第11話:歌う石壁
地下旧層から撤退したあと、ミレイユの状態確認と簡単な報告にしばらく時間を取られた。
皇宮から公爵邸へ戻る馬車に乗り込む頃には、外はすっかり暗くなっている。
車内では、誰もあまり口を開かなかった。
地下で見たもの、とりわけ最後に聞いた“歌”が、まだ頭から離れない。
あれを聞いて以降、ミレイユの顔色は明らかに悪かった。
アロイスは向かい側に座りながら、ずっとミレイユを見ている。
ミレイユは窓際へ寄り、ゆっくりと呼吸を整えていた。
その横顔は青白い。
クロウレイが小さく息を吐く。
「……かなり無理してるねぇ」
ミレイユが首を振る。
「まだ、大丈夫です」
「その“まだ”が怖いんだけど」
シルヴァンがぼそっと言った。
いつもの軽さはない。
地下で聞こえた歌は、彼ですら妙な寒気を覚えるものだった。
エドガーも難しい顔をしている。
「私でも、微弱な精神圧を感じました。通常の精神干渉装置とは違う。空間そのものへ作用しているように思えます」
ヴァルターが目を細めた。
「帝都全体が媒体になっている可能性もありますねぇ」
ライナーが嫌そうな顔をする。
「つまり?」
「帝都にいる限り、影響圏内である可能性があるということです」
「最悪じゃん」
その瞬間。
ミレイユの肩がびくりと震えた。
『帰っておいで』
耳元。
すぐ近くで囁かれた気がした。
ミレイユが思わず耳を押さえる。
アロイスが身を乗り出した。
「どうした」
「……声が」
車内に緊張が走る。
クロウレイがすぐに問う。
「まだ聞こえる?」
ミレイユはゆっくり頷いた。
「地下から離れてるのに……」
「近いんです」
誰も、すぐには答えなかった。
地下からの影響が帝都全体へ広がっているのか。
それとも、一度認識されたミレイユだけが距離に関係なく追われているのか。
あるいは、その両方なのか。
まだ分からない。
ただ、状況が悪化していることだけは確かだった。
*
公爵邸へ戻った頃には、ミレイユはかなり消耗していた。
玄関まで出迎えに来たマルガレーテが、その顔を見るなり表情を変える。
「まあっ!ミレイユ様!?」
ミレイユは小さく笑おうとした。
「ただいま戻りまし――」
言い終える前に、身体がふらつく。
すぐそばにいたアロイスが支えた。
「部屋へ運ぶ」
有無を言わせない声だった。
マルガレーテが慌てて道を開ける。
「すぐお茶を!温かいスープも!」
「甘いものもお願い」
後ろからクロウレイが付け加える。
「はい!」
マルガレーテは即答した。
シルヴァンが思わず吹き出す。
「クロウレイさん、ブレないなぁ」
「糖分大事」
「この空気でそれ言えるの逆にすげぇな」
ライナーが呆れたように呟いた。
*
ミレイユを部屋へ送り届けたあと、ヴァルター、エドガー、シルヴァンは別室へ移った。
机上には、導線構造や壁面文字のスケッチ、精神波動の測定結果が大量に広げられている。
シルヴァンが紙束を眺めながら、嫌そうな顔をした。
「いや、ほんと嫌な構造してるね、これ」
エドガーが頷く。
「壁自体が媒体になっています。導線だけではない。空間そのものが、精神感応型の構造になっている」
ヴァルターも資料へ目を落とした。
「神聖国地下遺構に近いですが、比較にならない規模ですねぇ」
シルヴァンが眉を寄せる。
「俺、耳鳴りくらいだったんだけど」
「それ普通?」
エドガーが即答した。
「かなり感応しています」
「一般人なら、圧迫感程度でしょう」
「つまり俺、地味に巻き込まれてる?」
「はい」
「最悪」
ヴァルターが資料を一枚めくる。
「問題はミレイユ様です」
二人の表情が変わった。
エドガーが測定結果を確認する。
「受信量が違いすぎる」
指先で数値を追う。
「地下で聞こえていた“歌”を、我々は音としてしか認識できなかった。ですが、ミレイユ様は違う」
シルヴァンが小さく呟く。
「普通に意味、理解してたもんね……」
短い沈黙が落ちる。
ヴァルターが低く言った。
「“真なるもの”は、ミレイユ様への接続を明確に試みていると考えてよさそうですねぇ」
エドガーも頷く。
「理由も、おそらく適合性でしょう」
資料へ視線を落としたまま続ける。
「ミレイユ様は、これまで確認された中でも異常なほど高い適合性を示している」
シルヴァンの顔から、完全に笑みが消えた。
「……だから、向こうから呼んでる?」
誰も否定しなかった。
*
その頃、ミレイユの部屋には、マルガレーテが大量の食事を持ち込んでいた。
「食べないと駄目です!ミレイユ様、最近細くなりすぎです!」
温かいスープにパン、果物、それに焼き菓子。
明らかに一人分ではない。
クロウレイが焼き菓子を一つつまみながら頷く。
「そうそう。ミレイユ、昔から無理すると食べなくなるからねぇ」
「そんなことは……」
「ある」
即答だった。
アロイスまで当然のように頷く。
ミレイユが黙った。
ライナーが吹き出す。
「全会一致じゃん」
少しだけ、部屋の緊張が和らいだ。
ミレイユも困ったように笑い、スープへ手を伸ばす。
その時だった。
『帰っておいで』
動きが止まる。
『一つになれば』
『苦しくない』
頭の奥へ、直接響く。
ミレイユの呼吸が乱れた。
アロイスがすぐに気づく。
「ミレイユ」
肩へ手を置く。
そこにいる。
ここにいる。
そう伝えるように。
ミレイユは苦しそうに息を吐いた。
「……聞こえるんです」
小さな声。
「ずっと」
クロウレイがミレイユの前へ座る。
「何て言ってる?」
ミレイユは迷った。
だが、隠しても意味がない。
「“帰っておいで”って」
一度、息を吸う。
「“一つになろう”って……“苦しくなくなる”って」
アロイスの手が僅かに強張った。
クロウレイはしばらく黙っていた。
やがて、慎重に尋ねる。
「怖い?」
ミレイユは少しだけ迷ってから、頷いた。
「……はい」
それで終わると思った。
だが、ミレイユは俯いたまま、続けた。
「でも……」
アロイスの視線が向く。
「少しだけ、安心しそうになるんです」
誰も言葉を発しなかった。
ミレイユ自身、それが何より怖かった。
“真なるもの”の声は優しい。
責めることもなく、苦しみも孤独も消してくれると囁いてくる。
もう一人で耐えなくていい。
何も抱えなくていい。
すべてを手放してしまえば、楽になれる。
ほんの一瞬だけ。
それを心地よいと思いそうになる。
だからこそ、怖かった。
「私……」
ミレイユの指が震える。
「聞いていると、もう頑張らなくてもいいような気がして……」
クロウレイの表情から、完全に笑みが消えた。
アロイスはミレイユの肩に置いた手を離さなかった。
「聞くな」
低い声。
ミレイユが顔を上げる。
「お前は、お前だ」
真っ直ぐに、ミレイユを見る。
「勝手に混ざるな」
ぶっきらぼうで、優しい言葉でもない。
それでも、妙に真っ直ぐだった。
ミレイユは目を見開いたまま、アロイスを見る。
肩にある手の感触。
目の前にいる人。
自分の名前を呼ぶ声。
少しずつ、呼吸が落ち着いていく。
クロウレイは、その様子を黙って見ていた。
(……本当に、支えられてるねぇ)
帝国へ来てから、自分の知らない時間が積み重なっている。
その中で、この男はずっとこうしてミレイユを現実へ繋ぎ止めてきたのだろう。
そう思うと、少しだけ安心した。
だが同時に、時間がないことも理解していた。
*
その夜遅く。
公爵邸の客間で、ヴァルターとクロウレイが向かい合っていた。
机上には地下構造図と、今日の調査結果が広げられている。
ヴァルターが低く言った。
「確実に反応は強まっていますねぇ」
クロウレイも、いつもの笑みを見せなかった。
「うん、想定より早い」
ヴァルターが資料へ視線を落とす。
「ですが、ミレイユ様をこれ以上深く接続させるのも危険です。このままでは、飲まれる可能性がある」
クロウレイは目を閉じた。
「分かってる」
短い沈黙。
脳裏に浮かぶのは、先ほどのミレイユの言葉だった。
――少しだけ、安心しそうになる。
精神干渉は、恐怖だけなら拒絶できる。
だが、相手が救いの形をして近づいてくるなら。
本人の苦しみに寄り添うように、優しく手を伸ばしてくるなら。
拒絶し続けることそのものが、いずれ負担になる。
クロウレイは小さく息を吐いた。
「だから、急がなきゃいけないんだけどねぇ」
窓の外。
眠りについた帝都の遥か地下で。
今も何かが、ミレイユを呼び続けていた。




