渉術と、その感知を専門にしています」
ヴァルターも礼を返した。
「帝国側責任者のヴァルターです。今回はご協力に感謝します」
簡単な挨拶が交わされる。
やがてイリーナの視線が、ミレイユへ向いた。
その瞬間だった。
彼女の表情が強張った。
驚き。
困惑。
そして、僅かな恐怖。
ミレイユはその変化に気づき、首を傾げる。
「……あの?」
イリーナはすぐには答えなかった。
ミレイユを見つめたまま、何かを確かめるように眉を寄せる。
「あなたも……聞こえているんですか」
ミレイユの表情が変わった。
「声が?」
「はい」
イリーナは小さく頷いた。
「最近、増えているんです。“声”を聞く人が」
応接室の緊張が増した。
「最初は、悪夢を見る人がいるという程度でした。でも今は違います」
イリーナは自分の指先を握る。
「吹雪の中や雪原で、誰もいないはずなのに声を聞いたという人が出ています。特に、氷山へ近づくほど報告が多いんです」
『寒くないよ』
『もう一人じゃない』
『全部、分け合える』
ミレイユの瞳が揺れた。
同じだ。
言葉は多少違っても、自分へ呼びかけ続けているものとよく似ている。
アロイスの表情が険しくなる。
エドガーが尋ねた。
「一般住民にも、継続的な精神異常は?」
「今のところ確認されていません。ほとんどは耳鳴りや悪夢、声を聞いたような気がする、といった程度です」
イリーナはそこで僅かに表情を曇らせた。
「ただ、精神干渉への適性を持つ者ほど鮮明に聞こえる傾向があります。術士団でも、眠れなくなったり、頭痛を訴えたりする者が増えています」
クロウレイの顔から、いつもの笑みが薄れる。
「……広がってきてるねぇ」
ヴァルターも資料へ視線を落とした。
「帝都だけの現象ではない、ということですねぇ」
ライナーが嫌そうに眉を寄せる。
「じゃあ、大陸中で起こる可能性もあるってことかよ」
「まだそこまでは断定できません」
エドガーが答える。
「ですが、各地の装置群が同時期に反応を示している以上、無関係と考えるほうが難しくなってきています」
シルヴァンが腕を組んだ。
「採掘場の装置も、また動き出す可能性がある?」
「あります」
短く答え、エドガーは資料を閉じた。
「現在は休眠状態を維持しています。しかし、周辺導線では既に起動反応が確認されています」
部屋が静まり返った。
暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜる。
やがてイリーナが地図を机いっぱいに広げた。
描かれているのは、氷山周辺一帯。
採掘場。
山岳集落。
そして、そのさらに奥に記された黒い印。
「ここです。採掘場遺跡」
ミレイユも地図を覗き込む。
集落から雪道を越え、山の裂け目をさらに進んだ先。
以前訪れた時と場所は変わらない。
半ば雪に埋もれた、黒い石壁の遺跡。
思い出しただけで、身体の奥が僅かに冷えた。
イリーナが黒い印へ指を置く。
「帝国側から共有された資料では、この遺跡の装置は“労働統制型”だった可能性があるそうですね」
「おそらくは、ですが」
ヴァルターが補足する。
「北方地域は、古代帝国時代から採掘地帯だったと考えられています。遺跡の位置から見ても、採掘作業に関係していた可能性は高いでしょうねぇ」
イリーナは地図を見つめた。
「疲労や痛みへの感覚を鈍らせ、労働を継続させるために使われていた可能性もある、と」
「現段階では推測です」
エドガーが念を押す。
「装置の機能を完全に解析できたわけではありません」
「それでも……」
イリーナは眉を寄せた。
「もし本当にそうなら、恐ろしいものですね」
クロウレイが地図を眺めながら呟く。
「……似てるねぇ」
「何がです?」
ミレイユが尋ねる。
「“苦痛をなくす”っていう方向が」
その言葉に、ミレイユは黙った。
『苦しくない』
『寂しくない』
『もう頑張らなくていい』
何度も聞いた声が蘇る。
疲労を消す。
痛みを消す。
孤独を消す。
一つ一つだけを見れば、確かに救いにも思える。
だからこそ怖い。
その先にあるものを、ミレイユは知り始めていた。
「……あの」
不意にイリーナが声を上げた。
視線は、またミレイユへ向いている。
「どうしました?」
ミレイユが尋ねる。
イリーナは答えに迷っているようだった。
やがて、慎重に言葉を選ぶ。
「さっきから、気になっていることがあって」
クロウレイの目が細くなった。
「ミレイユのこと?」
「はい」
イリーナは頷く。
「うまく説明できないんですけど……」
再びミレイユを見る。
「あなたから、“声”がするんです」
誰も動かなかった。
ミレイユ自身も、その意味をすぐには理解できない。
「……私から?」
「違う」
イリーナはすぐに首を振った。
「あなたの声じゃありません」
灰色の瞳に、困惑が浮かぶ。
「あなたが話しているわけでもない。あなたの心を読んでいるわけでもないんです」
「じゃあ、何が?」
シルヴァンが尋ねる。
「分かりません」
イリーナは苦しそうに眉を寄せた。
「ただ……あなたの向こうに、何かがいるような」
アロイスの表情が変わった。
クロウレイも、今度は何も言わない。
イリーナは自分でも確信が持てないのか、何度か首を振った。
「すみません。こんな感覚は初めてで……」
「謝らなくていいよ」
クロウレイの声から、完全に軽さが消えていた。
「感じたままを教えて」
「……遠いんです。でも、繋がってる」
イリーナは胸元を押さえた。
「この人のずっと向こうに、何かが――」
言葉が途切れた。
イリーナが突然、窓の方角を振り向く。
ミレイユも、ほとんど同時だった。
「……来る」
二人の声が重なった。
全員が息を呑む。
クロウレイが立ち上がった。
「何が?」
答えはなかった。
吹雪が窓を激しく叩く。
次の瞬間。
『おいで』
ミレイユの頭へ声が響いた。
同時に、隣でイリーナが息を呑む。
「白い……」
ミレイユが彼女を見る。
イリーナの灰色の瞳は、何もない空間を見つめていた。
「光……?」
同じものを見ている。
そう理解した瞬間、ミレイユの背筋を冷たいものが走った。
『一つになろう』
「……歌が」
イリーナが呟く。
『寂しくない』
「聞こえる……」
『帰っておいで』
イリーナが頭を押さえた。
「っ……!」
すぐに北方国側の術士が彼女を支える。
だが、ミレイユにはさらにその先が流れ込んできた。
白い光。
無数に伸びる、細い光の筋。
それが遠くへ、さらに遠くへ広がっていく。
一つは氷の下へ。
一つは遥か南へ。
一つは砂に覆われた大地へ。
そして――。
暗い場所。
深い場所。
そこに、何かがいる。
「ミレイユ!」
クロウレイの声が飛ぶ。
「それ以上見なくていい!」
ミレイユは息を呑んだ。
見ようとしているわけではない。
それでも像が流れ込んでくる。
『帰っておいで』
声が近い。
帝都で聞いていた時よりも。
昨日よりも。
ほんの少し前よりも。
「……近い」
ミレイユが呟いた。
クロウレイが眉を寄せる。
「何が?」
「“真なるもの”が……」
その言葉に、室内の誰も動かなかった。
ミレイユは吹雪の向こうを見つめる。
「前より、ずっと近いです」
イリーナが青ざめた顔でミレイユを見る。
彼女が受け取ったのは、白い光と歌だけだった。
その先までは見えていない。
同じ声を聞いた。
同じ光を見た。
それでも、届いている深さが違う。
イリーナはそれを理解したのだろう。
ミレイユを見る瞳に、先ほどよりもはっきりとした恐怖が浮かんだ。
窓の外では、吹雪が激しさを増している。
その向こうに採掘場遺跡がある。
眠っているはずの装置。
その周辺で、再び動き始めた古代の導線。
そして、それらのさらに向こうから届く声。
『帰っておいで』
ミレイユは無意識に、自分の胸元を握り締めた。
声はもう、遠くなかった。




