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第16章

 君貴は、あえて自分がいつそちらへ行くのかを、マキにもレオンにも知らせなかった。彼らふたりが熱々のラブラブでいるところに偶然行きあってしまったとすれば――それでこそ、自分はレオンのこともマキのことも諦められるかもしれない……そう思ってのことである。


 ところが、その日は土曜であったにも関わらず、マキが家にいた。鍵を開けて中に入っていっても、おそらくレオンだと思ったのだろう。マキはリビングのドアを開けたのが君貴でも、なんら動じたところがなかった。


「いつも、来るなら来るで前もって知らせてって言ってあるのに……」


 マキがどこか不満げに見えたのは、レオンとのことがあるからだろうと、君貴としてはそうした判断だった。ところが……。


「来るって聞いてないから、お酒も買ってないし、こういう時に限って大人三人分の食材がなかったりするのよねえ」


 そう言って、マキは冷蔵庫の中を覗いていた。何故だろう。家中が妙にしーんとして感じられる。それで、君貴は自分でもらしくないと思う言葉を口にした。


「……貴史は?それに今日は土曜なのに……」


(なんでマキが家にいるんだ)と聞くのも変な気がして、君貴は一旦黙り込んだ。


「そうよね。君貴さんもう二か月くらい、ここに寄りついてないんだっけ。あれからわたし、会社の専務の日出美さんと交渉したの。子供を抱えて週六日勤務はキツいから、もう少し休日を融通してもらえませんかって。そしたら、これからは土曜と祝日も休んでいいってことになったの!わたし、それだったらお給料が下がっても構いませんって最初に言ったんだけど、そもそも大して給料の伸びもないから、そのくらいでとんとんだって日出美さんに言われて……ええと、わたしの小さなつまんない会社のことなんて、君貴さんはいちいち覚えてないと思うけど……」


「いや、覚えてるさ。離婚歴のある金玉野郎はイラチだが仕事が速くて完璧、社長は融通の利かないヤクザ、だんまりの奴は今はどうだか知らんがマキに惚れてる。あとは、俺のことをホストだと勘違いしてるパートのババアのことや……ほら、結構覚えてるだろ?」


 マキは、君貴が自分の隣に座ると、彼のためにまずはお茶を淹れた。それから、ハワイにいった友達のお土産であるチョコレート菓子を出すことにする。


「だんまりってもしかして、花岡くんのこと?彼、すごくいい子なのよ。君貴さんともレオンとも出会ってなくて――もし花岡くんがたどたどしくわたしに何か言ってきたとしたら、つきあってたんじゃないかなっていうくらいね」


「ふうん。おまえもまんざらでもないってことか」


 君貴は明らかに面白くないような顔をした。だが、マキは彼が不機嫌なのはフライト疲れのせいだろうとしか思っていなかった。


「そんなんじゃないわよ。ようするに花岡くんはね、心が純粋でとても綺麗なのよ。わたしやパートのおしゃべりおばさんの前ではあんまり話したりしないけど、倉庫で男三人の時にはね、結構普通に話すみたい。お花が大好きで、仕事の速い金田くんとは違って、花をそんな簡単に捨てたり出来ないのよね。前のわたしのアパートの部屋と一緒よ。部屋中花だらけだっていう話」


「いいな、おまえは。俺にレオンにだんまり男にケン・イリエと……俺、あいつに仕事先で会って、シャンパンぶっかけちまったよ。遠まわしに気に障ることを言われたもんでな」


「ええっ!?なんでそんなことしたのよ。入江さんのところ、うちの会社のお得意さまなのに……」


 君貴はこの時、ただ疲れたような溜息を着いた。なんにせよ、説明するのが面倒くさい。


「それで?貴史とレオンは?」


「うん……レオンはね、ロンドンであるチャリティ・コンサートに向けて、ピアノの練習してるみたい。えっと、君貴さん聞いてない?確か、お母さまの善意で、自宅のピアノを使わせてもらって練習してるって……」


「お母さまって……まさか、俺のおふくろのことか!?」


 レオンにもマキにも母親はすでにいない以上――消去法で考えても、自然そうなるというものだった。


「本当は、そういう専用のスタジオを借りても良かったんだけど、美夏さんの息子さんだったかな。それか崇さんの娘さんだったかは忘れちゃったけど、ピアノを少し教えるかわりに、耀子さんがピアノ室を貸してくれることになったとかって……」


「あいつ……そんなこと、俺に一言も言ってなかったぞっ!おまえと寝たことは意気揚々と教えてきたのに、なんでそういうことは言わないんだろうな。それで?レオンとの暮らしはどうだ?」


 以前までのマキならこういう時、気まずそうに俯いたり、瞳を伏せたりしていただろう。けれど、君貴をして驚いたことには――彼女はまったく動じていなかった。(それがどうしたの?)とでも言いたげに、ケロリとしたままでいる。


「レオンから話を聞いたんだとしたら……たぶん、彼の言うとおりなんじゃないかしら。今日もね、貴史のことはレオンが連れていっちゃった。阿藤家では今、貴史の存在が一番のアイドルみたいになってるらしいわ」


「なんだってっ!?」


 君貴は驚きのあまり、椅子から腰を浮かせた。寝耳に水とは、まさにこのことだと思った。


「あ、あいつ……一体何やらかしてんだよ。俺はマキのことも両親に紹介してないし、まさかあいつ、自分の隠し子だなんて言って貴史のことを連れていったんじゃないだろうなっ!?」


 実際には、もし仮にそうであったにせよ、君貴には何も言えないはずである。だが、マキはこんなに狼狽している彼を見たことがなかったため――やはり、自分の口から先に説明しておくべきだったろうかと、少しばかり後悔した。


「ええとね。実をいうとわたしも、君貴さんのお母さんにもお父さんにも、誰ともお会いしてないんだけど……でもレオンは貴史のこと、君貴さんの子だとは耀子さんに言ったって言ってたわ。結婚してないし、籍も入れてない関係性だけど――ええと、君貴さんは嫌だろうけど、心から愛しあってる女性との間に出来た子だって、レオンはそう説明したみたい。ただ、君貴さんのほうの仕事が忙しすぎて、ちゃんと結婚式挙げたりする時間がないだけだって……」


「なんで、俺が嫌がるんだ?第一、一応話の筋として合ってることには合ってるだろう。だが、あいつはもしかして本物の馬鹿なのか?マキとこれから自分こそが結婚したいと思ってるのに――そんな話をおふくろにしたりしたら、話がこんぐらがってややこしくなるだけだろうがっ!」


 イライラしている君貴に、マキはチョコ菓子を勧めた。アロハな空気に触れて、彼の苛立ちが静まればいいと思った。


「大丈夫よ。レオンとわたしが結婚することなんてないわけだし……なんでもお母さん、愛しい息子の嫁の顔なんて、べつに見たくもないみたいよ?レオンから聞いた話だとね、耀子さんは三人いる子供の中で、君貴さんのことが一番可愛かったんですって。でも母親としてそれじゃいけないと思って、三人とも「平等に」育てることに拘りすぎたあまり……君貴さんのことをむしろ遠ざけることになってしまったって。音楽に関して一番才能あるのが君貴さんだってこともわかってたから、一番厳しく教え込むことにもなったし、それが結局絶縁する状態を作りだしてしまっただなんて皮肉なことだわって、そうおっしゃってらしたみたいよ」


 母親の本心にも驚くことには驚いたが、それよりも君貴には今、マキの発した言葉で、聞き捨てならないことがあった。


「レオンと結婚する気はないだなんて……どうしてだ?あいつ以上の男なんて、この地上には早々いないだろう」


「普通に考えて、そりゃそうよ」


 マキは微笑みつつ言った。心から愛されている女の、幸福そうな笑みだった。


「でも、レオンと一緒にいると、どこへ行くにも目立つしね。わたしみたいな子持ちの未婚女とだなんて、そもそも世間が納得しないでしょ?彼もチャリティ・コンサートでまた喝采を浴びたりして、わたしと赤ん坊のいる所帯じみた生活になんて、もう戻ってこないかもしれないし……ううん。今そうじゃなくても、いずれそうなるわよ。どんなに遅くても、何年か後くらいにはね」


「それが、おまえの考えか」


 意図せずして、自分が聞きだそうと思い、一番知りたかった答えを得て、君貴は再び溜息を着いた。マキは、彼の目に二か月ほど前に会った時より、美しく輝いて見えた。以前はそれが貴史に対する母性の輝きのように感じられ……また、赤ん坊がそばにいると、彼はマキを女として見ることが出来なかった。けれど、今は違う。


「おまえは……結局のところ、俺とレオンのどっちがいいんだ?もしレオンを選ぶのなら、俺はそれが最善の選択だと思い、そのことに対しても祝福するよ。だが、あんなにおまえに対してめろめろのレオンと結婚する気はないだなんて――そんな話、あいつが聞いたら傷つくぞ」


「レオンが傷つくとかじゃなくて……普通に考えて無理だって話をしてるだけよ。それに、マスコミに追い回されたりなんだりで、ここにも住めないようなことになるのは、彼だってわかってるはずよ。わたしね、君貴さんにレオンみたいな完璧な恋人がいるって知る前までは、もしかしたらあなたがわたしにプロポーズしてくれるかもしれないみたいに、ほんの少しだけ思ってたの。だけどそのあと貴史のことが出来て、わたしの中ではね、もう結婚とかなんとか、そんなことどうでもよくなっちゃったのよ。そもそも結婚願望もなくて、自分はこのまましがない花屋の事務員で、コツコツお金を貯めて老後に誰にも迷惑かけないようにしよう……とか、そんなふうにしか思ってなかったしね。君貴さんは気が向いた時しかここへ来ないし、レオンはいずれ時が経てば離れていってしまうでしょうし、貴史だって大きくなったら、いつかはわたしの手を離れてゆくわ。でも、わたしにとって今、人生は最高に満ち足りていて幸福だもの。これを知っているのと知っていないのとでは、まるで全然違うってことなの」


「それが、俺が生活費くらい出してやるって言ってるのに、マキがいつまで経ってもあの花屋を辞めない理由か」


 君貴は、憂鬱そうにチョコ菓子を口に放り込み、それから玉露をすすった。(そうだ)と、Hawaiiと書かれているパッケージの文字を読み、(確かにいつまでもこのままということはない)と、彼も思った。べつに、場所はハワイでなくてもいい。とにかく、貴史がもう少し大きくなったら――夏休みのバカンス時期には自分も休暇を取って家族で出かけよう……くらいの考えは、君貴にもあったのだから。


「そうね。とにかくどんな形でも、仕事さえ持ってたら……ある日突然レオンがここからいなくなって、君貴さんがわたしに興味を示さなくなっても、貴史と二人なんとかやってかれるかなって、そう思ってるの」


「レオンはともかくとして、俺に対しては信用がなくても仕方がない。だが、結婚といったって……籍を入れるとか、結婚式を挙げるだけでいいんなら、俺だってしてやれないことはない。ただ、その後の実質的な結婚生活みたいなものは今と変わりないのに、それでマキがいいのかどうかとは、俺は前にも聞いたはずだぞ」


「そうよ。だからわたし、君貴さんがそんなに無理することないって言ったはずよ。その気持ちは今だって変わらないわ。この部屋だって、今もわたし、贅沢すぎると思ってるくらいだもの。そうした部分でも君貴さんには感謝してるし、この先、貴史が成長する過程で父親が必要な時には学校のイベント事に参加したりとか……出来ることはしてくれるっていうし、わたしのほうではそれ以上特にこれといって言うことなしよ。ただね、今わたしが思ってるのは――君貴さん、君貴さんはレオンと結婚する気はないの?」


 ここで、君貴は緑茶を吹きそうになった。チョコ菓子を咀嚼中だったため、げほごほっと何度か咳き込む。


「ま、マキ。おまえ何言って……第一、さっきマキも言ったばかりだろうがっ。レオンの奴、俺とおまえの間に出来た赤ん坊のことを実家に連れてってるんだぞ。この事態を一体おふくろに対して、俺にどう説明しろというんだっ!!」


「えっと、だからほら……レオンと結婚しても、結婚したっていう報告を世間様にしたりとか、君貴さんの御家族にする必要は必ずしもないわけじゃない?アメリカの同性婚が許されてる州で結婚式を挙げるとしたら、わたしも呼んで欲しいわ。でも、それは貴史が物心つく前のほうがいいかなと思ったりもするんだけど……君貴さんはどう思う?」


「どう思うもこう思うもあるかっ!いいか、マキ。レオンは今、俺じゃなくておまえにめろめろなんだっ。本当はな、ピアノの練習中もマキや貴史にそばにいて欲しいし、コンサート先にだってついて来て欲しいってレオンは言ってたぞ。俺と結婚したって、マキには金の保障を得られるといった程度にしかメリットはない。だがその点、レオンはメリット満載な男だ。自分と血の繋がりのないガキをこの上もなく可愛がってるし、おまえのためを思って家事全般、なんでもこなしてくれる。その上あいつは容貌もよければ頭もいい。一体レオンの何が不満だっていうんだ!?」


「不満だなんて誰も言ってないでしょ」


 マキは君貴とは違い、あくまで落ち着いた様子で茶をすすっている。


「ただ、現実的に考えて無理だって言ってるだけの話よ。わたしとレオンが結婚したりするより、君貴さんとレオンが結婚するってことのほうが、よっぽど実現可能なくらいよ。レオンね、近ごろよく変なこと言うのよ。君貴さんとわたしがまず結婚して、そのあとレオンが君貴さんと結婚して、それからレオンとわたしが結婚すれば、すべて問題解決じゃないかって……わたし、そんなこと出来るわけないって思うんだけど、レオンがあんまり嬉しそうにそのことを繰り返し言うものだから、『そうね。そう出来たらいいわね』って言うことにしてるの。でも、せめて君貴さんがレオンと結婚するっていうくらいのことは、確かに現実的で実現可能なことなんじゃないかなと思うのよね」


 君貴は、(頭が痛い)というように、片手で髪の毛をかきむしった。「重婚ってやつはな、アメリカでさえ法律で許されてないんだぞ」などと、常識を説く気にすらなれない。


「マキ、おまえ……何か変わったな。マキはさっき、レオンは遅くとも何年か後にはいずれ離れていくなんて言ったが、俺はあまりそうは思わんな。あいつは言ってみれば俺と一緒さ。女はおまえ一人いれば、他にはいらないと思ってる。それで……あいつとはいいのか?」


 聞かずもがなのことを、君貴はあえて聞いた。いや、正確には言ってしまってから後悔した。自分とレオンとどっちがいいかだの、そんなことを知りたいわけではなかった。単に、マキにとって男はもうレオンさえいればそれでいいのかどうか――彼は自分でも、言うべきでない言葉を口にしたと思い、失言を後悔した。


 だが、君貴が俯きがちに瞳を伏せているのを見て……以前の自分を彼の中に見出したような気がしたマキは、立ち上がると君貴の首に手を回し、彼にキスした。お互い、チョコレートを食べたばかりなので、甘いキスの味がする。


 そのあと、君貴は立ち上がると、壁にマキのことを押しつけて、キスの続きをした。今のキスの仕方だけで――彼にはわかっていた。レオンが『少し調教しておいた』と言った、その言葉の意味が……。


「なるほどな。これは、レオンが重婚しようとマキにピロートークするわけだよな」


 三度も体を重ねたあと、君貴は強引に抱き寄せたマキの額にキスした。彼女は今までのように受け身でなく、セックスに対して極めて積極的だった。そして、君貴には容易に想像できるのだった。レオンがどんなふうに彼女のことを<指導>したのかという、そのことが……。


「あのね、わたしびっくりしたの。レオンったら、こういうことに対して……あんまり解放的で大胆で、罪悪感を抱いてるようなところがまるでないんですもの。それでね、『愛さえあったらセックスは全然恥かしいことじゃない』とか、『マキも楽しまなきゃ駄目だよ。人生は短いんだから』って何度も言うの。わたし、レオンはあんまり天使すぎて……彼の前ではどんなことも罪にならないんじゃないかしらって思っちゃったくらい」


「マキもお人好しだな。あいつはどう考えても天使じゃなくて、堕天使だろうが」


 君貴は三度目が終わったあとも、マキのことを離さなかった。レオンが彼女にさせたことを……先に自分が教えたかったとすら、今はそう思う。


「ううん。レオンは天使よ」


 君貴の腕の中で、マキはくすくす笑って言った。


「もしレオンが堕天使なら、毎日トイレをピカピカに磨いたりなんて絶対するわけないもの。それもね、わたしが仕事でいない間にそうしておくのよ。じゃないとわたしのほうで気を遣うでしょ?それに今日だって休みなんだから、貴史のことはわたしが見てるって言ったのに……たまには子育てのことを忘れて、ただぼーっとしてる休日がマキには必要だよって言って、貴史のこと、連れていっちゃったの。なんでもね、連れていかなかったから耀子さんががっかりするっていう、そういうこともあるみたいなんだけどね」


「そうだな。確かにあいつは理想的なハウスハズバンドってやつだ。俺はそういう意味じゃゼロ点だが、レオンは百点満点だろう?マキの中では」


 そう言いながらも、君貴は今の自分の立場に満足していた。何より、マキの心の中にも体の中にも――まだ自分の居場所というのが結構な広さを有しているらしいとわかり、彼はほっとするのと同時、彼女に対して前以上に愛情が募っていた。


「君貴さん、甘いわ。それでいったらレオンは、1200点とか5000点とか……あるいは100万点とか、もう数字の概念を越えちゃってるもの。でも、君貴さんはもしかしたらもっと得なのかもね。もともと、点数なんてつけようのない創造主みたいな立ち位置ですものね」


「創造主?墜天使に創造主ときたらマキ、おまえは一体なんなんだ?」


 レオンが彼女を『性の女神』と呼んでいたことを思いだし、君貴は微かに笑った。確かにマキは彼らにとって、それと同時に『聖母マリア』でもあるのだ。


「さあ……ただ、君貴さんが面白いこと言ってたって、レオンから聞いたわ。わたしたち、ピロートークでよくあなたのこと話すのよ。大体、あなたが前にこんなことを言ってたとか、そんなことが多いんだけど……ほら、アダムとイヴに性のことを教えたのは人間の顔をした蛇だったっていう話」


「ああ、あれか。まあ、人類の不幸は聖書の最初の巻である創世記からはじまってるっていう話だよ。何も、あいつらが蛇の誘惑に負けなければ、今ごろ俺たちも楽園にいて、額に汗して働くこともなかっただろう……なんて話じゃない。蛇の誘惑に負けたのは男のアダムじゃなくて女のイヴだったことから――いや、そもそもアダムの肋骨から女が造られたってのも、大抵の女には承知しかねることだろう。何分新しい人類ってやつは、女の子宮からしか生まれないんだからな。まあ、とにかく創世神話によれば、イヴが蛇に誘惑されて善悪の知識の実……大抵は林檎として描かれるアレをかっ食らっちまったわけだ。イヴはこの時、体が痺れたようになって恍惚とした。そこで、野に倒れたイヴに蛇が襲いかかった。二股に分かれた舌で彼女の体を舐めまわし、最後はイヴの足の間に顔をうずめるような形でな。アダムはそれを見てショックを受けたらしい。だが、その異様な光景を見て、目を逸らしたいと思う反面、彼もまた男だから、蛇がしてるのと同じことをしたいと思った。そこで蛇はアダムにも林檎を食べるよう促し、自分の固くなったモノで女を犯すよう教えた……が、まあその後ふたりは自分たちがしたことを「恥かしい」と感じ、自分たちの裸の体をいちじくの葉なんかで覆ったって話だ」


「わたしね、あのお話を読んだ時、少しだけ不思議だったの。アダムもイヴも原初の、生まれたての汚れない人間のはずなのに、どうやって子供を作ることを覚えたのかしら、なんて……だってそんなこと、まさか聖なる存在である神さまが『ああしてこうしてそうすれば赤ちゃんが出来る』なんて、教えるはずないと思って。それでね、君貴さんのその話でレオンもようやく納得できたって言って、ふたりで笑ってたのよ」


 君貴もこの時、笑っていた。どうやらマキとレオンはふたりとも、彼が特に深い意味もなく、なんとなくしゃべったようなことをよく覚えているらしい。


「いや、俺が言いたかったのはな、実はその点じゃないんだ。女が男という性に抑圧される図式というのが、キリスト教の聖書のアダムとイヴの話にあるっていうことを、俺はレオンにしたはずなんだがな。ボーヴォワールの娘か子孫みたいなフェミニズムの連中は、決まってそのことを指摘するくらいだ。つまり、この神話以降、男のほうでは『女が先に蛇に誘惑されたから悪いんだ』と言って、何かにつけてなんでも女のせいにするようになったわけだ。その上、女が家事のすべてをやるのは当たり前、男が女のことを性的に支配するのも当たり前という図式が成り立つ大いなる根拠ともなってきた。新約聖書に出てくるパウロはこのことを引用して、女は男に仕えるべきだと主張したし、哲学者のアリストテレスも『女は男のなり損ない』であると言っていたから、この女は男よりも劣っているという女性観を教会が受け継いだことで……女は家庭という檻に閉じ込められ、男が仕事を通して自己実現する手伝いをするだけの存在に貶められ続けたわけだ。いいか、マキ。家事を一切しない俺が言うのはなんとも矛盾してるが――ここが肝要な点なんだよ。あの創世記のアダムとイヴの話は、誰がどう考えたっておかしい」


「たとえば、どういうところが?」


 マキは君貴の背中に自分の手を回した。お互いの間でそのように了解しあっているとはいえ……自分もまた、蛇に誘惑されたイヴ以上に悪い女ではないかと、ふとそんな気がしてしまう。


「実際の事実のほうはだな、人間がもしサルから進化したとするならばだ。発情して勃起した男に追いかけ回されて、イヴは一生懸命楽園の中を逃げたはずだ。『神さま、恐ろしい男が追いかけて来ます!助けてください』とすら、彼女はきっと祈ったことだろう。だが、神は昼寝でもしてたんだろうな。結局イヴはアダムにレイプされてしまい、アダムのほうは勃起したペニスをいちじくの葉で隠しつつ、『あなたがこの女をわたしのそばに置いたのがいけないんです』とでも一生懸命言い訳したんだろう。そんなこんなでふたりは楽園の外へ出されることになり、アダムは額に汗して働き、イヴは嫌々ながらも神の命で男という種族を助けなきゃならないだけじゃなく、こんな奴の子供まで生まなきゃならない羽目に陥った……俺にはどう考えてもこっちの神話のほうが正しいとしか思えん」


「じゃあ、君貴さんの中では、失楽園には蛇や悪魔は実は関わってないってことなのね?」


 マキはくすくす笑ってそう聞いた。そろそろレオンと貴史が帰ってきてしまうので――せめてもシャワーを浴びて着替えなくてはと思うのだが、彼のそばから離れたくなかった。今を逃したら君貴はまた暫くの間はやって来ない。そのことを思えば尚更だった。


「いや、そうじゃないさ。そんなような連中を神が楽園に置くのを許容してたっていうのは事実なんじゃないかという気がする。『園の実は善悪の知識の実以外なら、どれでも食べていい』だって?神には当然わかってたのさ。蛇がアダムかイヴを誘惑して、林檎をかっ食らわせるだろうってことくらいな。キリスト教の神は全能だっていうんだから当然だろ?だがな、実際に起きたことと、聖書という書物に記録として書き記される段階で――まあ、おかしなことが起きたんじゃないか?創世記を誰が書いたのかは不明だが、編集者のほうは伝統的にモーセだとされているらしいな。なんにせよ、著者が男であることは間違いない。人類の最初の男、アダムはペニスを勃起させながら清らかな処女のイヴを気が狂ったように追いかけ回した……いや、これは事実としてカッコ悪すぎて男には耐えられないだろう。だから、先に誘惑されたのは女のイヴだってことにしたんだろうな。その上、こうしておけば、これから先女に家事も子育ても押しつけられるし、男が一番偉くて女は二番だ、これから先ずっとそうなんだ――みたいに男の側ではなんでも楽が出来る。つまりはそういうことさ」


「でも、君貴さんも変よね。普段から女は嫌いだとか、仕事の現場で女が視界に入って来ないと清々しいなんて言ってる割に……なんでそういうことを考えつくの?」


 マキはもちろんわかっている。君貴は自分が家事を一切しないかわり、マキもしたくなければ一切しなくていいという考えなのだ。ここへ引っ越してきた最初の頃、家政婦を雇いたかったら雇えばいいとも言われていた。けれど、単にマキのほうでそこまでのことはしたくなかった――というより、君貴にそれ以上住居以外のことで借りを作りたくなかったというのがある。


「単に俺には、矛盾した事実が気になるという性癖と、すべての人間は平等であるべきだという、実現不能な理想があるってだけの話だよ。それに事は、単に男と女の問題だけってわけじゃない。つまり、人間っていうのは……悲しいことに、人種の違いや民族の違いによっても、これとまったく同じことをするってことを俺は言いたいんだ。白人と黒人の問題にしてもそうだろ?あるいは民族であるなら、どちらか一方の民族が、もう片方の民族を自分たちよりも劣っていると見なし、奴隷として使役するのは当然だ――といったように話を持っていこうとする。こうして長く支配されるか、都合よく利用され搾取され続けた民族のほうは、ある時当然の権利である平等権ってやつを主張し、革命が起きるわけだ。それと同じで、全世界的に見た場合、男と女が平等であるとはまだまだ言い難いように、すべての人間が平等になれるような日っていうのは、かなりのところ遥かに遠いな」


 君貴がこんなふうに話す間も、時々自分にキスしてきたため――マキのほうでも彼にキスし返した。君貴は大抵、機嫌がいい時ほど饒舌になる……つまりそれは、彼のほうでも十分満足したということであり、マキはそのことを喜んでいた。


「そろそろ、わたしも起きなきゃ。君貴さんは寝てていいわよ。レオンが帰ってきたら、長時間のフライトで疲れて寝てるって、そう言っておくから」


「いや、おまえが起きるなら、俺だって起きるさ。何より、貴史のことを俺に何も言わずおふくろに会いにいかせたり、あの堕天使のことを少し追求してやらなきゃならないからな」


 この段になると、君貴にもあるひとつのことが了解されてきた。レオンが電話で言っていたとおり――『僕たち三人の間では何も心配することないんだよ』といったことの意味が、マキから聞いた話と彼女を抱いたことで、はっきり確信できていたと言っていい。


「べつに、冷蔵庫に大人三人分の食材がないとかだったら、ウーバーイーツでもどこでも、何か頼めばいいだろ?」


 マキがシャワーを浴び、髪も乾かぬうちに食事を作りはじめるのを見て――君貴はそう言った。この点、実は君貴は自分の母親にある意味感謝しているところがある。最後に言い合った時、『ピアノのために自分で料理もしないような女が……』と言った彼ではあったが、そのかわり君貴には女性が必ず家事をしなければならないであるとか、そう出来る女ほどいい女だ――といった偏見がないのである。


「う~ん。そうねえ……レオンも、帰りに何か夕食的なものを買って帰るからごはんなんて作ろうとしなくていいからね、とは言ってたの。だけどわたしとしてはね、毎日美味しいものを作ってくれるレオンに対して、こういう時こそ何か作って待ってたいっていうのがあって……」


「なるほどな。ようするにアレか。俺がもしやって来なけりゃ、マキはスーパーにでも行って、何か食材を買ってレオンと貴史の帰って来るのを待つつもりでいたってことなんだろ?」


「そうなの。でも、そんなことより君貴さんが来てくれたことのほうが百倍も嬉しいわ。それはレオンだって絶対同じなはずだもの」


 そんなことを話しながら、ふたりは冷凍ピザをチンして食べていたのだが――この時、がちゃりとドアの錠の解除される音が響いた。その後、ドタドタと廊下を歩く音が続き、今度はバターンとリビングのドアが開かれる。


「君貴っ!やっと来たね。ああ、良かった!!」


 レオンも、君貴愛用の革靴が玄関にあるのを見て――恋人の来訪にすぐ気づいたようだった。彼は抱っこ紐によって前側で貴史のことを抱きつつ、左右の手には買い物袋を持っていた。


「そっかあ。君貴が来てるってわかってたら、うな重三人分買ってきたのになあ。まあ、いいや。しょうがないから僕の分をあげるよ」


 マキはレオンの抱っこ紐をほどくと、貴史のことを受けとってあやしはじめる。「おばあちゃまに会ってきたんでちゅか?良かったでちゅね~」と、まん丸い息子の顔を覗き込む。


「……なんか、太ったな」


 マキの傍らに立ち、君貴は貴史のことを見るなりそう言った。ちっとも利発そうに見えないし、将来は凡庸な俗物になりそうだ――これがもし自分の息子でなく赤の他人の子であったなら、君貴は迷わずそう口にしたことだろう。


「君貴~、久しぶりに自分の息子に会ったんだからさあ、せめてもうちょっと気の利いたこと言いなよ。貴史がつかまり立ち出来るようになったビデオも送ったのに、感動のコメントもなしだもんね。マキ、この冷血男に、実物を見せてやれば?」


「でも、君貴さんのお母さまが相手してくれて、向こうでもいいだけ遊んできたんでしょ?疲れてないかしら」


「それもそうか。なんにしてもほんと、ピアノの練習してる間、耀子さんが貴史のこと見てくれるから、すごく助かるよ」


 もちろん、レオンはこの時気づいていた。マキも君貴も、ふたりともまだ髪が乾ききってなく、なんとなくバスルームに漂う石鹸と同じような香りが漂っている……けれど、この時彼の感じていたのは嫉妬の感情ではない。産後、君貴が抱いてくれないとマキが洩らしていたことがあったため――ふたりともその部分は越えたのだと、そう思い、むしろほっとしているくらいだった。


「そういやおまえ、なんでおふくろに貴史のことを会わせたんだ?もちろん、俺に何を言う権利もないのはわかってるさ。だが、マキと寝たってことは意気揚々と教えてきたんだから、そのくらいの報告、俺にしてくれたって良かっただろ?」


「うん。それは事後報告になっちゃって、ほんとごめん。ただ、貴史を連れて銀座で買い物してたら耀子さんとバッタリ会っちゃってさあ。僕も咄嗟に嘘をつこうとは思ったんだよ、一応。だけど、知り合いの赤ん坊の面倒を見てるとかいうのは、僕の格好見たら絶対誰も思わないのはわかりきってた。かと言って、いくら耀子さんが相手でも、僕の隠し子です、とは言えなかったんだ……残りの選択肢はといえば、事実を話すってことだけでさ」


「なるほどな。確かにそこらへんについては、ちゃんとしてない俺が悪い。だけど、どうおふくろに説明したんだ?俺の子の面倒をレオンが甲斐甲斐しく見てるだなんて……どう考えても不自然極まりないだろ?」


 レオンはお気に入りのスーパーで買ってきたヨーグルトやらチーズやら食パンやらを、順に所定の場所に片付けつつ答えた。


「んー……だからさ。事実は事実でも、僕とおまえが実はゲイの恋人同士だなんて、口が裂けても言えないだろ?だから、そのへんについては嘘をついたよ。実は僕と君貴は随分昔から親友同士なんだけど、耀子さんとの不仲については彼から聞いてたから、あえて親友だとは名乗らなかった、みたいにね。で、君貴の奥さんにめちゃんこ惚れてて、息子さんの後釜になりたいと思い、一生懸命育児奮闘中……なんていうのもおかしな話だろ?結果、君貴とまだ結婚してない奥さんであるマキと僕の三人は、ずっと昔から気の置けない関係で――今、僕は結構手が空いてるから、忙しい奥さんを手伝って子供の面倒を見たりしてる……といった説明をした」


「そりゃまあ、概ね上出来な嘘ってやつだな」


 冷蔵庫に買ってきたものを片付けると、レオンは君貴のすぐ隣に座り、冷凍ピザの残りをぺろりと食べた。


「だっろー?君貴、僕に感謝しなよ。耀子さん、言ってたよ。実をいうと美夏さんの息子さんふたりと、崇くんの息子と娘さんふたりについて言えば……時々憎ったらしいか、孫としてまあ普通に可愛いって感じなんだって。でも、貴史のことは目に入れても痛くないくらい可愛いって感じるって言ってたよ。『じゃあそのうち、君貴の奥さんにも会ってみますか?』って聞いたんだけど、可愛い息子の憎らしい嫁の顔なんか、特段見たくもないとかって。おまえさあ、たぶん耀子さんの貴史へのめろめろっぷりを見たら、びっくりするよ。にも関わらず肝心な父親のほうは、息子の顔を見るなり『太ったな』だって!?普通はそういう時、せめても『大きくなったな』って言うものなんじゃないの?」


「…………………」


 ――この時、君貴はふとあることを思い出していた。姉の美香の息子ふたりは今、それぞれ七つとか九つとか、そのくらいだろう。君貴は一応、姉の嫁ぎ先の安藤家とは多少交流があるのだが、甥の悠貴ゆうき貴翔たかとはエネルギーのあり余ったわんぱく小僧であり、耀子が「時々憎らしい」と口にしたのは、おそらくそのことを指してではないかと思われた。一方、弟・崇の子供は三人とも、品行方正で礼儀正しい傾向にあり、大人しかった。孫として「普通に可愛い」というのは、そうした意味なのではないかと君貴には推測されるばかりである。


「耀子さん、貴史が君貴の赤ん坊だった頃にそっくりの顔してるって言ってたよ。なんか、三人の子供の中で、耀子さんは君貴のことが一番可愛かったんだって。赤ん坊の頃からもう可愛くて可愛くて仕方なくて、でもお姉さんの美夏さんや崇くんと差をつけないよう平等に育てるようにしたってことだったよ。でも、結局君貴とは絶縁状態になっちゃっただけでなく、美夏さんはずっと母親に反抗的だったし、崇くんともなんとなく心理的に距離のある感じで……こんなことなら君貴のことを贔屓して育てても、結果として大して変わりなかったんじゃないかって、なんだかちょっと寂しそうな顔してたっけ」


「まあ、美夏の奴は昔から母親に対してコンプレックスがあるのさ。で、崇の奴のほうは、俺や美夏に対するおふくろの恐ろしいスパルタを見て、早々にヴァイオリンに逃げることにしたわけだ。だから、おふくろの期待に応えられなかったみたいに思ってるところがあるのかもしれんな。あと、あいつたまーに俺に電話してきて、結局兄さんが阿藤家の長男なんだから、そこらへんきちっとしてよ、みたいに必ず言ってくるんだ。ほら、あいつはカミさんにぞっこん惚れてて、カミさんの実家の家族とベッタリな関係なわけだ。で、このカミさんってのが二人姉妹で、姉妹仲はいいんだが、姉さんのほうは今カリフォルニア州のサンノゼに住んでるってことだったな。シリコンバレーに勤務してる旦那さんの都合だかなんだか。ゆえに、カミさんの両親が何か病気になったりしたら、崇が嫁さんとふたりで見ることになる……だから、親父とおふくろの面倒を見るのは、阿藤家の長男である俺の責任だと、何やらそう言いたいらしい」


「ふうん。君貴、なんだかんだで家族に愛されてるんじゃないの?耀子さんとはもう何年も口聞いてないってことだったけど、明日にでも貴史連れてマキと挨拶しにいっても――耀子さんももう、『阿藤家の敷居を二度と跨ぐなと言ったろーがっ!』とは言わないんじゃない?」


「どうだかな。とりあえず、俺は今日明日、そんなことをする気はないぞ。あ、マキのことをおふくろに紹介するのが嫌だって言うんじゃない。俺は昔からな、そういう家族がどーの、親戚への挨拶がこーのという、日本の土着的文化ってやつが大嫌いだというそれだけだ」


 ここで、ぐいっとズボンを引っ張られ、君貴は思わず自分の足許を見た。貴史はその前まで、居間の一角の、ジョイントマットの敷かれたあたりで、マキとおもちゃで遊んでいたはずなのに――ふと見ると、君貴の座る椅子に捕まって立ち、得意気な顔をして父親のことを見上げていた。


「おっ、貴史!あんよが上手、あんよが上手!!実のパパに自慢をしにきたんだね、えらいぞー。ほら、君貴も少しくらい褒めなよ。もし将来、貴史が自己肯定感の低い子に育ったとしたら、全部君貴のせいだからねっ」


「あっ、ああ……」


 正直、君貴はなんの愛情も抱いてない自分の息子が、あんまり屈託のない笑顔で自分を見上げてきたため、驚いていた。だが、君貴が抱っこすらしようとしないのを見て、レオンは(仕方ない)と思い、代わりに貴史のことを抱き上げることにした。


「ほら、ばあばの買ってくれた手押し車で遊ぼっか。ワンワンがついてるやつ。貴史、大好きだもんなー」


「ばあばって、まさかレオン、おふくろの前でもそう呼んでるわけじゃないだろ?」


「まさか。耀子さんが自分で自分のことをばあばって呼んでるだけだよ。まあ、耀子さんは今も全然七十過ぎてるようには見えないよね。五十代くらいでも全然通るように見えるくらいだし……君貴もさ、親がいつまでも生きてると思わないほうがいいかもよ?病気か何かで倒れてから後悔したって遅いんだからさ」


 マキが君貴の母親がプレゼントしてくれた手押し車を持ってくると、貴史はママに見守られつつ、それをニコニコしながら押していった。押すと、手押し車の前面の犬が「ワンワン!ワンワン!」と吠えるという仕組みのようだ(他に、切替ボタンが二つ付いていて、ヒヨコがピヨピヨいうバージョンと、猫がニャアニャア鳴くバージョンがあるらしい)。


「ガキのおもちゃってのは、案外面白いもんだな」


 君貴は自分の息子ではなく、全然別のことに注目してそう言った。だが、彼はこの時、レオンの言ったこと……自分の母親がもう七十を過ぎているという事実に愕然としていたのである。実をいうと彼の中で母の耀子は今も、六十五くらいで年齢が止まっていたという、そのせいである。


「ほら、君貴さん、見てて」


 マキが切替ボタンを押すと、犬が引っ込み、今度はヒヨコが立ち上がってくる。ところが、ヒヨコがピヨピヨ言いだすと、貴史はその場に座り込み、手押し車を押そうとしなかった。そして、次に猫が出てきてニャアニャアいうと、その頭を殴りだした。ところが、犬が「ワンワン」吠えた時だけ――手押し車に捕まり、それを押して歩こうとするのである。


「ふうん。面白いもんだな。俺は思うんだが、貴史は将来、金髪の美女にだけ強く反応し、犬を飼おうとするんじゃないか?」


 君貴のこの意見に、レオンもマキもほぼ同時に笑いだした。レオンなどは、「まったく救いようがないな、おまえは」と呆れきった顔をしている。


「まあね、君貴がそのくらい父親として失格してるから、マキも超然としてむしろ諦められるんだろうな。僕なんか、初めて貴史がつかまり立ちする姿を見た時には……物凄く感動したよ。あと、ヒヨコやネコが嫌いってわけでもないんだよな。ほら、お風呂に浮かべるヒヨコは貴史も好きだし、ネコのぬいぐるみは好きすぎて貴史のよだれでべッタべタなのが乾いて、今じゃガビガビになってるくらいだから」


「なるほどなあ。だが、確かに笑いごとじゃないんだぞ。赤ん坊ってやつは、もう三歳くらいには脳の扁桃体のあたりで好き・嫌いがはっきり確定するって話を昔聞いたことがある。だから、子守りに太った女性を雇ってたりすると、将来太った人に強い親しみを覚え、友達も太ってれば、自分が選んだ女房も太ってる……そんなことがほんとにあるらしいな。人間の本能の刷り込みってのは、まったく恐ろしいもんだ」


「もちろん僕にはわかってるよ、君貴」


 そう言ってレオンは、君貴の隣にもう一度戻ってきて笑った。


「だからおまえは自分の息子に関わりたくないんだろ?そういう無意識のうちにも起きる刷り込みの要因としてでも、自分が関わって責任がのしかかってくるっていうのが嫌なんだろうな。それに、いちいちそんなことばかり考えてたら、仕事にも支障が出てくるだろ?ようするに、おまえは子育てに関しても完璧主義者なんだよ。それかまったく関わらずにほっぽっておくほうが――あれこれ頭を悩ませずに済むだけ、よほどすっきりするとでも思ってるんだろうな」


「俺だって、何も考えてないってわけじゃない。貴史がある程度大きくなってきたら……世界のあちこちを連れて歩きたいとは思ってたからな」


 とりあえず君貴はそう言うことで逃げを打っておいた。確かに、レオンの言うことはいちいち正しい。


「責めてるわけじゃないよ。ただ僕はそういう君貴のことを面白いなと思ってるだけ。まあ、僕のことはどうでもいいけど、マキには感謝するんだね。いつかきっと……俺なんかの子供を生んでくれてありがとうって、心からそう思える日が君貴にもやって来るに違いないから」


(ドラッグに嵌まって親に金を無心してきたり、人を殺して刑務所に入るって可能性もなくはないがな)


 流石に君貴も、口に出してそう言う気にまではなれなかった。マキが眠そうにしている貴史のことを抱っこし、レオンが貴史の額のあたりにキスしている姿を見ると――自分ではなく、レオンのほうが父親として適格者であるのは間違いないところである。だが、君貴自身、ふたりのそんな姿を見ても嫉妬心のようなものは不思議と湧いて来ないのだった(もしそうなら、君貴にしても、少しくらいはマキのためを思い、我が子を可愛がる振りくらいは出来たに違いない)。


「君貴さんはね、ようするにわたし以上に心配性なのよ」


 マキはこの時、貴史が自分の意志で実の父のほうへ近づいていき――「構ってほしい」と自己アピールしたことに対し、内心でまだ感動しているくらいだった。


「だって、将来もし貴史がわたしのことをババア呼ばわりして、暴力を振るうようになったとしたら……そんなのは全部俺のせいだから、わたしが責任を感じる必要はないとか、そんなずっと先のことを心配してばかりいるんですものね」


 この時、マキはおかしくて堪らないとでもいうように笑っていた。その笑いが伝染したように、貴史も笑い、最後にはレオンも大笑いしていたくらいだった。


「まあ、僕とマキの間でおまえについて結論は出てるんだよ、これでも一応ね」


 マキが子供部屋に貴史のことを連れていってしまうと、レオンは戻ってきて、うな重を温めた。ひとつは君貴に与え、残りのひとつを自分とマキで半分こにすればいいと思っていた。


「おまえは最終的には、子供にとっていい父親になるよ。むしろ、忙しくてたまにしか会えない分、貴史の中じゃおまえは神格化されちゃうくらいかもなって思ったりもする。たとえば、学校で嫌なことなんかがあって、夏休み中、父親であるおまえに会いにいく。君貴は自由主義だから、ニューヨークでもロスでもロンドンでも……まあ、好きなだけいろって感じだよね。で、貴史のほうでもこういうことで悩んでるだの、そんな話はしない。いや、もしかしたらするかもしれないけど、君貴のほうではなんか余計な世話を焼いたりはしないだろ?で、なんかぽつぽつ人生で参考になるようなことをしゃべってくれたりなんかして、貴史は日本へ帰ってくる――まあ、何かそんなようなことだよ。おまえがやたら悲観論によって語りたがる遠い未来の話をしたとすればね」


「つまり、それがマキやおまえが、現時点で俺が父親失格で、まるで話にならない感じでも、俺のことを容認しておく理由ってことか?」


「だからさ、そういうことも僕はどうでもいいけど、寛容なひろーい心で受けとめることの出来る、マキには感謝しなよってことを僕は言いたいわけ」


「…………………」


 マキがいい女であり、善い人間だということは、レオンと君貴の間で一致している意見である。また、彼女は古風な考え方から、初めての男である君貴以外のことは、知りたいとも思ってはいなかった。だが、子供の面倒を見てくれるだけでなく、家事全般よくこなしてくれるレオン・ウォンの魅力の前には、とうとう陥落したわけである。


 そして、君貴としてはこのことを(奇妙だな)と感じるばかりだった。どう考えてもこの三人の中で弾き飛ばされて然るべきなのは自分であるはずなのに――レオンとは前と変わらぬ強い結びつきを感じ、マキを抱いていてレオンに嫉妬したのは事実であるとはいえ、それは決して不快な感情ではなかった。また、レオンにしても、この部屋に入ってきた途端、勘の鋭い彼が気づかぬはずはないのに、彼はマキと寝た自分に嫉妬する風でもないのだ。


 このあと、三人で食事をする間も、この<感じ>は続いた。レオンはとにかく、阿藤家のほうで聞いた君貴の幼少時の話を引き合いに出しては終始よく笑い、それはマキのほうでもまったく同様だったといえる。おそらくはすべて、レオンからすでに一度は聞いた話であるにも関わらず、彼女は初めてその話を聞いたといったように、実に新鮮な反応を示していたものである。


「耀子さんさ、言ってたよ。マキのこと、まともそうなお嬢さんで良かったって。花屋で事務員として働いてるって言ったら、『君貴には女房と子供を養う甲斐性もないのかしら?』なんてぷりぷり怒りだしたから――マキは独立心が強くて、金銭的に男に頼りたいと思わない女性なんだって言ったら、妙に感心してたっけ。何よりね、耀子さんの中での問題はそういうことじゃないんだ。耀子さんの中の君貴の嫁の最低ラインは、おまえが自分に対する嫌がらせとしてAV女優でも連れてきて、阿藤家の敷居を跨ぐってことだったらしいよ」


「じゃあ、わたしはその最低ラインよりはほんのちょっと上だったわけね」


 マキがおかしそうに笑うと、レオンも買ってきた日本酒を口にして、愉快そうに笑っていた。唯一、君貴だけが無表情な顔をして笑っていない……いや、彼は不機嫌そうにムスっとしているくらいだった。


「AV女優か。まあ、それも悪くはないな」


「なんだっけ。とにかくそういったタイプの女性を連れてきて、『これからは俺の前で職業の貴賎の話はするな』とか、親戚全員が集まってる前で、いかにもあの子、そういう言い方しそうでしょ?だって。いやあ、耀子さんは自分の息子のことをよくわかってるね」


 今度は流石に、君貴も笑った。レオンが最近嵌まっているという日本酒を自分のグラスに入れて飲む。他に、意外なことには――というより、なんとも似合わないことには、彼は近ごろ珍味に嵌まっているとのことで、イカのみりん焼きやらトバやらコマイやらが今、テーブルの上には所狭しと並んでいる。


「しっかしマキも、サキイカなんか食って安酒飲んでるレオンを見て、よく嫌にならないな。俺が言っていいことじゃないが、こんなんでも貴史が泣きだしたりしたら、ぱっと立ち上がってガキの面倒を見はじめたりするんだろ?」


「べつに、全然気にならないわよ。珍味はわたしも好きだし……ごはんの上に塩辛のっけて食べたりとか、まさかレオンがこんなに日本食好きだとは思ってなかったけどね」


「ふん!どうせね。僕はファンの子たちのイメージ的には、ワインでも飲んで、キャリフォルニアロールでも食ってりゃいいんだろ?あとはベルーガキャビアにシャンパンとか……でもいいんだ。マキはありのままの僕を受け容れてくれるもんねー」


 ここで、マキがフランス版のヴォーグを持ってきた。彼らが東京のスタジオを押さえて撮影してもいいと言っていた号で、表紙と見開き数ページにかけて、レオンが花をバックに芸術的な被写体として刻印されている。


「ガキのよだれつきセーターを着た、目の前の男と同一人物とはとても思えんな」


「ふふん。花をバックに撮りたいって言ったのは、実は僕のアイディアなんだよ。マキと一緒にテラスで花をプランターに植えたりしてる時に思いついたんだ。彼らも最高の出来映えだって興奮してたけど――まさか自分でもこんなうまく嵌まるとは思ってなかったくらい」


「確かにこれは、レオンのファンの女子たちには堪らないだろうな。それで、ロンドンのチャリティ・コンサートでは、何を弾くんだ?」


「んーとね。ショパンのエチュードと、リストのラ・カンパネラと、ラヴェルのラ・ヴァルスなんかかな。あとはもちろん、アンコール用の曲も2~3曲練習してる」


 ――マキはただ、君貴とレオンが話している会話を聞いているだけで十分楽しかった。彼らはロンドンで会った時、以前と変わらず激しく抱きあったわけだが、マキはレオンと君貴の間で何があったかを知らないことがほとんどだったし、『竜の舞踏』について、それほど詳しく知りたいとも思っていなかったのである。


 レオンはまた、君貴と寝たあとで、マキがどんなに可愛いかという話をよくしたが、もちろん君貴のほうでもそのことに同意こそすれ、彼に嫉妬するようなことはなく……とにかく、三人の間では万事が何かそうした形だった。ただ、レオンは「僕たちのこの関係は、3Pっていうのとは違うよね」とは言っており、そのことは君貴のほうでも同意見だったといえる。「なんていうか、僕は君貴とセックスしてるところをマキに見られたいとまでは思わないし、マキだって、ゲイの男の間で性のオモチャにされてるみたいに感じたら嫌だしさ。そういう意味では微妙なギリギリのところで僕たちの関係は成り立ってて……正直、君貴と寝たあとのマキとセックスする時が一番燃える。でもそれは嫉妬っていうのとは少し違うし、なんでそうなのかっていうのも、僕にはうまく説明できないんだけど」


 この、お互いの間に介在しているうまく説明できない『力』については、君貴にしても大いに認めるところだった。レオンに抱かれているマキのことを想像すると、彼にしてもマキとセックスする時に最高に燃える。そして、その同質といっていい力が、君貴とレオンが同衾する時にも、まったく同じ作用を及ぼすのだった。だが、何故なのかはわからないが、もし彼ら三人がベッドを共にするとしたら――その魔法のようにすら感じられる力は失われてしまうだろう……というのが、ふたりの一致した意見だったのである。


 こうして、二年半の間はマキとレオンと君貴の間で、平穏な日々が続いた。君貴は変わらず仕事で忙しかったとはいえ、3~4週間に一度は東京の、自分が買ったマンションの一室へやって来たし、レオンは断れる仕事については片っ端から断り、相変わらず子育て第一の生活を送っていたといえる。また、マキはといえば、彼女言うところの『平凡な花屋の事務員』の仕事に従事し、残りの時間は息子と恋人への愛によって埋められていたといっていい。


 君貴のほうでは、自分の息子がつかまり立ち出来るらしいと知って以来――実の息子の「可愛さ」なるものが、除々にではあるが、だんだん理解されて来つつあったかもしれない。この翌日の夕方には、シンガポールへと発った君貴ではあるが、貴史が何かと自分のまわりに纏わりついて来るもので、愛情のない親父にまでも懸命に愛想を振りまく息子のことを見るにつけ……彼の北極の氷のような心も、ようやく少しばかり溶けるものがあったらしい。


 どういうことかというと、貴史はまだ赤ん坊であるにも関わらず、空気を読んでいるところがあったのである。マキとレオンが貴史のことを間に挟んで遊んでいるような時――当然、君貴はその茅の外にいるような格好になるわけだが、孤独な父親のことを哀れむように、貴史はそういう時、決まって君貴のほうまでハイハイしてきたり、彼がトイレへいこうとするその後ろをついて行ったりしたものである。


 そこで君貴のほうでも、「おまえは凄いな。その年でもう空気が読めるのか」と驚き、少しばかり相手をするようになった。しかも、相手をしたなどと言っても、二、三話しかけてやったり、暫く抱っこしてやったくらいなものなのだが……貴史は君貴が帰ろうかという時、実にぎゃん泣きしていたものである。以前であれば、『おまえなんかキライだ。あっちへ行け!』としか、君貴にも感じられなかったにも関わらず――この時には流石に彼も後ろ髪を引かれるものを感じたようだった。その泣き方がなんとも『行かないで!おじさんがいなくなったら、ボクさびしいよ』とでも言うのだろうか。何かそうした顔を貴史がしていたせいである。


 基本的に君貴が東京へやって来るのは、マキとレオンに会うためではあったが、貴史のことも、一応その存在が目に入ってくるようにはなった。というのも、彼は自分の実の父のことをきちんと認識しているらしく、君貴がやって来ると必ずそば近くへ寄ってきては、嬉しそうにしていたからである。


 とはいえ、レオンから「貴史がとうとう自分で立っちして歩いたよ!」と聞かされても――彼らほどには、君貴の中で感動のようなものはまったく生まれなくはあったのだが……。


 そんな平穏な毎日が続いていた二年半後のこと、マキは再び妊娠した。君貴とは月に一度か二度寝る関係性であったことを思えば――どう考えても子供の父親はレオンである可能性が高かったといえる。君貴はこのことについて、「俺の出来の悪いガキがふたりいても仕方ないだろ?責任の半分くらいは受け持って欲しいって意味でも、俺はその子がレオンの子であって欲しいよ」などと言っていたものだった。


『でもさあ、僕の子なら僕の子で、マキは少しフクザツらしいよ』


 君貴は、レオンの声色に若干ふてくされたような響きを感じ取っていた。


『もちろんね、健康に生まれてきてくれることが第一で、マキ的にはどっちの子でも嬉しいみたいなんだけど……僕はやっぱり、僕とマキの間に子供がどうしても欲しい。だけど、僕にそっくりのハーフ顔の美人が生まれた場合、貴史と父親が違うのは明らかだし、そういうことが少し心配なんだって。でね、もし女の子が生まれた場合――僕だけじゃなく、君貴も過保護に後ろをついて回るんじゃないかと思うと、なんか母親としてはフクザツだって話』


「なるほどな。そりゃ確かにマキの言ってることは当たってるよ」


 そう言って、君貴は笑った。彼はこの時、ロサンゼルスの自分のオフィスにいた。


「俺は自分と血の繋がった娘よりも、レオン、おまえにそっくりの娘が生まれたりしたら……まあ、馬になって自分を乗せろと言われれば馬になり、ブタのように鳴けと言われればブヒブヒ言って、奴隷のようになんでも言うなりになるかもな。あとは、男どもの視線を出来る限り遮るためにカトリックの女子校にでも入れようとするかもしれん。さらには、誰か男とつきあうとなったら――デートのたびに後ろをつけ回して、万一のことがあったらブッ殺すということをそれとなく相手の男に示し続けるだろう」


『はははっ!もちろん、その君貴の気持ちは、僕も痛いくらいよくわかるよ。僕だって、自分とマキの子じゃなくて、マキとおまえの間に出来た女の子でも……まったく同じことをするだろうからね。今妊娠三か月だってことなんだけど、大体来月かさ来月くらいには性別がわかるとかって。マキ的にはね、なんか女の子のような気がするってことだったんだ。ほら、よくさ、そういう時の女の人の勘って当たるっていうだろ?』


「当たるったってな。どっちにしろ、二分の一の確率だろ?」


 そう言って君貴は笑った。けれど、彼もまた女の子かと思うと……何故かわからないが、貴史が生まれる時には感じなかった、不思議な高揚感があったといえる。


『まあね。言われてみればそりゃそうなんだけど……とにかくさ、マキの妊娠中は彼女のことを心の底から大切にする感じで何も出来ないからね。そういう僕の性欲処理については、君貴、おまえがどうにかしてよ』


「どうにかったって……ああ。まあ、わかったよ」


(一体どういう会話だ)と思いつつ、君貴は笑った。何分、マキはこれが二度目の妊娠である。君貴にしても、ようやくだんだんに息子・貴史のことが可愛く感じられてもいるし、以前の失敗を踏まえ、妊娠中のマキのことを気遣い、大切にしよう……といった気持ちは彼にもあるのだった。


『そのあたり、これまで通りマキには隠さないとね。マキだって、僕らにも時々そんなことがあるってわかってはいるにしても――自分が妊娠中だから、僕とおまえとで盛り上がってるみたいに思われるのは心外だから』


「心外ねえ。まあ、なんにしてもマキが妊娠して出来ないから、俺もおまえも禁欲生活を送ってる……くらいに見せておいたほうがいいってことか、この場合」


『そういうこと!とにかく、僕は嬉しいんだ。日数を計算するとね、おまえが来た日と被ってたりはするんだけど……それでも確率的には僕との子である可能性のほうが濃厚なわけだろ?ほんとに心の底から嬉しいんだ。まさか僕、自分がいつか父親になれるとは思わないで今の今まで生きてきたもんだからさ』


「いや、おまえはすでにもう立派な父親さ。俺を見てみろ。もし二番目の子も俺の子だったりしたら……お腹の子にとっては最悪だって。そういう意味でも、俺もマキの腹の子はレオンとの子であることを心から願うよ」


『う……うん。それでさ、僕、君貴に相談があるんだけど』


 珍しくレオンがあらたまった調子になるのを感じ、君貴はなんとなく警戒した。(もしかして、お腹の子が間違いなく自分の子であったとしたら、マキと正式に結婚したいとか、そういうことだろうか?)と、そう直感する。


 だが、レオンが次に口にしたのは、君貴が予想したのとは少し別のことだった。


『僕……正式にピアニストを引退しようかと思ってるんだ』


「…………………」


 君貴は、レオンの言葉に自分が思った以上にショックを受けているのに驚いた。まるで、自分の分身が自分の意志を離れ、ピアノをやめると言っているかのように錯覚してしまう。


『もちろんね、わざわざそんなこと、世間様に向けて言う必要はないのかもしれない。この二年、僕は数えるくらいしか公の場でピアノを弾いてはいないけど……それだって結構キツかった。練習とかなんとか、そんなことはいいんだ。僕はこれでもプロだからね、そのあたりについてはもう苦には感じてない。ただ、精神的に……今まで一度もコンサートで失敗したことないのがほんと、奇跡としか思えないんだよ。毎回、次こそ失敗するんじゃないかと思って、汗びっしょりで朝目が覚めることだってある。もし今あえて世間に向けて、引退すると言っても――まあ、二度と人前でピアノを弾かないってことじゃない。またチャリティや何かで弾いたりとか、そういうことはあると思う。だけどそれは、もう『プロ』って看板を下ろした人間の演奏ってことになるだろ?もちろん僕は負けず嫌いだからね、そんな時にも完璧に練習し直して、完璧な演奏をしようとはするに違いない。それに、マキのことだってある……いや、実際のところ彼女のことが一番なんだ。僕は公人って言うほど大した人間じゃないけど、ピアニストを引退したらもう、完全な私人ってやつになるわけだろ?そんな相手をマスコミもしつこいくらい追いかけまわすってことはなくなるだろうし……』


「もしかして、何かあったのか?」


 君貴はなんだか胸騒ぎがした。むしろ、今の今まで自分とレオンの関係がバレていない、またレオンとマキの同棲生活も表沙汰になっていない――そのことのほうが、今更ながら不思議な気がしなくもないのだ。


『いや、今のところは君貴が心配してるようなことはないよ。だけど、僕的にはね、何か起きてからじゃ遅いと思ってるし……ここのマンションは管理人さんも常駐してて、住んでる人間の個人情報が外に洩れるなんてことはないらしいしね。そのことは、ここを買った君貴が一番わかってることだとは思うけど……いや、違うな。そういうことじゃない。君貴さ、クォーターランドっていうアメリカのロックバンド知ってる?』


「ああ。というか、俺だってクラシックやオペラ以外にも、普通にロックでもラップでも、それなりに聞くからな。ビルボードで一位を取ったことはないとはいえ、十位以内には何度か入ったことのあるバンドだし……一般的にいって、アメリカに住んでて知らない奴はいないだろ」


 いや、君貴もそんなことが言いたいわけではなかった。人気ロックバンドのクォーターランドといえば、確か一月くらい前にヴォーカルのマーク・クォーターランドが拳銃で頭を吹っ飛ばして自殺したのだ。けれど、何故なのかはわからないが、不吉な予感が胸をよぎるあまり、君貴はそのことを口にしたくなかったのである。


『その……さ。君貴はたぶん意外に思うだろうけど――僕とマークは、友達だったんだ。それも、お互いに友達だと知られるわけにはいかない間柄の、ね』


「…………………」


 君貴は、再び黙り込んだ。マーク・クォーターランドが自殺した時、暫くの間メディアはそのことで持ちきりだった。自殺の原因についての詮索や、関係者に対する聞き込みやインタビュー、泣き叫ぶ奥さんや家族の姿や……君貴はニュースで見たそんな断片を一瞬にしてすべてかき集めた。マーク・クォーターランドは愛妻家として有名であり、確か五人子供がいたはずである。若い頃に結婚しているため、最初に生まれた子はすでに十四歳くらいではなかっただろうか。


『うん、わかってる……君貴が予想しそうなことは一応ね。知られちゃいけない間柄だなんて言われたら、僕が君貴と会う前に、彼と恋人関係にでもあったのかなんて、疑っちゃうよね。ごめん……僕、マークのことではちょっとナーバスになっちゃうんだ。彼とはほんと、そういうことは関係なくて、純粋な意味での友達同士ってことなんだ。マークは僕と違って過去をカミングアウトしてるし、一度だけ会って、僕のことは口が裂けても絶対言うものかとは、彼も言ってたんだ』


「レオン、おまえ……大丈夫か?」


 受話口の向こうの、レオンの声は震えていた。泣いているのかもしれないと思い、君貴は心配になった。彼には案外性格に脆いところがあるということは――誰より、君貴自身が知っていることだった。


『最初にニュースでマークのことを知った時、僕はショックのあまり、ちょっと鬱っぽくなった。だけど、マキに話すわけにもいかないと思って、少し無理していつも通りを装ったんだ。そしたら彼女、様子がおかしいくらいのことには、当然気づいたんだろうね。そしたら、「いつかこんな日が来ると思ってた」なんて言うんだ。「レオンはこんなところに留まってないで、もっと自由に羽ばたける人だもの」とか、なんかそういう話。僕は、マキがあんまり見当違いのことを話しだしたもんで、ついカッとして怒っちゃった。君貴は知ってると思うけど、そういう時の僕はほんと、子供っぽいからね……言ってみればこれが、僕とマキの間であった、初めての喧嘩みたいなことだよ。それで、マークのことを話したんだ。友達だったから、自殺したなんて聞いてショックで、それで塞ぎ込んでただけなんだって……でも、このことは僕たちの間でちょっとだけ尾を引いた。まさか僕が怒ったら手がつけられないくらいヒステリックになるとはマキも思ってなかったんだろ。僕も自分で自分に対して物凄くガッカリした。だけど、そんな時にマキの妊娠がわかって……僕たちの関係はまた元の通りに戻った。僕は自分が父親になれるかもしれないってことを手放しで喜んで、マキも僕との子なら嬉しいって言ってくれて……』


 君貴が彼らの愛の巣を訪れたのは、三週間ほど前のことである。ということは、その直後、ということだろうか、と君貴はマーク・クォーターランドの自殺のことと合わせて考えた。何分、彼が先月の何日頃亡くなったのか、はっきりした日付を覚えていないせいだった。


「近いうち、とにかく直接会おう。俺も、なるべく早く時間を作って、そっちに行くから……」


『うん……本当は僕もそう思ってたんだ。あんまり電話で話すようなことじゃない気がするし……でも今、聞いてくれないか?君貴の仕事の邪魔にならないならだけど……』


 今、ロスは夕方の六時を過ぎたところである。君貴は日本との時差を計算し、今東京は午前10時くらいかと推測した。


「ああ、全然大丈夫さ。もうこっちは就業時間も過ぎてるからな……そんなことより、今はおまえの話のほうがよほど重要だよ」


 この時点で君貴には、レオンがこれから何を話そうとするのか、ある程度の見当がついてはいた。マーク・クォーターランドのカミングアウトというのは――ようするに、彼がサバイバーだということだった。彼は元はロンドンにある児童養護施設出身で、そこは公式に認可されている施設だったにも関わらず、組織的に児童虐待が行われていたという。マークはそこで、身体的・性的な虐待を受け、その後問題が露見し、別の専門施設に移されてからも……トラウマに悩まされ続けた。やがて彼はアメリカの里親の元で暮らすようになったが、学習意欲もなく、人づきあいも下手な彼は、地獄のような学校生活を過ごしたということだった。その後、その家を飛び出しホームレスのような暮らしをしていたが、当時の仲間たちとバンドを組み結成したのがのちのロックバンド、クォーターランドの前身である――という、まさにアメリカン・ドリームを絵に描いたような話である。


 マークは、自分の熱狂的なファンだった女性と結婚し、彼女が自分を立ち直らせてくれたと、インタビューなどで繰り返し語っていた。また、奥さんのほうでも、「ひとり自分が子供を生むごとに、彼の心の……魂の傷が癒されていくのを感じた」という。ところが、今度の自殺によって、残された彼女と、また五人もの子供たちの傷がどれほど深いものか――君貴には想像してみることさえ出来ない。


『勘のいい君貴のことだからさ……ある程度のことはもう見当がついてるとは思う。日本では、僕の知る限りマーク・クォーターランドの死っていうのは、報道の枠としてそんなに時間をかけて流すといった感じのものじゃなかった。だけど、アメリカじゃもっと取り上げ方が大きかったみたいだからね、君貴がまったく興味なかったとしても、それなりに報道のほうは目にしたんじゃないかと思う。でね、僕はマークと同じ児童養護施設の出身だったんだ。もっとも、そこらへんの僕の過去に関しては、ウォン氏が周到に消してしまったようではあるんだけど……でもまあ、誰かが徹底的に調べようと思い定めたとすれば、僕がマークと同じ養護施設の出身者であることはわかると思うんだ。もっとも僕はね――小心な自己保身の気持ちから、自分が虐待を受けた孤児だってことが世間にバレるとか、そんなことを怖れてるわけじゃない。ただ、とにかくもうマークの自殺がショックだったんだ。彼でさえ乗り越えられなかったのかっていう、そのことがね……』


 ここで、レオンは本当に重い溜息を着いた。電話越しとはいえ、そんな種類の溜息を彼が着くのを、君貴は一度も耳にしたことがない。


『僕は一度だけマークのライブを見にいったことがあって、そのことに気づいたマークが、今度は僕のコンサートに来てくれたんだ。それで、そのあと少し話をした……もちろん、僕はクォーターランドがデビューした時から知ってたし、マークのほうでも中国人の家庭に僕が引き取られてのち、プロのピアニストになったことは当然知ってた。だけど、連絡なんて取り合わないほうがお互いのためだということは、マークにも僕にもわかってて……それで、結局会って何を話したかといえば、『俺たちはもう二度と会わないほうがいいな』ってことだった。その時、マークはもう結婚していて、最初の子供が生まれていた。それでね、僕は彼が過去を乗り越えて、夢も叶えて幸福な結婚もしていることが羨ましいって言って、そのことを祝福したんだ。今もよく覚えてる……その時、マークはそのことを肯定しなかった。どちらかというと、首を捻って『よくわからない』というような顔をしていた。でも、言葉にしては何も言わず、彼は僕のことのほうが羨ましいと言ったんだ。『その美貌で、女性にもモテモテで、天才的なピアノの腕があって――そんな正統派のレオンに比べたら、俺は自分のやってる音楽が恥かしいよ』って。その時、僕たちは色んなことをいっぱい話した。なんでかっていうと、もう二度と顔を合わせて話をすることはないだろうってわかってたからさ。同じ養護施設にいたってことが世間にバレるとまずいとか、そんなことじゃない。ただ、お互いに危険だとわかっていた。親しく何度も会えば、マークも僕も、昔何があったか、自分たちが性の奴隷のように扱われ、そんなことでもしなかったら何も物を食べさせてもらえなかったとか、そうした惨めな過去のことを、再び克明に思いだすだけのことだからね……』


 このあとも、独白にも近いようなレオンの話は続いた。君貴はただ、無言でありながらも真剣に彼の話を聞き、片手でパソコンを操作して、自分のスケジュールを確認していた。これはたぶん、マキが相手では荷が重すぎるだろう。自分がなるべく早く直接レオンに会いにいったほうがいいと思った。


『だけど、僕たちはその後ずっと、長く会わなかったにしても――お互いがただ「どこかで生きていて、一般に成功した側、勝者の側にいる」ことを確認しあい、心のどこかでほっとしてたんだと思う。実際、僕も時々こう思うことがあった……ほら、クォーターランドのライブ・パフォーマンスって、痛々しいところがあるだろ?それがオーディエンスが一番求めてることであったにしても――僕も、マークが自分に起きた過去のことを歌って、神のことを呪ったり、ファックって叫んでるのをCDで聞くだけでもつらいくらいなんだ。でも、それはマークがすでに過去を乗り越えた証拠なんだって、成功者・勝利者として、今彼はそれを叫んでるんだと思うことにしていた。こんな話、僕はおまえにもしたことなかったけど……僕は今までに、死にたいと思ったことが何度かある』


「俺とつきあってる間もか?」


 君貴は、本当はそんなことを聞きたいわけではなかった。けれど、ただ何か言わずにはいられなかったのである。


『ううん、違うよ。君貴と出会ってからは……自殺するとかなんとか、そんなことは考えなくなった。これは本当なんだ。ショパン・コンクールで優勝したとか、ゲイなのに女性にもてるとか――人から見れば僕もたぶん、成功した側の人間ではあるんだろうね。だけど、心のどこかでは何か虚しかった。ショパン・コンクールに出場することにしたのは、一重にそれが中国のウォン家から離れられる唯一の道だと信じていたからさ。だけど、皮肉なことには優勝するとほとんど時を同じくして、ルイ・ウォンは死んだ。まさか、僕にも結構な額の財産を残すとは思ってなかったけど……もしかしたら口止め料だったのかもしれないな。僕に色々猥褻なことをしてきたのを、金をやるから黙っていろと、そう言いたかったのかもしれない』


 このことは、君貴も随分前から知っていたことである。だが、先に猥褻なことをしてきたのはウォン氏であったとはいえ、その後レオンは完全に氏のことを自分のコントロール下に置いたということだった。『ほら、法律家とか歯科医とか、真面目で四角四面な男によくいるタイプだったんだよ、ミスター・ウォンはね。僕が足をなめろと言ったら興奮して僕の足に舌を這わせてた。そういうプレイが好みだったんだよ』と……。


『ミスター・ウォンの死後、奥さんのイーランさんは結構な資産家とまた再婚したみたいだね。ハオランは事業の債権に焦げつきが出ているようだし、妹のヨウランは……あれは僕がまだジュリアードに通ってた頃だから、相当昔の話になるけど、最後に会った時、何か様子がおかしかったよ。ニューヨークのペントハウスのほうに来て、すっ裸でベッドの中で寝てたんだ。それで、「抱いて」なんて言うから、僕は君とは義理の兄と妹で、大恩あるウォン氏の娘にそんなことは出来ないと言った。そしたら彼女、気が狂ったみたいに笑いだしちゃってね。昔は内気で可愛らしい娘だったのに、一体どうしたんだろうと思ったよ。最後にヨウランは「あなた、本当は男以外ダメなんでしょ?」と言っていた。「わたし、父とあなたの関係のことも知ってるのよ」ともね。「だから、試してみたの。でも実際にあなたがわたしを抱こうとしたら、つっぱねるつもりだったわ」なんて言うんだ。可哀想な娘だよ。ようするに、人間関係を築くのが下手で、父親がせっかく結構な大金を残してくれたっていうのに――何か人に騙されたり投資に失敗したりなんだりで、彼ら兄妹はどうも、父親のウォン氏の指摘通り、事業家としての才覚はなかったみたいだ』


「そのヨウランって子、結婚は?」


 君貴がそう聞いたのには、理由があった。レオンから、義兄のハオランの性格についてや、義妹のヨウランのことは聞いていた。けれど、義理の妹のほうが昔、すっ裸でレオンのベッドで寝ていた……なんていう話は初耳だった。ようするに彼女は、随分昔から金髪碧眼の血の繋がらぬ兄に恋焦がれていたのではないだろうか?しかも、結構な遺産を父親が残してくれたことにより、結婚して男に養ってもらう必要もないとなれば……果たしてヨウランはその後、自分で自分にかけた恋の魔法から覚めることが出来たのかどうか――君貴はそんなことが気になった。


『してないみたいだね。僕の知る限りだと、今は動物愛護活動に励んだりしてるってことだったけど……それもまた、ヨウランらしいよ。人と関わって傷つくより、動物を相手にしていたほうがリスクが低いものな。それに、自分の慈善心だって満足させられる……なんていう言い方は流石に意地悪だね。とにかくね、僕は賤しいことには、ウォン氏の死によって突然大金が転がり込んできたことで、突然生きる力に目覚めた。意味わかる?まあ、いずれいつかは死ぬにしても、その前に多少なりともいいことをしておこうと思ったんだよ。そこでまず、レオン・ウォン基金なんてものを設立して、慈善施設や何かに寄付をはじめた。でも大抵の人は、僕がただ金だけを渡すより、僕自身に来てもらってピアノを演奏して欲しいって言うことのほうが多かったんだ。ショパン・コンクールで優勝したなんて言っても、僕はまだ全然、クラシック音楽に関して勉強すべきことが山のようにあったから……まずは音楽大学でより専門的に学ぼうと思った。その間も刑務所を慰問して回るとか――僕の性格を知ってるおまえならわかるだろ?まったく僕には似つかわしくない行動だけど、そのことにも理由があった。なんでって、もしかしたら僕とマークは成功した側の人間かもしれないけど……あの頃、僕たちと同じ目に遭った子はほとんどが刑務所を出たり入ったりしてるか、あるいはヤク中やアル中の治療施設、じゃなかったら精神病院に入院してるといった具合だからね。正直、僕は今も思ってるよ。たまたま僕はその中でも運が良かった……じゃなかったら僕も彼らと同じく、社会のクズとかゴミと呼ばれるような生活を送っていたろうなってね』


 レオンの口調は暗く、だんだんにどこか自嘲的になってきているように感じ、君貴は心配になってきた。もし同じ日本国内にいるというのであれば、北海道からでも、沖縄からだって、すぐに駆けつけただろう。だが、君貴の記憶違いでなければ、今から急いでロサンゼルス空港に駆けつけたところで――最終便はすでに出てしまっているに違いなかった。また、明日朝一番で……などと言っても、彼はすでに仕事のスケジュールが詰まっている状態なのである。


「なあ、レオン。俺はおまえを愛してる」


 出し抜けにそう言われたからだろうか、レオンは驚いたようだった。受話口の向こうのハッとした気配から、少なくとも君貴にはそのように感じられた。


「今はおまえがマキのことを一番に愛してるのだとしてもいい。おまえ、前に言ってたよな。自分がもしピアノをやめたら……というか、プロのピアニストでなくなったら、俺がおまえに興味を失うんじゃなかって。そんなことはないよ。べつに、俺はこれからもたまに、レオンがプライヴェートで俺のためだけに何か弾いてくれさえしたら……それで十分満足だからな」


『うん……それは、君貴の勘違いだよ。僕は女の中ではマキのことを一番に愛してる。だけど、男の中ではおまえのことを一番に愛してるっていうそれだけだ。どちらが上とかなんとか、そんなことは関係ない。それはマキだって同じなんじゃないかな』


「そうだな。俺もレオンとまったく同じことを思ってた。とにかく、どうにかスケジュールの合間を縫って、近いうちにそっちへ行くよ。その時また、色々話しあおう」


 ぐすっとレオンが鼻をすすったことで、彼が泣いていることが、君貴にもこの時はっきりわかった。


『ねえ、君貴。この間僕、おまえの実の可愛い息子を初めて怒鳴っちゃった。そのこと、懺悔してもいい?』


「まあ、俺の息子のことなんか、いくらでも怒鳴れよ。ただ、マキのいないところでやれよ。レオンの頭がおかしくなったと、彼女に思われないためにな」


『ううん……もう二度とそんなことはないと思うけど、ほら、マークが死んだあと、日本のニュースなんか見てたって埒があかないから、ネットで色々調べてたんだよ。そういう時に限って泣いたりぐずったりしだしたもんだから、「うるさいっ!」て怒鳴って、そのあと暫く放っておいた。マキは仕事でいなかったけど、結構そのあと落ち込んだよ。育児に一切関わらないおまえより、僕のほうがよっぽど父親失格だと思って』


(たったそれだけことか)と思い、君貴は笑った。すると、レオンは意外にも今度は怒りだしていた。


『笑いごとじゃないよ。第一さ、今までの僕の話聞いてて、君貴は怖くならない?僕みたいに小さい頃虐待された子供っていうのは、大きくなってから自分の子供に同じことをするってよく言うじゃないか。僕、もしそんなことが原因でマキと別れることになったらと思うと……心底ゾッとするよ』


「おまえも結構な育児の理想主義者じゃないか。大抵の家ではな、わんぱくなガキがふたりもいれば、五秒に一度は怒鳴ってるって話だぞ。あとはな、理想的と思われた夫婦の家庭に遊びにいったら、赤ん坊のうんちが部屋の片隅に落ちてて、それより三つ年上の子がそのうんちを握りしめてた……その光景を見た独身男や独身女は『結婚なんてするもんじゃないわね』と思うという、育児の現実なんてのは、俺の聞く限りそんなものらしいぞ」


『なんだよ、それ』


 鼻をかむ音が聞こえたのち、今度はレオンも笑っていた。


『とにかくさ、君貴が早くうちに来てくれるとしたら、僕も嬉しい。あと、マキもさ……おまえと違って僕がヒス起こしたあと、どうしていいかわかんなかったと思うんだ。腫れ物でも触るみたいに接してくるようなところがあったから、僕はそのこともイラッときて、思いっきりドアをバタンと閉めて部屋に閉じこもったことがある。もちろん、あとからちゃんとあやまったよ。マキは優しいからすぐ許してくれたし、「むしろもっと早くにこういうことがあって不思議じゃないのに、わたしのほうこそごめんなさい」なんて言うんだ。僕はね……これはあくまで僕個人の問題だし、何よりマークがもしあんなことさえしてなかったら、貴史にも怒鳴ってないし、マキともぎくしゃくしないで済んだと思ってるんだ。だからといってもちろん、マークのせいってわけでもないんだけど……』


 レオンは、ここで一度言葉を切ると、無意識のうちにも重い溜息を着くようにして、話を続けた。


『これはね、あくまで僕の勝手な推測だから、本当の理由なんてものは、当然マークにしかわからないことではある。だけど彼もね、たぶんちょっと理想的な人間をやりすぎたところがあったんじゃないかって気がする。奥さんにとっての良き夫であり、五人の子供の理想の父親……もちろん家族はみんなマークのことを愛してた。だけど、自分の過去をさらして、他の自分と同じ目に遭った子供たちのことをも救おう――なんていうのは、僕はちょっとやりすぎだと思ってた。なんでって、そういう子たちの相談に熱心にのるってことは、取りも直さず自分の過去と向き合い続けることだからだよ。でも、マークはもしかしたら、自分はもうすっかり立ち直ったんだと、錯覚してしまったのかもしれない。これは僕もそうだけど……そのくらいのことをしないと自分には生きている価値がないとか、そのくらい理想的な人間をやって初めて自分は生きていてもいいんだとか、そんなふうに彼も思うところがあったのかもしれない。とにかくね、僕にとってマークはずっと希望の星だった。そして、彼がつらい過去を乗り越えて、幸せに輝いていてくれる限り……僕もまだ生きていていいんじゃないかって、ずっとそんなふうに思ってたんだ』


 その心の支えが崩れ去った……レオンが言いたかったのは、つまりはそうしたことなのだと、この時君貴も初めて理解した。そして、この重い事実を前に、君貴をして、初めてレオンとどう接すべきなのかがわからなくなってもいたのである。


『だから、逆にいうと……マークも僕に対して同じことを思ってるかもしれないと思うところが僕にはあったんだ。あいつもプロのピアニストとして頑張ってるから、俺もロックバンドで頑張ろうみたいに、マークのほうでも思うことがあったんじゃないかって。実際、彼も言ってたよ。ショパン・コンクールの模様をテレビで見ていて、ずっと泣きっぱなしだったって。だから、僕は自分が死ぬということは、マークをも自殺の道に誘いこむことになるんじゃないかと思って、ギリギリのところで思い留まったことがある。理屈じゃないんだよ。昔あったことの記憶のブラックボックスの蓋がズレると、意味もなく突然叫びだしたくなったり、物を目茶苦茶に壊したいっていう衝動に駆られたりするんだ。それが同じように自殺っていう衝動に変わると、もうほとんど発作的になる。それですべて終わりに出来ると思ったら――死ぬ瞬間の痛みや苦しみなんて、そう大したことじゃないとしか思えなくなるんだ』


「レオン、おまえ……」


『ああ、心配しなくていいよ、君貴は。マークの自殺をきっかけに、僕もおかしくなるんじゃないかなんて、心配しなくていい。とにかく僕には今、生きる希望がある。おまえとマキと、貴史と……何より生まれてくる子供の命のことを思えば、まだ当分の間は死ねないさ』


 レオンのこの言葉を聞いて、君貴はとりあえずほっとした。何より、今日明日、突然彼がどうにかなるということはないだろう。とはいえ、いつものように二、三日一緒にいるというのではなく、君貴としてはレオンとマキの生活の様子を暫く見守りたい気持ちがあった。


 だが、スケジュール帳を見る限り、敏腕秘書の岡田でさえ、東京に四、五日なり一週間、あるいは十日いるなど、ほとんど不可能としか思えないくらい、この先暫くの間仕事の予定が詰まっている。


『わかってるよ、君貴。おまえの気持ちは……僕の感情が不安定だから、早くこっちに来て、マキと僕の様子を少し見たほうがいいと思ってるんだろ?だけど、今はまた昔と状況が変わったものな。何分、建築物ってやつは、ひとつ何かが建て上がる際に物凄く時間がかかるから……で、その間にも人気建築デザイナーであるおまえの元には、デザインを頼みたいって依頼が次々入る。実際のところ君貴、仕事のしすぎなんじゃない?昔はただ僕の我が儘で、おまえと一緒にいたくて、もっと仕事減らせないのって言ったこともあるけど……今はさ、そういうことじゃなく純粋におまえのことが心配なんだよ。これはマキもよくそう言ってる』


「そっか。まあ、俺から仕事を取ったら何分他に何も残らんもんでな。俺もレオンみたいに父性や母性がバランスよくあって、子供のために仕事を減らして家庭にいよう……みたいな人間だったら良かったんだがな。けどまあ、忙しいうちが花ってよく言うだろ?一度どこかでコケたら、俺の会社だってドミノ倒し的に仕事なんかぱったりなくなるかもしれないんだ。一応百名以上もいる部下どもを養っていくためにも、仕事の依頼があるうちはもう暫くの間は頑張りたいというかな」


『四十歳の建築家って言ったら、一番仕事のノリがいい時期ってことなのかな。僕には、君貴のいる建築業界のことはよくわかんないけど……なんにしても、東京上空を通過するような時には、必ずうちに来てよ。っていうか、おまえが金だして買ったところだけどさ』


「それは関係ないだろ。レオンだって、もっといいところに移りたいと思ったら、自分でそこ以上のところを余裕で買える金なんかいくらでも持ってるんだから。それよりおまえ、本当に大丈夫なんだろうな?」


『うん……っていうか、今君貴に色々話したら、かなりのところ胸のつかえが下りてラクになったよ。ありがと、君貴』


「じゃあまた、近いうちにな。あと、マキに妊娠おめでとうって言っておいてくれ」


 ――とりあえず電話を切ったものの、君貴はレオンのことを思うと、深い溜息が洩れた。彼としては子供は貴史がひとりいれば十分なので、レオンの子である可能性がなかったとすれば、マキの妊娠を果たして喜んだかどうかはわからない。けれど、レオンの今の精神状態のことを思うと……マキの妊娠が本当にありがたかった。そして、青い瞳のぱっちりした目の赤ん坊が約七か月後に生まれてきてくれたとすれば――君貴としても完全に安心だった。その時、レオンはきっと狂喜し、マーク・クォーターランドの死の影のことなど払拭されてしまうに違いない。


 こののち、君貴はいつも以上に頻繁に、レオンとマキのふたりに電話をかけて連絡を取りあった。ふたりがまず第一にするのは、こちらが求めてもいないのに息子の貴史を携帯画面に収めてこようとすることだったが――それはさておき、レオンの不在時に君貴は、マキにレオンと喧嘩した時のことを聞いた。


『喧嘩っていうか……そんなに大袈裟なことじゃないの。レオンにとって大切なお友達が亡くなったのに、わたしが無神経だったっていうそれだけの話。ただ、レオンの感情の爆発のさせ方がすごかったから、ちょっとびっくりしちゃって……それでね、きっとレオンはわたしに対する不満をそのくらい内に溜め込んでいたんじゃないかって思ったら、なんだか悲しくなっちゃって……』


「マキが悪いわけじゃないさ」


 君貴はいつも通り、彼女の声を聞いているだけで、心の奥深くが癒されるような、幸せな気持ちになれる。


「ただ、有名ロックバンドのヴォーカルが友達で、その友達が死んでショックを受けただなんて言って、レオンもマキを心配させたくなかったんだろ。まあ、あいつのヒステリーは一過性のもんだ。もし仮に花瓶のひとつやふたつ壁に投げつけて壊したとしても――そう驚くようなことじゃない。それにあいつは、家で子育てしてて煮詰まってるわけでも、鬱屈とした思いを抱えてるわけでもないんだよ。むしろ、今のマキとのような生活を送れるのが理想だったとはいえ、俺とじゃそれは不可能だからな。そうだな……こう言えばわかりやすいか。この場合、マキが男でレオンが女だったとする。で、レオンは妊娠してピアニストをやめたとするわな。本人はもともとピアニストなんかやめて専業主婦になりたいと思ってた。だが世間やら夫やらが『君にはあんなに素晴らしい才能があるのにもったいないよ』としつこいくらい言ってくるわけだ……でも本人は、家にすっこんで静かに暮らしたいと思ってるんだよ。何より、マキとふたりきりでね。それがレオンの本当に心からの望みなんだってこと、マキにはわかってやって欲しい」


 ぐすっと泣きながら、マキは何度も頷いていた。あれからふたりで話しあい、レオンの本心が彼女にもわかったわけだが――それでもまだ、(本当にこれでいいのだろうか?)との迷いが心の底に残っていた。けれど、今の君貴の言葉で、本当にこのままでいいのだと、そのことがマキにもよく理解できていた。


『あのね、君貴さんがうちに来たらわかっちゃうと思うから、先に懺悔しておこうと思うんだけど……レオンが部屋の壁紙というか、壁をボコっちゃって、破れて傷がついちゃったの。一応今はそこに書棚を置いて、外から傷が見えないようにしてはあるんだけど……あのね、ここの二十階くらいの部屋が一室、売りに出されてるのを前に見たことがあって。それで、売却金額を見て、トムとジェリーのトムみたいに目玉がバネ式に飛び出るかと思ったわ。そのことを思うと、今も胸が痛むっていうか……』


「はははっ!べつに、大した金じゃないさ。知り合いの不動産会社が間に入ってるから、二千万くらい値引きもしてもらったしな」


『でも……』


「まあ、気にするな。それより、壁紙くらい俺がホームセンターで買ってきてDIYで直してやるよ。第一な、仮に壁に穴が開いたにせよ、これからもレオンとつきあってくつもりなら、そんな程度のことは驚くに当たらないぞ。なんにしても、マキが今このタイミングで妊娠してくれて良かった。たぶん、確率的にレオンの子の可能性のほうが高いわけだし、自分の子供が生まれたらあいつは手放しで喜んで、これからも生きていこうとする希望と気力が湧いてくるだろう」


『…………………』


 マキは一度黙り込んだ。自分が妊娠中だからだろうか。ふたりは何か大切なことを隠しているらしいとわかっていたが、かといって、深く掘り下げて聞いていいかどうかもわからない。


『レオンは、何があったの?』


「そうだな……レオンがどこまでマキに話したかわからんが、俺から聞いたと聞いても、あいつは怒らんだろ。ロックバンドのクォーターランドのヴォーカルは、レオンの幼馴染みだったんだ。で、ふたりがいた児童養護施設では組織的な虐待が横行していたらしい。一応公的に認可されている場所ではあったが、職員が特に気に入ったガキどもを地下の部屋に監禁していじめていたわけだ。レオンも、レオンの友達のマークも、彼らの言うことを聞かなければろくに食事もさせてもらえないようなひどい環境だった。そのことを密告しようとする人間がいれば、恥かしい写真を撮って脅したりと、そんなこんなで彼らのしている悪事はなかなか表沙汰にならなかったらしい。だが、いつまでも隠し通せることでもないだろうからな……とうとう、弱味を握られているにも関わらず、告発に踏み切った勇気ある女性がいたんだ。その後、レオンは別の専門治療施設へ移され、マークとは離れ離れになった――だが、お互いテレビに顔の出るような有名人になり、レオンはマークがロックバンドとして成功し、なおかつ結婚して子供もいることを喜んだ。マークのほうでも、レオンがつらい過去を乗り越えて、プロのピアニストとして華々しく活躍してることを祝福したんじゃないか?ところが、彼が自殺したと聞いて……レオンは自分の存在が根幹から揺るがされるくらいショックだったんじゃないかと思う』


『その、ね……わたしも、レオンから話を聞いて、あのあとネットで色々調べてみたの。あと、クォーターランドって、名前は聞いたことあっても、ちゃんと音楽のほうを聞いたことなかったから、ストリーミングで聴いてみたりしたんだけど……』


「マキが何を言いたいかはわかる。だからこそ、レオンはマキに何も言わずに黙ってようとしたんだろうなってこともね。彼は自分の身に起きたことを一切隠してないし、むしろ歌詞の中でそのことを告白し、神に呪いの言葉を吐いたり、ファックって叫んだりもしてる。『神がこの世に存在するなら、あんたにフェラチオを決めさせて、俺があんたのアナルを犯してやる』だなんて……確かに上品な歌詞とは言えない。だがそれがクォーターランドが出したシングルの中で一番売れたんだ。確か、ビルボード・チャートで最高三位だったんじゃないか?だが、彼はある時からその曲を歌ってない。それがなんでかっていうことも、インタビューの中で答えてる。『子供がもう五人もいて、彼らの祝福を神に求めてるのに、そんな矛盾した歌はもう歌えない』っていうことだった」


『その……マークさんの遺書のことなんだけど……』


 レオンは、その児童養護施設で「人道的な扱いを受けなかった」とか、「言うことを聞かないとろくに物も食べさせてもらえなかった」といった言い方はしたものの――具体的にどういった暴力を受けたか、といったことはマキに説明しなかった。ゆえにマキは今も、マーク・クォーターランドと同じ扱いをレオンも受けたのだとは、もし仮にそうであったにせよ、そんなことは口にしたくなかったのではないかと思っていた。


『「人生はがらんどうで、虚しく無意味。俺は乗り越えられなかった。ゆるしてくれ」だなんて……わたしも、すごくつらいわ。レオンは前と変わらず優しいし、貴史の面倒もよく見てくれて……だけど、わたしのほうではレオンに何もしてあげられないだなんて……』


「マキは、ただレオンのそばにいてやってくれ。それがあいつにとっては何よりの心の癒しなんだから。『そんなにつらいことがあったのに、何も知らなくてごめんなさい』とか、口に出して言う必要さえない。俺は思うんだがな……マークとレオンじゃ違うんじゃないかという気がするんだ。ほら、クォーターランドはアルバムの最初の五枚目くらいまでが一番よく売れてるんだよ。つまり、偽善者の里親を罵ったり、プロムに誘ったけど断られて孤独だとか、学校で人間関係がうまくいかないとか……俺の人生がうまくいかないのは虐待されたせいだとか、とにかく問題は常にそこに帰結する。ようするに人生に対する怨み節だな。大体、最初のアルバム二枚はそんな感じだ。三枚目はホームレスたちから聞いた人生の悲哀について歌い、四枚目でまた神への怨みと呪いが復活し――その後、奥さんと結婚して子供が出来、そんな自分も愛によって変えられた、この世界で一番大切なのは愛だ……というのが五枚目のアルバムのテーマだな。以降は、ライブで自分で自分の体を傷つけることもなくなり、CDセールスのほうも伸び悩んでいた。言ってみれば、そうしたアーティストとしての苦悩や精神的鬱ってことが、彼にはあったんじゃないだろうか」


『あのね、君貴さん。わたし……レオンの言ってたことで気になることがあるの。ほとんど無意識のつぶやきだったと思うんだけど……「五人も子供がいて、それでも駄目だったのか」って。そのあと、ハッとしたみたいになって、なんか全然違う話をわたしに明るくしだしたんだけど……なんとなく気になっちゃって』


「そうだな。だが、マキには悪いが、俺だってもし事業が失敗し、多額の借金を抱えてもう死ぬしかないとなったら――子供が何人いようと自殺するのが最善の策と考えるかもしれんな。もちろん、そんな考え方は間違ってるのかもしれない。だが、一時的にせよ、そうするのがその時点において一番楽に思える人生の選択肢としか思えないとしたら……魔が差すということはあると思うんだ。もっとも、少し時間を置いてまた考え直せば、『何を考えてるんだ、俺は。子供が五人もいるのに……』ってなるかもしれなくても」


 ここで、受話口の向こうから、マキが溜息を着いたような気配がした。君貴も、妊婦に聞かせていいような話ではなかったと思い、後悔する。


『あのね、君貴さん……君貴さんは大丈夫?』


「俺か?俺は全然平気だ。何分、仕事が生き甲斐だという可哀想な人種だからな。仕事さえ与えておけば俺はどうにかなるといったタイプの人間だ。だが、そういやレオンの奴も言ってたな。前以上に忙しくなってて大丈夫か、みたいなこと。だがまあ、もし資金難ということにでもなれば、マキとレオンと貴史の住むそのマンションからまず真っ先に出ていってもらうとでも覚えておけばいいさ。今のところ、業績的には問題ないよ。建築業界も決して景気がいいとは言えないはずなんだが……まあ、うちの会社はその中でも比較的うまくいってるほうだろう」


『うん……実をいうとね、わたしもそういうことはあんまり心配してないんだけど、レオンもね、前に来た時、君貴さんが少し痩せたんじゃないかって』


(そういうことか)と思い、君貴は笑った。だが、自分が大切に思う人間に心配されるというのは、ある意味嬉しいことでもある。


「まあ、忙しすぎるせいだろ。会社の規定でな、半年に一回は人間ドックを受けてるし……俺が脂ぎった肉系のものばっか食って野菜はあんまり食わないから、マキはそんなことが心配なんだろ?その点はな、秘書の岡田の奴がゴキブリの卵かゴリラの鼻クソみたいなサプリメントを飲ませようとしてくるんだよ。『ボスはあんまり野菜を食べないから、少しはこういうものでも摂取してください』ってな。だからまあ、しょうがないと思って毎日食後に飲んでるさ。ゴキブリの卵とゴリラの鼻クソをな」


 ここで、マキの軽快な笑い声が、受話口の向こうから聞こえてくる。


『君貴さんはどうせあれでしょ?「自分に対する嫌がらせとして、時々本当にゴキブリの卵やゴリラの鼻クソを混ぜる気だろ、おまえ」なんて、岡田さんに対して言ったりしてるんじゃない?』


 今度は、君貴が笑う番だった。というのも、そっくりそのまま、大体同じ意味のことを彼は秘書・岡田に言っていたからである。


「よくわかったな。あいつが自分には健康のことを色々考えて食事にも気を遣ってくれる奥さんがいて良かった……とかなんとかノロけてきたからさ。嫌味のひとつも言ってやって当然だろ?まあ、飛行機の移動時間含め、なんとも不規則な生活ではあるが、人間ドックで調べて何か異常値が発見されたわけでもないしな。よしんば、俺にガンが発見されて、余命いくばくもないとなったら――財産的なものは全部、おまえに行くように手配してあるよ。ほら、貴史はまだたったの三歳だし、レオンはすでに俺が金なんか残さなくてもいいような資産家なんだから」


『……君貴さん、そんな話、初めて聞いたわ。それに、君貴さんには御家族だっているじゃない。それなのに……』


「ああ、べつにマキが気を遣うようなことじゃない。第一、俺が阿藤家の人間に自分の財産なんか残して何になる?何より、自分と血の繋がった息子が俺にはいるんだぞ。だが、その子はまだ小さい。となったら、おまえに残すのが一番だ」


『…………………』


「というより、マキ、おまえのほうが少しおかしいんじゃないか?確かに、俺たちは結婚してないし、一緒に暮らしてもいない。だが、俺がおまえと結婚してないのは単に仕事が忙しすぎて一緒にいてやれない以上、そんなの実質的な意味での結婚とは言えないというそのせいだ。そんな時、レオンがマキと暮らしだした。そして、今はおまえたちのほうが結婚してるも同然の関係になってる。だが、ふたりが育ててるのは俺の息子だってことになったら……」


 君貴は、自分でも話してるうちにおかしくなってきた。確かに彼はマキのこともレオンのことも愛している。そして、マキは自分とレオンのことを愛し、レオンはマキと自分のことを愛し……だがとにかく、三人のうち誰が欠けても自分たちは物足りないのだ。


「ようするにさ、結婚してなくても、実質的にマキは俺の奥さんだってことだ。俺の中の基準としては、毎日俺にメシを作ってくれるとか、そんなことは関係ない。しかも息子もいるとなったら、法律的にも、おまえに俺の財産が行くっていうのはある意味当然のことだ。俺のものは家族として当然マキやレオン、貴史のものだって言っていいんじゃないか?第一、俺がマキや貴史にしてやれることといえば、せいぜいが金のことくらいなものだしな」


『そんなことないわ。君貴さんはいい父親よ』


「まさか。いい父親っていうのは、レオンのような奴のことだろ?まあ、なんでかわからんが、貴史は俺がいると突然俺に媚を売りだすわな。『将来、世渡り上手になるんじゃないか?あとは、接客業に向いてるかもしれん』なんて言ったら、レオンは呆れた顔してたけどな」


『媚を売るとかじゃなくて』


 マキもまた笑って言った。


『単に、君貴さんに懐いてるのよ。もともとあまり人見知りしない子ではあるんだけど、君貴さんはその中でも特別よ。やっぱり、実の父親だってわかってるんじゃないかしらね。レオンなんて、僕が相手じゃもう貴史は新味を感じないんだろうな、なんてあなたが帰ったあと、少し拗ねてたわ』


「なるほどなあ。だがまあ、レオンが拗ねる必要はないさ。貴史はただ単に、自分の親父のことを哀れんでるだけさ。マキとレオンと自分のゴールデントライアングルから俺だけ弾き飛ばされてるのを見て、可哀想に思って仲間に入れようとしてくれるんだろ」


『空気を読める、頭のいい子ね。流石はわたしたちの子だわ』


 ――実際、貴史はだんだん色々な言葉をしゃべるようになってきており、大人三人が揃っている時、下手な会話は出来ないようになってきてもいた。そこで問題になるのが、「誰がほんとのパパなのか」ということだったかもしれない。貴史はすでに金髪碧眼のレオンのことを「パパ」と呼んでおり、月に一度か二度遊びにやってくる君貴のことは「とうたん」と呼んでいるのである。


「パパ」と「とうたん」……貴史の中のこの矛盾は、果たして彼が大きくなった時、うまく解消されうるものなのだろうか?


「確かに、頭のいい子ではあるな。レオンが数を教えたり、色を教えたり、幼児番組を見ながら一緒に踊ったりしてるそのせいなんだろうな。俺ももううっかり、貴史の前では変な下ネタなんか話せない気がする」


 この時君貴は、息子から「とうたん、しゅっきー」と純粋な眼差しで言われたことを思いだし、あらためて胸が痛くなった。たまにしかやって来ない、ろくに世話もしない親父に好意を表明するとは!君貴は良心が痛むあまり、次に訪ねる時には高いおもちゃでも買っていこうと今から考えているくらいだった。


『そうねえ。ただ、レオンとしては少し悩ましいみたいよ?やっぱり、何か物を揺らして壊したりとか、そういうことがあった時には「ダメっ!めっ!!」て叱ったりしなくちゃいけないでしょ?悪いことをしたらなんでそれが悪いのかを説明したり……意外にね、わたしが叱ったほうが効果あるのよ。「僕、なんか最近貴史になめられてる気がする」ですって。確かに損よねえ。一番長く一緒にいて、色々面倒みてくれるのはレオンなのに、ずっと留守にしててやっとこわたしが帰ってきたら、今度はわたしから離れないんですもの』


「いやいや、レオンさまさまだな。俺たちは一生あいつに頭上がらないというか、俺なんかあいつに会うたびにまんじゅうでも供えて拝むべきなんだろうな」


『ほんとにそうよ。だけど結局、貴史が一番好きなのはわたしよりレオンなんだけどね。わたしが怒って貴史が泣きだして、レオンに助けを求めにいく時の様子といったら……もう、レオンの面目躍如といったところよ』


 マキが嬉しそうに笑う声を聞いて、君貴はほっとした。彼が次に東京へ行けそうなのは、来月の中頃である。それまで半月以上あるが、おそらくスケジュールを無理に調整し、少し早めに訪問するような必要性は、もうないかもしれなかった。


 だが、君貴としてはそのような予定であったにも関わらず……日本でゴールデンウィークが明けた頃、レオンとマキ、君貴の三人の関係性を脅かす、ある大きな事件が起きた。


 その日、君貴はニューヨークの自宅マンションにて、そのニュースに接した。午前の十一時からドバイのホテルに関する問題点と、工期修正について会議の予定が入っていたが――それまでに出社すれば良いと考えていた君貴は、ぼんやりしつつ、焼いたトーストを齧っているところだった。


 マキとレオン宅の朝食が「ほとんどきのうの残り物よ」などと言いつつ、非常に豪華なのに比べ……君貴のそれは極めて質素だった。焼いたトーストにバターを一塗りし、あとはただコーヒーでそれを流し込む。そのかわり、ランチのほうは近所のお気に入りのイタリア料理店へ食べにいったり、中華料理を注文したりと、少しボリュームのあるものを食べる。そこから長く続く、午後の業務をこなすために……。


 そしてこの時君貴は、いつもの習慣によって何気なくリモコンでテレビをつけた。ちなみにこの時間帯、君貴のほうで特にチャンネルに拘りはない。だが偶然とはいえ、君貴は恐ろしい一報に接するということになる。



 >>『本日は、来週の水曜に発売予定の「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」を執筆された、ウォン・ヨウランさんにインタビューさせていただきます』


 ブロンドの、ベージュ色のスーツをかっちり着こなした美人ニュース司会者が、長い黒髪の中国人女性に対し、「是非、お座りください」といったように、ソファのほうを勧めている。


 その前まで、君貴はトランプ大統領の政策が槍玉に挙げられているのを見て――(やれやれ。トランプが大統領である限り、アメリカに未来はないぞ)などと思い、心の中で親指を下に向けていたわけだが……この瞬間、半分寝ぼけていた頭が一気に冴え渡っていった。


(レオン・ウォンの真実だって!?)


 この瞬間、君貴の脳裏をよぎったのは、『マドンナの真実』や『マイケル・ジャクソンの真実』といったような、いわゆる暴露本系の本のことだった。とにかくこの場合、想像するにろくでもない本であるのはほぼ間違いないだろう。


『こちらのウォン・ヨウランさんは、有名ピアニスト、レオン・ウォンの義理の妹さんに当たられます。まず、来週発売予定のご著書についてですが……わたしも読ませていただきましたが、なかなか過激なタイトルですね』


『そうですね。でも、真実なのですから、仕方ありません』


 控え目な印象ではあるが、長い髪を高い位置で結い、濃紺のルイ・ヴィトンのスーツを着たヨウランは、東洋の神秘的な美人といった雰囲気を演出するのに十分成功していたといえる。ちなみに、靴のほうはフェンディである。


『レオンが我が家に養子としてやって来たのは……彼が八つ、わたしが七歳の時のことでした。本の中の描写にあるとおり、レオンがピアノをはじめたのはわたしの影響なんですよ。わたしがピアノの練習をしているのを見て、彼が興味を示し……母はあまりいい顔をしませんでしたが、わたしは自分が師事している先生に、彼にもピアノを教えてあげて欲しいと頼んだのです』


『なるほど……ですがタイトルのほうは汚れたピアニストですよ?ヨウランさんがレオン・ウォンがピアノをはじめるきっかけであることはわかりましたが、その後、彼がショパン・コンクールで優勝するまでの間、中国のウォン家では何があったのでしょう?』


『レオンは……わたしの父の愛人だったのです』


 ここで、観覧席にいた人々が一気にざわついた。「まさかっ」とか、「そんなのウソよっ!」といった女性の声まで聞こえる。


『証拠、といっても、家の中でもそれはわたししか知らないことです。ですが、母や使用人の何人かは気づいていたかもしれません。ようするにわたしは……見てしまったのです。レオンが父のことを罵倒し、自分の足からはじめて、他の部分をなめさせたり……自分の欲望の奴隷にしているところを。その頃彼はまだ、十四か十五くらいでした。けれど父はレオンに首ったけだったんです。兄やわたしは、厳しい父の愛情など感じたことはありませんでしたが、レオンのことだけは別だったのでしょう。果たして美少年にセックスの相手をさせるためだけに父が彼のことを引き取ったのかどうか、その点についてはわかりません。ただ、次のことだけは言えたでしょう。レオンはわたしの父のことを精神的に……あるいは性的にと言うべきでしょうか、そのような形で支配していました。そして、自分に多額の遺産を残させたのです』


 スタジオ中がざわめきに包まれる。ここで、三十代の美人司会者は、まるで何かの効果でも狙うかのように、あえて数瞬時間を置いた。そして再び質問を開始する。もしかしたら人々の頭の中に、この衝撃的な事実がしみ込むのを待っていたかのかもしれない。


『ヨウランさんのお父上のミスター・ウォンは、妻であるイーランさんに全資産の約半分を、残りを兄のハオランさん、養子であるレオン・ウォン、それから妹であるヨウランさん……あなたに三分割して与えたのでしたね?』


『そうですね。細々したことを言えば、父が生前お世話になった人や使用人、親戚の叔父や伯母など、父が遺産を残した人々は他にもたくさんいます。けれども、母を除いたとすれば、わたしたち三人の中ではレオンの取り分が一番多かったのです。それは金額的なことではなく、生前、すでに父はニューヨークにあるペントハウスやニースやモナコ、プエルトリコにある別荘など……不動産についてはレオンの名義に変えさせていました。そして彼はそこを、自分が男の恋人と会う愛の巣にしていたのです』


(…………………っ!!)


 自分にも関係のある事実が出てきて、君貴はもう朝食どころでなくなった。微動だにせず、ただテレビの画面に釘付けになる。


 テレビのスタジオ内では、「彼、やっぱりゲイだったの!?」、「噂は本当だった……」といったような、ひそやかな安っぽいささやきまで洩れている。まるで、あらかじめリハーサルしていたかのような白々しさだった。


『兄は、そのことをいまだに根に持っているようです。しかもその後、レオンは父から譲られた世界各地の別荘のほとんどを売ってしまいましたし、レオン・ウォン基金などという慈善事業まではじめました。ですが、みなさん騙されないでください。それもすべて、レオンの策略なのです。たとえば、遺産相続後、兄やわたしなどに訴えられた時のために……不動産は売却しておけば、それをわたしたちに譲る必要はなくなりますし、慈善事業という隠れ蓑を常に使って資金を運用すれば、ピアニストとしてクリーンなイメージを保てます。何もそんなことをしなくても、わたしも兄も、彼のことを訴えたりなどしなかったというのに……』


 どういった種類の涙かは理解しかねたが、ヨウランはここでうっすら涙を浮かべていた。そして、少し悔しそうに下唇を噛んでいる。


『レオン・ウォンが定期的にチャリティ・コンサートなどを行い、災害のあった国などに多額の献金をしてきたことは、世界的に有名な事実です。ヨウランさんは、それすらも彼の慈善心ではなく、策謀によるものだと……?』


『いえ、そうは言っていません。確かに、レオンは恵まれない子供たちに夢を与えただけでなく、たくさんの慈善団体に寄付することで、世界に貢献しているアーティストではあるでしょう。ですが、そもそも彼はロンドンにある児童養護施設でひどい虐待を受けているのです。そのことが彼が恵まれない子供たちに手を差し伸べるもっとも強い動機なのではないでしょうか。レオンはそこで……施設の男性職員を相手に、色々なことをさせられたようです。可哀想なことです。そしてそのことが、のちに彼を同性愛者にしてしまったのではないでしょうか』


 ここでニュース司会者は、この痛ましい事実を前に、どこかつらそうな顔の表情をし、瞳を伏せた。だが、額に刻まれた皺のほうは、ある種の嫌悪感を表明しているようにも見える。


『それは本当に事実なのですか……?また、レオン・ウォンは本当に間違いなく同性愛者なのでしょうか?彼のファンの多くは女性だと言われていますが、もしそれが事実であるとすれば、きっとみなさん、今ごろ非常にがっかりされているのではないかと思いますが……』


『レオンがゲイであることはほぼ間違いありません。もしかしたらこれから誰か、お金で雇った女性と偽装結婚し、同性愛者である疑惑を晴らそうとするかもしれませんが……とにかく、彼はとても頭がいいのでしょうね。レオンの周囲にいる人々が騙されるのも無理はありません。何分、あの美貌ですから、彼のあの深い瞳にじっと見つめられると、大抵の人が黒いものでも真っ白く見えてきてしまうのではないでしょうか』


『残念ですが、そろそろお時間となってしまいました。今ウォン・ヨウランさんの語ったことの詳細についてお知りになりたい方は、来週の水曜日に発売予定の、「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」を御一読くださいますように!ヨウランさん、今日は貴重なお時間、本当にありがとうございました!!』


 ここで、ヨウランはニュース司会者に向かって一礼し、彼女の手を取り握手してから、中国語で「シェイシェイ」と小さな声でつぶやき――それから、どこか颯爽とした足取りでスタジオから退場していった。


「あったまいてえなっ!一体なんだ、あの女っ!!」


 ちなみに今日は金曜日である。ゆえに、どんなに本に書かれた内容について君貴が知りたくとも――あと五日は待たない限り、ウォン・ヨウランがそこにどんな彼女にとっての<真実>を書いたのか、知ることは出来ないのだ。


 今、時刻は九時三十五分である。そろそろ、秘書の岡田が車で迎えに来るはずだった。そこで君貴は、リムジンの後部座席でスマートフォンを使い、ワイドショー放映後の反応を探ってみることにした。日本の東京は今、夜の十一時くらいだろうか。何分、子供のいる家庭が休むのは早いだろうし、日本のワイドショーがすぐ反応するかどうかもわからない。その場合、レオン本人がこのことを知るのは――彼がもし今、マキと同じベッドで眠っていたとすれば、翌朝ということになるに違いない。



 >>超ショックー!めっちゃファンだったのに……(涙)


 >>まあ、昔から色んな男とそーゆー関係なんじゃないかっていう噂はあったもんねー。


 >>つか、何今さら感満載的な?(笑)



 こうした、ゴミのようなつぶやきには君貴も興味はない。だが、あのテレビショーを見た大衆の、概ねの反応というのだろうか。そうした動向についてはある程度把握しておきたかったのである。


 また、車で移動中にレオンのマネージャーであるルイス・コーディに電話した。何分、レオンが所属しているエージェント会社はニューヨークに本社があるのだ。彼が今他のアーティストについていて、ニューヨークにいなかったとしても――ルイスの仕事用の携帯に電話すれば、繋がる確率は高かったに違いない。


 果たして、ルイス・コーディはコール三回で電話に出た。それで君貴は「例のテレビは見たか?」と即座に聞いた。今まで、君貴は何度となく彼に泣きつかれ、レオンのことをなだめるなどしてステージに彼のことを上げてきた。その関係から、お互いの電話番号についてはすでに相手の名前が入っていたのである。


『もちろん、見ましたあっ!』


 ルイスは情けない声でそう叫んでいた。


『でも、日本は夜中だからですね、いっくら携帯に電話しても出ないんですよおっ。どうしましょう、アトーさんっ。私は一体どうすればいいですかねえっ』


(相変わらず他力本願かよ)


 そう思い、君貴は舌打ちしたくなったが、どうにか堪えた。だが、そこがルイスのいいところでもある……彼のそうした超低姿勢は、徹底して超低姿勢であればこそ、他の人間を動かす力足りえるのだ。


「どうするもこうするも……暫くは静観して、あの性悪の中国女がどうするつもりなのかを見るしかあるまい。何より、あの真実性が疑わしい暴露本な、あの内容をしかと確かめるまでは、おまえらのほうでも動きようなんてないだろ?」


『それがですねえ……つい先ほどニューヨークの事務所のほうに、挑戦状よろしく本のほうが届きまして……私はまだ読んでないのでございますが、社長が今、部屋のほうで首っぴきになっているところなのでありますっ』


「そうか……なるほど。もし可能であるとしたら……俺にもその本、読ませてもらえないだろうか?何分、来週の水曜まで待ちきれないもんでな。あと、社長が本を読み終わり次第、すぐにその感想を聞きたい」


『わっかりましたっ!そのようにお伝えしておきまーすっ!!』


「ああ。よろしく頼む」


 このあと君貴は、出社後、二時間ほどで会議を終えてのち――会議中に連絡があったというレオンが所属するロイ&タナー・エージェンシーのCEOに電話した。何分、この社長自身がゲイで、ニューヨークで同性婚が認可されると同時、長年のパートナーと結婚したという人物だった。君貴は彼とさして親しい間柄というわけではなかったが、この時レオンと一緒に結婚式のほうへは参加していたのである。


『超多忙の人気建築家さんのお手を煩わせて、申し訳ないね』


 ロイ&タナー・エージェンシー(RTA)は、モデルや俳優や作家など、実に多くの人材を抱えるエージェント会社である。レオンがたくさんあるこうした事務所の中でここを選んだのは、やはり社長自身がゲイだったから……という理由が大きかったらしい。


 彼、ロイ・シェパードは現在五十五歳であり、東海岸のみならず、当然西海岸でも交友関係が広かった。『君がゲイじゃなかったら、うちの事務所のモデルでも紹介したのにね。それか、君がファンのハリウッド女優でも誰でも、会いたい人物がいれば会わせてあげるよ』などとよく言われたものである。


「俺の忙しさなんて、ロイの忙しさに比べたら大したことないでしょう。それより、例の本の内容についてなんですが……」


『正直なところを言って、旗色のほうはレオンに非常に悪いね』


 そう言って、ロイは重い溜息を着いていた。


『レオンの生い立ちからはじまって、かなりのところ詳細に調べてある。ほら、彼がいた児童養護施設で一緒だった子たちや、あるいは当時の施設のスタッフなんかから、随分聞き込みを行ってるんだ。何分、中国のお金持ちのお嬢ちゃまだものな。相当金を使って人に調べさせたんだろう。まず、その部分に関して物凄く説得力がある。ゆえに、レオンがルイ・ウォン氏と愛人関係だったということも――それを直接知るのがあのお嬢さんひとりであったにしても、本を読んだ人は、彼女が見たという現場の再現を信憑性が高いと思うに違いない』


「どういうことですか……?」


 君貴は、あまりのことに声が震えた。レオンは、ただの色ボケ中国人の大富豪に性行為を強制されたに過ぎない。もし仮に彼が体をなめろと命じていたにせよ……それは、無理強いしてレイプするよりも、そのように「相手が望んでいる」形態のほうがより興奮するという、ウォン氏のプレイにレオンがつきあっていたにすぎない。


『いや、わたしが今ここでその部分を読んで聞かせたりするより……本のほうをルイスか使いの者にでも届けさせよう。今は、ニューヨークの本社のほうにおられるのかね?』


「ええ……ロイ、どうかレオンのことをお願いします。もうお聞き及びでしょうが、彼はプロのピアニストという看板を下ろす決意をすでにしているんです。それなのに、今こんなスキャンダルに巻き込まれでもしたら……」


『ああ、わかっている。何より、そのことを止めていたのはこの私なんだからね。ピアニストとして定期的にコンサートを開かなくてもいい。モデルとして雑誌のカバーを飾るとか、映画にちらとだけカメオ出演してピアノを弾くとか……そんな仕事ならいくらでもあるわけじゃないか。だから、私はレオンの才能を惜しいと思ったんだ。彼さえその気なら、俳優としてもレオンは才能があるからね。だが、今にして思えばレオンが「引退したい」と言った時に、そうさせてやるべきだったと思う。しかしながら私にそうした責任がある以上、最後の最後まで何があってもレオンのことは我々で守ろう。こちらにも、あちこちから電話がかかってきているがね、うちでは「訴訟を起こすつもりでいる」としか今のところ答えてはいないよ』


「そうですか。ロイのほうでそのつもりでいてくださるなら、俺としても心強いです。レオンもそう聞いたら、同じように思うでしょう」


『ところで……だね。レオンがウォン氏から譲り受けたペントハウスや別荘で会っていた男の愛人が――名前こそ出ていないとはいえ、日本の有名建築家Kとなっているんだよ。キミタカ、そのあたり、君のほうでは大丈夫かね?』


 ここで、君貴があんまり素っ頓狂な声で笑いだしたもので、ロイのほうでも驚いたようだった。


「す、すみません……いえ、日本の有名建築家でイニシャルがKといえば、俺の他にケン・イリエって奴もいるんですよ。で、俺はほとんどあまり日本にはいないんで……そう思ったらちょっと、あいつに迷惑かかるのかと思ったら、その部分だけなんかおかしかったもんですから」


『なるほど。じゃあまあ、どっちかわからないといった形になって、キミタカにとってはむしろ都合がいいのかな?』


「いやあ、俺はもともとレオンとつきあいはじめた頃から……あいつとの関係についてはいつ誰にバレてもいいとしか思ってませんでしたよ。ただ、レオンの女性ファンに対して申し訳ないっていうそれだけで……」


『そうか。なら良かった。なんにしても、また何かあったら連絡したいんだが……キミタカのほうでは構わないかね?』


「もちろんです。いつなりと、電話してください。ニューヨークにいなかったとしても、レオンに関することではなんでも協力しますから」


 ――携帯を切った約一時間後、早速とばかり例の本が届いた。この時、君貴は部下から上がってきた設計案をチェックしているところだったが、一度仕事を中断し、本の内容のほうに集中することにしたのである。


 君貴はまず、本が思っていた以上に厚いことにまず驚いた。それから一字一句逃さず読む……というのではなく、まずは本に書かれた内容について、大体のところ把握する、という読み方を一時間半ほどかけてすることにした。結果として、本を半ばほども読まないうちから、すぐにロイが言っていた言葉の意味がわかった。


(確かにこれは、レオンにとって相当旗色の悪い内容だな……)


 まず、レオンの母親の生い立ちや、彼を妊娠した経緯、自殺した理由など、随分細かく調べてある。おそらくこの中には、レオン自身もまったく知らない内容まで含まれていると思われた。その後、カトリックの乳児院に預けられ、七歳になった頃、同じカトリック系列の児童養護施設ではなく、外部のそうした施設のほうへ移されることになったらしい。この点については調べようがなかったのか、理由については述べられていない。ただ、>>『もしそのまま、同じカトリックの児童養護施設にいることが許されていたら、彼もすっかり神のことなど信じられなくなるような体験をせずに済んだでしょうに……』と書いてあるのみだった。


 レオンが受けたと思われる虐待については、君貴にしても読んでいて嫌悪感が込み上げるあまり、読み進めるのがつらかった。『彼らはレオンのことを王子様プリンスと呼んで、よくからかっていた。まだ勃起の意味もわからないのに、マスターベーションするよう命じられたり……結局うまくできなくて、殴られては泣いてたよ』、『あいつらは本当に鬼畜みたいな連中だった。性的な何かをさせたあと、ご褒美として食事を与えるんだ。逆に、奴らの機嫌の悪い時はわざと床に食事をこぼして、這いつくばって食べさせられたっけ。やりたい放題だった』……ロイ・シェパードの言っていたとおり、当時施設にいた子供たちを、刑務所やアルコール・ドラッグの治療施設にまで訪ねて、こういった裏を取ったようである。


 中国のウォン家に引き取られて以降のことは、ウォン・ヨウランの視点に変わり、今度は客観的事実とは別の意味で描写が詳細だった。とはいえ、ヨウランにも父親が何故突然金髪碧眼の孤児を引き取ろうとしたのかまでは、わからなかったらしい。また、中国国内に数多くあるそうした施設からではなく、何故わざわざイギリスから――といったことについては、父亡き今、彼女にも調べようがなかったということだった。


 ここからは、レオンが八歳から十六歳まで、八年間同じ屋敷に暮らしたヨウランから見たレオンの姿について、詳しく描かれているわけだが、このあたりについてもロイの言うとおり、なかなか信憑性を感じさせる筆致によって書かれていたと言ってよい。君貴にしても、自分の知らないレオンについて知るという部分において、純粋に興味深いと感じる一方……やはり、父親の恥部ともいえる姿を克明に描写してしまえる彼女の思考回路については理解不能だった。


 この、『十四歳の少年の体を貪る父の顔は、まさしく変態そのものでした』……というルイ・ウォンが亡くなるまでの過程については、間違いなくレオンも知らないものだったろう。何故といって、彼はその時ショパン・コンクールに出場しており、ショパンのピアノ協奏曲を弾いている真っ最中だったのだから。その後、葬儀の席でもレオンは涙ひとつ見せなかったという。『本当に、奇妙なお葬式でした。父のために母も泣きませんでしたし、わたしも兄も涙ひとつこぼしませんでした。ただ、父の愛人たちやその子供たちだけが泣いていました。もしかして父は、わたしたちには見せなかった愛情深いところを、彼らには見せたりしたのでしょうか?……お葬式のあと、わたしはレオンに「良かったわね」と言いました。レオンはぼんやりした顔のまま、「何が?」と聞き返しました。わたしは、「父が死んで良かった」という意味で言ったのですが、彼はどうやらショパン・コンクールのことを言われたのだと勘違いしたようです。「あんなもの、くだらない茶番だよ」……レオンの言うことは、わたしには時々よくわかりませんでした。それで、それ以上何も言わなかったのですが、父が死んだことで、彼がもう二度と父におかしなことをされずに済むと思うと――わたしの心には喜びが溢れました。わたしは自分の目が見たとおりのことを書きましたが、でも誤解しないで欲しいのです。レオンは父の欲望の犠牲者だったというそれだけなのですから……確かに彼は実子であるわたしより兄より、一番多く父から資産を受け継ぎました。でも、わたしがレオンの立場でも、自分が払った犠牲のことを思えば、そのくらいのことはしてもらって当然と思ったかもしれません。レオン、可哀想な人……何故といって彼の心の中には、今も決して埋められない穴が開いたままなのですから』。


(やれやれ。こりゃあ、レオンが怒って相当荒れる内容であることは、まずもって間違いないぞ……)


 さらに、ここからまだ話のほうは続いていく。レオンはウォン家から出ていき、彼らとは弁護士を介してしか話をしなくなったという。だが、ヨウランはその後も義理の兄を慕う気持ちから、彼が世界中のあちこちでコンサートを開催するたび、そこへ足を運んだということだった。その時に自分が感じたことや、クラシック音楽の批評家が彼の演奏を当時どんなふうに評価していたかなど……この段になると、君貴はだんだんにある疑いが心に芽生えてきたものである。


(ようするにこの女、ただのレオンのストーカーなんじゃないのか?……)


 ジュリアード音楽院に在学中は男の恋人も女の恋人もいなかったようだということや(同じピアノ科のクラスメイトなどに、こちらも人海戦術で聞き込みを行ったらしい)、その後もまだ恋人がいたのかどうか不明な期間が続いてのち、ようやく例の建築家Kの名前が出てくるわけである。このあたりについては、知らない間に自分にも尾行のようなものがついていた可能性のあることから、君貴としてもいい気はしなかった。


 そして、ウォン・ヨウランは客観的事実に基づいた義兄レオン・ウォンの伝記を描きつつ――常に自分は彼の味方である……といったスタンスについてだけは、決して崩していないのである。あとがきにて、彼女は本書を執筆しようと思いたった理由について書き記しているが、『天才を間近で目撃した者の義務だと思ったのです』とのことだった。『レオンの幼年時代は極めて厳しくつらいものでした。わたしが彼なら、到底耐えられなかったでしょう。そんな彼にとって、ピアノだけが救いだったのです。その頃のレオンの、ピアノと向き合う姿を見た人であれば、きっと誰でもわかったに違いありません。彼は取り憑かれたようにピアノを弾いていました。おそらく、ピアノだけが彼にとってつらい過去を忘れさせる唯一の手段だったのではないでしょうか。九歳からピアノをはじめてあれほど急激に伸びるという理由について、他に思い当たることがわたしには考えられません……そして、そのようにレオンにとって救いに繋がる何かを自分が与えられたということが、何よりわたしにとって嬉しいことであり、誇りでもあるのです』


 君貴は最後のページを捲り終わると、(ああ、なるほどな)と納得すると同時、(こんな本、絶対レオンに読ませられんぞ。もちろんマキにだってだ……)と、溜息を洩らした。


 もしレオンがこのヨウランという娘が「抱いて」と言った時に抱いていたら、今こんなことになっていない――おそらく、彼女にとって話はそうしたことではないのだ。ようするに、『レオンはもっと自分に感謝してしかるべきだ』と彼女は言いたいのではないだろうか?


 ヨウランは、まず最初にレオンにピアノの手ほどきをしてやり、その後、自分のピアノの教師に彼のことも教えてくれるよう頼んでいる。もしその「きっかけ」がなかったら、彼がショパン・コンクールで優勝することはなかっただろう……そう言いたいのだ。また、彼女は起きた事実について、脚色していないように思われた。つまり、レオンの自分に対する態度が常に一定の距離のある冷たいものだった――そのように描写しており、『わたしのほうでは親しくしたい気持ちがあっても、彼は当時通っていたインターナショナル・スクールの同級生ほどには、決して心を開くことがありませんでした』とも書いている。また、そのことを寂しいように感じていた、といったようにも……。


 簡単にいえば、レオンはコンサートにやって来た義理の妹に対し、それに相応しいように扱い、楽屋に招いて少しばかり話をするとか、そんなふうにしていたら良かったのではないだろうか。だが、もしこのヨウランという娘が、単なるレオンのストーカーであった場合、それならそれでトラブルは避けられなかったに違いない。


(そろそろ向こうは朝の五時ごろか……)


 君貴は卓上の時計が午後の四時を差しているのを見て、そのように計算した。日本のほうがニューヨークより、約13時間ほど進んでいるはずだからである。


(電話して出るかどうか、微妙なところだな。俺は、こんな本が出版される運びだということ自体、レオンは知らないのが一番だとしか思えないが……だが、レオンとマキが知るのも時間の問題だな。こういう時、世界的有名人というのはつらい。こんな事実を知らない奴らのいる国へ行こうったって、極限られてくるものな……)


 今、君貴が言えるのはただ、「耐えるしかない」ということだけだった。来週の水曜日にこの本が発売されるのは、もう誰にも止められないだろう。そこでまた、本を読んだ人間の感想やら何やらでマスコミやネットは盛り上がるに違いない。そのピークがいつまで続くかはわからないにせよ、とにかく君貴が思うのは――時の経過とともに、「レオンは必ず勝てる」ということだった。


 書かれている内容については、レオンのほうに同情が集まるのはまず間違いのないところである。また、すでにネットでは>>「知りたくなかった」、>>「ただの下品な暴露本だろう」、>>「絶対に売名行為だ」、>>「中国人のビッチめ!!」……などなど、批判する声が相次いでいる。だが、ウォン・ヨウランの本のPR作戦は、その後もやむことはなかった。発売日の前日の火曜まで、彼女は毎日数本のテレビに出ては、大体最初に出た番組と似たり寄ったりの内容についてしゃべくっていたものである。


 アメリカやヨーロッパのみならず、当然日本でもこの『世界同時発売』なる本は話題を読んでいた。ニューヨークで最初の一報のあったのが、金曜の朝九時半頃だったわけだが、日本時間では翌日の土曜の五時台のニュースにて、「汚れたピアニスト、レオン・ウォンの真実」という本に関して最初の取り上げがあった。


 もっとも、レオンもマキもこの時はまだそんなことも知らず、朝は八時過ぎくらいまでぐっすり眠っていた。テレビをつけ、朝食を取っている間も、呑気に親子三人、笑って過ごしていたものである。


 貴史が大きくなってくるまで――マキもレオンも朝はパンを食べていた。けれど今は三人とも朝はごはんだった。そして、土曜はマキが食事の当番なので、彼女はあくびをしながら起きてくると、まずは子供用ベッドで眠る貴史の様子を見にいった。彼がぐっすり寝ているのを確認すると、マキはそこから忍び足で出てくる。


 マキが土曜の朝に起きてきてすることと言えば……ラジオを聴きながらおにぎりを作り、他に卵焼きやウィンナーを作ると、あとはきのうの冷蔵庫の残りものなどを並べるといったところである。マキがキッチンで動いている気配を感じてか、大体レオンは彼女が朝食を作りはじめると起きてくることが多い。


 この時もそうで、レオンは半分寝ぼけ眼で起きてくると、彼の大好きな鶏そぼろ入りのライスボールをつまみ食いした。それからマキに「おはよう」と言って、チュッとキスする。その後、レオンは貴史のことを起こしにいき――それからぐずる息子のことを手伝って服を着替えさせたようだった。


「おっはー」と挨拶する貴史に向かい、マキも「おっはー」と朝の挨拶をする。それから貴史はパパ・レオンと一緒に洗面を終えて戻ってきた。この頃にはマキも大体のところ調理を終え、テーブルについていた。青のチェックのテーブルクロスの上には、海苔を巻いたおにぎりが六つと、卵焼き、ウィンナー、ツナとじゃがいものサラダ、ほうれん草の味噌汁などが並んでいる。


「あ、これたらこだ。♪たらこタラコたらこ~」


 レオンが歌いだすと、貴史もまた「♪たらこタラコたらこ~」と続けて歌いだす。


「ええ?どうしてそんな歌知ってるの?結構昔に流行った曲だと思うんだけど……」


「あれ、どこだったかな。なんかスーパーでかかってたよ。結構な無限ループだよね」


「ふうん……」


 マキは家族が三人揃ったので、ラジオでかかっていたビージーズの「How Deep Is Your Love」を途切れさせると、テレビをつけることにした。大抵、いつもは貴史が見るような幼児番組をつけることが多い。けれど、この日は土曜だったので、それらしいものがないようだと確認すると、マキは一週間の報道をまとめて紹介するワイドショーに落ち着いた。


「レオン、何か見たいようなのなんてある?」


「いや、僕はなんでもいいよ。それよりさ、ごはん食べ終わったら三人でちょっと庭いじりしよう。今日は土いじりするのに最高の日和だよ」


 昔――といってもほんの二年半ほど前――「はっぱー」と言ったのが初めての言葉だった貴史も、今では随分語彙が豊富になった。「おにぎり、おいち!」と言いながらもぐもぐと頬張り、「♪たっこさん、たっこさん、タコさんウィンナー」と節をつけつつ、フォークでそれをぐさりと刺している。


「卵焼き焼くのは、やっぱりマキのほうがうまいよね」


「そう?でも、料理のレパートリーでいったら、全然レオンに敵わないわ。イタリア料理、スペイン料理に中華料理……わたしが得意なのは肉じゃがとか、いわゆる日本のおふくろの味とかいうしみったれた料理だけよ」


「僕、マキの作るものはなんでも好きだよ。おでんも絶品だよね。あと鍋料理も最高だし」


「鍋はただの手抜きよ」


 そう言ってマキは笑った。彼はいつでも何かしら、恋人の美点について無理にでも褒めてくれるのだ。


「お昼はどうしようかな……レオン、リクエストなんてある?レオンの好きなたこ焼きの具材は買ってきてあるし……ラーメンやうどんなんかも作れると思うけど」


「マキってさ、毎週土曜は同じこと言うよね。朝ごはん食べてる時に、必ずお昼は何食べたいかって聞くんだよ」


「ホットケーキ!」


 ここで、パパとママの会話の間に、貴史が飛び込んでくる。


「たっかくんは、ホットケーキがいいと思いまーす!!」


「そっかー。タカくんはホットケーキか。ママはどう思いますかー?」


「う~ん。そうねえ。ホットケーキは三時のおやつじゃダメ?」


「それでもいいと思いまーすっ!!」


 貴史の賛同を得て、レオンとマキは子供の屈託のなさに笑った。ここまでなら、いつもの彼らの朝食の風景だったろう。だが、半分見ているようで見てなかったテレビに――見慣れた映像が入り込んできて、マキの箸を動かす手が止まる。


 それから続いてレオンが、マキの視線を追うように、貴史からテレビのほうへ視線を移し……彼もまた、顔の表情を失ったのだった。


『で、この本の著者であるウォン・ヨウランさんっていうのは、何者なんですか?』


 コンサートの舞台で、流麗にピアノを弾くレオンの映像をバックに、ベテランニュース司会者がそうパネリストの一人に聞いた。ちなみに、ゲストは三人おり、一人は芥川賞を受賞したことのある文学者、一人は大学教授でもある経済学者、残りの一人がチャイコフスキー・コンクールで入賞したことのあるピアニストだった。


『私も、今回の報道を受けて調べてみたんですが……』


 最初に口を開いたのが、作家の大縞香織だった。二十歳で芥川賞を受賞した時、才色兼備の作家として一躍有名になった。


『ピアニストのレオン・ウォンさんの義理の妹さんなんですね。ロサンゼルス在住の友人に聞いてみたところ、向こうではこの話で持ちきりだそうです。著者であるウォン・ヨウランさんが自身の書いた本の内容についてテレビで語ったところによると……義理の兄のレオンは自分の父の愛人だったということなんですよ。だからこそ、実の息子や娘であったヨウランさんや彼女の兄のウォン・ハオランより、レオンさんの遺産の取り分が多かったのだと。レオンさんのゲイ疑惑については、グーグルで「レオン・ウォン・ゲイ」と入力しただけで、笑ってしまうくらい色々な噂が出てきますから、真偽のほどは定かでないにしても――これでレオンさんがゲイだというのは間違いないらしいということで、ファンの方の間では激震が走ってるんですね』


『ほうほう、なるほど。私もね、ツイッターの反応などを追ってみたんですが、「彼がゲイでも愛してる!」とか、「ゲイだからなんだっていうんだ。レオンが天才であることに変わりはない」とか、「彼はピアニストとしても人間としても素晴らしい人だ」とか……本の発売前から随分批判の声のほうも高まっているようですね』


 今度は、話を振られた著書多数の中年経済学者が語りはじめる。


『そこがなんとも悩ましいところですよねえ。言ってみればこれは、炎上商法みたいなものなんですよ。批判のツイートが多ければ多いほど、来週発売の本はこれで絶対売れると、この本を書いた人物やその関係者はほくそ笑んで喜ぶ、というね』


『笠原さんは、以前レオン・ウォンさん本人に直接お会いしたこともあるとか……』


 経済学者の意見に神妙な顔でうんうん頷きつつ、元芸人の司会者はピアニストの笠原優介に今度は話を振る。


『はい。僕は十代の頃からずっと、レオンに憧れてまして……』


『直接お会いしたレオンさんは、どんな方ですか?我々が一般的に知る限りにおいて、超クールなピアノの達人というイメージですよね。あとは女性のファンがたくさんいて、絶えずモッテモテ。だから男の目から見た場合、「なんか腹立つなあ、こいつ。なんでこんなにカッコいいんだ!」みたいな、同性としてはそうした嫉妬の目で見てしまう部分もあるわけですが……』


『そうですね。レオンはとにかく優しいんですよ。あとは、男か女かということは関係なく、すごくファンのことを大切にします。まあ、ピアノの技術に関しては他の同時代のピアニストの追随を許さないといったところでしょうか。神は二物を与えずと言いますが、あのルックスと性格の良さと天才的なピアニストの腕前と……二物も三物も持っている人間に対して、凡人はつい嫉妬してしまうものです』


『すみませんね、凡人で……』


『いやいや、僕は今、ピアニストとして、レオンと比較して自分のことを言っただけですから。正直、この本に何が書いてあるのか知りませんが、こんなことをしてどうするつもりなのかなと僕なんかは思ってしまいます。彼と仕事をしたことのある音楽関係者の人であれば、みんな激怒してると思いますよ。ゲイかヘテロかなんていう個人のセクシュアリティについては、レオンの素晴らしい芸術活動とは直接関係のないことですし、レオンがショパン・コンクールで優勝するのと同時、義理の父であるルイ・ウォン氏は亡くなっておられるわけですからね。だから、それ以前というと彼が十四とか十五といった頃のことでしょう。父親が未成年淫行の罪を犯していたと実の娘が告発してどうするのかという話ですよ。もちろん、もしそれが事実であったとしてですが』


『なるほど。確か、レオンさんは国際貢献と言いますか、戦地に危険を犯してまでピアノを弾きにいったり、日本へも災害のあった県にチャリティで来てくださいましたよねえ。ファンの方のみならず、被災地ではたくさんの方が泣いて喜んでおられたのを、私もよく覚えています。アフリカにも御自身の名を冠した孤児院や病院や学校なんかを持ってるんですよ。そんな素晴らしい人の過去を暴露したりして……むしろ逆に、このウォン・ヨウランさん自身が今後生きにくくなったりしないのかと、むしろ心配になってしまいますね。では、次のニュース……トランプ大統領がまた、何かアホなことを言ったようです』


 ここで、ウォン・ヨウランがアメリカのテレビに出演していた時の画像が、今度は星条旗を背にしたトランプ大統領のアップへと切り替わる。マキはあまりにいたたまれなくて、テレビを消すとラジオをつけることにした。


「はは……っ。なんだよ、汚れたピアニストって……」


 ニュース司会者のバックで流れていた映像の中に、何度か本の表紙も映しだされていた。もちろん、レオンの耳には自分を庇うコメントをしてくれた、笠原優介の言葉も入ってきてはいたが――レオンはどちらかというと、彼らの後ろに映る、ウォン・ヨウランの姿に釘付けになっていたのである。


「ヨウランの奴、整形したんだな。しかも、前とは似ても似つかないというあたり……相当金をかけたんだろう」


「レオン……」


 ただひとり、意味のわからない貴史だけが、椅子の下で足を揺らしつつ、もぐもぐ一生懸命おかかのおにぎりを食べている。


「ごめん、マキ……ちょっと、エージェントのほうと連絡取らなきゃ……」


「レオン、大丈夫?」


「いや、全然大丈夫ではないよ」


 そう言って、レオンは微かに笑った。これが君貴相手なら、おそらく彼は『大丈夫なわけないだろ!馬鹿か、おまえは』とでも怒鳴っていたことだろう。


「けどまあ、起きてしまったことは仕方ないさ。あとは最善の策を打つというそれだけだ」


 レオンは無理に冷静を装い、ピアノのある部屋のほうへ入っていった。途端、ドガッ!と壁を叩くような音が聞こえ、マキは一瞬びくっとした。だが、貴史のほうは呑気にケロリとしたままだった。


 このあと、マキも心塞がれる思いで、再びテレビのほうを見ることにした。事実について知りたいと言うよりも、知らざるを得ないと感じていた。先ほど見たあの報道だけでは……彼女には、一体何が起きたのかがはっきりとまでは把握できていなかったからだ。


 そして、その後大体似たような体裁のワイドショーの中で、ウォン・ヨウランが出演した番組の、日本語テロップ付きの短く編集したものを彼女は見たのである。そこでマキにも初めて――レオンがまるで大丈夫ではない、ひどい状況に追いやられようとしていることがわかったのだった。


「ごめんね、貴史ちゃん。今日のおやつはパパの大好きなたこ焼きじゃダメかしら?」


「ホットケーキ!ホットケーキ!!絶対ホットケーキがいーのっ!!」


「うーん。そうね。ママ、さっき一度約束しちゃったもんね……」


 レオンも食欲などわいて来ないだろうと思い、マキは息子の意見を通すことにした。何か、少しでも彼の力になれるようなことをしてあげたいと思うが、今の彼女に出来ることと言えば――実質的に、何もなかったのである。


 マキはピアノのある部屋の前まで行ってもみたが、そこからは彼が英語で話す声が聞こえるのみで、英語のわからない彼女には事態がどういうことになっているのかまるでわからなかった。そこで、溜息を着いて再びリビングのほうへ戻ってくる。


「うん……そうだよ。社長のロイとはさっき話した。で、おまえももう本の内容のほうは読んだんだろ?」


 レオンは、まず真っ先に自分が所属しているエージェンシーのCEO、ロイ・シェパードに電話していた。実際のところ、レオンはこの時相当動揺しており、ロイから本に書かれた内容について聞き及ぶと、マキの前では決して聞かせられないような罵り言葉がいくつも飛び出したものである。


『そうだな。実際に内容を知らないことには、レオン、おまえのことを守りきれないと思ったからな。それはロイだって同じだ』


「あいつ……ヨウランの奴、殺してやりたい。あいつを殺して、僕もそのあと自殺してやるっ!!」


『落ち着けって言ったって、無理なのは俺もわかってる。近いうちに会えないか?おそらくマスコミ連中はおまえが日本の東京にいるとまではわかってないはずだ。そう考えた場合、俺がそっちへ行ったほうがいいんだろうな』


 君貴もまた、胸塞がれる思いで、この時スケジュール帳をパソコンの画面上で見ていた。会議のほうに彼自身が参加するというのではなく、代理の人間を向かわせるか、あるいはリモート参加ということにすれば……どうにか調整は可能だろうと思っていた。


「それで……来週の水曜にはそのクソッタレな本が出るんだろ?僕、もうマキの前で冷静でいられる自信なんてないよ。というか、今すぐ完全にひとりになりたい。でも、マキだって今妊娠五か月目だってことを思うと……あっ、そうだ。もしかしてマキから聞いた?お腹の子、やっぱり女の子だって」


『そうか。レオンの子ってことは、生まれてくるのが楽しみな反面、心配な気もするな。おまえの美貌を受け継いだハーフの子か……今から将来起きることのために、ヤマンバよろしく鬼の仮面をつけて包丁を研ぐ必要があるな。それかサムライの刀だ』


「なんだよ、それ」


 レオンが愉快そうに笑ったので、君貴も少しほっとする。君貴が急いで彼に会いたいのには理由があった。妊娠中のマキには、今のレオンの状態を受け止めきれないだろうことと、来週の水曜日に本屋に並んだ本をレオンが読んだ場合――相当荒れに荒れるだろう。その時、間違いなく絶対に自分がレオンのそばにいる必要があると感じていた。


『とにかくさ、来週の水曜にはそっちへ行くよ。レオン、本に書いてある内容のほうは最悪でも……これはおまえにとって間違いなく勝てる戦いなんだ。ただ、本の発売直後はレオンにとっては一番旗色の悪い、嫌な時期を過ごさなきゃならないだろう。だがな、ツイッターのツィートなんかを見ててもわかる。みんな、この件にはすでに嫌悪感を抱いてるんだよ。しかも、おまえ自身に何か落ち度があるわけでもないとなったら尚更だ』


「わかってないな、君貴。僕はね、大衆の憐れみや同情なんかこれっぽっちも欲しくないね。僕は今、本に何が書いてあるのか正確に知ることが出来ないことにまずはイラだってる。このソワソワした落ち着かない気分が来週の水曜まで続くってだけでも最悪だ。けどまあ、ロイから聞いた話だけでもある程度大体は推測できるさ――君貴、僕はね、自分がゲイだってことや、ルイ・ウォン氏と愛人関係だったってことをバラされることに関しては、ある部分仕方ないとして諦めもつく。第一、ヨウランにしても自分の父親の恥部をバラすって意味では、彼女にだってダメージがまったくないわけじゃない。そう思えば我慢も出来る……僕が何よりなんとも我慢できないのは、自分にまったく罪のない幼年時代のことさ。あの児童養護施設で何があったのかについては――誰にも知られたくなんかないし、そのことを世の中の誰もがこれから知るのだと思ったら……とてもじゃないけど、落ち着いてなんかいられないっ!!」


 レオンのヒステリー寸前の声色から、君貴は今日明日中にでも日本へ向かうべきかと考えるが、仕事の都合がつきそうなのは、どう考えても二日後以降だった。


『その点については、ロイが訴えを起こすと……』


「裁判なんかやったところで、一体何になるんだよっ!そりゃね、もし仮に神とかいう奴が裁判官で、僕が正しいとなったら、本を読んだ奴ら全員の記憶を消してくれるとでもいうんなら話は別さ。だけど、そんなことをして一体何になる!?裁判は長引くだろう。そして決着が着くまでの間、僕はずっと腹を立てたりイライラしたり、ヨウランに対する憎しみなんかで、マキも僕と一緒にいて嫌気が差すっていうそれだけさ。これから本当に父親になるかもしれないのに……なんでなんだよっ!この三年もの間、僕は……僕もマキも貴史だって幸せだったんだ。これからっていう時に、なんで……」


 君貴は、とにかくレオンに感情のすべてを吐きださせてやろうと思っていた。それで、聞いている、という姿勢のまま、静かに沈黙を守り続ける。


「思えばね、予感ならなくもなかったんだ。ほら、マークが自殺したって聞いた時……僕は物凄く嫌な予感がした。思えばマキと暮らしたこの三年もの間、人生の中でこんなに穏やかで幸せだったことが僕にはなかった。だから、そろそろ何か起きるんじゃないかと、マークが自殺したと聞いて思わなくもなかったんだ。だけど、そのあとマキが妊娠したってわかって……ああ、気のせいだ、僕の考えすぎだと僕は思うことにした。けど、違ったんだよ。マークの自殺こそ、僕にとっては破滅の序曲のはじまりだったということさ」


『レオン、おまえ……あのヨウランって子から、何か恨みを買った覚えはあるか?確かに、素っ裸でベッドに寝ていて、「抱いて」と言ったのにつっぱねられたというのは――女として恥かしいことではあるかもしれない。だが、あの本はそれだけが動機という気がしないんだ。もしあの本に書いてあることに事実が含まれていて、あの子がおまえがピアノをはじめるきっかけになったのだとしたら……』


「ああ、君貴が何を言いたいかは大体のところわかるよ。僕が時々くらいはヨウランと連絡でも取って、義理の兄らしい態度でも取ってれば、今こんなことにならなかったんじゃないかって言いたいんだろ?だけど、そんなの無理だよ。ヨウランはね、僕が女装させられてあの子の父親に犯される間……クローゼットに隠れて実の父の痴態を見ているといったような子だった。まさか、父親が射精する瞬間を狙って、「ばあ」とばかり出てくるつもりでいたわけでもないんだろうけど……僕は多少そのことを期待しなくもなかった。流石に実の娘に見られたとあっちゃ、ウォン氏も僕を犯すのをやめてくれるかもしれないと思ったからね」


 ここで、君貴にはわからなかった謎がひとつ、解けることになった。ウォン・ヨウランは本の中で、偶然ドアの隙間から見ることになった、といったように記述している。だが、いくら広い屋敷でのこととはいえ――妻のイーランと兄のハオラン、そしてヨウランとは大きな池や川、橋のある庭の向こう側、レオンはその反対の離れのような場所に住んでいたとはいえ……そんな誰にも知られるわけにいかない関係を行うのに、無用心にドアなど開けておくだろうかと思ったのだ。


「いつもの君貴らしくもないな。笑えよ。どう考えても今のは笑うところだろうが。とにかくね、僕はヨウランが僕とウォン氏の関係を知っているとわかって以来、あの娘に対して冷たくなった。それまでだって別に特段仲が良かったというわけでもない。いいかい、君貴。僕の身になってよく考えてくれ。それまでロンドンにいたっていうのに、突然チャイナなんていう異文化の国に連れて来られたんだぜ?しかもあの子の兄貴は会った瞬間から、『財産の分け前が減るから出てってくれ』なんて言うガキだった。で、妹のほうはだんまりを決めこんで何も話さない……今はね、少しくらいはわかるよ。ヨウランがただ単に人見知りで内気な娘だったってことはね。でもその頃は僕もまだ八歳だったし、前にいた施設で起きたことが原因で、心が傷ついてもいた。確かにあの子の父親は変態だったにせよ、それでも僕にとっては比較的まともな変態だった。『自分の女房にでも話せよ』といったような、自分の人生についてやたらぺらぺらしゃべってきたり、体のどこかに痛いところはないかだの、健康についても気遣ってくれた。つまりね、例の児童養護施設で起きた、人間扱いされない身分に比べれば――遥かにまだ耐えやすかったんだよ。ただ、だからといって僕が傷つかなかったわけじゃない。そもそも、あんなハゲの脂ぎった親父に犯されて、嬉しい奴なんかいるわけないだろ。けどまあ、比較論でいったらあの人はまだ許せるのさ。自分の罪悪感を解消するためかどうか知らないが、たんまり財産を残してくれたって意味でもね」


『見当違いのことを言うかもしれないが……あのヨウランって子はもしかして、レオンのストーカーなんじゃないのか?』


「どういう意味?」


 レオンはここまできてようやく、少しだけスッキリした。もちろん、君貴との電話を切ってしまえば、また解消しようのない苛立ちと腹立ちとソワソワ感に悩まされるだろう。だが同時に、彼とマキと貴史、それにお腹の子という存在があることを思えば……どうにか耐えられる気もした。


『前に……レオンからヨウランって子の話を聞いた時から思ってたんだ。その子はたぶん、おまえが中国の屋敷で一緒に住んでた頃からレオンのことが好きだったんじゃないかって。もちろん、恋愛対象である憧れの兄貴が父親とそんなことになっていてショックを受けはしただろう。だが、本にも書いてあったよ。そのことに関してレオンはただの犠牲者であって、何も悪くない、みたいにね』


「ふうん。僕はね、今も中国人というか、ウォン家の人間が何を考えていたのかなんて、さっぱりわかっちゃいないんだ。それに、中国の中でも有数の金持ちの、特殊な家庭で起きたことだからね、あんなのを一般的な中国人の家庭となんて比較しようもない。確かに僕は、ウイグル自治区のことや、台湾や香港のことなんかで、中国政府を批判はしたさ。だが、北京で暮らす間、そこに住む中国人にはいい印象しか持ってないよ。みんな、いつでも親切だったし……もちろんそれは、金髪碧眼の異邦人に対して親切だったという意味ではあるにしてもね。だけどほんと、変な家だったよ。家に父親がいて食卓に着いている時は、父親が話してもいいと許可しないと、ハオランもヨウランも食事中にしゃべることすら許されなかった。僕もね、普段は彼らと一緒に食事なんかしないんだ。でも、唯一ミスター・ウォンのいる時だけ夕食の席に呼ばれて、学校はどーだの、そんなことを聞かれるんだよね。ああ、そうだった。ヨウランが僕のストーカーってことだけど、仮に僕のことを好きだったとして、あくまで一過性のものじゃない?それに、『抱いて』って言われた時につっぱねたわけだから、僕にしてみたらその時のことを逆恨みしてるって考えたほうがわかりがいいね。ただ、そんなのもう十年以上も昔に起きたことなわけだから、なんで今ごろ……とは思うよ。急に金でも必要になったのかな」


 この瞬間、君貴にはピンと来るものがあった。(彼女はおそらく知っているのだ)と、君貴は思った。となると、ウォン・ヨウランストーカー説はますます信憑性が高くなる。


『だんだんわかってきたよ……レオン、彼女はあとがきで、自分は資産的なことでは特段困ってないから、これは売名行為ではない、といったように書いてるんだ。それに、おまえがプロのピアニストになってから、ずっと世界中のコンサートをついて回ってる。彼女はたぶん、レオンがゲイで、男とつきあう分にはおそらく構わんのだろう。だが、今はマキがいる。ここからは俺のただの推測にすぎないが、三年くらい前からレオンはコンサートの回数をぐっと減らした。ヨウランはおそらく、そのことを何故だろう、と思ったのさ。カルバン・クラインの広告塔も降りてしまったし、雑誌に載ったり映画に出るといった露出も極端に減った……だから、義理の妹というよりもおまえの純粋なファンだったヨウランは、金を使ってそのことを調べたんじゃないか?そしたら、日本人の女性と同棲していることがわかった……本の執筆の動機は、おそらくはそんなところだという気がする』


「ええっ!?冗談だろ……ただ、僕個人の幸福を破壊するためっていうのが、そんなクソくだらない本を書いた理由ってことかよ。第一、すでに別の男と再婚してるとはいえ、あの子の母親のイーランさんって人は、家の名誉とか、そういうことに凄くうるさい人なんだよ。だから、実の娘が整形してアメリカのテレビなんぞに出ているのを知ったら、びっくらこいてヨウランのことを厳しく叱りつけるはずさ。兄貴だって、中国の経済界の名士なんだぞ。わざわざそんな家督に泥を塗るような真似をして……まったく、どういうつもりなんだろうな」


『長年、たくさんのファンの追っかけがいるレオン先生に、ストーカーについてご教授するなんて、おこがましいという気もするが……今、整形してると言ったな?ということは、その子は物凄く危険な気がする。たぶん、おまえのコンサートのほうも、かなり前の席のほうで見ているはずだ。整形したのもおそらくは、レオンに気づかれないためだろう。それか、おまえに関係を迫って突っぱねられたあと、自分がレオンに見合うくらい美しくないと感じてのことかはわからん。ストーカーという奴はとにかく、どんな形であれおまえと繋がりが欲しいといった人種らしいからな。仮にこれからレオンから電話がかかってきて激しく罵られようとも、まったく関係がないよりは喜びに悶えることが出来るというな。だからある意味、訴訟ということにでもなれば、相手の思うツボだとも言える。さっきレオンが言ったとおり、訴訟は長引くだろう。その間、あの子は世間が自分に対してなんと言ってようと痛くも痒くもないに違いない。裁判の時におまえの姿を近くで見られるとなれば……そのことのほうがよほど嬉しいという、これはおそらくそうした話だ』


「うっそだろ……やめてくれよ」


 レオンはうんざりするあまり、壁際のストライプのカウチに、力なく座り込んだ。本当に、吐き気がしてきた。


『本当は……訴訟になったとすれば、まずレオンのゲイ疑惑を晴らすのが一番なんじゃないかと俺は思っていた。ほら、ようするにマキと結婚すればいいのさ。で、裁判の席で彼女の手を握りしめて「あの本に書いてあることはデタラメです。僕はこんなに妻のことを愛しているのに……」とでも言えばいいんじゃないかってね。レオンの小さい頃にあったことに関しては、個人のプライバシーに対する侵害だと訴えれば、陪審員どもも全員レオンの味方をするだろう』


「無理だよ」


 レオンは重い溜息を着いて言った。


「もちろん、そういう理由でならマキも僕と結婚することを承知してくれていいかもしれない。だけど、問題はそういうことじゃないんだ。僕はね……あの児童養護施設で起きたことに関して言及されると、自分でも自分がどうなるかわからないんだよ。ヨウランの顔を見るなり、気違いみたいに突然叫びだしちゃうかもしれないし、裁判に出席してる人間は全員、当然あの本を読んでるってことだ……その場にいるほとんどの人間があのことを知ってるって状態に置かれること自体、僕には絶対耐えられない。そういう意味で、裁判を起こすなんて僕には論外なんだよ。第一、今の君貴の話でいうと、訴訟ということにでもなれば、むしろヨウランは喜ぶってことだろ?じゃあ、そういう意味でも裁判なんか起こさないほうがいいってことだ」


『いや……レオンは必ずしも出廷する必要はないんじゃないか?レオンの側の言い分はすべて弁護士に代弁してもらえばいい。どうしてもレオン本人が話す必要がある際には……PTSDを主張すればいい。ほら、レイプの裁判なんかで、被害者の女性が姿を隠して証言を行ったりするだろう?アメリカの裁判は陪審員制だからな。おまえが勝訴する可能性は極めて高いはずだ』


「気乗りしないね。君貴、僕はさ、その本が出て僕の過去が暴露されてしまった時点で、もう終わりだと思ってるんだ。一度失墜した名誉はその後どんなに取り繕おうとも決して回復はしない。児童養護施設時代のことさえ本に言及されてなければ……ヨウランの父親と愛人関係にあったとか、そのことが本の中で暴露されてるとかだったら、僕にしても極めて強気でいただろうね。それこそ、テレビ番組の中でヨウランと直接対決してもいい、というくらいに」


 レオンの様子がすっかり意気消沈し、声音も弱々しいものになったため、君貴はなんとか彼を慰めようとした。


『なあ、レオン。ニューヨークっていうのは、成功と裏切りの街だってよく言うだろ?マンハッタンあたりで事務所を構えてれば、どこそこの会社が倒産しただの、CEOやCOOがスキャンダルで辞任しただの、当たり前みたいに耳に入ってくる……ニューヨークでは、羽振りのいい間は磁石に引き寄せられるようにたくさんの人間が群がってくるが、誰かひとりの人間が破滅したと聞いた途端――パッと離れるのも恐ろしく速い。そういうのを脇目に見ながら十年くらい俺もここにいるが、そういう時、自分の本当の味方が誰で敵が誰なのかがはっきりわかる。それとな、本の発売後の騒ぎがある程度過ぎ去って……そうだな。マキにおまえの子が生まれた頃には、レオンは完全に勝利してるよ。今はただ黙って静観してるというのが、一番利口なやり方だ。レオンが一切沈黙を守っていたら、あとは世界中にいるおまえのファンたちがあの中国女のことを始末してくれるだろう。肯定も否定もしなければ、『レオンさまはあんまり愚にもつかないくだらないことなので、馬鹿馬鹿しくて何をおっしゃるつもりにもならないのだ』といった具合にな』


「まあ、僕はそううまくいかない気がするけどね……」


 けれど、この時初めて、レオンは心の暗闇に、一条の光を見出してもいた。先ほど見た日本のテレビのワイドショーは、随分上品な取り上げられ方だった。もちろんそれは、まだ本が発売になっていないせいかもしれない。そして、レオンにはわかっていた。笠原優介は本の内容を読んでも、激怒こそすれ、何か自分に対して態度を変えるような人間ではない。そういった意味で、誰が本当の味方で敵かという分水嶺としての役割を、例の本は果たすかもしれなかった。


「なんにしてもさ、僕はおまえとマキと、貴史とお腹の子と……自分の味方は四人もいれば十分と思ってるからね。それ加えて、盲目なまでの僕のファンの子たちとか、今まで一緒に仕事してきた音楽仲間とか、全部合わせたとすれば、僕にとってはそれだけでも十分な数になる。そう思って耐えるしかないんだろうな……」


『元気だせ、なんて無責任なことは、今の状況では到底言えない。だが結局、最後に勝つのは王者レオン・ウォンだってことだ。とにかく、なるべく早くそっちに行くから、それまでの間どうにか、マキの前でだけはヒステリーを起こさないように気をつけろよ』


「うん。がんばるよ……ほんと、なるべく早くこっちに来てよ。僕はマキのことを愛してるけどさ、こういう時には彼女、まったく役に立たないから。むしろ、一生懸命僕のことを慰めようとか無駄な努力をするのを見て、自分が情けなくなるっていうか、僕がひとりで勝手に余計惨めになるっていうそれだけだからね……」


 このあと、レオンは「君貴、ありがとう。愛してる」と言い、君貴のほうでも「俺もだ」と言ってお互い電話を切った。とはいえ、レオンの携帯を切る手は震えていたし、精神的な動揺も長く続いていた。おそらく人はこういう時、アルコール……いや、次第にアルコールだけでは利かなくなって、ドラッグにまで手を出しはじめるものなのだろう。そして、これまでドラッグによって自ら破滅していったハリウッド・スターやロックスターのことなどが脳裏をよぎっていく。レオンはここが日本で良かったと思った。それに、自分は決してひとりではない。もしマキや貴史がいなくて、今のこの状況が自分を訪れていたとしたら……おそらく到底正気を保つことは出来なかったに違いない。




 >>続く。








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[一言] 以前投稿されていた時も最初からずっと読んでいました。途中で止まってしまった時はとても残念でしたが、またこうやって読めるようになって、前のところより先を読めるようになって、とても嬉しいです。再…
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