↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
選択の魔女  作者: めいあん
第三章:大陸編
PR
102/144

第13話:私を呼ぶ声

異変は、静かに始まった。

最初は、本当に些細な違和感だった。

昼下がりの公爵邸。

廊下を歩いていたミレイユは、向こうから来た使用人とすれ違った瞬間、胸の奥へ妙な重さが流れ込んでくるのを感じた。

沈んだ気分に、鈍い疲労感。

そして、理由もない不安。

どれも自分のものではないはずなのに、まるで最初から抱えていた感情のように胸へ居座る。

思わず足が止まった。

「……ミレイユ様?」

使用人が不思議そうに振り返る。

ミレイユは慌てて首を振り、笑みを作った。

「い、いえ……何でもありません」

使用人は小さく頭を下げ、そのまま歩き去っていく。

だが、姿が見えなくなっても重苦しさは消えなかった。

まるで他人の感情が、自分の中へ残ってしまったかのようだった。

*

昼食時。

食堂では、いつものように賑やかな会話が飛び交っていた。

シルヴァンは焼き菓子を頬張りながら、皇宮での出来事を面白おかしく話している。

「皇宮魔術師団のお偉いさん達、完全に徹夜モードだったよ。みんな目が死んでた」

「お前も大概寝てねぇだろ」

ライナーが笑う。

「俺はほら、若いから」

「年齢そんな変わんねぇよ」

いつもの軽口に、笑い声が上がる。

その瞬間だった。

焦燥。

疲労。

苛立ち。

不安。

食堂にいる者たちの感情が、一斉に頭の中へ流れ込んできた。

「……っ!」

息が詰まる。

手にしていたカップが震え、ガタンと音を立てた。

「ミレイユ」

アロイスが立ち上がる。

ミレイユは反射的に胸元を押さえた。

だが、苦しいのは胸ではない。

頭の奥へ、誰かの感情が洪水のように押し寄せてくる。

誰のものかも分からない。

一つではない。

幾つもの感情が混ざり合い、自分のものとの境目が分からなくなっていく。

「え、ちょっ!」

シルヴァンが顔色を変えた。

クロウレイは一瞬で表情を消す。

「部屋へ行こう」

穏やかな口調ではあったが、有無を言わせない響きがあった。

ミレイユは苦しそうに首を振る。

「……大丈夫、です」

「大丈夫じゃない」

珍しく強い声だった。

いつもの軽さが完全に消え、その場の全員が息を呑む。

その時、アロイスが何も言わずミレイユの身体を支えた。

すると。

頭の中を埋め尽くしていた感情の奔流が、わずかに遠のいた。

ミレイユは驚いて目を見開く。

完全に消えたわけではない。

それでも、先ほどまで曖昧になりかけていた自分と他人との境界が、少しずつ戻ってくる。

「……どうした」

アロイスが眉を寄せた。

ミレイユは呆然としたまま呟く。

「……少し、楽です」

クロウレイの表情が変わった。

数秒考えたあと、アロイスへ視線を向ける。

「……アロイス君」

「そのままでいてくれる?」

「は?」

「いいから」

怪訝そうな顔をしながらも、アロイスはミレイユを支えたまま動かなかった。

ミレイユはゆっくり呼吸を整える。

さっきまで混ざり合っていた他人の感情が、徐々に遠ざかっていく。

その様子を見ながら、クロウレイは小さく息を吐いた。

予想以上だった。

思っていたよりも、接続が深くなっている。

*

その夜。

公爵邸の客間には、クロウレイ、ヴァルター、エドガー、シルヴァン、ライナーが集まっていた。

机の上には、精神波動の観測結果や地下旧層の調査報告書が広げられている。

クロウレイは珍しく笑みを浮かべていなかった。

「接続が深くなりすぎてる」

最初にそう切り出す。

「“真なるもの”との境界が、少しずつ薄くなってきてるんだ」

エドガーが問い返した。

「他者の感情が流れ込むのも、その影響ですか」

「おそらくね」

クロウレイは頷く。

「精神干渉に強く感応する人間は、もともと他人の精神状態へ引っ張られやすい」

「そこへ、“真なるもの”側から継続的な接続圧がかかってる」

ヴァルターが資料へ目を落とした。

「つまり、ミレイユ様自身の境界が曖昧になっている、と」

「そういうこと」

しばらく誰も口を開かなかった。

シルヴァンが顔をしかめる。

「……かなり危ないんじゃない?」

「かなり危ないよ」

クロウレイは即答した。

「このまま進めば、自分の感情と他人の感情を区別できなくなる可能性がある」

「もっと深くなれば、自我そのものへ影響が出るかもしれない」

その言葉に、ライナーも黙り込んだ。

ヴァルターが視線を上げる。

「ですが、一つ気になることがあります」

全員の意識が向く。

「アロイス様がミレイユ様を支えた直後、症状が明らかに緩和しました」

クロウレイは少し困ったように笑った。

「……そこなんだよねぇ」

エドガーが考え込む。

「精神干渉を抑制している?」

「いや」

クロウレイは首を振った。

「アロイス君自身に、干渉を打ち消す力があるとは思わない」

笑みは残したままだ。

「たぶん、ミレイユにとっての“基準点”になってるんだと思う」

「基準点?」

「自分が誰なのか分からなくなりそうな時に、そこへ戻るための目印」

クロウレイは椅子の背へ寄りかかった。

「アロイス君が近くにいると、ミレイユ自身が“自分”を取り戻しやすいんじゃないかな」

部屋に短い沈黙が落ちる。

やがてライナーがぽつりと漏らした。

「……団長、天然でやってんの怖ぇな」

「本人、絶対分かってないでしょ」

シルヴァンが続ける。

誰も否定しなかった。

*

その頃、ミレイユは自室にいた。

ベッドへ腰掛け、窓の外をぼんやりと眺めている。

庭の木々が風に揺れ、遠くで虫の声が聞こえていた。

本来なら、心が落ち着くはずの夜だった。

それなのに。

『寂しくない』

『全部、分け合える』

『一人じゃない』

頭の奥へ、あの声がゆっくりと染み込んでくる。

甘く、優しく、すべてを包み込むような囁き。

ミレイユは目を閉じ、膝の上で手を握り締めた。

怖い。

それなのに、その声へ少しだけ安心しそうになる自分がいる。

それが何より恐ろしかった。

その時、控えめなノックが響く。

「……どうぞ」

扉が開き、アロイスが姿を見せた。

ミレイユは少しだけ目を見開く。

アロイスは部屋へ入ると、いつものぶっきらぼうな口調で言った。

「クロウレイに、様子を見てこいと言われた」

それだけ告げて、椅子へ腰を下ろす。

飾り気のない理由だった。

けれど、その姿を見ただけで胸を締めつけていた不安が少し和らいだ。

しばらく、誰も話さなかった。

それでも不思議と気まずくはない。

ミレイユは小さく息を吐く。

頭の奥にまとわりついていた声が、僅かに遠ざいた。

思わず呟く。

「……落ち着きます」

アロイスが眉を寄せる。

「何がだ」

ミレイユは少し迷った。

だが、隠しても意味はない。

「アロイス様が、いると」

言葉が落ちる。

次の瞬間、アロイスはぴたりと動きを止めた。

完全に固まっている。

ミレイユもすぐに我に返る。

「あ……あの、違っ……」

違わない。

だが、そういう意味ではなくて。

うまく説明できずに慌てていると、アロイスが小さく咳払いをした。

耳が、ほんの少し赤い。

「……そうか」

短い返事だった。

いつもより少しだけぎこちない。

その反応がおかしくて、ミレイユは思わず笑った。

久しぶりに、自然に零れた笑顔だった。

それを見たアロイスの表情も、僅かに和らぐ。

その時。

『帰っておいで』

ミレイユの肩がびくりと震えた。

アロイスはすぐに気づく。

「聞こえるのか」

ミレイユは小さく頷いた。

「……まだ、聞こえます」

アロイスはしばらく黙っていた。

やがて、真っ直ぐミレイユを見る。

「なら、聞くな」

ミレイユは困ったように笑った。

「……でも」

「俺の声を聞け」

その一言に、ミレイユは目を見開く。

黒い瞳が、まっすぐこちらを見ていた。

「お前は、お前だ」

「勝手に持っていかれるな」

低く、はっきりとした声が胸へ届く。

頭の奥を満たしていた“声”が、少しだけ遠ざかった。

息がしやすくなる。

自分の輪郭が、戻ってくる。

そこでミレイユは、ようやく気づいた。

今、一人になりたくない。

この人に、側にいてほしい。

そう思った途端、胸が熱くなった。

シーツをぎゅっと握り締める。

迷った。

何度も迷った。

それでも、勇気を振り絞って口を開く。

「……側に、いてください」

小さな声だった。

俯いたまま、続ける。

「一人にしないでください」

それは、ミレイユが自分から誰かへ助けを求めた、初めての言葉だった。

怖いと認めたことはある。

苦しいと口にしたこともある。

それでも、誰かを必要として、自分から側にいてほしいと願ったことはなかった。

アロイスは何も言わない。

数秒のあと、立ち上がった。

そして、ミレイユの隣へ腰を下ろす。

近すぎず、遠すぎない距離。

「……分かった」

それだけだった。

けれど、その一言で十分だった。

張り詰めていたものが、少しずつほどけていく。

ミレイユはゆっくり息を吐き、そっと肩を預けた。

アロイスの身体が一瞬だけ固まる。

それでも離れない。

拒まない。

何も言わず、そのまま受け止めていた。

挿絵(By みてみん)

あの“声”は、まだどこかにある。

それでも今は、アロイスの隣にいる自分のほうが、ずっとはっきりと感じられた。

*

少し離れた廊下で、クロウレイはミレイユの部屋の扉を見つめていた。

しばらく様子を窺っていたが、先ほどまで感じていた精神の揺らぎは落ち着いている。

「……ほんとに、効くんだねぇ」

苦笑が漏れる。

嬉しかった。

それと同じくらい、危機感も強くなる。

もしアロイスがいなければ。

もし今日、彼があの場にいなかったなら。

ミレイユはもっと深く“真なるもの”へ引き込まれていたかもしれない。

クロウレイは目を伏せた。

「急がないとねぇ……」

その呟きだけが、夜の廊下へ消えていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。