表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/22

第15章

 ここで、話のほうは君貴が飛行機でロサンジェルスへ発つ前のことに、少しだけ戻る。君貴が去っていってしまうと、マキはやはり心許ないような不安な気持ちになった。


「君貴が、帰っちゃって寂しい?」


 玄関口のほうから戻ってくると、マキがなんとも言えない複雑な表情をしているのを見て――レオンはそう聞いた。


「そりゃあね。っていうか、いつもはこんな気持ちになったりしないんだけど……どっちかっていうと、お仕事だから仕方ないと思って、諦めちゃってる感じかな」


「僕も、君貴に言ったことあるよ。ピアノなんて辞めて、君貴が仕事であちこち行く後ろをついて歩きたいって。そしたらあいつ、『ついて来てもいいが、すぐ嫌になるぞ』だって。なんでかって聞いたら、自分はその間仕事のことしか考えてないし、僕がいても透明人間みたいに見えてないも同然の態度しか取れないからだって。あと、飛行機の移動時間も長いとなったら……まあ、君貴はその間も人と連絡取りあったりだのなんだの、仕事してるからいいにしても、放っておかれた僕のほうは『こんなんなら、ピアノでも弾いて人に聞かせてたほうがなんぼかいいや』みたいになるからだって」


「そうよね、わかる」


 マキは、食後のデザートとして切った、林檎を齧って笑った。


「君貴さん、言い方は違うけど、意味としては大体同じようなこと、わたしにも言ってたものね。でも、次に来たら――二人目の子供のことも考えるのに、少し話し合おうって」


 もちろん、君貴はそんな言い方はしていない。けれど、マキとしてはそうした言い方をすることで、遠まわしにレオンのことを牽制しておきたかった。つまり、すべては次に君貴がやって来るまでの間、延長しておく……といったように匂わせておきたかったというべきだろうか。


「いいよ、マキ。そんなふうに予防線張らなくったって、僕にもわかってるから。マキは、君貴との間にならふたり目の子供が欲しい……というか、いてもいいなと思ってる。でも、僕との子は欲しくないってことなんでしょ?」


「違うわ。わたし……あのね、レオン。貴史を生むの、初産だったせいもあって、本当にすごく大変だったの。もちろん、出産経験のある人からは、ふたり目はひとり目に比べて楽だったとか、聞いたりもするんだけど……またあんなに大変な思いをすると思ったら、まだ心の準備が出来てないっていうか。だけど、君貴さんが……えっと、わたしとそういうふうに……子供が出来るようなことをして、それで結果として出来たとするでしょ?そしたらね、やっぱり覚悟を決めて産もうっていうことになるだろうなっていう、これはそうした話なの」


「…………………」


 特別カマトトぶってるというわけでもないのだが、マキは性的な話をする時、ほとんど自分のほうを見ないとレオンは知っている。今もちょうどそうで、彼女は恥かしそうに睫毛を伏せていた。


「ごめんね、マキ。なんか僕、無神経なこと言っちゃったみたいで……でもべつに、そういうことなら君貴に避妊してもらったらいいんじゃないかな」

(僕だって、そうしてもいいし)とまでは、流石にレオンにも言うことは出来ない。


「なんていうか、わたし、そういうタイプじゃないの。だから、君貴さんがもし、子供なんてひとりいるだけでも十分なのに、ふたり目なんてもっといらないっていう考えだったら……わたしのほうでピルを飲むとか、少し考えなくちゃと思ってて」


(もっとも、それ以前に君貴さんにはもうわたしに対してそういう気持ちもないみたいっていうのが一番問題なんだけど……)


「そっか。でも君貴はマキがそんなに色々自分ひとりだけで考えてるって知らないんだね。こんなこと言ったら、マキは気味悪がるかもしれないけど、もし君貴との間にふたり目の子が出来たとして――その時はマキが妊娠してる間から、僕が支えるから大丈夫だよ。何もかも全部、マキのことを第一に考えて、僕がなんでもよくしてあげる。それだったら、安心でしょ?」


「でもレオン……やっぱり、いつまでもこのままってわけにはいかないわ。君貴さんにも話したんだけど、あなたはまたピアノか、あるいはピアノじゃなくても、それ以外のことで忙しくなると思うの。そしたら、わたしのことや貴史のことなんて……ううん。それが当たり前のことだから、レオンのこと責めてるってわけじゃないのよ。ただ……」


「わかってるよ。ようするにマキは、君貴と僕とふたりの間でシェアされるとか、そういうのが耐え難いんだよね?でも、もし仮にマキと僕がそういう関係になっても、君貴はどうとも思わないとか、これはそういう話じゃないよ。どう言ったらいいのかな。君貴はマキのことを僕に対するのとは別のところで物凄く愛してる。ほら、僕がマキと君貴のことを強引に別れさせようとしたあと……あいつ、言ってたからね。『次に他の女と同じことをしたら絶対許さない』って僕が追い詰めるように言ったら、『俺の中で女はマキがひとりだけいればいい』って。その時は、それはそれですごーく腹が立ったけど……今は君貴が何を言いたかったのかが、僕にもよくわかる」


 レオンの意外な言葉に、(君貴さんが、本当にそんなふうに……?)と思い、マキは少しばかり感動した。もちろん、レオンに追い討ちをかけられて、苦しまぎれにそう言っただけかもしれなくても――マキにとってはとても嬉しい言葉だった。


「あと、君貴は自分で、ほんとにそうなのかどうかはわかんないけど、自分では生まれつき女運が悪いと思ってるみたい。耀子さんみたいな素敵な女性がお母さんで、何が不満かって僕は思ったりするんだけど……まあ、君貴は三歳頃からピアノを始めてるわけだよね。で、最初のうちは結構先生任せらしかったんだけど、小学三年生とか四年生くらい?そのくらいの頃からお母さんのピアノを教え込む厳しさが常軌を逸したようになっていったんだって。その中でも結構有名なエピソードが、布団はたきっていうの?お母さんはそういうので、後ろから背中をバシバシ叩いてきたらしい。もちろん、痛くはなかったらしいよ。最初のうちは「そうじゃない!」とか、「もっと力強く!」とかって怒鳴る中で、究極的に腹が立った時には太腿あたりをつねってきたってことなんだけど――君貴曰く、このままじゃ体罰を働いてしまうと感じたらしいお母さんは、布団はたきを使いだしたんだって。「もう一回最初からやり直し」バシッ!、「音が飛んだ!」バシッ!、「もっと速く弾くところよ、そこは!」バシッ!……耀子さんは布団はたきで叩くことによって適度にストレス解消が出来て、ちょうどいいみたいな考えだったんだろうね。ところがある日、子供のあまりの出来の悪さに腸が煮えくり返って、布団はたきを真っ二つにへし折ったって話。ほら、僕もそうだけど、ピアニストやヴァイオリニストって、見た目は繊細そうに見えたにしても、指や腕の力は結構あるからね。耀子さんも、毎日ダンベルで腕を鍛えてるって言ってたし……お母さんを本気で怒らせたら、自分たちもああなると思い、君貴とお姉さんの美夏さんは、その後は必死で練習したらしいよ」


「やっぱり、レオンのほうが君貴さんのこと、本当に色々知ってるのね。わたしは君貴さんの家族の話って、あんまり聞いたことないから……」


「ああ、そうそう。そうだった。でね、このお姉さんの美夏さんっていうのが、弟の君貴のほうがピアニストとして天分があるってわかってて、小さい頃から色々意地悪してきたらしいんだよね。お母さんはピアノの妖怪みたいに怖い、姉の美夏さんは嫉妬の怪物みたいにしつこく意地悪してくる……まあ、異性の身内から受ける影響っていうのは、意識できない無意識の底に沈殿していくようなところがあって、君貴の話によると彼が女嫌いなのは、このふたりの影響が大きいってことだった。ほら、君貴って建築家として建築現場を見て歩くのが大好きだろ?それで、今も建築現場っていうのは女性の出入りが少ない、基本的には男が支配する世界、みたいなところがあって――その雰囲気が凄く好きらしいんだよね。女が一切自分の仕事の中に存在しない世界っていうのが。だけど、そんな君貴もマキと出会っちゃったわけだ。あいつ、言ってたよ。『女が視界にいないと安心だ』ということは、裏を返していえば、それだけ普段から女を意識してるっていうことだって。でも、マキに会う前まではそんなことにも気づかなかったんだって。でね、マキと愛しあえば愛しあうほど、自分の中の歪んだ女性イメージが直っていくようなところがあって……それがたぶん、自分がマキに夢中になってる理由だとかって」


「…………………」


 君貴が、そんなに自分のことを色々考えてくれているとは思わず、マキは胸の奥が熱くなるのを感じた。立ち去り際、彼が強引にキスしてきたことを思いだし、マキは微かに震える手で自分の唇に触れていたほどだった。


「だからさ、君貴は子供を生んだマキにはもう興味ないとかじゃなくて……愛してるんだよ、ちゃんと。だけど、貴史のことは可愛いがれない。なんでだろうね。僕が思うには、たぶん――君貴は三歳くらいの自分のことを、貴史を見るたびに思いだすんじゃないかな。今はまだ無条件に『可愛い、可愛い』でいいにしても、そのくらいになってきたら、何をやらせるかで将来が決まってきちゃうところがあるわけだろ?もしピアノを厳しく教え込むとしたら、お母さんの二の舞に自分もなるわけで、そうしたら、耀子さんの自分に対する育て方は正しかったということになる。一方、子供がなんの特技もない、凡庸な子に育った場合……君貴の中では、この凡庸っていうのはどうも、お姉さんや弟さんのことを指すらしいんだけどね、それもやっぱり、お母さんの教育の正しさの証明みたいになるんだと思うよ。なんでって、自分は子供に嫌われるのを承知の上で、最大限出来る限りのことはやった――その結果については、ようするに今見てのとおりってことなわけだろ?」


「うん……わたしもね、君貴さんのそういう気持ち、なんとなくわかる。わたしも、貴史のことを生んでから、よく死んだお母さんのことを考えるの。お母さんもわたしを生んだ時、こういう気持ちだったのかなとか、そういうことなんだけど……毎日、前以上によくお母さんのことを考えてて――せめて、貴史っていう可愛い孫の顔を見せてあげられてたらよかったのにって」


 この時、マキは涙を流していた。レオンが赤ん坊の頃に母親が自殺していることや、君貴の自分に対する想いや……その他、自分が今いかに恵まれているかということなど、色々なことがないまぜになった涙だった。


「マキ、泣かないで……」


 レオンにしても、マキが何故泣いているのかはよくわからなかった。けれど、ある種の優しさや健気さ、繊細さによるものだとは感じていたので、ソファの上で彼女を抱きよせると、自分に寄りかからせた。


「きっと、マキのお母さんは天国から貴史のことを見て、十分満足してるんじゃないかな。君貴は、耀子さんとは絶縁状態かもしれないけど、お父さんとか、お姉さんの旦那さんとか、弟さんとは仲いいんだよ。なんだっけな。お姉さんの旦那さんは、一流オケに所属するプロのヴィオラ弾きなんだけど……『妻という災厄と結婚生活という試練に日々耐えているだろう彼のことを思うと、同情を禁じえない』とかなんとかって。弟の崇くんのことは、お姉さん以上に凡人だってよく言うんだよねえ。僕も、仕事で会ったことあるんだけどさ、地方とはいえ、自分の名前を冠した音楽祭を毎年開いてるなんて、凄いことだと思うよ。ただ、君貴が言うには、『あいつは周囲に媚を売るのがうまいだけだ』とか、そんなことになるんだね。『結婚して子供もいるから、どうかお願いしますう、僕に仕事ください』って印刷した名刺を四方八方に配って頭を下げまくったからどうにかヴァイオリンで食っていけてるんだって……僕はね、君貴ほど穿った見方はしてない。今の時代、人間力のない音楽家に仕事は来ないっていうのは、僕自身ものすごく感じてることだからね。才能より人間力で仕事を取れるっていうのは、ある意味すごいことだよ」


「そうねえ。わたしも音楽番組なんかで、君貴さんの弟さんを見たことあるけど……ようするに、君貴さんはそういう意味で不器用な人だから、世渡り上手で器用な弟さんを批判したくなるってことなんじゃないかしら」


「そうだよ、マキ!さっすが、わかってるねえ」


 レオンはマキのことを抱き寄せたままの姿勢で、彼女の頭のつむじあたりにキスした。マキとしては落ち着かなかったが、慰めようとしてくれているのに、彼のことを突き放すことも出来ない。


「他に、何か君貴の家族のことで聞きたいことなんてある?もっとも、僕もそんなに色々知ってるってわけじゃないけど……」


「レオンは?」


 マキは、おずおずとそう聞いた。


「その……もちろん話したくなかったらいいの。中国の引き取られた先のご家族のこととか……あと、音楽大学で楽しかったこととか……」


「僕に関心を持ってくれるの?でも、残念ながら僕は、君貴ほど面白い人生を歩んできてないんだよね……でもまあ、雑誌のインタビューなんかでは無難なことしか絶対言わないから、そのあたりの本当のことについてなら話してもいいよ。たとえば、僕がイギリスから中国人の大富豪の家に引き取られたのが八歳くらいの頃だったわけだけど、正直、中国語がさっぱりわからないもんだから、なんで自分がその家に引き取られたのか、ちんぷんかんぷんだったんだよね。僕を引き取ってくれたルイ・ウォン氏には、奥さんとの間に息子と娘がいたんだけど……中国語をある程度覚えてからだね。ただ単にミスター・ウォンが奥さんに対する当てつけのためだけに、僕を引き取ったらしいってことがわかったのは」


「……どういうこと?」


 揺りかごの中で、微かに身じろぎする貴史のことを見つつ、マキはレオンに寄りかかったまま聞いた。


「んー……なんかねえ。金持ちの家っていうのは複雑なのかね。ミスター・ウォンには奥さん以外にも愛人がいたんだ。それもひとりふたりじゃなくね。で、奥さんのほうは北京大学を出てる才女で、仕事のキャリアなんかも諦めて、若くしてウォン氏と結婚したらしい。ミスター・ウォンは成り上がりでお金は持ってるけど、奥さんが持ってるような家柄の良さといったものはなかったから、もともとちょっとそういうコンプレックスとか、実家の権威を笠に着るプライドの高い奥さんに対して面白くないものを感じてたっていうのかな。僕的にはね、もしそうだったとしても、愛人がいるんだから、それでもう十分じゃないかっていう気がするんだけど……ある時、たぶん何かのことで喧嘩したんだね。夫婦喧嘩。で、ウォン氏はどこかから孤児でも引き取って奥さんに育てさせようとしたんだ。なんだっけ。なんかねえ、『あなたみたいな男に本当の愛なんてわからない』とか、『百人の女と寝ようと、あんたみたいな男には本当の愛なんてわかりゃしない。可哀想な人』みたいに言われたらしい。で、激怒したウォン氏は奥さんにこう言った。『孤児院から可哀想な子供を引き取ってきたから、おまえに本当の愛とやらがあるのなら、この子に十分な愛情を注いで育ててみろ』みたいに」


「そんな……」


 マキから同情の気配を感じ、レオンはマキのこめかみあたりにまたチュッとキスした。


「べつに、マキが僕を可哀想がる必要はないよ。なんにしても僕は――子供を育てる気満々なのに、不幸なことに子供の出来ない円満家庭にではなく、お互いに愛情の冷め切ってる夫婦の元に引き取られてきたわけ。里親になるための審査とか、結構厳しいはずなんだけど、たぶん金の力にものを言わせたのかな、ウォン氏は……すでに血の繋がった九歳の長男と七歳の長女がいるわけだから、奥さん――というか、僕にとっては義理のお母さんだけど、イーランさんにとって、僕は最初からまったく必要のない、邪魔なだけの存在だったわけ。結果、義理のお母さんからは透明人間のように存在を無視され、義理の兄のハオランもまた、僕のことを最初から敵視していた。まだたったの九歳なんだけど、妹のヨウランも英語の家庭教師がついてるから、一応英語のほうは向こうもしゃべれたんだ。で、初めてハオランに会って言われたのが、『おまえがいると将来自分の受け継ぐはずの財産が減るから、早くここから出ていけ』ってことだった。妹のヨウランのほうは、性格が内気でね、金髪の外人の子が怖かったのかどうか、かなり長い間話をすることすらまったくなかった」


「つらい思いをしたのね……」


 頬のあたりにキスし返してもらえて、レオンは嬉しくなった。こうしていると、なんだかまるで本物の恋人同士であるように錯覚してしまう。


「そうでもないよ。その前にいた児童養護施設っていうのがひどいところで……存在を無視され続けたにせよ、三食ちゃんとごはんが出て、おやつまであったんだから、僕は環境的には少しは良くなったと子供ながらに思ってたくらいだった。ただ、中国語を覚えるのは拷問に等しかったな。学校のほうは、ハオランやヨウランが通ってる中国人の学校じゃなくて、インターナショナル・スクールのほうへ通わされたから、そこがすごく良かった。みんな英語がしゃべれるし、同級生だった子たちとは、今もすごく仲がいい友達なんだ。僕は今じゃ七カ国語しゃべれるにしても――最初に出会った他言語である中国語は覚えるのが本当に嫌になったね。まず、第一に使う必要性を感じない。イーランさんは家政婦さんに命じて僕が飢えないようにとか、ちゃんとした衣服を着せて学校へ行けるようにとか、そういうふうにはしてくれたけど……僕の顔を見てもほとんどいないかのように無視してたし、ハオランとヨウランは一応英語が理解できる。唯一、ウォン氏に会う時だけ、どの程度中国語をしゃべれるようになったか調べられるから、そのために一生懸命覚えようとしたもんだよ。あと、中国語を教えてくれた教師がさ、ハオランとヨウランに英語を教えてるイギリス人でね。中国語・日本語・イタリア語・フランス語・ドイツ語が話せて、異様なくらい人に言語学を教えることに熱中してる男だったんだ。もっとも、優秀な教師だったにしても、教え方はひどかったけどね。ちょうど、君貴にピアノを教え込んだ耀子さんと一緒だよ。『どうしておまえの舌はこうも発音が下手くそなんだっ!』て言って、よく僕のほっぺをつねってきた。『おまえの舌をペンチでねじって引っ張ってやりたい。そうしたらおまえのまずい発音も少しはマシになるだろう』なんて、イライラしながらしょっちゅう言ってたもんだよ。スタンフォード先生ならやりかねないなと僕は思い、最初は恐怖、そのあとスタン先生の言語学に対する情熱に打たれるような感じで、僕は少しずつ中国語がうまくなっていったんだ」


「ピアノは……九歳の頃からはじめたんでしょう?」


 そんな過酷な環境の中で、レオンにとってはピアノだけが救いだったのだろうか――マキはそんなことが気になって、ふとそう聞いた。


「まあ、相当遅咲きだよね。普通、ピアノのコンクールを目指してるような少年・少女は、君貴や彼のお姉さんみたいに、三歳とか四歳、あるは五歳とか、そのくらいから始めるっていうもんね。そこんとこいくと、僕なんか九歳だもんね。僕がピアノに初めて興味を持ったのは、ヨウランが弾いてたピアノの音色によってだった。兄のハオランのほうはヴァイオリンを習ってたんだけど、イーランさんには特に自分の子供をプロにしようという意向はなかったみたいなんだ。とりあえずひとつの教養として習わせておこうみたいなね。僕はヨウランのピアノの先生に掛け合って、自分にもピアノを教えて欲しいと言った。もっとも、僕はその時点で楽譜を読むことも出来なかったし、彼女は今も言ってるよ。『レオン・ウォンにピアノの天分があるとは、最初の頃はまったく思いませんでした』ってね。とにかく僕は、ピアノという楽器が好きだったんだ。一生懸命ピアノに打ち込んでると、過去にあった嫌なことを忘れることが出来た。だから、反復練習がまったく苦じゃなかったんだよ。で、音楽と何かの言語を覚えることっていうのが、どう関連づけられるものなのか、僕にもわからないんだけど……なんでも、嫌々ながらしつこく繰り返すうちに、ある瞬間に臨界点を突破する地点のようなものがあるんだろうね。中国語を覚えるのが苦痛でも、そのあとにピアノっていうご褒美があると思えば、前以上に集中して勉強することが出来るようになった。あと、僕はかなり早い段階からソヴィエト・システムっていうものに対して、本で読んで強い憧れを持ってたんだ」


「ようするに、ピアノやヴァイオリン、あるいはスケートでもなんでも――何か突出した才能のある分野に関して、国がお金を出してくれて、その才能を伸ばすようにさせてくれる制度のこと?」


 この時、マキの頭にパッと思い浮かんだのは、ピアニストのスタニスラフ・ブーニンやウラディーミル・アシュケナージ、あるいはオリンピック金メダリストのエフゲニー・プルシェンコのことなどだったろうか。


「そうそう。エリザベート・コンクールで一位になったエフゲニー・モギレフスキーなんて、コンクールの前に卓球してたっていうくらいだからね。ようするに、国の威信がかかってたり、家族も経済的なことを含め、そこにすべてを懸けてるわけだから、本人に失敗は許されないわけだろ?だから必死に練習するし、そのための環境もすべて最高かそれに近いものを与えられて、ピアノならピアノだけ、陸上なら陸上競技だけに集中できるようにさせられるわけだから……逆にいうと、本人に他にやりたいと思うことがあっても、そうした自由はないわけだよね。僕にはそういうプレッシャーは何もなかったけど、ソ連時代の芸術家はみんな大変だったんだ、それに比べたら僕なんかなんだと思って、とにかくピアノに熱中した。正直、今も僕自身よくわからないんだよね。僕の演奏で、なんであんなに聴衆が熱狂してくれたのかが」


 天才、と呼ばれる存在は、案外そんなものなのかもしれない――と、マキはレオンを見ていて思わなくもない。レオンは、マキの持っている彼のCDジャケットを見て、『絶対こいつナルシストだって、マキも思っただろ?』と言って、笑っていたものだ。『でも、実際の僕って案外普通だと思わない?ファンの子たちはみんな、僕がピアノを弾く以外のことは召使いにさせてるみたいなイメージらしいんだけど、料理だってすれば洗濯だって自分でするしさ、実際は全然普通だよ』と。


「でも、ピアノを子供たちに教えてる先生たちにとっては、レオンのピアノ技術はやっぱり驚異以外の何ものでもないんじゃないかしら。三歳とか四歳くらいからピアノをはじめる子たちっていうのは、たくさんいると思うけど……九歳でピアノをはじめて世界的なコンクールで優勝してしまうだなんて、審査員の先生の言い種を真似るとしたら、誰にとっても『アメージング!』としか言いようがないことのような気がするんだけど」


「まあ、僕にはそもそも失うものなんて何もなかったからね。コンクールの様子を小刻みに震えつつ見守ってくれる家族もなかったし、とにかく僕が意識してたのは自分とピアノと、コンクール前に卓球してたっていうモギレフスキーのことだけだった。もっとも、僕には卓球する精神的余裕なんてなかったけどね。ミスター・ウォンの病状が悪くて、優勝できたらウォンさんが喜んでくれるだろう――っていう気持ちは多少あったけど、ちょうど、最終審査の時だね。僕がショパンのピアノ協奏曲を弾いてる時に亡くなったって、あとから聞いて知ったんだ。変な感じだったよ。僕はもし自分がプロのピアニストになることさえ出来れば、これからはウォン家に頼らなくても独りで十分やっていかれるってことにすべての望みを託してたのに……彼は、最後まで奥さんに対して面白くない感情を抱いてたのかどうか、ハオランやヨウランよりも僕に一番多く資産がいくよう遺言してたんだ」


 マキはこの時、以前君貴が言っていたこと――『あいつはピアニストなんか辞めても、十分食っていけるだけの資産があるからな』といった科白を漠然と思い出していた。ゆえに、今は気が向いて赤の他人の子を育てるのに熱中していても、確かにそうした意味で困ることはないのだろう。

「まあ、ウォンさんは確かに変わってたよ。言ってみれば、今の君貴と一緒だ。奥さんよりも愛人のうちの誰かにいつも熱中していたし、ふたりいる子のうち、どちらにも愛情を抱いていなかった。しかも、僕にピアノの才能があるらしいとわかるやいなや、『あの豚児どもも、君みたいに何かの分野で才能があればよかったんだが』なんて言うんだぜ?まったく、ひどい父親だよ。で、事業のほうはいずれハオランが継ぐようにってことで、いわゆる帝王学っていうの?そういうことも教え込んでたらしいんだけど、最後に会った時、彼はこう言ってたよ。僕のほうがよほど事業家として才覚があると思うって。でも、奥さんとの約束でそういうわけにもいかんとかなんとか……だから、僕も結構困っちゃうんだよね。中国人に引き取られたからって、僕には中国のことなんて今もさっぱりよくわからないのに――中国が何かのことで槍玉に挙げられたりすると、『母国の現状についてどう思われますか?』なんて聞いてきたりするんだから。僕にしてみたら、『ただのピアノ弾きの僕に、政治のことなんか聞くなよ』っていう感じなんだけど、香港や台湾、チベットやウイグル問題のこと以外では、割と曖昧にぼかした言い方をしたりね。なんかそんな感じ」


 レオンはウイグル問題のことでかなり厳しく中国を批判するコメントを出したことがあり、なおかつ、台湾や香港の立場を擁護し、そのためのチャリティー・コンサートを開いて拍手喝采を浴びたことがある。中国当局はこのことを受けて、レオン・ウォンを監視しているのではないかという噂があるのだが、真偽のほどはわからない。


「レオンは、立派な人だわ。十分すぎるくらいの資産があって、それを世の中のために役立てたり、今までだって数え切れないくらい、災害のあった国でチャリティー・コンサートを開いたり……」


「まあね。マキは僕のこと、天才だとかいい人だとか、色々褒めてくれるのは嬉しいんだけど……結局、男としては見てくれてないってことなんだろうね。確かに僕はその後、ジュリアードに進んで、ピアノの学士号と修士号を取りはしたけど――その間も、結構モテることにはモテたんだよ。だけど、女性とは誰も、そうした関係にはならなかった。その僕が、こんなに頼んでるのに……」


 不意に、ぐっと腰に回された腕に力がこもり、マキも少しばかり慌てた。彼自身が自分でも言っていたとおり、レオンは細身で繊細そうに見えるのに、確かに腕力だけは相当あるようだった。


「れ、レオンっ!貴史が見てるし……ほらっ!よ、よくないわ。子供の前でこんな……」


 ソファの上に押し倒されても、マキはどうにか首を逸らせて、レオンにキスさせようとはしなかった。貴史はぐっすり寝ているので、彼女の言っていることはただの言い訳にすぎない。けれど、レオンはふっと力を抜くと、マキの体から離れた。そもそも最初から、彼にもマキに対し無理強いする気などない。


「わかってるよ。僕はね、一応マキがその気になるまで、待つつもりでいるから……どうせあれだろ?君貴には、僕がそのことでぶんむくれてても放っておけとでも言われてるんだろ?あいつ、それ以外にも僕のことで何か言ってた?」


「ううん。特には……あっ、でも、もしレオンが出ていったとしても、追いかけたり心配したりしなくていいとかって、それは言ってたような気がする。あとね、わたしが今こんなふうに言うのは、レオンに出ていって欲しくないからなの。もし、レオンが出ていくとしても、ちゃんと話しあって、またいつでも気兼ねなくここに遊びに来れるような形でって、そう思ってるから……」


 レオンは、また元の通りの彼に戻ると、マキの肩を抱きチュッとこめかみのあたりにキスした。


「優しいね、ほんとにマキは……普通は、『そんなことするんなら出てって!』って怒って言うところなのにね。あと、君貴が言ってたあれってほんと?僕が天使みたいに見えるから、セックスの対象としては見られないだとかっていう話」


 マキは頬を赤らめて、また睫毛を伏せた。こういう時、男のほうでは最高にそそられるということを、彼女は理解してないのだろうと思うと、レオンとしては何か堪らなかった。


「う、うん……だって、レオンったら、家のことはなんでもやってくれちゃうし、わたしにとってはほんとに完璧な家庭の天使みたいに見えるんですもの。それなのに、それ以上何かだなんて――あっ、あとね、君貴さんも言い方悪かったと思うの。わたしが言ったのは、わたしとそんなことになっても、レオンががっかりして気まずい思いをしてここから出てくだけだっていう、そういうことだもの。貴史の面倒は見たいけど、わたしとは別れたいみたいな?お互い、そんなふうになったりするより、今のままでいたほうがいいんじゃないかなと思って……」


(そんなことにはならないと思うけど)と、レオンはこういう時、マキが自分のほうを見ないとわかっているため、彼女の横顔をじっと見つめていた。(可愛い、マキ……最初の頃は、君貴が清らかだなんだとかって言うたびにむかっ腹が立ったもんだけど、今は僕にもよくわかる。僕のほうが天使っていうんじゃなくて、マキのほうが天使のような清らかな眼差しで僕を見るから、そういうふうに見えるんだろうなっていうことがね)


 けれど、持久戦続行ということになっても、レオンはまったく望みを捨てていなかった。むしろ、今まで彼に秋波を送ってきた数々の女性のことを思うにつけ、彼にとってマキはそうした女性たちとはまったくの別格といってよかった。レオンにとって女性というのは、大体のところ二種類に分けられる。彼と交際する・(最終的に)結婚する・(一夜限りでも良いから)セックスしたい……といったことをはっきり前面に押しだしてくる女性と――もうひとつのタイプはファンの女性に特に多いのだが、レオンのことをほとんど神格化したような存在、あるいはアイドルと考えており、まさしく偶像として拝むが如く接し、握手しただけで倒れるばかり……といったタイプの二種類である。つまり、そのちょうどいい『間』の普通に接してくれる女性というのに、レオンはあまり会ったことがない。いたとすれば、中国にいた頃、インターナショナル・スクール時代を共に過ごしたクラスメイトくらいなものだったろうか。


 そして、レオンにとってマキはこの中のどこにも該当しなかった。あまりグイグイ来る女性にはどん引きしてしまうし、そもそもファンの子に手を出すなど論外ではあるのだが、それでもあんなに崇め奉られる対象として見られるということ自体、レオンは今もどこか重荷に感じるところがある。そもそもレオンは、女性全般に対し、誰に対しても平等に優しかったので――おととしの冬、大晦日に彼がマキに対してやってのけたことは、例外中の例外だったといえる。だがその後、カールから色々と事情を聞くにつけ、自分が大人しい犬に対して虐待を働いたような、苦い後悔の思いを味わうことになった。その上、もう二度と会うこともないだろう……と思っていたのに、何故今こんなことになっているのか、レオンとしても不思議で仕方がない。


「あのさ、マキ。君貴にスイッツァランドの話をしたことあるだろ?」


 そんなことまで知っているのか……そう思い、マキはまた顔を赤らめた。彼らは一体どこまでお互いに情報を共有しあっているのだろう。


「ええ。わたしの空想上のスイスの話なんだけど……簡単にいえば天国というか、理想郷というか、何かそんなところなの」


「その話を聞いてて思ったんだ。君貴はさ、だからスイス人はみんな、天国に住んででもいるように善良なんだ……なんて、そんな十字架背負わされても、スイス人だって困っちまうよな、なんて笑ってたっけ。でも、マキはもうすでにスイッツァランドに住んでるんだよ。そのこと、知ってた?」


「え~っと……」


 レオンが何を言いたいのかがわからず、マキは戸惑った。


「つまりさ、ここ日本こそが、世界の多くの人たちにとってのスイッツァランドってことなんだよ。アフリカの発展途上国へ行くと、そのことがよくわかる。日本からやって来た人たちが運営してる孤児院とか学校とか病院とか……そうした活動をしてる日本人を見て、たぶんそんな素晴らしい人ばかりがひしめいてると思うんだろうね。一度でいいから日本へ行ってみたいって子供たちが言うのを、そういうところではよく耳にする。もちろん、わかってるよ。実際に日本へ来て住んだら、彼らはこの日本にも日本人にも失望するんじゃないかって思うだろう?でも、やっぱり僕は日本っていうのは特別な国だと思う。ほら、ヨーロッパの中で、イギリスだけヨーロッパじゃないみたいに感じるように――日本はアジアの中の一国って感じじゃない。他のアジア諸国とはまた別個の、別格の国だみたいに感じる人は多いんじゃないかな」


 マキには、レオンが何を言いたいのかわからなかったが、とりあえずただ黙って聞いていた。君貴にも大体似たようなところがあり、テレビのニュースを見ながら、彼はほとんど独り言のように自分の政治的意見を述べたりしていたものだ。


「そうよね。そりゃ、スイスの人たちが困惑するのは当然よね。わたしだって、そこまで何か高い道徳的人格みたいなものを求められたりしたら、なんだか重荷だもの。ただ、わたし……小さい頃に公園のトイレで女の人が首を吊って自殺してる遺体を見てしまったことがあるの。でね、まだ八歳とかそのくらいだったから、そのことがすごくショックで、どこの誰かも全然知らない女性だけど、そんな素敵な天国みたいなところに彼女の魂がいるといいなって思うことにしたっていうか」


「それは……すごくショックだっただろうね。一種のトラウマだ。どうやって乗り越えたの?」


「うん……その頃はまだお父さんとお母さんが離婚してなくて、お父さんが少し、参考になるような話をしてくれたの。お父さんが大学生だった頃、偶然交通事故の現場を見ちゃって、それが相当ひどい現場だったらしいのね。道路で車に跳ね飛ばされた男性が、ぽーんってゴム鞠みたいに飛んできたかと思ったら、お父さんのすぐそばでグシャッと脳天が潰れて即死したっていうことで……その時のカッと両眼の見開いた恐ろしい顔をまともに見ちゃって、その場でおえっと吐いちゃったんですって。そのあと二、三日は食欲なかったけど、大体二週間くらいしたら、だんだん事故の記憶も薄まってきて、どうにか日常生活に戻れたって……」


「でも、大学生と八歳の子供じゃ、負った心の傷の大きさが違うよ。児童精神科医に見てもらったりした?」


 マキは、物凄く真剣な眼差しで見つめられて、この時もドギマギした。こんな話、君貴にもしたことはなかったし、大体マキは彼がその時々に応じて話したいことを頷きつつ聞いていることが多い。


「ううん。お母さんはね、そういうところに相談に行こうと思ってたみたいなんだけど、わたしもね、最初は物凄くショックで寝込んじゃうくらいだったにしても、すぐ学校にも通いはじめたし、完全に忘れたとか、最初のショックがなくなったわけじゃなくても――まあ、日常生活は支障なく過ごせるような感じだったから」


「そっか。つらい思いをしたんだね……」


 レオンがあまりに真摯な様子で、また自分を抱きしめてきたので、マキはうまく茶化そうとした。


「ついでに、少し変な話してもいい?わたし、ここに引っ越してくる前まで、築四十年くらいの古いアパートに住んでたの。でね、君貴さんに最初、マンションを用意してやるから、腹の中の子と一緒にそこへ引っ越せって言われたんだけど……すぐには承知しなかったの。貴史のことは自分ひとりで育てるつもりでいたし、君貴さんにそんな形で迷惑かけたくなかったっていうのがあって。でも、すごく君貴さんに説得されたのね。その時、『前から言おうと思ってたんだが、マキのその部屋で、絶対誰か人が死んでるんじゃないかと俺は睨んでる』って言われて……確かに、真下の階にはおかしな人が住んでばかりいるから今は空室になってるけど、わたしの部屋では変なことなんて起きたことないってきっぱり言ったの。だけど……」


 レオンは、その件についても君貴から聞いていたが、あんまり『あれもこれも知ってる』なんて言うと、マキが気味悪がるのではないかと思い、ただ黙って彼女の話を聞いていた。


「そしたら君貴さん、バスルームが綺麗すぎるなんて言うの。確かにね、古いアパートかもしれないけど、内装のほうはわたしが入った時から新品みたいにすごく綺麗なところだったの。特にバスルームの壁が、すごくお洒落な透かし模様が入ってたりして……君貴さん、下の階はどうなってるんだと思い、鍵も開いてたから中を見てみたんですって。そしたら、話にもならないくらいひどい有り様だったっていうの。『そりゃもう何年も人が入ってないんだから、そうでしょうよ』なんて言い返したんだけど……『俺は幽霊の類については信じないが、人を変な気にさせる部屋のようなものは確かに存在すると思ってる』って、君貴さんは言うのね。その時はわたし、少し意地になってたこともあって、『とにかく君貴さんのお世話にはならないから、放っておいて!』みたいに言って、ガッチャリ電話を切ったの。でも、そのあとからなんとなく気になってきちゃって……こんな話、馬鹿みたいだってレオンも思うと思うけど……」


「いや、マキのことを馬鹿だなんて、僕は全然思わないよ。なんだっけ。下の階のほうは、家賃踏み倒して夜逃げしたり、自殺未遂騒ぎを起こしたりするような、そういう人ばっかりが住む宿命にあるような部屋だったんだよね?君貴はね、実はマキの住んでる部屋でそういうことが色々起きてたんじゃないかって疑ってたみたい。だから、そんな場所にマキのことを置いておくのが心配だったんだよ」


「うん。わたしも、可愛くないわよね。結局、こんなふうに住むことになるんだったら、最初から『はい。ありがとうございます』って言ってれば良かったのに……でも、君貴さんにそう言われてから、なんだか落ち着かなくなっちゃったの。わたしね、友達のひとりが物凄い占い好きで、すごくよく当たる占い師がいるって聞いても、絶対そういうところに行きたくないのよ。なんでって、自殺した女性の霊が憑いてるとか、そんなこと言われたりしたら――なんだかすごくいやだなと思って」


「なるほどね」


 レオンはまたマキのことが可愛くなって、彼女のほっぺのあたりにチュッとキスした。もちろん彼にはわかっている。その頃はまだマキと自分は今のような関係性ではなかったから、彼女は気を遣ったのだ。そんな愛人にマンションを与えて囲うような真似をして、恋人である自分が喜ぶはずがない、といったように。


「確かに、僕も占いの類や幽霊といった話は信じないけど……でもこれは、占いは当たらないし、幽霊は存在しないって言ってるんじゃないんだよ。まあ、占いについてはせいぜいのところを言って参考程度、幽霊はいたにしても、死後の霊の世界がどうこうとか、いくら研究したところでわかるってわけじゃない。でも、僕も君貴と同じでね、人に変な気を起こさせるというのか、そうした部屋というのは存在するっていうのはわかる気がする。ほら、僕のこの仕事だと、世界中のホテルにあちこち泊まらなきゃならない。それで前に一度だけね、僕もおかしな経験をしたことがあるんだ。ロンドンにあるホテルでのことだったんだけど……夢の中にね、中世のドレスを着た女性が出てきたんだ。マリー・アントワネットとか、クイーン・エリザベスⅠ世とか、大体ああいう肖像画に描かれてるのに近いような衣装の女の人。で、べつに何か向こうから話しかけてきたわけではないんだけど――すごく、何か言いたげなんだよね。気配としては物凄く悲しげな雰囲気で……次の日、クローゼットとかバスルームとか、戸棚とか、扉や引き出しという引き出しが全部開いてたんだ。かなりのところぞーっとしたね。一応、隣の部屋にいたマネージャーにも話を聞いたけど、自分は何もしてないっていうし、ホテルのマスターキーを持った人が夜中にそんなことをするはずもない。僕は幽霊の仕業みたいに今も思ってるけど、かといってそれを証明することも出来ないっていうか」


 突然、マキがレオンにひしっ!と抱きついてきたので、彼は驚いた。彼女はいつも、レオンが抱きしめても、キスしても――そういう意味ではないとわかる時しか、抱きしめ返したり、キスし返してきたことはないからだった。


「あれ?もしかしてマキ、幽霊の話とか、そういうのに弱いほう?」


「う、うんっ!わたし、ホラー映画とかもまるっきり駄目なの。怪談なんて聞いた夜には、トイレに行くのが怖いってタイプ」


「そっか。ごめんね。怖がらせちゃった」


 レオンはマキのことを胸に抱くと、彼女のつむじのあたりにまたキスした。(こうしてると、本当の恋人同士みたいなのにな)と、『気長に待つ』と先ほど思ったばかりなのに、その決意が揺らぎそうになってしまう。


 けれどその後、レオンのほうで計画的にマキにホラー映画を見せたということではなく――彼女の同意を得て、レオンの望みの叶う日が、ほどなくしてやって来た。君貴がロスへの機上の人となってから三週間ほどは、前と同じ日々の繰り返しといったところだった。と言っても、きのうやおとついをコピー&ペーストしたような今日という日の繰り返し……ということではなく、その頃の貴史の成長には目覚しいものがあったといえる。『はっぱ』とか『パパ』と言った翌日には、『ママ』とか『まんま』と言うようになった彼は、レオンがおもちゃのラッパを鳴らすのを聞いて、今度は『らっぱ』という言葉を発したり、おもちゃのピアノをばんばん鳴らしては、「きっとこの子は将来天才ピアニストになるぞ!」とレオンに言わしめたり……あるいは、貴文がハイハイする様子をレオンが飽きもせずえんえんとホームビデオに収める姿を見て――マキの良心は疼いた。


 君貴であればおそらく、「良心じゃなくて子宮が疼いたの間違いだろ?」としか言わなかったかもしれない。ただ、レオンが完全に自分の同意を得るまでは<待つ>という徹底した紳士的態度を取ったことで……マキは、この状態がこの先も続くのかと思うとつらくなったのだ。禁欲的な生活が、ではなく、完璧な専業主夫にも等しいレオンの優しさをひたすら受け容れるだけで、彼の望みについては一切無視し続けるというそのことが。


 もっともマキは知らない。レオンのほうでは、彼女が時折罪悪感に苦しむような顔つきをするのを当然承知しており、(よしよし、きっとあともう一押しだ)などと、ルンルン気分で待っていたということなどは。


 きっかけは、マキが体調を崩して仕事を一日だけ休んだ日のことだった。朝起きた時から体がだるく、ふらついて起きてきた彼女に対し、レオンはいつも通り――いや、いつも以上に優しかった。結局、マキはレオンに甘え、薬を飲んでベッドへ横になっていることにしたのだが……美味しいおかゆや卵焼きを作ってくれたり、隣の部屋から「ああ~ん。ああ~ん」と泣く貴史をあやす彼の英語の子守唄を聞くにつけ、マキはなんだか涙が出てきた。


(レオンがいなかったらわたし、今どうしてたかしら。この程度だったらやっぱり、無理してでも会社に行ってたわよね。それに、この三か月くらいの間、本当に楽しかった。ほんとに、神さまがわたしに天使を遣わしてくださって、楽をさせてくださったみたいに……レオンがいなくなるのはつらいわ。でも、今のままでずっといるのも、わたしにとってはつらいことだもの。何より、時々レオンが意味ありげにわたしのことを見るのに、それを無視し続けるっていうのが……)


 そのことを思うと、マキは自分がずるくて卑怯な人間で、ただレオンのことを都合よく専業主夫として利用しているだけではないかという気がしてきた。その罪悪感と君貴に対する罪悪感とが、マキの中ではせめぎあい続けていたものの――レオンが去っていくのを覚悟の上で彼の望みを叶えたところで何になるのだろう、とはマキにはあまり思えなくなっていた。むしろ、それでレオンがようやく納得してここを出ていくとのだとしたら、それが彼にとっては時間を最小限無駄にせずに済むことなのではないだろうか?そして、そうなれば自分は君貴のことも同時に失うことになる……マキは何よりそのことを怖れていたが、善意の天使にこのまま何も与えずこき使い続けることに対しても――激しいジレンマを感じていたのである。


 この日、レオンは貴史が眠ってしまうと、マキの様子を見にきたわけだが、夕食を作る前に彼女の部屋へ行ってみると――マキがベッドに横になったまま、涙を流しているのに気づいた。


「どうしたの、マキ?もしかして君貴のこと?」


「ううん、違うわ。あなたのことよ、レオン……」


 この時レオンはてっきり、自分の不幸な過去のことでも思って、マキが涙を流しているのかと思った。それで、ベッドの上に体を起こしたマキの隣に座ると、ぎゅっと彼女の腰のあたりを抱き、自分のほうへ寄りかからせた。


「いいんだよ、僕のことなんてべつに……それより、体の調子はどう?僕もね、だんだんに君貴の言ってた言葉の意味がわかってきたよ。週六日も働かせて、有給休暇もないだなんて――確かに事業主はヤクザのブラック企業としか思えないよ。もちろん、マキが仕事を辞めたくない気持ちもわかるし、だからどうしたらいいかはわからないけど……」


「違うわ、レオン。ただわたし、自分のことをなんてひどい人間なんだろうって思ってたの」


 マキが何を言わんとしているのか、レオンにはすぐピンと来なかった。勘の鋭い彼にしては、珍しいことである。


「そんなことないよ。マキは善い人間だよ。僕はね、マキには心か広くて優しい人間に見えるかもしれない。でもそれは結局、マキがそういう人間だからだよ。逆に僕は、僕のことを利用しようとしてきたり、なんらかの形で搾取しようとしてくるような奴には敏感だからね。一応、表面上はニコニコして、社会的な礼節は守っていたにしても――なんらかの形でうまく意趣返ししてやろうとは絶対に思う。でも、こんなに優しくて穏やかな気持ちでずっといられたのは、今が初めてだ。僕ってこんな人間だったっけって、時々自分でも思っちゃうくらい。僕はね、君貴に対してもこんなに優しくはなかったよ。なんでって、あいつは男と一夜限りとはいえ遊んだりだの、そんなことをしては僕のことを苦しめてきたからさ。でも、そんなことにも慣れて、あいつにとってほんとにそれはただの『遊び(ゲーム)』なんだってわかってからは……まあ、僕だけ特別で、他の男とは本当にただのお遊びなんだって割り切ることにした。だけど、そこに来て今度は女が相手だっていうんだから――そんなの、僕が怒って当たり前のことじゃないか」


「そうよね。本当にわたし、なんて言ったらいいか……」


 ぐすっと鼻をすするマキに、レオンはティッシュを差し出した。(マキは泣いていてすらセクシーだ)と、彼は思っていた。


「べつに、マキは何も悪くないよ。それに今は、結局のところ何もかもこれで良かったんだ。君貴の奴、マキとつきあいはじめた最初の頃、こう言ってたことがある。『自分にとってこのことがどういう意味を持つのか見極めたい』って。その時僕が思ったのはね、相手の女性が君貴がのちにゲイだとわかったらどうするのかってことだった。そんなふうにその子のことも僕のことも傷つけて、あいつだけがいい思いをするのか――なんて、思ったりもした。まあ、でも今はね、わかるんだ。僕だって、酔っ払ってもしマキとそんな関係になったとして……そしたらやっぱり思うと思う。自分は女性は駄目だと思ってたけど、本当にそうなのかとか、色々ね。もっとも、君貴の場合はもともとは異性愛者だったわけだから、なんの不思議もない。その上、子供まで出来たら――言ってやりたくなるよね。『これがおまえが最初に言ってた、どういう意味を持っているかの意味ってやつなんじゃないの』って。それなのに、子供が出来たら今度は『ガキなんか嫌いだ』だって!?ほんと、信じられないよ。その上、貴史はあんなに可愛いっていうのに……」


「レオン、わたし、もういいわ……」


 マキは目尻の涙をティッシュで拭うと、それをぽいと屑篭に捨ててそう言った。


「ええっ!?何がいいのさ。君貴の奴はほんとにわかってないよ。もし僕が今ここにこうして来てなかったら、あいつはほんとにマキと貴史のことをほっぽっておくつもりだったんだ。こんなタワマンの最上階を与える程度のことで、父親として何かした気にでもなってるんだかどうなんだか……」


 いつもは驚くほど勘のいいレオンが、さっぱりわかってないらしいとわかり、マキは彼の首に両手で抱きつき――そして、自分からかなり強引にキスした。レオンにも、今度ばかりは流石に意味が通じたようだった。


「マキ……嬉しいけど、急にどうしたの?」


「急にってわけじゃないわ。前からずっと考えてはいたの。でも結局、レオンほど才能のある人をここにこのまま縛りつけておくのも心苦しいし、あなたがわたしにがっかりすることはわかりきってるけど……レオンほどの人にただの専業主夫でい続けてもらうっていうのも、やっぱりそれはそれでつらいのよ。それで、そうしたほうがむしろ、あなたにとって自由になる時の来るのが早まるんじゃないかってことに、最近気づいたの」


「そっか。じゃ、べつに僕の男としての魅力にめろめろだとかって理由じゃないんだね。それは残念だけど、別の意味では嬉しいよ。というより、最初の動機なんてなんでもいいんだ。僕は女性に対してこんな気持ちになったのは生まれて初めてだから……僕の童貞をマキがもらってくれるとしたら、すごく嬉しい」


「ううん。わたしはもうずっと前からあなたにめろめろよ。それに、相手がわたしじゃなくても、レオンの童貞を欲しがる女の人は、軽く五百メートルは行列が出来るくらいいるんじゃないかしら」


(やられた!)と思ったレオンは、このあとかなり激しくマキにキスし、彼女のほうでも彼の情熱に応えてくれた。レオンは、この機会を逃してしまい、一時間も時が経過したら、またマキの気が変わってしまうのではないかと怖れるあまり――発情期のライオンが激しく雌ライオンに襲いかかる時のように、そのままマキのことをベッドの上へ押し倒していた。


 この時、マキが心の奥深くで怖れていたことは起きなかったし、そして同時にレオンが怖れていたことも起きなかった。つまりは、彼は心の望みのものを手に入れ、マキのほうではただ、レオンの情熱的な愛撫に身を任せていればよかったのである。


「嬉しい……マキ。たぶん、僕のほうでマキのことを愛しすぎてて、好きすぎるせいだね。こんなにセックスがいいものだなんて思ったこと、僕はなかった気がする」


「君貴さんのことは別でしょ?いいのよ、わたしにそんなに気を遣わなくて……」


 情事のあとも、レオンはマキの肩やら背中やら、あちこちにキスし続けるのをやめないくらいだった。マキのほうでは、君貴がどうこういうより以前に、今はただ恥かしい気持ちのほうが勝っていたといえる。ある意味、君貴に初めて抱かれて処女を喪ったあの夜よりも……まったくの素面であるレオンに「愛してる」とか「本当に好きなんだ、マキ」といったように何度も囁かれつつ、心のこもった優しい愛撫を受け続けることのほうが――まったく別の意味で耐えがたかったかもしれない。


(たぶんきっと、こういう時のためにお酒の力っていうのは必要なのよ。そしたら、なんとなく色々なことを誤魔化せるから……)


 けれど、そう思うのと同時に、レオンの純粋な気持ちがマキは嬉しくもあった。お互いに、そのことをはっきり口にしたわけではなかったものの、ふたりの間で君貴のことは問題にならなかった。レオンはレオンで、彼のことをマキとはまた別の心の領域で深く愛し、それは彼女にしてもまったく同じなのだということが――ふたりにとっては、わかりすぎるほど理解できることだったからである。


「気なんかまるで遣ってないよ」


 レオンは十代の少年が、年上の恋人に対し腹を立てる時のように怒って言った。


「でも、もしかしたらその『わかってない』っていうことが、マキのいいところなのかもしれないね。そもそも、マキはたぶんヨーロッパやアメリカあたりでのほうが、絶対もてると思うな。なんだっけ。君貴も言ってたことがある。日本の男は『カワイイ文化』にやられてるとかって話。そしたら、カールもそうだって言ってたよ。本当の意味で自分より知的で教養があったりすると、そんな女は脅威だし、ましてや背が自分より高かったり、レスリングなんかやってたらまったくもって論外だというような、ある種の傾向だね。君貴曰く、それは深層心理における支配欲の問題だってことだった。日本ではね、いわゆる<人間はわかりあえる>っていう性善説が信じられてるけど、欧米人は逆なんだよ。<我々はわかりあえない>、<でもだからこそ、わかりあう努力をしなければいけない>っていうね。だけど、その恋愛論でいくとどうなる?可愛くて自分にとってわかりやすい、支配しやすい女と結婚したいってことになるんじゃないのか……っていうような話」


「君貴さんらしい分析ねえ」


 マキはそう言って笑った。お互い、情事のあとでさえ、君貴の名前が邪魔になるようなことはこれから先もないだろうというのは――マキにとっても少し、不思議な感じのすることだった。


「まあ、確かに君貴さんは195センチあってわたしよりも背が高いし、レオンだって185センチもあるんだものね。テレビとか、DVDの映像で見てた時はわたし、レオンってそんなに背が高いと感じてなかったんだけど……そういえば、ラフマニノフは身長が二メートル近くもあったんだっけ。手も大きかったから、ドから一オクターブ上のソまで左手で押さえることが出来たとかって……」


「羨ましい話だよね。ピアノ協奏曲の第2番の最初のほう、僕もちょっと指が届かないから、そのあたりは誤魔化すしかないんだよ。リストも指が長くて、12度の音程を軽々押さえることが出来たってことだけど、でもリストの場合は小さい頃から指を伸ばす訓練をしてたってことだからねえ。天与の恵まれた体の条件と、幼少時からの訓練と……なんにしても、ピアニストっていうのは恐ろしい生き物だよ。なんの保障も保険もなく、たったこの十本の指だけを頼りに生きていくだなんて、僕には気違い沙汰のようにしか今も思われないね」


 マキはここでくるりと振り返ると、レオンのことを抱きしめた。リスト以降、彼のようなピアニストは決して生まれないということだったが、コンサート中やコンサート後に女性が失神するなど、彼はフランツ・リストの再来ではないかと、以前はよく騒がれていたものである。


「本当に、綺麗な手……むしろ、女のわたしの手のほうが、よっぽど無骨でみっともないわ。ピアニストをやめるんだったら、手タレになるっていう手もレオンにはあるんじゃない?」


「僕は、マキの手がすごく好きだよ」


 そう言って、レオンは握りしめたマキの手に何度もキスした。


「なんでかわかんないけど、僕は苦労してるってわかる女の人の手のほうがずっと好きだ。皺ひとつなくて、マニキュアを塗ってるみたいな感じの人の手よりもね。そういえば、君貴は12度ギリギリ届くんだよ。ほんと、あいつこそピアニストになるべきだったんじゃないかな。もっとも、君貴に言わせると、この世で一番尊いのはピアニストの指じゃなくて、外科医の指ってことらしいけど。何しろ、人の命を救う手だものな」


「なんとも君貴さんらしい言い種ね」


 このあと、マキとレオンはお互い、ほぼ同時に同じ調子で笑いだしていた。


「僕たち、あいつのこと以外話すことないのかな」


「ほんとよね。せっかくレオンがこんなにロマンティックに抱いてくれたのに……わたしたち、絶対おかしいわよね」


 この時、隣から貴史の泣く声が聞こえて、マキはベッドから抜けだそうとした。下着は身に着けず、ただワンピースを頭から被って着る。


「僕がいくよ」


「いいのよ。わたし、今日ずっと寝てたんですもの。薬を飲んだのと、レオンの愛ですっかり元気になったわ。だから、今度はあなたが休んでて」


 チュッと頬にキスされて、レオンはすっかりダウンしたようにもう一度枕に頭を着けた。枕からは、マキ愛用のネロリの精油シャンプーと、ユーカリのサシェの香りがする。レオンは今、幸せだった。なんにしても、一度目の緊張の頂点を越え……お互いの愛情を確かめあえたことが、彼にとって何より嬉しくてならないことだった。


 そして、この日この時、この瞬間から――マキとレオンはほとんど新婚生活を送る夫婦にも等しく、毎日意味もなくベタベタしては甘い言葉をレオンが囁き、しょっちゅうキスばかりするような関係性になった。とはいえ、ふたりの間で君貴のことはよく話題に上ったし、彼が再び仕事の忙しさの合間を縫って東京へやって来てくれることは……彼らにとってまるで気まずいことではなく、むしろ心待ちにしているような出来事だったといえる。


『あっ、君貴?今、電話とかして大丈夫?』


「ああ。ちょうど今、会議が終わったところだ。ニューヨークの事務所の自分の部屋だよ。だから、まあ暫くの間なら大丈夫だ」


 ニューヨーク、と聞いて、レオンは何故か胸の奥が疼いた。君貴がニューヨークにいる時は、自分も出来る限りスケジュールを合わせ、自分のペントハウスか彼の部屋で会うのが慣例だったというのに……。


『僕さ、マキと寝た』


「そうか。俺のほうでは報告御苦労とでも言えばいいのか?」


 君貴の声は、レオンの耳にどこか、愉快そうな響きをもって聞こえた。むしろ、そうなるのが当然だろう、とでもいうような。


「どうした?まさか、俺がそう聞いて不機嫌になるとでも思ったわけじゃあるまい?」


『う、うん……そりゃそうなんだけどさ。もう今僕たち、ベッタベタの甘々な関係なんだ。信じられる?僕は自分は一生、女性となんて寝ることはないって思ってたのに……』


「たぶんおまえは、カールやモリスみたいに、最初から男以外は恋愛対象じゃないっていうタイプのゲイってわけじゃなかったんだろうな。自分でも異性愛者なのか、それとも同性愛者なのかもわからないうちから――男のほうにそういう性向へ持っていかれたというだけのことだったんじゃないか?」


『だから僕もさ、正直今もびっくりしてる。というか、君貴に対しても驚いてる。こんな言い方したら、おまえは笑うだろうけど……今や僕にとってマキは性の女神なんだ。彼女、たまに「何もわたしじゃなくても、女なら他にも」どうこうって言ったりすることがあるんだけど――他の女性にまで幅を広げてどうこうなんてまるっきり考えられないくらい、僕はマキのことが本当に好きなんだ』


 君貴は無言で頷いた。なんというのだろう、レオンとマキは身持ちが堅いという意味で、真面目なところがよく似ていた。彼は君貴の度重なる浮気にも関わらず、自分も同じように苦しめてやろうなどとはせず、ただ嫉妬の情と怒りだけを向けてきたものだった。


「性の女神か」


 そう言って君貴はあえて茶化した。


「そういやレオン、マキの部屋にあるゲイに関する本なんかを読んだと言ってたよな?俺も二冊くらい読んだが、その本におまえにそっくりな男が出てくるのに気づかなかったか?」


『どういう意味?』


 レオンのほうでも、まったく不機嫌になることなく、むしろ面白がっているような口調で聞いた。彼らの間でも、同じ女性をシェアする結果になったからといって――前まであった恋人同士の親しみが薄れるようなことはまったくなかったといえる。


「つまりさ、ゲイの男の人生パターンとして……誰かひとりくらい、大体いる場合が多いんだよ。『彼女となら、自分はいいパートナーになれるんじゃないか』みたいな相手がさ。何分、昔はゲイといえば精神異常者の烙印を社会から押されて終わりという存在だったから、俺たちより一世代くらい前のゲイ連中というのは社会から抹殺されぬよう、自分の性向についてはひた隠しに隠さなければならなかった。だから、必死で探すからなのかどうか、ひとりくらいは誰かそうした相手が見つかって、結婚したりする場合も多い。だがまあ、本人の性向はもともとゲイなのを誤魔化してるわけだから、女性のほうで物足りなくなって浮気するとか、今度は何かそうした問題が出てくるわけだ」


『…………………』


 レオンは一度黙り込んだ。彼はもしかして、自分もそうだと言いたいのだろうか?


「ああ、誤解するなよ。そういう意味じゃない。レオンとマキの間にもそうした問題が出てくるだろうなんて俺は言ってるんじゃない。むしろ、貴史っていう赤ん坊を挟んで、お互い生活の垢にまみれた姿を見せあってるっていうのに……セックスだけはなしだなんて、俺は絶対ありえないと思ってた。ただ、ゲイであることを隠したり誤魔化したりしてる奴が社会的体面もあって女性と交際した場合、そんな中で見つかった結婚相手っていうのは、ほとんど救世主だってことなんだ。その救いの女神って部分と、レオンの言う性の女神っていうのが似通ってるって言いたかっただけさ」


『だからさ、僕が言いたかったのは――つまりはこういうことだよ。おまえ、よく我慢できるねってことを僕は言いたかったわけ。そりゃ、妊娠中は仕方ないよ。だけど、僕が君貴の立場だったら、赤ん坊が生まれた翌日には襲いかかってるかもなって思ったもんだからさ』


「例の膣締め体操とやらは、効果絶大だったらしいな」


 そう言って君貴は笑った。


「まあ、簡単にいえば、俺の場合は貴史が生まれたことで、性の女神の『性』って部分がなくなって、マキはただの母性あふれる女神になってしまったわけだ。確かに俺は、出産直前のマキにつきそって、子宮から子供の頭が出てくるところを見たってわけじゃない。だが、マキが貴史のことを抱いて授乳してるところを見て以来……何かこう、手を合わせて拝みたいような、神聖な気持ちになっちまったんだよ。あんなに神々しくて美しいと感じる何かを、自分がいつか女から与えられようとは思ってなかっただけにな」


 今度はレオンが笑う番だった。


『そっか、なるほどな。だんだんわかってきた……あのさ、むしろ逆に今度は僕がおまえに言いたいよ。マキの持ってたゲイ関連の本には、おまえにそっくりな男が出てくるからね。ほら、妻とは正常位でしか寝たことがないっていうのに、金で買った男娼に対してはありとあらゆる破廉恥な行為を行えるってタイプの男さ』


(やられた!)と思い、君貴は愉快そうに大きな声で笑った。


「確かにな。その言葉だけで俺にも、レオンが何を言いたいのかが説明されなくてもよくわかるよ」


『もちろん、僕だっておまえと同じく、変な意味で言ってるんじゃない。ただ、マキとの関係において君貴は、自分にもこんなに純粋な部分が残ってたのかというくらい……極紳士的に接したってことなんだろうなって思った。そのことは彼女のことを抱いててすぐわかったよ。それに、マキはいちいち反応が可愛いから、それだけでも男として愉しめるってこともよくわかる。だけど、おまえのためも考えて、少し調教しておいた』


「調教って、おまえ……」


 君貴とレオンはともにふたりとも、SM好きだった。だが、君貴のほうではそうした性向が自分にあるということを、マキに見せたことはほとんどない。


『大丈夫だよ。次にもしうちへ来ることがあったら――うちなんて言っても、もちろんおまえが買ったうちって意味だけど、マキとデートがてらホテルにでも行ってきなよ。前にも言ったとおり、貴史のことは僕が見てるし、何も問題ない。僕たち三人の間ではね』


「…………………」


 君貴が黙り込んだままでいるので、レオンは言葉が足りなかったかと思い、重ねて言った。


『むしろ僕は、感動したよ。君貴がまさかそんなにマキのことを大切にしてたとは思わなかったし……つまり、おまえの中では汚い性欲処理なんてことは、世界中の、そうしたゲイの溜まり場にいる男にでもさせていたらいいのであって――女性が相手ってことになると、むしろちょっと畏まっちゃうってことなんじゃないの?まあ、マキは確かにもう子供もいて、そういう意味では処女じゃなかったにしても……精神的にはヴァージンっぽいんだよね。そこがまたマキの可愛いところではあるにしても、そういえばマキ、変なこと言ってたよ。僕と君貴が今後とも、そういう関係であったとしても自分は気にしないって。というのもさ、そもそもマキには男同士が愛しあうっていうのがどういうことか、あまり具体的に想像できないらしい。だから、男色行為のことを肛門交接者のまぐわいといったようには考えないで、『竜の舞踏』だのって考えるんだね。マキ曰く、『世界の果てで二匹の竜が求愛の舞踏を演じていても、たまに地震を感じるくらいしか、わたしには理解できないと思う』ってことだったんだ。でね、それがマキが僕らの関係を気にしないってことの理由らしいよ』


「なるほどな。まあ、なんともマキらしい意見ではある」


 君貴はこの時、少しばかり感心した。いや、マキはもともと自分のわからないことについてはそんなふうに理解する傾向が強いとはわかっていた。だが、他に比喩もあろうに、ゲイ同士のセックスを『竜の舞踏』とは!


『マキって面白いし、ほんと可愛いよね。マキの勤めてる花屋って結構変人が多いなって僕は聞いてて思うんだけど……彼女が人の悪口を言ってるのを僕、ほとんど聞いたことがないよ。でね、君貴が言ってたマキが清らかだなんだのって話、今ならよくわかる気がする。どういうことかっていうと、マキと一緒にいると、自分の性格の汚いところなんかが浄化されてくっていうのかな。なんかそういう作用があるみたいなんだ。僕、これからもマキと一緒にいる限り、いい人間でいられるんじゃないかって時々錯覚しちゃうくらいなんだよ。もちろん、この場所から一歩外に出たら、世間様の汚いものとも色々対応しなきゃいけないし、そしたら僕の性格の嫌なところとか悪いところなんていくらでも出てくるのはわかりきってる。だけど、またここへ戻ってきてマキと過ごせば……『ああ、そうだ。こんなことじゃいけないんだった』みたいになれると思うんだ』


「なるほどな。もうおまえもすっかり、マキ教の信者か」


 君貴は軽い調子でそう言ったが、どうやらレオンが相当重度の信者らしいことはわかっていた。微かに胸の奥に痛みを覚えるものの、彼との交際中、自分は不実な恋人であったわけだし、一度はマキのことよりもレオンを選んだ自分が――ふたりの関係性についてとやこう言っていいことではない。


『そうだね。ただ困ったことにはさ……そろそろ僕、例のチャリティ・コンサートがあるもんで、ピアノの練習しなきゃならないんだよ。曲目のほうは自分の好きなのっていうか、特に得意なのを選べばいいとしても――ダメなんだよな、僕。とにかくコンサートの前はそれがチャリティでもなんでも、自分が納得出来るまで練習しきらないと人前に出る気になんてなれない。もちろん、そのことで不機嫌になってマキや貴史に当たるってことはないにしても……マキは仕事で疲れて帰ってくるし、僕はその日によるにしても、トータルで一日八時間ピアノを弾くってこともあるから。まあ、間に食事含め休みは当然挟むけど、そういう時間の過ごし方をしてからじゃないと、コンサート会場へ向かう気持ちにはとてもなれない。それでね、君貴。僕の望みとしては……その間もマキにずっとそばにいて欲しいんだ。練習してる間も、ちょっと隣の部屋にいけばマキと貴史がいるっていうのが理想。それで、出来ればコンサート会場にもついて来て欲しいんだ。でもやっぱりこれって、ただの僕の我が儘だよね?』


「難しいところだな。マキは有給休暇もろくに取れないヤクザな会社にやたら固執してるところがあるから……それに、公の場で貴史を連れてレオンのそばにいるっていうのも、おそらく遠慮しようとするだろう。何より、おまえに迷惑がかかるんじゃないかっていう心配の気持ちからな。だが、言うだけのことはマキに言ってみてもいいんじゃないか?片時も離れていたくないから、そばにいて欲しいみたいに」


『言えないよ、そんなこと!!』


 レオンが重い溜息を着いているらしいと知り、君貴は少しばかり驚いた。彼はどこまでも本気なのだと思った。


『ううん。言うだけ言うってことなら簡単だけど、とにかく僕はね、マキのことを悩ませたくないんだよ。それに、確かにそりゃそうだよね。僕、マキのそばにいて意味ありげにベタベタしないでいる自信ないっていうか、マスコミの目があるからちょっと距離を置いて冷たくしようとか、そんなこと絶対出来ない。だけど、それじゃどうしよう……とりあえずさ、マキには仕事があって、僕はピアノの練習しなきゃなんないって間、貴史のことはマキの会社の専務の娘か、それが無理だったら託児所へ預けて迎えにいくってことになると思うんだ。だけど僕、ほんとはそんなことも嫌なんだよ。自分の目のない間、貴史が何か少しでも嫌な思いしてないかとか、そんなことも心配だし』


「貴史は一応俺とマキの子なのに、なんか悪いな。よく考えたら、今レオンが悩んだりしてることは、本来なら俺が悩まねばならんことなのにな。それで、チャリティ・コンサートの日時のほうは?」


 この段に来て、君貴も流石に良心が痛んできた。正直、レオンが時々自分の息子の写真や映像を送ってくれることで――そんなにレオンが可愛がってくれるのなら、俺はもう父親卒業だな……などと、呑気に構えていたところが彼にはある。とはいえ、仮に日本へ飛んで帰れたところで、君貴は子育ての即戦力にはなれない自分をよく知っていた。


『ええとね、来月の23日。ヴァイオリニストのヨセフ・ヨヴァンテツィッリとは、こっちが他のチャリティで呼んで来てもらったりしてるから、彼の頼みはどうしても断れない。もちろん、ヨセフがいつもそうあろうとしているように、僕も最高の演奏をしたいと思ってるし……場所のほうがロンドンなんだけど、その頃、おまえヨーロッパあたりになんていたりする?』


「そうだな……ちょっと待ってくれ。スケジュールを見てみるから」


 いつもなら、すぐに秘書の岡田を呼ぶところだが、君貴は設計途中のプログラムを閉じると、自分のスケジュール表をクリックした。偶然だが、その頃は君貴もロンドンの事務所のほうにいる。


「そうだな。その前後、俺は大体ロンドンの自分の事務所にいる予定になってるよ。だが、俺が考えてたのはこういうことなんだ。俺のほうでスケジュールを合わせて日本へ行って……まあ、おまえと違って俺には、自分の息子だというのに面倒を見るだけの能力がない。とはいえ、多少そんなことでもしないことには、おまえにもマキに対しても、何か悪い気がしてきた。どうしたもんだろうな」


『君貴がロンドンにいるんなら、絶対会いたいよ。だけど、貴史のことやマキとのノロケ話を聞かせたいってわけじゃないんだ。っていうか、おまえ一度東京の自分の家へ来いよ。そしたら、マキも僕もしょっちゅう君貴のことばっかり話してて、次あいつ、いつここへやって来るんだろう……なんて話してるのが何故なのかがわかる。マキは今もおまえのことを愛してるし、そんなの、僕だってそうだ。だから、僕たち三人の間ではこれからも何も問題ないっていうことは――おまえも直接会えば絶対わかるよ』


(本当にそうだろうか?)と、君貴としては疑問だった。マキとレオンがうまくいったのなら、自分はすでに邪魔な不要分子であるようにしか、彼には感じられない。


『ほら、確かにおまえは僕に不実だったし、マキのことに関していえば、自分の息子に関心を持てないことで罪悪感を持ってるかもしれない。その結果がこれだ……みたいに思ってるかもしれない。だけど、そうじゃないんだ。僕はもう過去のことをあれこれ持ちだして、おまえのことを遠まわしに刺したりもしない。マキもね、貴史に関心を持てないのはおまえ自身のせいじゃないみたいに言ってるよ。ただ、本当に心から好きな男との間に子供を持てただけで幸せだって。それに、僕だって君貴とマキの子供だと思うからこんなに――目に入れても痛くないってくらい可愛いんだよ。とにかくまあ、また何かあったら事後報告するよ。あと、君貴も東京へ来れそうな時には出来るだけ来てマキと会うようにして欲しい。それと、来月ロンドンにいるんだったら、絶対僕とも会ってよ!!』


「ああ。今からじゃおそらく、コンサートのチケットは取れないだろうが……そのあたりについては、いくらでもレオンの都合に合わせるよ。だが、確かに俺とおまえの間で状況のほうは間違いなく変わったな。前までは、こんなふうにスケジュールがお互い合ったりした時には――色々計画立てたりするのがあんなに楽しかったのにな」


『僕は今だって、そのことが楽しいし嬉しいよ。それに、君貴に抱かれたいとも思ってる。あと、それはマキも同じだってことの意味、次に会う時までよく考えておくといいよ!!』


 ここで、レオンからの電話は切れた。おそらく、電話でなどいくら話したところで、これ以上のことは説明不能だと思ってのことだろう。


(間抜けな間男にだけは、なりたくないものですな)


 ケン・イリエにそう言われた時、君貴が腹を立てたのは、『間抜けな間男』という点に対してではなかった。だが、今にして思うと彼の言ったことは当たっていたのではないだろうか?


 君貴はこの時、設計の仕事の続きをする気になれず、ぬるくなったコーヒーを一口飲むと、回転椅子を窓のほうへ向けた。そこからは、ブラインド越しにマンハッタンの高層ビル群が見える……何故かこの時、君貴はレオンといつだったかした会話のことが突然にして思い出されてきた。場所は、彼のセントラル・パークを見渡すことの出来るペントハウスでのことだったように記憶している。


『9.11の時、ワールドトレードセンターに突っ込んだあいつな、女は自分の遺体のチンポコに触れるなって、遺書に書き残してたらしいぞ。やっぱりちょっと、頭のおかしい奴だったんだろう』


『あいつって、モハメド・アタのこと?』


 その時、9.11が起きてから、相当の年月が経っていたとはいえ……レオンも君貴も、お互い大切な友人を亡くしていたから、その痛みはいくら歳月が経とうとも忘れられるものではなかった。


『そうそう、そいつだ。あれからあの犯人どもの経歴や、犯行前の行動についてとか、細かく調査したものを読んだりしたが……ようするにアラブ人……いや、アラブ人とは限らんか。アラブ系の容貌をしたイスラム教徒っていうのは、ヨーロッパやアメリカで理解されない、受け容れてもらえないっていう孤独を抱えるものらしいな。職場でも差別を受けたり、難癖つけられて突然クビにされたり……そしてそんな孤独を感じる彼らも、モスクへ行けば志しを同じくする友と出会えるわけだ。テロ友ってところが、なんとも笑えんところではあるがな』


『ねえ、君貴知ってる?おまえがいくつもホテルや高層ビルなんかをデザインしたドバイ……あそこに、世界一高い建物のブルジュ・ハリファってのがあるだろ?あのあたりを支配するアラブ系のイスラム教徒の人たちっていうのは、なんでも『世界一』ってことを強調したがるよね。世界一大きな人工島、世界一広い屋内遊園地、世界一の敷地面積を誇るショッピングセンター……なんでもかんでも世界一だ。でもそれは、そうでもしないと欧米の人たちが自分たちに振り向いてくれないってことへのコンプレックスの現れなんじゃないかな。あのなんでも世界一に拘る姿勢っていうのは』


『確かに、レオンの言うことは当たってるよ。あれだけの巨万の富を持ってる人たちでも、金では決して買えもしなければ、手に入れられないものがあるってことなんだろうな。たとえば、俺やカールはフランス人やドイツ人やイギリス人……あるいはユダヤ人なんかの民族的特徴を捉えて悪口を言うのが好きだ。だけどそれは、ある意味彼らに親しみを覚えるからこそ、『イタ野郎はまったく好色だ』だの、『スペ公の奴は手に負えない淫獣だ』だの、笑ってからかえるわけだよ。ところがアラブ人やらペルシャ人ときたらどうだ?政治的なこと以外で俺たちが彼らに触れることはほとんどない。つまりな、少しくらい知ってる奴のことなら、何か冗談として話せるネタもあるが――彼らについてはテロ以外でしゃべるようなことが何もないんだよ。向こうがこっちの欧米諸国のことを驚くほどよく知ってるのとは違って、こっちではあいつらのことをほとんどよく知らないし、興味を持ちもしない……というのが、一番問題なんだろうな』


 この時、レオンはリビングのソファで何かの本を読んでおり、君貴はその脇でゴルフのパット練習をしていた。そして、レオンは本を不意に閉じると、突然笑いだしたのだった。


『そういやさ、イスラム教では、信者の男たちは死んだらひとりにつき七十二人の処女と交わえるって話じゃないか。だけどそんな天国、僕らゲイにははっきり言って用なしの天国だと思わないか?』


『まったくだな』


 そう言って君貴も笑った。


『確か、ラマダンで断食した日の数と、善行を行った数だけ彼女たちと歓を交えることが出来るんだったか?前々から思ってたんだがな、この場合、女が天国で七十二人の童貞に囲まれていてもちっとも嬉しくないだろうと思うのは、俺の気のせいなんだろうか?もちろん、レオンのような美青年にばかり七十二人も囲まれてたら、そりゃもちろん嬉しいのかもしれないが……』


『どうなんだろうねえ。僕が知る限り、イスラム教はどう考えてもおかしい点が多すぎる気がするんだよね。何より、男性が立場的に優位なのは、ユダヤ教でもキリスト教でも同じにしても……さらにそのあとに勃興してきたイスラム教がその傾向が一番ひどいだなんて、どうかしてるとしか思えない。先のふたつの宗教の信者が堕落したから、彼らの神であるアッラーは、最後にマホメットにコーランを与えたわけだろ?自分たちの兄貴分であるユダヤ教とキリスト教についてしっかり勉強さえすれば、自分たちの信じてることがおかしいって気づきそうなもんだけど――それでも僕だって、イスラム圏の国に生まれて、毎日メッカの方角に五度も礼拝する生活だったら、そもそも疑問にも何も感じないんだろうなっていうのは一応わかるんだけどね』


『そりゃ、日本でだって同じだ。俺はキリスト教やユダヤ教、イスラム教のみならず、日本の神社仏閣のすべてすらも信じてない。あれはな、生まれた時から家に神棚だの仏壇だのがあって、習慣として拝んだりしてるってだけのしろもんだ。だが、他の国の宗教事情にでも詳しくならない限り、「自分が何を拝んでいるのか」、「それは本当に神なのか」なんて、日本人はこれからも考えすらしないだろう。大体そこにいるのはな、マホメットに啓示を与えたというジブリール(ガブリエル)にも似た霊的存在か、あるいはそれよりも遥かに劣るか弱いかする精霊的存在なんだろうよ。まあ、一応俺も仏教は思想としては優れてると思っているが、とはいえ、仏陀の生涯を偉大と感じはしても、神として崇拝しようとまでは思わんしな』


 ――君貴とレオンは、会うたびに色々なことを話した。大抵はお互いの近況から始まることが多かったが、何故今こんな昔に交わした会話が思いだされたのだろう?けれど、レオンとマキがうまくいった今、今までは『当たり前のようにあった』そんな休日の過ごし方もなくなってしまうことになるのだろう。


 マキとも、君貴は自分が貴史のことを父親として心から『可愛い』と思えない限り、彼女との間には溝が出来てしまうのではないかと考えていた。ゆえに今、最愛の恋人からも愛人からも遠く引き離されてしまったように感じ、君貴はこれまでの人生であまり感じたことのない<孤独>ということを思った。また、彼は滅多なことで(寂しい)と感じたこともなかったが、やがて陽も暮れゆこうとする夕陽色に染まった高層ビル群が――この日は訳もなく無性に彼の心を虚無感によって締めつけてきた。


 イースト・マンハッタンの七十階にオフィスを構えていたところで、それが果たして本当に成功者としての証しなのだろうか?毎日、ただ世界中のあちこちを飛び回って、莫大な金のかかった建築物を巡るあれこれに頭を悩ませるという人生……君貴は仕事をしてさえいれば、大抵の個人的な悩みや苦しみについては忘れられたが、それでも今回受けた心理的ダメージについては、彼をして暫くの間引きずりそうであった。


 また、レオンが言っていた言葉を思い返すにつけ、君貴は訳がわからなくもあった。ふたりがうまくいったのならば、自分は当分の間は東京のあの場所へ立ち寄るのは控えることにしよう……彼としてはそのような考えでいたものの、来月レオンがロンドンのほうへ来る前に、一度マキに会っておきたかった。決して、彼女が自分とレオンの間でどのような態度を示すのかを知りたかったからではない。どちらかというと、レオンのいない時にマキとふたりきりで会い、彼女の本当の気持ちを聞いておきたかった。レオンとこの上もなくうまくいっているから、自分がいると気まずい……それがマキの本心なら、君貴としても今後、そのような行動を心がけようと思ってのことである。


 そしてこの時、君貴は自分の本心がどこにあるのかに、あらためてはっきり気づいていた。自分はレオンとマキのうち、どちらとの絆も断ち難く、ふたりのうちどちらも失いたくないと思っている、そのことに……。




 >>続く。








評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ