第14話:目覚める鼓動
異変は、まだ誰の目にも明らかなものではなかった。
最初の報告が届いたのは、帝都南区だった。
皇宮中央棟、臨時報告室。
集められた資料へ目を通していた第一皇子は、一枚の報告書を手に取ると、僅かに眉を寄せた。
「……似た夢を見た者が、複数いる?」
長机の向かいで、ヴァルターが頷く。
「はい。ここ数日の間に、帝都南区で数件確認されています」
「内容は」
ヴァルターは報告書をめくった。
「白い光。遠くから聞こえる歌声。そして、“帰っておいで”という呼びかけです」
ライナーが露骨に顔をしかめる。
「うわぁ……嫌な一致だな」
エドガーも資料へ視線を落としたまま続けた。
「ただし、現時点では全員が同じ夢を見ているわけではありません。夢の内容も細部までは一致していません」
「精神異常は?」
第一皇子が問い返す。
「確認されていません。目覚めたあとは普段通り生活しています」
そこでエドガーは、別の報告書を取り上げた。
「もう一つ、関連が疑われる報告があります」
「何だ」
「感情の同調です」
第一皇子の視線が鋭くなる。
エドガーは慎重に言葉を選んだ。
「一人が強く不安になった際、近くにいた数人も理由なく落ち着かなくなった。あるいは、一人が急に安堵した直後、周囲の者まで気分が軽くなったと証言しています」
シルヴァンが眉をひそめる。
「それだけなら、雰囲気に引っ張られただけってこともあるんじゃない?」
「その可能性もあります」
エドガーはすぐに認めた。
「ですから、現段階では異常現象と断定していません」
「ただ」
ヴァルターが後を引き継ぐ。
「似た報告が、短期間に複数の場所から上がり始めています」
第一皇子は地下導線の構造図へ視線を落とした。
「場所に偏りはあるか」
「今のところ、南区と中央区の一部です」
「地下旧層との関連は」
「可能性はありますが、まだ判断材料が足りません」
ヴァルターはそう答えた。
断言はしない。
だが、誰も偶然だとは思っていなかった。
第二皇子が資料を眺めながら、小さく呟く。
「……随分、外へ漏れるようになってきたね」
第一皇子が顔を上げる。
「“真なるもの”の影響だと?」
「まだ分からないよ」
第二皇子は笑っていた。
ただ、その笑みは薄い。
「でも、ミレイユ嬢だけの問題ではなくなりつつある可能性は考えたほうがいい」
誰も異論を挟まなかった。
*
その日の午後。
シュタルク公爵邸では、ミレイユが談話室の窓辺に座っていた。
クロウレイから一人にならないよう言われているため、部屋にはアロイスとライナーもいる。
アロイスは書類へ目を通し、ライナーはソファで本を読んでいた。
穏やかな時間だった。
少なくとも、最初は。
『帰っておいで』
ミレイユの指先が止まる。
いつもの声だった。
もう驚きはしない。
怖くないわけでもない。
ただ、以前より少し近く感じる。
『一人じゃない』
『苦しくない』
ミレイユはゆっくり息を吐いた。
違う。
自分の声ではない。
そう意識して、目の前の景色へ意識を戻す。
その時だった。
別の何かが、微かに混じった。
――怖い。
ミレイユは顔を上げた。
今のは、“真なるもの”の声ではなかった。
もっと弱い。
途切れ途切れで、すぐに消えそうな感覚だった。
――嫌だ。
――眠りたくない。
一瞬だけ、知らない誰かの不安が頭を掠める。
「……?」
ミレイユは眉を寄せた。
アロイスがすぐに気づく。
「どうした」
「……今」
言いかけて、ミレイユは耳を澄ます。
だが、もう何も聞こえない。
『帰っておいで』
残っているのは、いつもの声だけだった。
「何か聞こえたのか」
「……たぶん」
ミレイユは自信なさげに答えた。
「でも、“真なるもの”じゃなかった気がします」
ライナーが本を閉じる。
「じゃあ何だよ」
「分かりません」
ミレイユ自身、戸惑っていた。
「誰かが……怖がっていたような」
アロイスの表情が険しくなる。
「誰か?」
「はい。でも、ほんの一瞬だけです」
その時、扉が開いた。
クロウレイが入ってくる。
「どうしたの?」
アロイスが簡潔に説明すると、クロウレイはすぐミレイユの前へ座った。
「今も聞こえる?」
「いいえ」
「どんな感じだった?」
ミレイユは少し考える。
「声というより……感情に近かったです」
「怖いとか、嫌だとか」
クロウレイの表情から、いつもの軽さが消える。
「自分の感情じゃないって分かった?」
「はい」
ミレイユは頷いた。
「今回は、分かりました」
「今回は?」
「前より薄かったから……だと思います」
クロウレイはしばらく黙っていた。
そこへ、廊下から足音が近づく。
まもなくシルヴァンが顔を覗かせた。
「ちょうどよかった。皇宮から連絡」
手にした封書を軽く掲げる。
「帝都で、変な夢を見る人が出てるって」
部屋の全員が彼を見る。
「変な夢?」
ライナーが問い返す。
「白い光と歌。それから“帰っておいで”」
ミレイユの顔色が変わった。
クロウレイも僅かに目を細める。
「人数は?」
「まだ少ないって。数件程度」
「他には?」
「理由なく不安になったり、周りの人まで同じ気分になったりしたって報告もあるみたい」
ライナーが顔をしかめる。
「……それ、さっきのミレイユと関係あんのか?」
誰もすぐには答えなかった。
クロウレイはミレイユを見る。
「今感じたの、本当に一瞬だけ?」
「はい」
「場所は分かった?」
「いいえ」
ミレイユは首を振る。
「遠いのか、近いのかも分かりませんでした」
「そっか」
クロウレイは短く答えた。
まだ材料が足りない。
ミレイユが帝都市民の感情を拾ったのか。
“真なるもの”を介して、別の何かが混じったのか。
あるいは、まったく別の現象なのか。
今の段階では判断できない。
ただ一つだけ。
ミレイユだけに起きていた異変と似た兆候が、帝都の別の場所でも現れ始めている。
それだけは確かだった。
アロイスが口を開く。
「皇宮へ報告する」
クロウレイも頷いた。
「うん。まだ“接続が始まった”とは言えないけど」
少し考え、続ける。
「その前段階かもしれない」
ミレイユの指先が僅かに震えた。
『一人じゃない』
また声がする。
いつもと同じ、優しい囁き。
けれど今は、その言葉の意味が以前とは違って聞こえた。
ミレイユはゆっくり顔を上げる。
「……先生」
「うん?」
「もし、本当に広がっているなら」
一度、言葉を切る。
「私みたいになる人が、増えるんでしょうか」
クロウレイはすぐには答えなかった。
やがて、慎重に口を開く。
「分からない」
誤魔化さない答えだった。
「今の人たちは、ミレイユほど深く繋がってない。夢を見たり、一瞬気分が引っ張られたりする程度だ」
「でも」
その先は言わなかった。
言わなくても分かる。
今は、まだ。
その程度だ。
ミレイユの耳の奥で、歌うような声が響く。
『もう、一人じゃない』
その言葉が、今までより少しだけ不気味に聞こえた。




