第13話:私を呼ぶ声
異変は、静かに始まった。
最初は、本当に些細な違和感だった。
昼下がりの公爵邸。
廊下を歩いていたミレイユは、向こうから来た使用人とすれ違った瞬間、胸の奥へ妙な重さが流れ込んでくるのを感じた。
沈んだ気分に、鈍い疲労感。
そして、理由もない不安。
どれも自分のものではないはずなのに、まるで最初から抱えていた感情のように胸へ居座る。
思わず足が止まった。
「……ミレイユ様?」
使用人が不思議そうに振り返る。
ミレイユは慌てて首を振り、笑みを作った。
「い、いえ……何でもありません」
使用人は小さく頭を下げ、そのまま歩き去っていく。
だが、姿が見えなくなっても重苦しさは消えなかった。
まるで他人の感情が、自分の中へ残ってしまったかのようだった。
*
昼食時。
食堂では、いつものように賑やかな会話が飛び交っていた。
シルヴァンは焼き菓子を頬張りながら、皇宮での出来事を面白おかしく話している。
「皇宮魔術師団のお偉いさん達、完全に徹夜モードだったよ。みんな目が死んでた」
「お前も大概寝てねぇだろ」
ライナーが笑う。
「俺はほら、若いから」
「年齢そんな変わんねぇよ」
いつもの軽口に、笑い声が上がる。
その瞬間だった。
焦燥。
疲労。
苛立ち。
不安。
食堂にいる者たちの感情が、一斉に頭の中へ流れ込んできた。
「……っ!」
息が詰まる。
手にしていたカップが震え、ガタンと音を立てた。
「ミレイユ」
アロイスが立ち上がる。
ミレイユは反射的に胸元を押さえた。
だが、苦しいのは胸ではない。
頭の奥へ、誰かの感情が洪水のように押し寄せてくる。
誰のものかも分からない。
一つではない。
幾つもの感情が混ざり合い、自分のものとの境目が分からなくなっていく。
「え、ちょっ!」
シルヴァンが顔色を変えた。
クロウレイは一瞬で表情を消す。
「部屋へ行こう」
穏やかな口調ではあったが、有無を言わせない響きがあった。
ミレイユは苦しそうに首を振る。
「……大丈夫、です」
「大丈夫じゃない」
珍しく強い声だった。
いつもの軽さが完全に消え、その場の全員が息を呑む。
その時、アロイスが何も言わずミレイユの身体を支えた。
すると。
頭の中を埋め尽くしていた感情の奔流が、わずかに遠のいた。
ミレイユは驚いて目を見開く。
完全に消えたわけではない。
それでも、先ほどまで曖昧になりかけていた自分と他人との境界が、少しずつ戻ってくる。
「……どうした」
アロイスが眉を寄せた。
ミレイユは呆然としたまま呟く。
「……少し、楽です」
クロウレイの表情が変わった。
数秒考えたあと、アロイスへ視線を向ける。
「……アロイス君」
「そのままでいてくれる?」
「は?」
「いいから」
怪訝そうな顔をしながらも、アロイスはミレイユを支えたまま動かなかった。
ミレイユはゆっくり呼吸を整える。
さっきまで混ざり合っていた他人の感情が、徐々に遠ざかっていく。
その様子を見ながら、クロウレイは小さく息を吐いた。
予想以上だった。
思っていたよりも、接続が深くなっている。
*
その夜。
公爵邸の客間には、クロウレイ、ヴァルター、エドガー、シルヴァン、ライナーが集まっていた。
机の上には、精神波動の観測結果や地下旧層の調査報告書が広げられている。
クロウレイは珍しく笑みを浮かべていなかった。
「接続が深くなりすぎてる」
最初にそう切り出す。
「“真なるもの”との境界が、少しずつ薄くなってきてるんだ」
エドガーが問い返した。
「他者の感情が流れ込むのも、その影響ですか」
「おそらくね」
クロウレイは頷く。
「精神干渉に強く感応する人間は、もともと他人の精神状態へ引っ張られやすい」
「そこへ、“真なるもの”側から継続的な接続圧がかかってる」
ヴァルターが資料へ目を落とした。
「つまり、ミレイユ様自身の境界が曖昧になっている、と」
「そういうこと」
しばらく誰も口を開かなかった。
シルヴァンが顔をしかめる。
「……かなり危ないんじゃない?」
「かなり危ないよ」
クロウレイは即答した。
「このまま進めば、自分の感情と他人の感情を区別できなくなる可能性がある」
「もっと深くなれば、自我そのものへ影響が出るかもしれない」
その言葉に、ライナーも黙り込んだ。
ヴァルターが視線を上げる。
「ですが、一つ気になることがあります」
全員の意識が向く。
「アロイス様がミレイユ様を支えた直後、症状が明らかに緩和しました」
クロウレイは少し困ったように笑った。
「……そこなんだよねぇ」
エドガーが考え込む。
「精神干渉を抑制している?」
「いや」
クロウレイは首を振った。
「アロイス君自身に、干渉を打ち消す力があるとは思わない」
笑みは残したままだ。
「たぶん、ミレイユにとっての“基準点”になってるんだと思う」
「基準点?」
「自分が誰なのか分からなくなりそうな時に、そこへ戻るための目印」
クロウレイは椅子の背へ寄りかかった。
「アロイス君が近くにいると、ミレイユ自身が“自分”を取り戻しやすいんじゃないかな」
部屋に短い沈黙が落ちる。
やがてライナーがぽつりと漏らした。
「……団長、天然でやってんの怖ぇな」
「本人、絶対分かってないでしょ」
シルヴァンが続ける。
誰も否定しなかった。
*
その頃、ミレイユは自室にいた。
ベッドへ腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めている。
庭の木々が風に揺れ、遠くで虫の声が聞こえていた。
本来なら、心が落ち着くはずの夜だった。
それなのに。
『寂しくない』
『全部、分け合える』
『一人じゃない』
頭の奥へ、あの声がゆっくりと染み込んでくる。
甘く、優しく、すべてを包み込むような囁き。
ミレイユは目を閉じ、膝の上で手を握り締めた。
怖い。
それなのに、その声へ少しだけ安心しそうになる自分がいる。
それが何より恐ろしかった。
その時、控えめなノックが響く。
「……どうぞ」
扉が開き、アロイスが姿を見せた。
ミレイユは少しだけ目を見開く。
アロイスは部屋へ入ると、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「クロウレイに、様子を見てこいと言われた」
それだけ告げて、椅子へ腰を下ろす。
飾り気のない理由だった。
けれど、その姿を見ただけで胸を締めつけていた不安が少し和らいだ。
しばらく、誰も話さなかった。
それでも不思議と気まずくはない。
ミレイユは小さく息を吐く。
頭の奥にまとわりついていた声が、僅かに遠ざいた。
思わず呟く。
「……落ち着きます」
アロイスが眉を寄せる。
「何がだ」
ミレイユは少し迷った。
だが、隠しても意味はない。
「アロイス様が、いると」
言葉が落ちる。
次の瞬間、アロイスはぴたりと動きを止めた。
完全に固まっている。
ミレイユもすぐに我に返る。
「あ……あの、違っ……」
違わない。
だが、そういう意味ではなくて。
うまく説明できずに慌てていると、アロイスが小さく咳払いをした。
耳が、ほんの少し赤い。
「……そうか」
短い返事だった。
いつもより少しだけぎこちない。
その反応がおかしくて、ミレイユは思わず笑った。
久しぶりに、自然に零れた笑顔だった。
それを見たアロイスの表情も、僅かに和らぐ。
その時。
『帰っておいで』
ミレイユの肩がびくりと震えた。
アロイスはすぐに気づく。
「聞こえるのか」
ミレイユは小さく頷いた。
「……まだ、聞こえます」
アロイスはしばらく黙っていた。
やがて、真っ直ぐミレイユを見る。
「なら、聞くな」
ミレイユは困ったように笑った。
「……でも」
「俺の声を聞け」
その一言に、ミレイユは目を見開く。
黒い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。
「お前は、お前だ」
「勝手に持っていかれるな」
低く、はっきりとした声が胸へ届く。
頭の奥を満たしていた“声”が、少しだけ遠ざかった。
息がしやすくなる。
自分の輪郭が、戻ってくる。
そこでミレイユは、ようやく気づいた。
今、一人になりたくない。
この人に、側にいてほしい。
そう思った途端、胸が熱くなった。
シーツをぎゅっと握り締める。
迷った。
何度も迷った。
それでも、勇気を振り絞って口を開く。
「……側に、いてください」
小さな声だった。
俯いたまま、続ける。
「一人にしないでください」
それは、ミレイユが自分から誰かへ助けを求めた、初めての言葉だった。
怖いと認めたことはある。
苦しいと口にしたこともある。
それでも、誰かを必要として、自分から側にいてほしいと願ったことはなかった。
アロイスは何も言わない。
数秒のあと、立ち上がった。
そして、ミレイユの隣へ腰を下ろす。
近すぎず、遠すぎない距離。
「……分かった」
それだけだった。
けれど、その一言で十分だった。
張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。
ミレイユはゆっくり息を吐き、そっと肩を預けた。
アロイスの身体が一瞬だけ固まる。
それでも離れない。
拒まない。
何も言わず、そのまま受け止めていた。
あの“声”は、まだどこかにある。
それでも今は、アロイスの隣にいる自分のほうが、ずっとはっきりと感じられた。
*
少し離れた廊下で、クロウレイはミレイユの部屋の扉を見つめていた。
しばらく様子を窺っていたが、先ほどまで感じていた精神の揺らぎは落ち着いている。
「……ほんとに、効くんだねぇ」
苦笑が漏れる。
嬉しかった。
それと同じくらい、危機感も強くなる。
もしアロイスがいなければ。
もし今日、彼があの場にいなかったなら。
ミレイユはもっと深く“真なるもの”へ引き込まれていたかもしれない。
クロウレイは目を伏せた。
「急がないとねぇ……」
その呟きだけが、夜の廊下へ消えていった。




