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第14章

「おっ、おまえ……レオンっ。一体おまえ、何してんだよ!?」


 その時もマキは、仕事中で留守だった。君貴がやって来た時、レオンはもうここ一月ほどですっかり慣れたこと――貴史のことを抱っこしてあやしながら、料理の仕度をする――に忙しく、彼自身ここ暫く会ってない恋人のほうを、振り返ることさえしなかった。


「見りゃわかんだろ。仕事で疲れて帰ってくるマキのために、ガパオライスの準備してるとこ。マキはほんと、なんでも喜んで食べてくれるんだ。まったく作り甲斐があるよ」


 ここで、貴史が「ほぎゃあ、ほぎゃあ!」と泣きだす。レオンは「ほんとだ」と呟きつつ、ガスを一旦止め、赤ん坊のことを背中から下ろした。


「マキが言ってたよ。貴史はおまえがやって来るなり必ず泣きだすんだって。最初に聞いた時はただの偶然なんじゃないかと思ったけど……ほんとなんだな」


「そりゃたぶん、エディプス・コンプレックスの前兆ってやつだ。実際のところ、今だってそうだろ。俺と貴史の間でマキのことを取り合ってるようなものなんだから」


「そろそろミルクの時間だ」と、君貴のことを一旦無視し、レオンは煮沸消毒したミルク瓶に粉ミルクを入れ――温度のほうをよく確かめてから、貴史にミルクを与えはじめる。


「なんだよ、エディプス・コンプレックスって。単におまえが父親として不甲斐ないってだけの話だろ?マキから色々話を聞いたよ。君貴は火中の栗でも拾うみたいに、びくびくしながら自分の息子と接してるっていうようなことをね」


「しょうがないだろ!人にはどう考えても向き・不向きってものがある。俺は子育てには向いてない。けど、まさかおまえが本当にここに来るとは思ってなかったよ。一体なんだ、あの写真?マキと貴史とレオンが三人で、幸せな家族のポートレート風に写ってるってやつ。もしかして、俺に対するあてつけか?」


 んっく、んっく、と可愛らしく哺乳瓶からミルクを飲む貴史を見て、レオンは満足の吐息を洩らす。これは、彼にとって何度繰り返してもまるきり飽きない光景だった。


「もしかしなくてもあてつけだよ。決まってるだろ」


 そう言いながら、レオンは改めて呆れた。君貴は間違いなく、自分の息子に本当に興味がないのだ。いや、もしかしたらここにマキさえいたら……それが本心でも、もう少しは取り繕うような態度を取るのだろうか。


「それで、おまえは何がしたいんだ?そもそも、コンサートのほうは?いや、暫くコンサートのほうは休むようにスケジュールを調整してあるんだとしても……いずれピアノの練習を開始したりとか、色々あるだろ?ここじゃ、ピアノはあっても、ガキがうるさく泣きだすから練習だってままならんだろうしな」


「僕のことはいいよ。一応、半年後にどうしてもキャンセル出来ないチャリティ・コンサートがあるから……まあ、どこかスタジオを押さえてその前には練習しなきゃならないだろうけどな。そのあたりはいくらでもなんとでもなる。だけど、貴史の面倒を見たりするのは今しか出来ないことなんだよ」


「ふうん。で、マキとはうまくいってるのか?」


 君貴も、一月ほど前からふたりが一緒に暮らしはじめ、共同で子育てしている……といったことについては知っていた。だが、彼としてはレオンがこんなに赤ん坊の世話をすることに夢中になろうとは、想像していなかったのだ。せいぜいのところを言って、2、3週間もすれば根を上げて逃げだすだろうといったようにしか。


 そうしたら、君貴の立場としては(ほら、おまえだって人のこと言えないだろ?)といったようにせせら笑ってやるつもりでいたというのに――これは一体どうしたことだろう。


「うまくいってるね。そのことに、僕も驚いてるし、マキのほうはもっと驚いてるんじゃないかな。まさか赤ん坊のパパの恋人がやって来て、ここまで親しくなれるとは、彼女自身思ってもみなかっただろうし……もしこれで定期的にセックスさえしてたら、僕とマキは完璧な夫婦といったところだよ」


「へえ。べつに俺は構わんぞ。貴史の父親である俺のことを茅の外に置いて、おまえとマキがイチャコラしてようとどうだろうとな。一日置きにでも三日置きにでも、セックスしたけりゃすればいいだろ?俺に気を遣う必要はない」


「おまえ、それ、本気で言ってんの?」


 レオンは、可愛い貴史の耳を汚したくはなかったが、これはマキのいない間にしか出来ない話でもあった。それで、貴史にミルクを与えつつ、そのまま会話を続ける。


「ああ、本気だよ。レオンは俺に罰が当たってちょうどいいくらいにしか思ってないんだろうし、マキもほどよく復讐できていいんじゃないか?それで、マキとの間に第二子でも作れ。そのかわり、もう俺に対して子育てに参加しない駄目な父親だなんだと、説教垂れるんじゃないぞ。その二番目の子がレオンに似ていた場合――貴史もその子も自分の子だと言って育てたところで、べつに父ちゃんがいるとわかったら、俺も赤の他人のおじちゃんの振りは出来ないんだからな」


「信じられないよ。それとも何?僕が女性とはしたことないから……それで、どうせそういうふうにはならないと思って、高を括ってそういう言い方するんじゃないの?大抵の男は挿入と射精を指してセックスだって言うけどね、僕はそういうふうには思ってないんだ。他にも、彼女のことを悦ばせる方法は色々あると思ってるし……たぶん、大丈夫なんじゃないかっていう気がしてる。ただ、マキは君貴と違って、僕とおまえの両方と関係を持ったのに、その間でケロリとしてられるようなタイプじゃない。だから手を出してないっていう、それだけだよ」


「ふうん。大した入れこみようだな。おまえ、あれなんじゃねえの?ほら、子育てしてる間って、愛情ホルモンっていわれるオキシトシンがたくさん出るって話だから――貴史の面倒を見てるうちに大量にオキシトシンが分泌されるあまり、それをマキと共有してるから、それを本物の愛だって脳が思い込んでるってだけの話なんじゃないのか?」


 君貴は少々意地悪な言い方をした。なんといっても、彼にとっては面白くない状況であることに変わりはない。身から出た錆と言われてしまえばそれまでとはいえ……恋人と愛人のふたりを同時に失うという、過酷な状況に耐えねばならない立場なのだから。


「違うよ。マキは、本当に可愛いんだよ。なんでおまえがマキの初めての相手で、僕じゃなかったんだろうっていうくらいね。だって、僕だってもしかしたら酔ってたら、マキのことを男と間違えて寝たって可能性がなくもないだろ?残念だよ、ほんと。貴史が僕の子じゃないっていうこともね……けどまあ、君貴の子と思えばこそ、僕もこの子がこんなにも可愛いんだ。だから複雑だよ」


 レオンは溜息を着いた。貴史がミルクを飲み終わると、抱っこして軽く背中を叩きつつ、げっぷをさせてやる。


「っていうかさ、おまえ、いつまでここにいんの?もし二、三日いるんならさ、一日くらいマキをデートに誘って外に連れだせよ。僕もまさか子育てっていうのが、こんなに大変だとは思ってもみなかったからな。どこかロマンティックなところで食事でもして、夜はホテルででも過ごせ。貴史のことは僕が見てるし、それでまたおまえとの間にふたり目の子が出来たとしたら……その子も僕が面倒見てやるから」


「……レオン、おまえそれ、本気か!?」


 君貴はまるで狂人でも見るかのような目で、レオンのことを見返した。いくらオキシトシンで脳が満タンであったにしても、寛容すぎるにもほどがある。


「ああ、本気だよ。僕は何よりも、今はマキの幸せを願ってる。おまえは気づいたかどうか知らないけど、本棚の下の後ろのほうに、ゲイの男が主人公のノンフィクション本なんかが数冊あったよ。僕も時間のある時に読んだけど、あれを読んで、マキは大体のところゲイの男ってものを理解してるんだなと思った。まあ、僕とおまえもそうだけど、一口にゲイって言っても色々ある。本当は性的嗜好としては絶対そっちなのに、世間体やらなんやらあって、女性と結婚して子供までいるものの……その後家庭を捨てて男に走る奴もいれば、女性の子宮に挿入することまでは出来ても、射精まで出来なくて悩んでたら実はゲイだったと気づくとかね。ようするに、そういう男の人生のことが色々書いてある本だよ。その上、女性誌で産後の膣締め体操なんていう記事をマキが読んでるかと思ったら……まったく、僕は君貴のことが許せなくなってくるね」


「なんだ?俺はそういうのが一番嫌なんだよ。なんとなーく『おまえが悪いんだ』みたいに精神的に処刑してこようとする気配を感じるっていうのがな。だから、繰り返して言うぞ。もしマキが欲求不満だっていうんなら、今一緒に暮らしてるレオンとどうにかなるっていうのが一番自然だ。そのことで、あとからマキのことを責めたりもしない。そのかわり、今後は俺の顔を見ても『父親としての責任を果たしてない』だのなんだの、恨みがましいことを言うなよって言ってるだけのことだ」


「あ、そーだ。忘れてた」


 レオンがリズムを取って貴史のことをあやしていると、「きゃっ、きゃっ!」とそのたびに可愛らしい声が洩れる。にも関わらず、そんなことにも一切注意を向けないとは……(冷血人間め)と、レオンは目に見えない人非人の烙印を君貴に押した。


「マキさ、僕とおまえにだけじゃなく、もうひとりモテてる男がいるんだって。あ、もうふたりかな。廊下にさ、ずらっと蘭の花が並んでただろ?それ、なんとかって会社の社長が送ってきてるんだって。あと、もうひとりが同じ花屋の従業員さ。一度、貴史のことを病院に連れていった時……その帰りにね、安心させようと思ってマキの会社まで行ったんだ。僕、間違えて裏の倉庫に入っていっちゃったんだけど、なんだったかなあ。『おまえも変わってんな。マキちゃん、もう子供までいるのに好きだなんてさあ』とかなんとかしゃべってた。いやあ、なんか僕、悪いことしたよねえ。それなのに、そんな場所にズカズカ入っていって、『オザキ・マキさんいらっしゃいますか?』なんて聞いちゃってさあ」


「嘘だろ?おまえ、邪魔な虫を一匹踏み潰して排除できたとしか、絶対思ってないだろ!?まあ、いい。それで一人目はほぼ消えたに等しいからな。レオンのことを見て、張り合えると考える男がいるとしたら、そいつは狂人だけだ。それで、蘭の花の野郎のほうは?一体どんな奴なんだ?」


 この時、君貴は不意に思いだしていた。『なんだ、この趣味の悪い花は?』と廊下にズラリと並ぶ蘭の花を見て聞いたら――『店のあまりものなの』とマキは言っていたような記憶がある。まさか、彼女は自分に嘘をついたのだろうか?


 嘘をついた=何かやましいことがある……との図式が脳裏に成り立つと、君貴はなんだかイライラしてきた。それじゃなくても、インドのインディラ・ガンディー空港から一路、東京へやって来るのに十時間近くかかっている。彼は本当にもうこれ以上、余計なことでストレスをかけさせられたくなかった。


「なんだっけ。君貴と同業なのかなっていうような会社名のCEOだよ。ケン・イリエとかっていう……だけど、こっちも一応手を打つことには打っておいたんだ。マキもさ、もう置く場所がないって言って迷惑そうだったから、僕の独断でいくつか会社のほうに送り返しておいた。「お心遣い、ありがとうございます」っていう短いメッセージ・カードと一緒にね。そしたら、とりあえず今のところ蘭の花は届かなくなったけど……マキも気味悪がってたよ。そもそも、その会社に何回か花を届けにいった時に、ちょっと話したことがあるっていう程度なんだって。僕が『一目惚れかなんかなんじゃない?』って言っても、マキはピンと来てない様子だったけど――まあ、気持ちはわかんなくもないよ。見る目のある男にはわかるってやつさ」


「……レオン、おまえ、何気に何いい仕事してんだよ」


 君貴は呆れたような顔をして笑った。それにしても(ケン・イリエだって!?)と、驚いてしまう。自分が何度となく競合している、ライバル会社のCEOではないか。


「だっろー?僕ってほんと、役に立つよねえ。花でいったらラベンダーとかじゃない?ほら、ここテラスがすごく広いじゃん。だから、休日はマキと一緒に土いじりとかしちゃったりしてさ。ラベンダーには虫除け効果があるとかなんとかって、マキが言ってたことがあるんだ。でさあ、この間、貴史が初めて言葉をしゃべったんだよ。なんて言ったと思う!?」


「さあ……」


 レオンの目には冷たい父親といったようにしか映らなかったかもしれないが、この時、君貴は入江健がマキに蘭の花を贈ってきたという事実に、何か嫌な予感を覚えていたのである。


「『はっぱー』って言ったんだ。それが貴史が生まれて初めてしゃべった言葉さ!テラスのところで、ハーブの寄せ植えをしてたら、ダスティ・ミラー(白妙菊)の葉をぎゅっと握ってはっきりそう言ったんだよ。そのあと、『ぱぱ、はっぱー』だって!僕、『この子は天才だっ!』て、マキに向かって思わず叫んじゃったくらいだよ。以来、もう毎日色んなことを貴史に教えるのが僕の生き甲斐なんだ。今はもうそういう赤ちゃん向けの面白い教材っていうのが、たくさんあって……」


 レオンが興奮して、おもちゃ箱の中から、ボタンを押すと色々な物の言葉が音と一緒に出てくる絵本を探しだし、持ってこようとする。


「レオン、おまえほんとに子煩悩な子育てパパなのな。それにしても生まれて初めてしゃべった言葉が葉っぱとは……将来、コカイン中毒にならないように気をつけねばなるまいよ。『パパ、はっぱー』ってことは、ようするにあれだろ?『ハッパ買うのに金くれよ、親父』っていう……」


「まったくもう、何言ってんだよ!こんな可愛い赤ん坊を前にしてさえ、おまえはそんな荒んだ物の見方しか出来ないの?あ、それとももしかしてショックだった?貴史が僕のことをすでにパパだと思ってるって知って……」


(だけど、それも君貴が悪いんだよ!滅多にここにやって来ないからそんなことになるんだ)と言ってやろうかと思ったが、レオンは黙り込んだ。彼がなんだか何時になく、落ち込んでいるように見えたからである。


「すまん。インドのデリーから飛んできたせいもあって、疲れてるんだ。あと、ちょっと仕事もしなけりゃなんないもんだからさ……あと、レオンはただの言い訳みたいにしか思わないだろうけど、今のこの状況は、何も俺ばかりが悪いわけじゃないんだぜ。俺は、マキがもし仕事を辞めて、俺がよく行く先の外国のほうへついてくるっていうんなら、それなら一緒にいる時間は増やせるとは、一応言ってみたんだから。けど、あいつにもわかってるんだ。仕事を辞めて子供の面倒みてるだけの女なんて、俺にはつまらない女にしか見えないだろうってな。レオン、俺とおまえだってそうだろ?今だって、こういうイレギュラーな出来事があったほうが――お互い、面白いと思うくらいなんだからな」


「まあ、確かにそうだな。僕、前におまえに言ったことあったろ?まだマキに対して、自分の中の偶像の娼婦とごっちゃにして彼女に嫉妬しまくってた頃……『僕とおまえとそのヴァージンの子の三人で3Pだなんて、絶対ごめんだからな!』みたいに怒鳴ったことが。でもまあ、今はもう実際それに近くなってきてるよな。普通、3っていうのは、人間関係のうまくいかない不吉な数字、みたいに言われるのにさ」


「だな。まあ、この話はまた、あとからマキが帰ってきてからしよう」


 いつもの君貴なら、必ず3Pという言葉に食いついているところである。ところが、彼は本当によほど疲れているのだろう。自分の書斎のようになっている部屋へ閉じこもると、彼はまず仕事の取引先と話しはじめ――それが終わると、倒れこむようにしてベッドへ横になっていた。


「インドのデリーだって。貴史のパパはお仕事大変でちゅね~。まあ、貴史にとってのパパは今は僕でも、血が繋がってるのは君貴であることに変わりないからね。そのうち、貴史も大きくなったら、ほんとのパパの偉大さがわかってくると思いまちゅよん」


 このあと、レオンは上機嫌で料理の続きに取りかかった。今日はタイ料理がメインで、ガパオライス、野菜炒め、パクチーサラダ、トムカーガイといった品がテーブルに並ぶ。


 唯一日曜だけマキが「どうしても」と言って自分で昼食や夕食を作ろうとするのだが――貴史も連れて三人で買い物へ行くことが多いので、レオンはなるべく外食して済ませるようにしている。週に一度しか休みがないのに、そんなことで彼女を煩わせたくなかった。


 夜の七時近くに帰ってくると、マキは見慣れたジョンロブの靴を見て、(君貴さんが来てる……!)ということにすぐ気づいていた。そして、今回に限っては、いつも以上に彼女はドキドキしていた。この一か月半近くもの間、マキは彼の恋人であるレオン・ウォンと共同で息子の貴史のことを育ててきた。彼は、本来なら君貴がしてくれるはずのようなことを、すべてしてくれた。初めてハイハイした時も、まるで我が子のことのように喜び、「貴史、パパはこっちだよ!」と言いながら、毎日息子の相手をしてくれている。しかも、その様子をずっとホームビデオで撮影し、しつこいくらい見返しているところから見ても――レオンが無理しているわけでないらしいことが、マキにもよくわかるのだ。


 レオンは、貴史から「パパ」と呼ばれて以来、ますます子育てにのめりこんでいるように見えるのだが、実をいうとマキはそのことが少し心配だった。(彼はほんとのパパじゃないのに)といったことではまるでなく、どうもレオンが子育てを通して自分のことも込みで愛情を抱きはじめているらしいことに対し……マキはそのことは『一時的な錯覚』ではないかと感じていた。


 もちろん、子育てのことのみならず、レオンは本当によくしてくれる。毎日、美味しい料理を作ってくれ、彼が来てくれて以来、マキは日曜日に一度も洗濯機を回していない。レオンは本来的に軽い潔癖症らしく、部屋のほうはいつでも綺麗に整っていた(赤ん坊のいる家庭だとは、とても思えないくらいに!)。


 けれど、マキも流石にだんだん不安になってきた。レオンが自分でそれと望んで、うちにいてくれるのは嬉しい。けれど、彼は誰もが天才と認める、世界的なピアニストなのだ。半年くらい先までスケジュールは空けてあるとレオンは言っていたけれど……本当に、こうした生活を彼にずっと続けてもらっていいものなのかどうか――レオンにしても、一度こんなに深く関わってしまったら、途中で投げ出すのは無責任であるとして、変に縛られたりするのだとしたら……また、今の心地好いレオンとの関係というのは、マキは君貴がやって来たら壊れてしまうかもしれないと漠然と感じてもいたのである。


(何事も起きなければいいんだけど……)


 マキはそんな心配を胸に秘めつつ、自然な振りを装って「ただいまー」と明るく居間のほうへ入っていった。途端、「しー」と、レオンが人差し指を口の前に立てているのがわかる。


「どうしたの?」


 レオンは、小声で聞くマキに対し、君貴の寝ている部屋のほうを指差した。見ると、彼の隣で息子の貴史がすやすや眠っているのがわかる。


「あいつ、相当疲れてるみたい。今日はインド帰りだってさ。ほら、マキもたぶん知ってるとは思うけど……あいつがオランダに造った音楽ホール。あれ以来だよね。君貴はやっぱり元がピアニストで耳がいいだろ?だから、音響効果的なことにすっごいうるさいわけだよ。結果、各国のオケや音楽家たちが大絶賛するような音楽ホールが出来て……以降、新しく舞台を作るだの、音楽堂を作るだのといった場合、直接指名を受けることが多くなって――だからちょっと、その分野ではあいつのひとり勝ちみたいなところがあって、少し同業者に恨まれてるところがあるらしいね。しかもあいつ、恐ろしいくらいの完璧主義だし、ちょっと気になることがあると、自分の部下が撮った写真やムービーなんかじゃまるで納得できず、自分の目で見ないと気が済まないんだな。やっぱり、建築物っていうのは一度出来てさえしまえば、永遠にとまでは言わなくてもかなりの長い時間持つものだろ?だから、もうほんと、それに自分のすべてを捧げてるっていう感じなんだよ」


「う、うん。わたしもね、一応わかってはいるつもりなのよ。君貴さんにとってどのくらい仕事が大切かとか、そういうことについては……だから、邪魔するつもりもないし、無理してここに来なくていいのよっていうのは、そういう意味でもあるの。父親らしいこと何もしないんだったらべつに来なくていいとか、そういう意味じゃなくてね」


 マキは気づかなかったが、レオンはこの時、少し寂しそうに微笑った。やはり、彼女は君貴のことだけが好きなのだと、はっきりとわかる。いつもそばにいてくれるのでなくても、息子にとってのいい父親でなくても構わないのだ。ただ、忙しい合間を縫って会いに来てくれるというそれだけで――おそらく、マキはそれ以上多くのことを望んではいないのだろう。


(まあ、だからこそ僕は、マキのことが心配なんだけどね。これからも時々僕が、君貴のことをせっついたりなんだりしないと……あいつはマキのことはともかくとして、自分が父親だってことについては、仕事が忙しすぎてほんとに忘れちゃいそうだし)


「マキは、そんなに君貴のことが好き?」


「えっ、ええ!?」


 突然の質問に、マキは頬を赤らめた。ふたりを起こしてはいけないので、そっとドアを閉めると、リビングのほうへ戻ってくる。


「こんなこと、君貴さんの恋人であるレオンに言うのって、どうかとは思うんだけど……そうね。女の人はみんなそうなのかもしれないけど、初めての男の人に対して、女は特別な感情を持つものなんじゃないかしら。もしわたしがただ、そのことにしつこく拘ってるだけなんだとしても――ただの自己満足の愛だったとしてもいいの。わたし、たぶんただ、あの人のことが好きな自分が好きなのかもしれないって思うことがあるわ」


「ふう~ん。それって、いわゆる見返りを求めない愛ってやつ?」


 レオンはキッチンのほうへ行くと、料理を温め直すことにした。もちろん、君貴の分もある。


「さあ……そんないいものでもない気がするけど。それに、見返りならちゃんとあるのよ。さっきみたいに、君貴さんと貴史の並んでるところを見たりとか……これはわたしが勝手に思ってることなんだけど、貴史がもっと大きくなって知恵がついてきたら、あの子も割とお父さんに懐くんじゃないかなって思ったりしてて。たまに、外国土産を持って帰ってくる僕の父さんはすごいんだ!みたいな感じでね」


(馬鹿みたいでしょ?)という顔をマキがするのを見て、レオンは微笑んだ。彼にしても、確かにそんなような気はするのだ。


「そっかあ。まあ、僕はただの『パパ(仮)』的存在だからね。貴史が物心つく前には、混乱しないように気をつけようとは思ってるんだ。じゃないと、『うちにはどうしてパパがいないの?』じゃなくて、『どうしてうちにはパパがふたりもいるの?』ってことになっちゃうものな」


「あ、あのねっ。わたし、レオンにはものすっっごく感謝してるの。レオンがうちに来てくれて以来、毎日がなんだか天国みたい。ごはん作らなくていいし、部屋も赤ちゃんがいるだなんて思えないくらいすごく綺麗だし、洗濯までまめにしてくれるし。わたし、いつも思ってるのよ。世界のレオン・ウォンにこんなことさせてて、本当にいいのかしらって……」


「いいんだよ。全部僕が自分で好きでやってることなんだから」


 このあと、マキとレオンはふたりきりで静かに食事した。何か、少しおかしな感じだった。べつに、君貴が来たからといって、ふたりの間で何が変わるわけでもない。けれど、貴史の存在が間に挟まっていないと、マキはやはりなんだか落ち着かないものを感じた。


「仕事はどう?なんて、毎日聞かれても、マキも困っちゃうか」


「そうね。だって毎日、全然変わり映えしないんですもの。レオンだって、うちみたいな小さい会社の人間関係なんか聞かされたってつまらないでしょ?」


「ううん、そんなことないよ!えっと、なんだっけ。マキの会社の社長さんと専務さんが夫婦だけど、別居してる話とか……」


「そうそう。今日もあの社長は、新聞の死亡広告欄を見て『人が死ぬと花屋は儲かる』とか、どうしようもないこと言ってたわ。パートの店員の柴田さんなんて、いつも社長がいなくなったあと、『おまえが死ね!』って言ってるしね。というのもね、今じゃあの社長には愛人がいるとか、そういうことを従業員はみんな知ってるからなの。わたしが入社した頃からね、社長と専務はほとんど口を聞かないなあみたいな雰囲気はすごくあったんだけど……従業員の前だからなのかな、くらいに思ってたわけ。そしたら、もうかなり昔から社長には愛人がいて、仕事のほうはそこそこに、その愛人の家のほうへ行ってるらしいの。で、奥さんである専務のほうから『別れたい』って言ったんだけど、社長のほうで絶対承知しないんですって。<ベルサイユのはなや>の社長っていう立場って、人に説明するのにも便利だし、その地位にい続ける限り、毎月お金もお給料みたいな形で入ってくるわけだから、社長にとっては離婚しないほうが都合がいいってことみたい」


「そんなの絶対変だよ!そんなやつ、身ぐるみ剥いで、会社からも家からも追い出しちゃえばいいじゃないか」


 実をいうと、社長と専務の関係に関しては、貴史のことを娘の亜由美に預けるうち、マキが彼女の口から聞いたことである。『お母さんもずっと別れたいと思ってるんだけど……「そんなことをしたら、ただじゃすまさないからな。ええっ!?」みたいな感じで、脅してくるのよ、あいつ。ほんと、我が父ながらどうしようもない奴よ』といったように。


「専務も、本当は心からほんとにそうしたいみたい。だけど、娘さんの話じゃね、そんなことしたら変に逆恨みして、出刃包丁片手に暴れそうなところがあるから、おっかなくてそうも出来ないってことみたいなの」


「ふうん。面白いねえ……あっ、ごめん。人の不幸が面白いって意味じゃないんだよ。なんていうか、マキの職場って何気に面白い人多いよね。イラチの金田常吉さんとか」


「ああ、金田くんね」


 ガパオライスを食べながら、マキは笑った。前に、レオンがしつこく従業員のことを知りたがったので、それでマキは話した記憶があった。


「ほんと、仕事のほうはプロフェッショナルなのよ。フラワーアレンジメントのほうも本当に短時間でパパッと次から次へと完璧に仕事をこなしていく感じだし……ただわたし、綺麗な花束を作る人は心も綺麗とか、あんまり関係ないんだな~なんて、金田くんを見てると思うのよね。いつもブツブツ独り言いいながら、「チッチッ」って舌打ちしつつ仕事してるんだもの。そういう時にまた新しく注文が入ったとか話しにいくと、「ああん?」みたいに返事する人だしねえ」


 レオンは笑った。彼女はたぶん、あまりに日常生活と化しすぎていて、自分がどのくらいおかしな職場環境で働いているのか、気づいてないのではないだろうか。


「それで、その金田さんって、バツイチって言ったよね?それで、前の奥さんと別れた理由っていうのが……」


「うん。わたしが入社してから一年か二年くらいで奥さんと別れたみたいなの。最初のうちはね、おしゃべり好きな店員さんたちも、『なんで離婚したのよ?』なんて聞ける雰囲気じゃなかったんだけど……それでも、仕事の片腕みたいになってる伊東くんあたりには一応別れた理由を話したらしくて――で、伊東くんは結婚してて、もうお子さんもいる、性格もすごく温厚な人なの。それで、柴田さんあたりが、休憩室で一緒になったりした時にしつこく聞いて教えてもらったみたい。てっきりみんな、金田くんのあのイライラが原因で別れたんじゃないかって言ってたんだけど……奥さんがアルコール中毒だったことが、結婚したあとにわかったんですって」


「へえ。その金田さんって人は、あんまり飲まないほうなの?」


「そうね。見た目、結構飲みそうな雰囲気の人なんだけど……本人は下戸だって言ってるわ。それで、料理をするでもなく洗濯をするでもなく、とにかく金田くんが仕事で疲れて帰ると、家でべろんべろんに酔っ払ってる状態なんですって。結婚する前までは全然そんなところのない普通のOLさんだったってことなんだけど……毎日喧嘩が絶えなくて、ある時金田くん、奥さんに危うく暴力を振るいそうになったってことだったわ。自分でもそんなことを一度したらもうやめられなくなるだろうと思って、怖くなって離婚することにしたっていうことだったの」


「ふうん。その金田って人にも、早く春がやって来るといいのにねえ。あと、社長と専務の娘さんのアユミさんっていう人も、離婚して実家に帰ってきたんだっけ?」


 レオンは、金田氏についても伊東氏についても、倉庫で会った(あの人だな)と、大体見当がついている。ちなみに、マキのことを好きなのは、このふたりのうちどちらでもなく、花岡という、ただひたすら黙々と仕事をするタイプの従業員らしい。


(でもなんか、そういうのもちょっとストーカーっぽくて怖い気がしなくもないよな。貴史がいるのを知ってて、それでも好きっていうのは……)


「えっとね、なんかわたしも、柴田さんに負けないくらいのおしゃべりおばさんって感じするけど……今、浩太くんっていう六歳の息子さんがいるのね。でも、浩太くんを生んで以降、旦那さんと五年くらいずっとセックスレスで――それが別れた理由ってことみたい」


「ふうん。セックスレスかあ。でも、その人の場合は実はゲイだったとか、そんなことではないわけだろ?」


 この時、マキはごほっと、パクチーサラダを吹きそうになった。


「えっとね、もちろんそういうことではないみたい。とにかく、なんていうかこう……子育てにも熱心な感じじゃなくて、子供の面倒を見るよりゲームしてる時間が長いみたいな、そういう感じの旦那さんだったみたい。仕事の疲れを癒す一番の方法はゲームだ――っていうのは、結婚前からそうだったんですって。でも、ゲームばっかりして、アユミちゃんの話にも生返事ばっかりで、全然聞いてない感じだったってことなの。それで、結婚後八年してある日大爆発して、『わたしたち、もう離婚しましょう!』ってアユミちゃんのほうから言ったってことだったわ。そしたら、向こうでは『いつアユミがそう言うか、待ってたよ』ですって。それで余計頭にきて大喧嘩したってことだったわ」


「ふう~ん。まあ、夫婦ってやつは難しいもんだよね。そうかあ。ゲーム中毒の旦那かあ。アルコール中毒の妻もイヤなもんだけど、ゲーム中毒の夫ってのも、そりゃ奥さんにしてみりゃイラつくよなあ」


「そうよねえ。アユミちゃん的には、そんな人でも子供の父親だしっていう感じで、ずっと耐えてたっていうことだったのね。だけど、こんなことなら八年も耐えたりしないで、もっと早くに離婚してたほうが良かったって言ってたわ。でね、五年もセックスレスだったから、次に誰かとつきあったらバンバンやりまくってやるつもりだなんて言うのよ」


 マキは何気なく笑っていたが、ふとレオンが真剣な目で自分を見ているのに気づいて、照れてしまった。時々、彼にはこういうところがある。


「マキはさ、どうなの?」


「どうって?」


 食事のほうは大体のところ終わったので、マキはティッシュで口許を拭いていた。


「ほら、君貴に抱かれたくて夜眠れないとか、そういうことってないのかなと思って」


「……んーと、レオン。そういうのはプライヴェートなことだから……」


「あっ、ご、ごめんっ。べつに、変な意味じゃないんだよ。ただ時々、僕が相手じゃダメなのかなとか、思ったりするもんだからさ」


 マキのほうでも頬を赤らめて俯き、レオンにしても不用意なことを聞いてしまい、気まずくなっていた時のことだった。まるでこの瞬間を狙いすましたかのように、リビングのドアがバタン!と開く。


「このクソガキを俺の横に寝かせたのは誰だ?くっそ!目が覚めたらゲロ吐いてることに気づいたぞ」


 貴史のほうは、ゲロを吐いた割に、極めてケロリとした顔をしており、特に具合が悪そうでもなかった。珍しく、実の父親に抱かれていても泣いてさえいない。


「あっ、貴史ちゃん。お目々さめたの?」


 マキは君貴から息子のことを受け取ると、「お~よちよち」とあやしつつ、君貴の部屋のほうへ向かった。ベッドのシーツの上部が少しばかり汚れてはいるが、そう大したことはない。マキはそれを見てほっとした。


「ふふふっ。貴史ちゃん、パパに構ってもらいたかったの?きっとそうなんでしゅね。ハーイハイ。今ちょっとシーツを取り替えまちゅよ~」


「いいよ、マキ。僕がやるから!」


「いいのよ。こんなことくらい……」


「いいって!」


 結局、シーツのほうはレオンが換えた。それから、ミルクの吐き戻しで少しばかり白くなったところを洗い、それから洗濯機のほうへ放り込むということになる。


 マキはといえば、仕事から帰ってきてまだ母子のスキンシップを取っていなかっただけに、暫く息子のことを抱っこしたまま色々なことを話しかけていた。「今日は一日どうでちたか?」、「レオンお兄ちゃんに遊んでもらえてよかったでちゅね」といったように。


「やれやれ。おまえらもう、俺のことなんか脇にほっぽっておいて、結婚したらどうなんだ?」


 貴史を含めた三人が居間へ戻ってくると、君貴はテーブルの上のものを色々つまみ食いしつつそう言った。彼はとにかく今、カレー味のしないものが食べたくて仕方なかった。


「な、何言ってるのよ!世界のレオンさまに向かって……」


「いいね、それ!!」


 マキが君貴の冗談に反駁しようとするのを、レオンが強引に止める。


「ほら、マキ。僕らもう、結婚してるも同然の仲じゃないか。さっきも話してて思ったんだけどさ、君貴は父親には不向きなんだよ。そんな奴より、血の繋がりはなくても、僕ならマキのことも貴史のことも必ず大切にするっ。そのことは絶対誓うよ。だから……」


「だ、ダメよ。何言ってるのよ、レオンっ!もちろんわたし、レオンにはすっごく感謝してるし、貴史の面倒まで見てもらって物凄く有難いとも思ってる。だけど、レオンだっていずれまた、ピアニストとしての仕事が第一ってことになるでしょ?わたし、本当に心苦しいのよ。日本でいったら、重要無形文化財みたいな人に、自分の息子のオムツなんて替えてもらってていいのかなって……そのこと、毎日考えない日はないくらいなの」


「ピアノなんか、今の僕にはもうどうだっていいんだよ!それより、子供を育てるってことのほうが、人間としてどれだけ大切なことか……ピアノはね、まあ仮に何年か休んだところでまた弾けるさ。だけど、貴史の成長をすぐそばにいて見守ってあげることが出来るのは今だけだからね。ほら、アフリカに、僕の名前を冠した孤児院や学校があるんだけど――あの子たちのうちの誰かを引き取って育ててやれないものかとは、ずっと思ってたんだ。そのことには、罪悪感に近い気持ちを持っていたといってもいい。だけど、僕が引き取れるのはせいぜいが一人か二人くらいなものだから、それじゃなんだか不公平だし……とにかくね、うまく言えないけど僕は今、大切な何かを掴みかけてるんだ。それに、マキのことも好きだ。もう愛してるって言ってもいいくらい」


 困惑しきっているマキのことを見て、君貴は笑った。キッチンのあたりを覗いて、自分の分にと残してあったガパオライスを電子レンジで温め直す。


「いや、まさかおととしの大晦日の夜には、こんなことになるとは想像もつかなかったよな。マキ、べつに俺がいるからって遠慮することないぞ。というより、こんなボーギャルソン(美青年)がいて、おまえらがそういう関係になってないってことのほうに、むしろ俺は驚いてるくらいだ。べつに、膣締め体操の効果については、俺が確かめなくてもレオンがどうにかしてくれるとさ」


「何よ、もうっ。人のこと欲求不満みたいに言って!どうせあれでしょ?わたしが帰って来る前にふたりで、わたしのこと色々しゃべったりしてたんでしょ?」


 レオンはまだ、顔を赤らめたままだった。君貴が部屋に入ってくる直前に話していたことも、今口にしたことに関しても、あくまで彼は本気だったからだ。(愛してるって言ってもいいくらいどころじゃない。本当に愛してるんだ)とさえ思っていた。


「まあ、そうだな。マキに二件くらい浮気疑惑があるって話を聞かされたよ。あ、そのことでおまえ、俺に嘘ついたろ?廊下にずらっと並んでる気色悪い蘭の花……店のあまりものでもなんでもないんだってな。それと、相手の名前が気になる。入江健っていうのはもしかして、ケン・イリエ建設エンジニアリングのトップの奴のことか?」


「えっと、確かそんなような名前の会社の社長さんだったかな。ほら、うち小さい会社だから、配達に人手が足りないってなると、免許持ってる他の従業員がバンに乗って花を配達したりするの。で、なんかそこの社長さんから、またわたしに花を配達してくれみたいな指名が来て……だけど、べつになんてことないのよ。ただ、社長室みたいなところに頼まれた花を飾って終わりってだけなの」


「ふうん。そりゃ確かに気持ち悪いな。それで、そいつに何か聞かれたりしたか?」


「なんだったかな。あ、そういえば忘れてたけど、会社の帰りに偶然会って、入江さんの車で送ってもらったことがあるんだった。もちろん、貴史も一緒に」


 ここで、レオンが急に顔色を変えた。


「ええっ!?だってマキ、ここの住所も知らないとかって、僕に言ってたじゃないか。それなのに、車で送ってもらったなんて……」


「違うのよ。送ってはもらったけど、ここのマンションの真ん前とかじゃなくて、結構手前のところで停めてもらって、そこから歩いてきたの。あと、その時わたし貴史のこと抱っこしてたし、会社帰りだから、もう疲れきってボロボロな状態よ?そんな女のこと、そんな目的のために待ち伏せたりしてるもんかしら」


「う~ん、そっか。貴史が一緒だったってことは、僕がまだここへやって来る前ってことだもんな。そういえば君貴、もしかしてそいつ、なんか同業の知ってる奴だったりすんの?」


 自分の本気の告白が中心の話題ではなくて、レオンは少しほっとした。そうだ。君貴がいなくなって、貴史も含めてまた三人きりになったとしたら――もう一度、マキにその気はないのかどうか聞いてみようと、そう心に決める。


「そうだな。俺の仕事のほうは、うちに頼みたいってことで直接指名が来る場合と、あとはいくつかの会社がコンペに参加して、その中で一番気に入った奴を……っていうパターンがある。で、ケン・イリエなんたらって奴は、そのコンペで俺の会社の名前と並んでることが割と多いってやつだ。だが、わからんな。あいつが俺を嫌ってるとして、俺との間に出来た私生児をマキが育ててると探偵でも使って調べたとして――あいつに一体なんのメリットがある?そんなプライヴェートなこと、仕事で俺の足を引っ張るのに、何か役立つか?」


「そうだねえ。それだったら、僕との関係のほうをすっぱ抜いたほうがいいだろうしね。ほら、日本の会社の内部のことなんて僕はあんまりよく知らないけど、日本って欧米に比べて保守的なんだろ?だから、ゲイだってことがバレると、場合によっちゃ肩身の狭い思いをしたりするんだろうしね」


「でもたぶん、入江さんは貴史の父親が誰かなんて、知らなっぽそうな感じだった気がするけど……ただ、自分も離婚した妻との間にひとり娘がいるんだとか、ほんと、フツーの世間話をしたってだけ」


 ここで、君貴とレオンがほぼ同時にマキを射るように見た。それで、彼女のほうではやましいことなど何もないのに、妙にドギマギしてしまう。


「マキってさあ、ほんと鈍いよね」


「確かにそうだな。そりゃ、今自分は結婚してなくてフリーだけど、結婚したことがあって娘もひとりいるから、そこそこそういうこともわかってます的アピールってやつだ。まず、間違いない」


「ち、違うわよっ!ふたりとも、ちょっと考えすぎなんじゃない?それで、浮気疑惑の一件目はシロだってことでいいでしょ?二件目は一体何?」


 心当たりのまったくないマキは、首を傾げた。貴史のことを抱っこしたまま、「まったく、失礼しちゃいまちゅね!」と囁きかける。「この人たちはばかでちゅ」とも。


「ほら、マキの花屋にチンコみたいな名前の奴がいたよな?それで、そいつに顎でこき使われてる、緘黙症なんじゃねえのかってくらいしゃべらない従業員がいるんだろ?そいつがなんか、マキのことを好きらしいんだと」


「あっ、僕さ、一度マキの会社に行ったことあったよね?その時、間違って裏の倉庫のほうに入っていっちゃって、その時に偶然聞いちゃったんだよ。『マキちゃん、もう子供もいるのに好きだなんて、おまえも変わってんなあ』みたいな話だったんだけど……」


「君貴さんが言ってるのは、金田くんのことでしょ?」


 社長が金田常吉のことを呼ぶ時、必ず金ちんと呼ぶ……しかも時々、「♪かねかねちんちん、かねちんちん」と節をつけられるのを、本人はとても嫌がっている――という話を、マキは君貴にしたことがあった。その時の話が、おそらく脳裏のどこかに残っていたのだろう。


「ああ、そいつだ。金子じゃなくて金田だったか。まあ、この際どっちでもいい。レオン、俺、ケン・イリエ、チンコに顎で使われる緘黙症……まあ、マキが一番好きな男を選べばいいさ。単に俺は、マキが蘭の花のことで嘘をついたっていうのが気になっただけなんだ。だが、確かに気にする必要はまるでなかったみたいだな」


 これで一件落着、とばかり、君貴はガパオライスの皿を手にしたまま、ソファのほうへ行った。そこでテレビをつけ、チャンネルをいくつかザッピングしたのち、最終的にワールドニュースに落ち着く。


「お風呂でも、入ってきたら?」


「えっ、えっと、そうね……」


 レオンの態度が元通りに戻っているのを見て、マキはほっとした。最初の頃こそ、「後片付けくらいするわ」、「いいよ。気にすることないよ」というやりとりを繰り返していた気がするものの、結局レオンに押し切られてしまうため、今ではすっかり彼の言葉に甘えるようになってしまっている。


 マキは(その前に……)と思い、自分の部屋のほうに貴史のことを連れていくと、そこでおっぱいを一度あげることにした。


「そういえば、貴史があんまり離乳食を食べてくれないんだよね……色々献立のほうは工夫してるつもりなんだけどさあ」


 マキはもうおっぱいをあげてるところをレオンに見られても、どうとも思わなくなってしまっている。実をいうと、妊娠前までは脇から寄せてきておっぱいにする肉さえなかったマキだったが――今では、前よりもワンカップくらい胸が大きくなっていた。とはいえ、彼女はそのことをあまり喜んでいない。というのも、授乳のせいもあるのかどうか、形のほうもあまりよくないし、これなら前のように真っ平らだったほうが良かったのではないかというくらい、左右のバランスまで悪かったからだ。


「大丈夫よ。そんなに急がなくても……おっぱいやミルクをたっぷり飲んでくれてる間は、まあそれでよしとして、おかゆとか色々作るの、レオンも大変でしょ?明日、ベビーフードでも買ってくるわ。その中に貴史の好きな味があるといいんだけど……」


「そうだね。僕はなんでも手作りのほうがいいかと思ってたんだけど、食べてくれなかった時のがっかり感がすごくてさ、凝ったものを作った時ほど食べてくれなかったり、機嫌が悪くなったりするっていう……でも、おかしなもんだよね。今僕とマキがこんなにやきもきしてるのに、貴史はそんなこと、大きくなったら覚えてもいないだなんて。ベビー服もさ、マキは『どうせすぐ大きくなるから』なんて言うけど、僕は全然ダメだよ。色んな服を着せて、写真やホームビデオに残しておきたいとか思っちゃうし」


「貴史は男の子で良かったのかもしれないわね」


 マキはくすりと笑って言った。


「だってそうでしょう?あの子が女の子だったら、君貴さんもそうだけど……レオンみたいな格好いい人がパパだったりして、可愛がりに可愛がって育てたりしたら、『パパみたいな人が理想』とか言い出して、絶対誰とも結婚できそうにないものね」


「マキは……」


 レオンはごくりと唾を飲み込んだ。彼女のほうでも自分とのことを少しは考えてくれているのだろうかと思ったのだ。


「ふたり目とか、欲しくないの?ほら、マキが仕事から帰ってくる前に、君貴とも話してたんだ。もし二、三日ここにいるんだったら、明日あたりマキとデートして、ホテルにでも泊まってこいって。貴史のことはもちろん僕が見てるし……それで、ふたり目が出来たら、その子のことも僕が面倒見るよって。そしたらあいつ、頭おかしいんじゃないかっていうような目で、僕のほうを見てたよ」


「いいのよ、レオン。気を遣ってくれなくて……君貴さんはただ、わたしとレオンが本当にうまくやってるかどうか、様子を見にきただけなんだと思うし。それに、最近わたしにもよくわかってきたの。君貴さんの、あの貪欲なまでの仕事への打ちこみようは――ようするに、ピアノが関係してるのね。やっぱり、君貴さんには『もしあのまま音楽院をやめず、プロのピアニストになっていたとしたら』っていう、第一の人生の道があって……でも、建築家っていう第二の人生をあの人は選び取ったわけでしょう?だから、最初のピアニストの道を選び取らなかっただけに、それなら、それを凌駕するくらいの凄い仕事をやり遂げないことには、自分が生きてることに意味や価値を見出せない……みたいな、何かそうしたところがあるんでしょうね」


 レオンは、マキがふたり目を欲しいのか欲しくないかの答えが欲しかったが、軽くはぐらかされてしまったように感じた。(だが、まあいい)とも彼は思う。何故といって、君貴は長くいても数日で帰ってしまうだろうが、自分とマキにはこれからもたっぷり時間があるのだから。


「そうだねえ。だからあいつ、僕のピアニストとしての生活が結構大変なのを間近で見て、溜飲を下げてる部分もあるんじゃないかな。レオンみたいになるくらいだったら、建築家としての仕事のほうがまだしもましだぞ、なんてね」


「君貴さんは、レオンに救われてるんじゃない?天才の技術を保つのは大変だっていうのをそば近くで見ることで……建築家としての仕事にもいい影響があるのはまず間違いないことだし」


「そういやさ、マキ。前に、僕のコンサート見にきたことあるって言ってたよね」


「うん、そうよ。新聞社に勤めてる友達があなたの大ファンなの。でも、急に別の用が出来ていけなくなって――チケットを譲ってもらえたの。凄かったわ。あなたが舞台上に現れるちょっと前まで、『キャーッ!!』とか『レオンさまーっ!!』ていう黄色い声が飛んでるんだけど、あなたがステージに姿を現すと、拍手のあとは水を打ったみたいに静かになるのよね」


「プログラムのほうは、なんだった?」


 レオンはもう数え切れないくらいリサイタルを開いているため、プログラムのほうを聞かせてもらえば、それがいつ頃くらいのコンサートだったか、思い出せるかもしれなかった。


「ベートーヴェンの『幻想曲』や、ショパンの『舟歌』、リストのピアノソナタロ短調とか……魂が震えて恍惚とするっていうのは、ああいうことを言うんだなって思ったくらい」


「…………………」


 一度プロのピアニストになってしまうと、周囲の人間の褒め言葉というのは極めて信用ならないものへと化していく。レオンはそのことをよく知っていた。また、彼が欲しいのは女性の黄色い声援でもなければ、気難しい専門家の絶賛の声でもない。自分のピアノの音を欲する人の心に、自分の奏でた曲の想いがそのまま届くという、それだけのことだった。


「ピアノってね……いや、音楽全般に言えることなんだろうけど、作曲者と、その意図を汲み取って演奏できる人間がいるだけじゃダメだっていう話だよね。三番目に必要な存在として、絶対に聴衆っていうものが必要になってくる。でね、僕は何かと人から騒がれる条件が揃ってたから――なんていうか、人が自分を褒めてくれても「へえ。それで?」みたいによくなってた。一応、これも仕事だと思って愛想笑いを浮かべつつ、『ありがとうございます』とは言うんだけどね。正直、ホールを埋めた人たちのうち『どのくらいの人がわかってるものなんだろう』っていう猜疑心も強かった。でも、ひとつコンサートを終えるごとに、色々手紙が届くわけ。『ガンの闘病中で、あなたの演奏に心が洗われる思いでした』とか、中には『自殺を考えていたけど、感動のあまり思い留まることにした』っていう人までいて……こうなるとまあ、僕としてもピアノを弾くっていうことが一種の宿命みたいになっていく。苦しいし、つらいし、結構大変な時もあるんだけど――ある時、だから僕はいいんだなって思った。大して重圧を感じるでもなく舞台に立ててしまうよりは、そういう葛藤とか心理的なせめぎ合いがあればこそ……人の心に届くものがあるんだろうなってことに気づいたっていうか」


 マキは、レオンのこの言葉に驚いた。彼のピアノ演奏のライヴ映像を、マキは何度も見たことがあるが――おそろしく研ぎ澄まされた神経の中にも、いい意味でのヴィルトゥオーソとしての精神的余裕というのだろうか。そうした空気感を感じていた。けれど、彼には普段人には知られぬ、超一流アーティストとしての苦悩があるのかもしれない。


「だから、今のマキの言葉、すごく嬉しかったよ。マキが、僕のピアノでそんなふうに感じてくれてたっていうことがね」


 このあと、マキはレオンに貴史のことを任せて、お風呂に入ることにした。レオンはといえば、再びうとうとしはじめた赤ん坊を連れて、リビングのほうへ戻ったわけだが――彼はそこで意外なものを見た。


「ふうん。おまえもようやく家事に目覚めたっていうわけ?」


 君貴が、食器洗浄機に軽く汚れを落とした皿やコップを入れているのを見て……レオンは少しばかり驚いた。普段、あまりそう家事について率先してやるタイプでないだけに。


「皿洗いくらい、俺だって時々はするさ。まあ、大体のところレオンとマキの関係性についてはわかったから、邪魔者は明日にでも早々に退散するよ」


「だから、おまえはその前にマキとデートでもして来いって言っただろ?幸い、明日は日曜で、マキは休みだ。なんだったら、今からだってどこかホテルを取るとかすればいいじゃないか」


「悪いが俺はインド帰りだぞ?あと、これからもう少し仕事もしなきゃならんしな。東京はただの、明日ロスへ戻るための中継地といったところだよ」


「…………………」


 君貴はペーパータオルで手を拭くと、やはり息子に目をくれるでもなく、自分の書斎のほうへ向かおうとしている。


「君貴がそんな態度だったら、ほんとに僕、マキのこと取っちゃうよ!君貴はさ、ほんとにそれでいいの?」


「むしろ逆に、だからだよ。いつまでかはわからんが、今の時点で理想の父親なのはレオン、おまえのほうだ。俺はこうしてたまにやって来ても、ガキのオムツひとつ替えるでもなく、また仕事に旅立っていくってことの繰り返しだからな。俺が何かヘマをやらかして、自分の設計事務所が倒産でもしない限りは、俺の人生はこれからもずっとこんな感じだろう。ようするに、マキにも血の繋がった子供にも、大して構ってやることは出来ない。二番目の子なら、おまえがマキとの間に作れ。俺は反対はしない」


「ふうん。マキ、僕のピアノのコンサートを前に聴きにきてくれたことがあるんだって。その時の感想を聞いたら、『魂が震えて恍惚とした』ってことだったよ。ほんと、もし貴史がいないとしたら、僕、ピアノで超絶技巧を見せつけて、マキのことを落とせるのになって思っちゃったくらい」


 レオンのこの意見を聞いて、君貴は笑った。醜男だったと言われるベートーヴェンでさえ、ピアノによって女性を魅了していたことを考えれば――レオンにはそれこそ、リストかショパン並みの魅力が備わっているだろうと思ってのことだった。


「まあ、ここにおまえのべーゼンドルファーはないにしても、マキのヤマハのポンコツならあるからな。べつに、貴史が起きてる間なら、今だってピアノを弾いたって何も問題あるまい?」


「あ、そっか!そういえば君貴は貴史のこと、将来ピアニストにしたいとか、そう思うことはないの?」


「ないな。というより、強制はしないが、とりあえず選択肢のひとつとして与える必要はあるだろう、くらいに思ってる感じだな。それに、おまえだってわかってるだろう?将来、貴史に嫌われたくなきゃ、ピアノの英才教育なんて絶対やるもんじゃない」


「確かに、そりゃそうだね。それに、もしそんなことになったら、何かと神経質にうるさい継父より、放任主義の父親のほうが絶対いいみたいになって、今の僕と君貴の立場が逆転しちゃうかもしれないもんね」


「そういうことだ」


 ――この時、お風呂に入っていたマキの耳にも、親友同士であり恋人同士でもある男ふたりの笑い声が届いていた。もちろん、彼らがなんのことで笑っているのかまではわからない。けれど、この時彼女はとてもほっとしていた。やはり、君貴の独特の性格に負うところが大きいのだろう。レオンと君貴のふたりが顔を合わせ、その間に自分がいたとしても……それほど気まずいと感じずにいられることが、マキにはなんだか不思議だったほどである。


 また、この翌日の午後、君貴はロス行きの最終便に乗る予定であったが、レオンと貴史がテラスに出たあと――彼はマキに自分の本心を伝えることにしていたのだった。


 その時、マキは昼食の下ごしらえをしていたのだが、君貴はアイランドテーブルにノートパソコンを乗せ、やはり仕事を続けていた。そして目のほうは画面にやったまま、キッチンに向かい、自分には背を向けているマキに話しかける。


「おまえがどういう女かは、たぶんレオンよりも俺のほうがわかってる」


「どういう意味?」


 今では一月以上も一緒にいる、レオンのほうが自分を理解している――とは、マキも思っていない。また、そういう意味でないことは、君貴にもわかっているはずだった。


「だからさ、俺とも寝て、レオンともそうするだなんて、そんなことには耐えられないっていう意味だよ。だが、俺はもうそれで構わないと、きのうここへ来てそう思った」


 マキはこの時、ミニトマトを半分に切り、パセリを微塵切りにして、にんにくを潰しているところだった。その手が一瞬止まる。


「べつに、もうわたしのことなんてどうでもいいって意味?」


「そうじゃない。それに、これはどちらかというと、おまえのためというより、レオンのためだってことを俺は言いたいんだ。あいつのウィキペディアの生い立ちの第一行目のところには、『母親のメアリー・キングは、息子を出産後、もともと患っていた鬱病の悪化により自殺している。その後、カトリック教会が運営する乳児院へ預けられ……』みたいにある。俺も詳しくは聞いてないが、ロンドンにある児童養護施設ではひどい目に遭ったらしい。つまりな、俺はあいつがすごい奴だということをここで言いたいわけだ。自分が与えられて当然のものを両親から受け取りもしなかったのに――今のあいつを見てみろ。自分の子でもない赤ん坊をあんなに可愛いがっちまって、それで幸せ満タンなんだと。俺はな、これは俺自身がどうこうとか、マキがどうこういう以前に、レオンにはそういう幸せが必要なんだということを、ここで言いたいわけだ」


 マキは、鯛のアクアパッツァの下ごしらえを終えると、次はペスカトーレを作りはじめた。こちらも、海老とイカとホタテの下ごしらえを済ませてしまえば、あとは大してすることはない。パスタを茹でたら、具材を順に入れていき、蒸し焼きにすればいいというそれだけだ。


「べつに俺は、レオンのためにおまえに犠牲になってくれと言ってるわけじゃない。というより、この場合は犠牲どころか、マキにとってもプラスなことが満載なわけだろ?しかも、性格の歪んだ、ハゲのずんぐりむっくりと永久に一緒にいろと言ってるわけでもない。相手はあの世界のレオン・ウォンだぞ。正直に言えよ。おまえだってあいつに言い寄られて悪い気はしてない……大体がそんなところだろ?」


 マキははーっと溜息を着くと、イライラしたように包丁を拭き、後ろの君貴のことを振り返った。


「君貴さん、あなたなんにもわかってないわよ!わたしのことなんて……」


「言いたいことがあるなら、今のうちに早く言ってくれ。レオンがこっちに戻ってきたら、俺たちはふたりとも黙り込むしかないんだからな」


「もう!勝手なんだから……そりゃあ、レオンは魅力的な人よ。この上もないくらい、家事も完璧にこなしてくれるし、貴史の面倒もよく見てくれるし……わたしが今思ってるのはね、そのうち彼がコンサート活動を再開したら、きっと今の生活は終わりになるっていうことなの。つまりね、今は世界のレオン・ウォンにとって、芸術家として羽休めをする期間なんじゃないかってこと。でもいずれ、こんな幸せな生活も終わるわ。でも、そのあともレオンが時々うちに来てくれて、貴史の顔でも見てくれたら嬉しいっていう、これはそういう話じゃないの」


「わかってないのは、おまえのほうだ」


(さっき俺の言ったこと、聞いてたか?)と、君貴のほうでも少しイライラしてきた。彼としても、マキとレオンが結ばれることを、諸手を挙げて賛成しているわけでは決してない。むしろその場合、この三人の中で一番犠牲となりダメージを負うのは自分なんだぞ、とすら思っていた。


「あいつはな……どちらかというともう、ピアノなんか辞めたいんだよ。ショパンの全集だの、モーツァルトのピアノソナタ全集だの、その他世界の一流オケとのピアノ協奏曲の録音だの――まあもう目ぼしいところは大体制覇したと言っていい。今のあいつを動かしてるのは、最終的にただの慈善心だけなんだよ。マキはまだ知らないだろうが、レオンとつきあうのは実際、結構大変なんだぞ。俺が一体何度あいつのマネージャーからコンサート前に呼びだされて、『あなたが来ないと彼はピアノを弾かないって言うんですう!』なんて、涙声で頼まれたと思う?」


 マキは一旦黙り込んだ。彼女にとって、君貴とレオンの関係というのは、恋人として熱烈に愛しあいつつ、ピアノという共通点ではこの上もなく尊敬しあっているのだろうという、そうしたイメージだったからだ。


「レオンが今、貴史に夢中で、気味が悪いくらい愛に溢れて見えるのが何故か、マキにわかるか?そりゃ、あいつがピアノから離れてるからさ。いや、自分ひとりで手慰み程度に弾く分には構わんだろうよ。だが、たとえば今から三週間後にコンサートがあるとするわな。そしたらもう、精神のピリピリ感がすごいんだ。ちょっとしたことでヒステリーを起こしたりなんだりな……それがあいつの天才としての秘密というか、表で見せてる謙遜な笑顔の裏にある顔ってことだ。だから、あいつとつきあってくのは結構大変だぞ。本人もピアノから離れてさえいれば、マキに当たったりなんだりしなくて済むって、俺で経験済みなだけによくわかってんだよ。だから、ここで俺が言いたいのはだな、あいつにこのままでいて欲しいと思ったら『あなたのピアノが聴きたいわ』なんて言葉は、絶対禁句だってことだ。もちろん一曲か二曲、おまえのオンボロピアノで弾いてくれってんならいい。ただ、『世界のレオン・ウォンは、絶対第一線に戻るべきよ』とか、『そのためなら、わたしがどんなことをしてでもレオンを支えるから』なんてことは、言わないほうが絶対いいって話なんだ」


「でも……それがわたしが今一番思ってることなのよ!ううん、わたしが支えるとかなんとか、そんな大それたことは思ってないけど……そもそも、こんなところで子育てでくすぶってていい人じゃないでしょう?それに、もし仮に何年かピアノは休むつもりなんだとしても――いずれ、貴史だって少しずつ大きくなって手がかからなくなるでしょうし、そしたらレオンだって自然と……」


 今度は、君貴が溜息を着く番だった。自分の言いたいことが、今までの会話でまるきり伝わってないらしい。


「つまりだな、あいつの今の一番の関心事は、マキと貴史のことなんだよ。だから……なんというか、マキにも大局で物を見て欲しいんだ。たとえば、レオン・ウォンという孤児として育ったひとりの男に、今何が一番大切で必要なのかってことと……将来的に、またあいつがピアノを弾きたくなったとして、マキと貴史からもらった愛のパワーっていうのか?何かそんなことがあって、あいつは人間としても一回り成長し、さらに素晴らしいピアノ弾きになる可能性だってある。どう言ったらいいか……ようするに、もし仮にレオンとおまえが寝て、マキにふたり目の子供が出来たとするな?で、その二番目の子も、貴史同様、あいつは盲目なくらい心から愛するだろう。そうすることでしかあいつの心にぽっかり空いてる穴は埋められないって話を、今俺はおまえにしているんだ」


「そんな……無理よ。わたしじゃレオンの相手になんてなれないわ。君貴さんくらいの人じゃないと……」


「いや、これは俺じゃ無理だったってことなんだ。俺は無神経にもあいつの前で、『ガキは大嫌いだ』なんて話をよくしてたもんだ。てっきりレオンのほうでもそうに違いないなんていう、的外れな思い込みからな。だが、あいつはたぶん、カールみたいなタイプの奴と結婚して、どこかから養子でももらって育てるべきだったんだ。そもそもレオンは、自分からゲイになったわけじゃないというか、何分あの美貌だからな。そういう性向にある奴から手を出されたってだけの話なんだ。たぶん、そんなことでもなかったら、普通に女と恋愛して、今ごろは何人女を泣かせたかわからない、ドン・ファンみたいになってたかもわからん」


 この時マキは一瞬、『ドン・ジョバンニ』のカタログの歌のことを思いだしたが、今はそんなことをあれこれ考えている場合ではない。


「ほら、マキはたぶん今、レオンと寝るだなんて、そんな軽はずみなことは出来ないとかなんとか思ってるんだろ?だから、この場合軽はずみでいいんだよ。で、俺はおまえらが何か言う前から、おそらくはそのことを感じとる。いいか、この三人の中で今、一番惨めで可哀想な奴は俺だぞ。だが、俺はそれがレオンのためになるなら、そういう犠牲を払ってもいいと言ってるんだ」


「そんな……でもわたし、絶対無理よ。っていうか、レオンが女性で、わたしが男だったら良かったんだわ。そしたらこんなコンプレックス、感じなくて済んだかもしれないのに……」


 この時、君貴は初めて、マキが弱りきったような、ぐったりした様子をしているのに気づいた。目尻にはうっすら涙さえ浮かんでいる。どうやら、彼女には週に六日働くこと以外にも、何か悩みがありそうだった。


「なんだ?言いたいことがあるんだったら、はっきり言え。俺はどんなひどい真実でも、単刀直入に言われるのには耐えられるが、遠まわしに色々言って当てっこクイズをしようなんていうのはまるで不向きなんでな」


「だって……レオンったら、女のわたしが嫉妬しちゃうくらい、綺麗すぎるんですもの。それで、わたしの知らない君貴さんのことも色々知ってるし……もちろんそんなの、つきあいが長い分当然だって言ったら当然なのかもしれないわ。だけど、あなたの子供を生んだりしたわたしより、レオンと君貴さんの絆のほうがより深いのよ。こんなこと、とても言いづらいんだけど……わたし、貴史のことを生んでから、前以上に醜くなったの」


 君貴には、マキの言っていることがすぐにはわからなかった。彼は普段から自分は頭の回転が速いほうだと自惚れているが、その彼をして、マキが何を言わんとしているのかがさっぱりわからない。


 対するマキはといえば、エプロンの裾で目尻から零れた涙を拭いてさえいる。


「なんだ?マキはべつにそんなに大して変わってないだろ?というより、前より綺麗になったんじゃないか?レオンも言ってたぞ。子供を生んでから前以上に艶っぽくなっただか、セクシーになっただかって。まあそりゃあ、東洋人の美人と西洋人の美人を比べたら、一般的には西洋人のほうが勝つのかもしれんが……レオンはな、普段あんまりキャーキャー言われすぎてるせいか、並の美人には目をくれることさえないんだぞ。そのレオンがそう言ってるってことは……」


「いいのよ。レオンは自分が綺麗だから、美に恵まれなかった人間に寛容だっていう、それだけなのよ。わたし、貴史のこと生んでから、おっぱいも張ってきて、確かに前よりちょっと大きくなったの。でも、あんまり形もよくないし、乳首の色も悪いし……ウエストだって、前はくびれてたのに、今はそのくびれもないしね。妊娠線のほうはクリームとマッサージでどうにか消えたけど、今も風呂上がりに鏡を見るたびに思うの。『子供を生むってようするに、女として老いるっていうことなんだわ』って。でもいいのよ。あの子さえいてくれたら、仮に君貴さんとレオンが元のような関係に戻ったとしても、貴史のことを生き甲斐にして、わたしのほうでは十分生きていけるものね」


「…………………」


 思ってもみなかった答えが返ってきて、君貴は一旦黙り込んだ。この場合、『いや、マキは綺麗だって!』だの、『俺たち以外にも言い寄ってこようとする男がいるのを忘れたのか?』だの言っても、おそらくはまるで無意味なのだろう。コンプレックスというのは、そういうものだ。


 というより、レオンがもしいなかったら――君貴にしても、マキのことをベッドに連れていって、そのことをわからせてやったに違いないのだが。

「だからね、わたし、レオンがゲイとかなんとかいうより……彼が仮にストレートだったとしても無理だと思うの。それで、仮にもしそうなったとして――彼、女の体にどん引きして終わるってだけなんじゃないかしら。なんていうか、貴史の面倒はこれからも見たいけど、わたしとは別れたいみたいな?そんなことになったら、ただお互い気まずくて嫌な思いをするってだけでしょ?だからわたし……このままなのが一番な気がするの。それで、レオンにはレオンで、超一流のピアニストとしての生き方があると思うし……」


「そうか。参ったな。まさか、マキがあいつを受け容れない理由が、そんなコンプレックス云々だったとは……必ずしも色男が最後に勝つとは限らないという、驚くべき展開だな。そのこと、あいつに話してもいいか?」


「ダメよ。そんなこと言ったら、レオンはますますわたしのことを可哀想がって、僕が抱いてあげなきゃみたいに思うかもしれないでしょ?いいのよ。きっと何もかもすべて、時間が解決してくれるわ。貴史がどんどん大きくなって物心もついてきたら、だんだんに何かが変わってくるんじゃないかと思うしね」


「…………………」


 君貴は再び黙り込んだ。レオンとのつきあいが、マキよりもずっと長いだけに、彼にはわかっている。この場合の時間の解決というのはおそらく――マキがレオンに口説き落とされるかほだされるか何かして、結局のところ彼に抱かれることになる……といった意味での解決であるとしか、彼には思えない。


「君貴さん、わたしがあなたとつきあいはじめた最初の頃、わたしが真っ先に何をしたか知ってる?」


「いや……」


 確か、自分のことをインターネットで調べて、阿藤君貴のCDをネットのオークションサイトで落札したとは聞いた気がするものの――おそらくそのことではないのだろう。


「脇毛をね、永久脱毛したの」


 君貴は今後こそ笑いそうになったが、どうにか堪えた。


「たぶんあの日も――脇毛をたまたま剃ってた日だったから、そう決断できたっていう部分もあった気がするのね。もしそうじゃなかったら……『そんなつもりでついて来たんじゃありませんっ!』とか言って逃げだしてたんじゃないかなっていうか」


「ああ、なるほど。男のほうがどんなにその気でも、女にはどうしても同意できない日があるってことだな。それも、相手の男が気に入らないとかいう以前に、彼女自身の問題として」


「そうなの。わたし、レオンのことはもちろん好きよ。ほんと、わたしなんかのために家のことも全部やってくれちゃって、天使みたいな人。でも、そんな天使みたいな心の綺麗な人と、あんなことやこんなことをしたりするなんて、とても想像できないっていうか……」


 ここで、君貴は流石に堪えきれなくなって、笑いだしてしまった。確かに、レオンは二年前の大晦日の夜以降、ヒステリックな面を彼女に見せてはいないのだろう。だが、今となっては君貴には別のことがなんだか心配になってきた。マキがもし本当にあれほどの男のことを拒むつもりだというなら――その時にこそ、受け容れてもらえないことを悲しみ、天使は意地の悪い面を見せはじめるかもしれなかったからだ。


「確かにそうかもな。そういう意味じゃおそらく、俺は適度に汚れていて薄汚く、純真なマキの相手としては手頃だったんだろうな。そういや脇毛のことでたった今、自分の初恋の相手のことを思いだしたよ」


「そんなことないわよ。君貴さんは……」


「いや、無駄なフォローはいい。それより、俺の初恋の女の話を聞けって。とにかく、すごい女だったんだ。俺の親父のやつ、フランスのオケの常任指揮者をやってて、小学生から中学生くらいの頃まで、夏休みはフランスの片田舎で別荘を借りて過ごしたことがあるんだ。おふくろも、その時期だけコンサートの仕事だのなんだの入れないで、家族水入らずで過ごすっていうような時間だった。でな、その頃俺のフランス語は実に拙かったが、日本から自分たちと同じ年ごろのガキめらがやって来たってことで、そこではちょっとした注目を浴びることになったんだ。で、俺に対してちょっとばかりキャーキャー言ってくる女の子もいて、俺はニキビ面のフランス小僧なんかに意地悪されたり、喧嘩を吹っかけられることがあった。その時、そのガキ大将みたいな奴をぶん殴って倒してくれたのが――マリオンって名前の女の子だったんだ」


「その子が、君貴さんの初恋の相手?」


 マキはくすりと笑って言った。レオンから、初めて交際した女性のことは聞いていたが、やはり彼は初恋の相手も女の子だったのだと、そう思う。

「そうだ。マリオン・ジュアン。今も俺がその衝撃とともに、なかなか忘れることの出来ない女だ。彼女はテコンドーを習ってて、そりゃあもう男顔負けの強さだった。ところが、俺が練習の様子を見にいってみると、最初は相手の少年を強烈なキックでほとんど倒しかかってたのに――俺が見てると気づくなり、マリオンは突然相手に攻撃を許し、最後にはもうよよよとばかり、倒れ込んでいた。その様子を見て、俺は思ったもんだ。彼女、俺に強いところを見られるのが嫌なんだなって。むしろ俺は、鋭い弁舌で、ミカのことからも俺を守ってくれた彼女を尊敬し、『一生マリオンについていこう』と思ってたくらいなのに……彼女もやっぱり女の子だったんだなと思った。その後、マリオンは防具なんかを外して俺のほうにやって来て、『明日デートしない?』と聞いてきた。俺は一も二もなくオッケーした。近所のガキ大将も怯えるほどの、あのマリオンとデート……俺はすっかり天にも昇る心地だった。ところがだな、彼女、翌日待ち合わせ場所にノースリーブのワンピースを着てきたんだ。で、脇のところからちょっと、脇毛がはみ出てた」

(なるほど。そこに繋がってくるのね)と思ったマキは、「それで、そのあとどうしたの?」と、微笑みつつ聞いた。


「俺は、とりあえず見て見ない振りをしようと思った。彼女だってたぶん、その日はおしとやかにして、手を大きく広げたりだのなんだの、しないつもりなんだろうし……そんなことを見咎めて色々言ったりするだなんて、小さい男のすることだと思った。ところがだな、この場合逆だったんだ。マリオンときたら、通りを歩いてて――人が向こうからやって来るたんびに、両手を上に大きく上げるんだ。しかも、そこからは十二かそこらの少女とはとても思えない、大人顔負けの縮れた脇毛がボーボーだったんだよ」


「えっ?どういうこと?」


 マキは笑っていいものかわからず、君貴に話の先を促した。


「つまりさ、俺とマリオンはその時、映画館とかちょっとしたシャレたカフェなんかのある場所へ向かう途中だったんだ。その間、人がまわりに誰もいない時、マリオンは両手を下げてて、向こうから人がやって来ると、自分の脇毛を見せびらかすために手を大きく上に上げるんだよ。まるで、伸びでもするみたいに。俺は度肝を抜かれるあまり、どうしていいかわからなかった。『もしかして、俺は何かを試されてるのか?』と思った。俺にはマリオンに、『やめなよ、そんなこと』と言う勇気さえなかったんだ。それで彼女が手旗信号よろしく、人と通りすがるたび、色々なポージングで脇毛を見せつけ続けるのを――黙って見ているしかなかった」


「周りの人の反応はどうだったの?」


 マキは笑いたいのを堪えてそう聞いた。おそらく、オチのほうはまだこの先にあるのだろう。


「それがな、全然なのさ。いい年したおっさんやおばさん、ちょっとイケてる姉ちゃんあんちゃんと通りすがっても、彼らは何も見なかったみたいに、極普通の態度なんだ。『フランス人と日本人では、脇毛に対する考え方が違うのか?』と、俺は疑問になったほどだった。そんなこんなで、外にテラス席のあるキャッフェのほうにマリオンと俺は辿り着き、彼女がやたら甘えた声で、「喉かわいたー」なんて言うので、俺は「なんでも奢るよ」って気前よく言った。それでな、その時の彼女の態度を見て、なんとなくわかったんだ。ああこりゃ、マリオンは日本の男がどの程度キンタマがでかいか試してるんだなと……だから、俺はもうそのあとは、とにかくひたすらマリオンの好きにさせておいた。カフェの店内で破廉恥にぶっちゅーとキスしてるカップルに向かって、自分の脇気を一生懸命アピールして見せようが、そのカップルがその後も気づかない振りをしてイチャイチャしてようが、ひたすらげらげら笑っていたというそれだけだ」


「それで、そのマリオンさんとの初恋のゆくえはどうなったの?」


 マキはくすくす笑いながら、一番気になるその結末について聞いた。


「結果として、親父がフランスのオケからアメリカにあるオケのほうへ移ることになって――中二くらいの夏休みに会って以来、それきりだな。だけどそのデートのあと、マリオンは俺の口に真ん前からチュッてキスして、『また明日もデートしましょ』って言った。次の日、マリオンは半袖のブラウスにジーンズという格好だった。結局、脇毛ごっこをマリオンがしたのはその日きりだったというわけだ……だからな、マキ。実際のところ、俺にとって脇毛なんかどうってこともないのさ。マキが貴史に授乳してるところだって何度も見てる。妊娠線は消えたっていうか、消したってことだったが、あったって俺は、それでおまえに対してがっかりなんてしない。それはたぶんレオンだって同じだろうな。マキがそのことを自分で理解するかしないかは別として」


「…………………」


(じゃあ、どうして抱いてくれないの?)とまでは、マキはあえて聞かなかった。もちろん、口に出してそう言えば、彼が自分の願いどおりにしてくれることは彼女にもわかっている。けれど、マキにとっては君貴のほうにそう強く望む気持ちがあって欲しいという、これはそうした話だった。


 そしてここで、レオンが貴史のことを抱っこして、テラスのほうから戻ってきた。貴史のほうでは、外の風に当たったり、土遊びをしたりしたせいか、とても上機嫌にきゃっきゃっと笑っている。


「何?一体なんの話?テラスのほうまで、ふたりが笑ってるのが聞こえたけど……」


「ああ、ちょっとな。俺の初恋の相手のマリオン・ジュアンの話をしてたところだ」


 マリオンの名前を聞いただけで、レオンもまた笑っていた。


「ああ、あの子だろ?君貴と大人のキスの仕方の研究をしてて、タコみたいに君貴の舌を吸ってきて、危うく窒息しそうになったっていう……」


「違う、違う!そっちの話じゃない。脇毛の話のほうを俺はしてたんだ。マキが俺とつきあいはじめた頃、まず脇毛を永久脱毛したなんて言うもんでな」


「もう!わたしのことはいいわよ。ようするにあれね。君貴さんはわたしに、マリオンさんみたいに脇毛のことすら気にしない、大きい女になれってことを言いたかったわけね」


「簡単につづめて言えば、まあそういうことだな」


 このあと、君貴とレオンとマキの三人は、声を合わせて笑った。マキがそろそろ昼食の調理を開始しようとすると、レオンが手を洗って、「僕がやるよ」と申し出る。


「ほら、マキは貴史の相手でもしてて。今日は鯛のアクアパッツァにペスカトーレね。君貴も好きだろ?」


「ああ。ところでレオン、マキがな、変なことを言うんだ。おまえが天使みたいにお綺麗なもんで、天使とセックスするような不敬なことは想像することも出来ないんだと」


「ちょっと!わたし、そんな言い方してないでしょ!」


 マキが顔を赤らめているのを見て、レオンは微笑った。実をいうと、『マキの本心をうまく聞きだしてやるから、貴史を連れて公園かどっかでも散歩してこい』と言われたのだが、『大抵、マキも一緒に来るっていうから、それだったらテラスで土いじりでもしてるよ』と答えたのだった。


「ふうん、そっか。僕はてっきり、マキが僕になびいてくれないのは、君貴のことをそれだけ愛してるってことなんだろうなとばかり思ってたんだけどな」


「俺の自惚れでなければ、そういう部分も多少なくはないんじゃないのか?とにかく俺は、昼飯を食ったら空港のほうへ向かう。あとのことは、レオンとマキのふたりで話しあえよ」


 ランチのひとときは、貴史がぐっすり眠っていたせいもあり、三人の大人たちにとって楽しい語らいの時間となった。君貴とレオンはワインを飲んでいたせいもあってか、終始陽気に笑ってばかりいたものだった。


 マキとしては、このまま楽しい時間がずっと続いて欲しいと願い、君貴にも帰って欲しくなかった。それに、君貴と話したことで――初めて彼女は今まで感じたことのないことに気づきはじめていた。もしレオンが、(自分は本当に女性は駄目なのか?)と確かめるためだけであったにしても、彼にとっては一度確認を取ってみないことには、もしかしたらそれ以上先に進めないといったことがあるのかもしれない。


(だからやっぱり、君貴さんはわたしの言いたかった肝心なところをわかってないのよ。もしわたしで仮に女の人でも大丈夫らしいとわかったとして……レオンが本当に子供を作ったりするのはたぶん、その次くらいに出来る女の人なんじゃないかしらっていう、そうしたことがね)


 けれど、飛行機の時間に間に合うよう身支度して帰ろうとする君貴に対して、この時もやはりマキは『帰らないで』とも『行かないで』とも言うことは出来なかった。せめてもう少しくらい、君貴が初めて出来た自分の子を可愛がってくれるような男であったとしたら――マキも、貴史のことを連れて彼についていくことを考えなくもないのだが、そんなことをすればただの重たい子連れ女と思われるという、それだけの話だったろう。


 君貴が玄関へ向かおうとすると、彼は「べつに見送りはいらないぞ」と言ったが、マキは廊下の彼の後ろをついていった。レオンは「じゃあまたね、パパ1号~!」と言って、貴史に手を振らせていたが、マキはどうしてもこの時、最後にもう一度君貴に縋りたかった。


「君貴さん、次はいつここに来れるの?」


「う~ん。そうだな……」


 いつもは聞かれない質問であるだけに、君貴は考え込んだ。彼のスケジュールについては、秘書の岡田が管理しており、今回のように東京を中継地にして寄ってもいいかどうかについては、正確なところを知っているのは彼のほうなのだ。


「あのね、そういう意味じゃないの。早く会いに来てってせっついてるっていうより……本当に無理なのよ、わたし。レオンともだなんて……」


 かといって、レオンがここにいて、完璧に家事をこなし、貴史の面倒も愛情こまやかに見てくれることに対し――マキには、その対価として支払えるものが他に何もないのだ。もちろん、レオンに出ていかれるのは寂しい。けれど、彼とそうした関係になってから君貴ともう一度会う時のことを思うと……自分たちの関係はこれが限界なのだと、マキは君貴の口からそれとなくレオンに言って欲しかった。


「ああ、そうか。そういうことなら……まあ、あいつはいじけてここから出ていくか何かするかもしれないが、突然出ていっても追いかけたりはしないことだ。で、まあそのまま出ていって帰ってこないパターンと、頭を冷やして戻ってくるパターンとがあるわな。とにかく、レオンがヒスってもおまえが慌てる必要はない。自分が悪いと思って罪悪感を覚える必要もないし……まあ、それでもまだ何かあって心配なら、俺に電話してこい」


「そんなことにならないといいんだけど……」


 重たい溜息を着くマキのことを、君貴は廊下の壁のほうへ追い込むと、かなり強引な形で彼女の唇にキスした。それから、「この続きはまた今度な」と言って、マキの体からすぐに離れる。


「もうっ!君貴さんはほんっとに勝手なんだからっ!!」


「いや、レオンとうまくいったと連絡が来たって、俺はべつに驚かんさ。むしろそのことで嫉妬して、逆に燃えるかもな」


 ――こうして、おかしな捨て科白を残して君貴は帰っていったわけだが、彼は最後、廊下に蘭の花がいくつも並んでいるのを見て、そちらの対処についても、多少考えなくもなかった。


 入江健がマキに近づいたのは、単なる偶然だという可能性のほうが高いだろうとは、君貴も思ってはいる。だがもし、自分の弱点を嗅ぎ回っているということなのであれば……何か手を打つ必要があったに違いない。


 ケン・イリエはハーバード大学デザイン大学院建築学科修了の、非常に優秀な建築家である。君貴にしても、一目置いている世界的ライバルのひとりといって過言でないと思っている。だが、仕事のキャリア等について、相手がこれまで手がけた建築物に興味を持ったことはあるにせよ、離婚歴があって前妻との間に娘がいるといったプライヴェートなことなどは、これまで一度も意識したことがなかった。


(まあ、そのうちどこかで顔を合わせる機会があったとして……『俺の女に手をだすな』と釘を刺すっていうのもおかしな話だ。そもそも、ケン・イリエのほうではマキが俺の内縁の妻だなんてこと自体、知らんのかもしれんのだしな)


 ところで、君貴と入江健はこの二週間後、フランスのリヨンであった国際コンペティションにて、顔を合わせるということになる。インターポールの事務総局が、リヨン市内に新たに建物を移築するとのことで、この国際コンペに参加する関係者がホテルのほうへ招かれ、パーティが開かれることになっていたのである。


 招かれた建築家の顔ぶれは、君貴も含め世界的に名を馳せている建築デザイナーばかりだったと言ってよい。言うまでもなく、インターポールというのは、世界各国の警察機関が連携している国際組織である。おそらくそのせいもあるのだろう、コンペに招聘された建築家の顔ぶれも、韓国、アルゼンチン、アゼルバイジャン、パラグアイ、サウジアラビア、エジプト、ナイジェリア……と、なかなかに多彩だった。君貴としては、自分以外の誰かのデザインが選ばれるのだとしても、まるで構わないとの考えの元、今回のコンペには参加していたものである。これは何も、彼が自分の建築デザインに自信がなかったからではない。誰が、というのか、どの国の建築家のデザインが選ばれるにせよ、単にその出来の良し・悪しだけが結果に結びつくわけでないことを、彼自身よく知っているためだった。


 何分、その時の各国の政治情勢や経済状態など、色々なことが絡んでくるため、仮にそのすべてのデザインを君貴が目を通すことが許されたとして――極端な話、ロシア人や中国人の建築家の出したデザインがどれほど素晴らしくとも採用されないということはありうる……というのは、誰もがわかる話だろう。そうした意味で、自分の提出した建築デザインが採用されなくとも、落ち込む必要はないと彼自身は考えていた。


 ところでこの日、ホテルの大広間で、インターポールの総務局長と君貴は少しばかり話し込むことになった。というのも、彼は日本人だったのだが、君貴の母であるピアニスト、阿藤耀子の大ファンだということだったからである。もちろん彼は、『もうあの鬼母とは絶縁状態で、何年も会ってないんですよ』といった話はおくびにも出さず、ただ適当に相槌を打ち、相手の話に調子を合わせておいた。


「阿藤さんのお母さんの弾くショパンはもう、天下一品ですからな。パリでコンサートが開かれる時などは、妻とともに必ず馳せ参じることにしているのですよ」


「それはどうも……母に次に会った時にでも、その嬉しいお言葉、必ず伝えておきましょう」


 このあと、インターポールではどのような仕事をしておられるのかといった質問をして、君貴は興味深く耳を傾けていたわけだが――君貴は話を半ばほども聞かぬうちから、インターポールという組織に幻滅の思いを抱きはじめていたといえる。というのも、ニュースなどで「インターポールは△□を国際指名手配した」と聞いたりすると、何やら格好よく聞こえるが、インターポールというのは結局、そうした情報交換や国際事務手続きに終始するだけの存在に過ぎないようだったからだ。


「まあ、アメリカのFBIが州境を越えて捜査活動するように、我々ももっと国境を越えて活動できるといいんですがねえ。昔からヨーロッパ統一警察(Europol)という、構想自体はあるんですよ。これはヨーロッパ全域で国境を越えて権限行使できる統合警察組織を設けようというものなのですが、いまだに実現していませんね。やっぱり、各国の法制度が異なることと、その国家の主権の下、警察組織というのは機能しているものですからな。また仮にユーロポールというものが実現して、生え抜きのエリートばかりが捜査官として揃ったにしても……行った先の地元警察との縄張り争いだなんだ、色々とまた別の問題がでてくるでしょうしな」


「なるほど。こう言ってはなんですが、映画のような面白いお話ですね。国境を越えた麻薬の売買、美術品の盗難、銃器類の運搬、マネーロンダリングやサイバー犯罪、国際テロ事件などなど……ICPOが犯罪データバンクとしても、非常に重要な機関であることがよくわかります。また、損得を抜きにした相互扶助の善意の精神がいかに世界平和の実現のために必要かということも……」


「そうなのです。先ほどもご説明しましたとおり、ICPOの加盟国には、NCB(国家中央事務局)という部署がありまして、普段はこの部署が国際犯罪の情報交換などを行っています。日本では、その事務は警察庁の組織犯罪対策部国際捜査管理官が所轄しているのですが……」


 このあと、総務局長は国際犯罪と戦うにあたり、国際公務員である職員たちの品位、あるいは国を代表する警察機関の人間としての誇りと善意がいかに大切かについて説明しようとしたのだが――他の幾人もの招待客に取り囲まれてしまったせいもあり、一旦この話は中断されることになった。


 君貴は特段、自分の母のファンだという総務局長の話の続きは気にならなかったかもしれない。そこで、総務局長を囲む招待客らの輪から離れると、シャンパンを片手に思わず溜息を洩らした。


(まあそりゃ、MI6におけるジェームズ・ボンド、あるいは銭形警部のような国際捜査官がいるわけじゃないっていうのは知ってたが、直接話を聞いてみると、インターポールっていうのは諜報好きがまったくもって落胆せざるをえない組織だということだな……)


 何より、インターポールという組織は、あくまで人権を基礎とし、政治・宗教・人種に加え、軍事に関わる案件については制限が加えられている。だが、こうした憲章第3条に抵触する要件であっても、たとえば国際テロ犯の国境を越えた犯罪歴や、その人物像といった情報についてであれば、ICPOの犯罪データバンクにも詳細なものがあったに違いない。そして、こうした犯罪に関して必要な情報については惜しみなく各国のNCB(国家中央事務局)を通して提供もしようが、政治が絡んだ場合には外交ルートが主体となる場合が多く、その他宗教や人種、軍事に関わる案件に関しても――インターポールは扱う案件の適用外であるとして、基本的に動くことはない。


 たとえば、どこかの国で他国の要人を人質とした、誘拐引きこもり事件が起きたとしよう。こうした場合、その要人が政治家か、それとも軍人か、あるいは国民的に知名度の高い有名人か……などによっても異なってくるが、政治や戦争といった軍事問題、あるいは宗教問題や人種問題が関わってくるなら、原則としてICPOは主体として動いて指揮を執ることはない。だが無論、事件が起きた国の国家警察機関、NCBの職員とは情報交換その他の点で援助を惜しむことはなく、人質救助に至るまで最大限協力は続けるといった、そうしたスタンスを取るということである。


 だが、なんといっても映画的なイメージとしては、政治や宗教や人種、戦争といった軍事問題の枠さえ越えて、事件を解決してゆくスーパー捜査官を誰もが期待とともに連想してしまうものなのだろう。ICPO、インターポールという、正義の名の下に設立されし、この国際警察機関には……。


 そして、君貴がシャンパン片手に、これまでの間にICPOが解決へと導いた比較的大きな国際事件のことに関し、思いを馳せていた時のことである。同じようにシャンパングラスを手にした、エルメネジルド・ゼニアのスーツを着た男が、彼のそば近くまで優雅な足取りで近づいてきたのである。


「やはり、芸能一家に生まれつくと、何かと有利なのでしょうな」


 引き続き、英語ではなく日本語で話しかけられ、君貴は驚いた。まわりの人々は大抵が英語かフランス語で話していた、そのせいである。


「……どういう意味だ?」


 相手が入江健であることがわかるなり、君貴は露骨に顔を歪めた。マキのことが一瞬脳裏をよぎるが、今はまだ軽はずみなことを言うべき時ではない。


「いえ、そのままの意味ですよ。お父上は一流の指揮者、お母上は一流のピアニスト、姉君もまたプロのピアニストで、弟君も同じく一流のヴァイオリニストときたら……クラシック音楽好きの人々が集まるコンペでは、大変有利なのではないかと申し上げているだけです」


 この瞬間、君貴の背中に虫唾が走った。マキは入江氏のことを評して「普通のおじさん」と表現していたが、入江健は四十五歳という年齢の男性としては、なかなかダンディでハンサムだったというべきだろう。もっとも、マキの場合はそもそも二十歳も年が離れているわけだから、「(異性として意識することはない)普通のおじさん」という、そうした意味だったのかもしれないが……。


(こいつ、周囲に日本語を理解する奴がいないのをいいことに……というより、こんなことを口にしてくるあたりからして、よっぽど腹に一物が溜まってるってことだな。慇懃無礼にもほどがある)


「俺の母親の阿藤耀子は、確かに一流のピアニストなのかもな。だが姉と弟に関しては、せいぜいのところを言って、親のセブンライツを受けた二流の音楽家なんじゃないのかね。とりあえず、世間一般ではそんな話だがな」


「またまた、ご謙遜を……単に、ご自分が音楽の道で挫折されたから、お姉さんや弟さんのことが羨ましいというだけなのでは?」


(こいつ……!やっぱりあれだな。あの気味の悪い蘭の花攻撃は、俺に対する間接的な嫌がらせか)


「ハハハッ!そう腹黒いと、嫁さんにも逃げられるわけだよな。なんだ?次は随分若い花屋の店員にちょっかいを出しているようだが」


 君貴がズバリ核心を突いたのには理由がある。入江健の前妻はコロンビア大卒の才女である。そうしたある種のブランド指向を持つ男が、小さな花屋の店員など、愛人にしたいという以外で用があるとは思えなかったというそのためだ。


「あなたの内縁の奥さんのことですか?最近、金髪に青い瞳の男性がよく出入りしているようですが……間男にだけはなりたくないものですな」


 ここで、君貴は切れた。大切なコンペがあるのは明日だ――そのことを思えば、トラブルを起こすのは賢い選択ではない。だが、君貴は先ほど総務局長の話を聞いて興醒めしたせいもあり、もはや自分の建築案が選ばれなくとも、まるで構わないといった気持ちになっていたのである。


「ハッ!くっだらねえ嫉妬で、人の身辺かぎまわりやがって……上品な言葉遣いの薄汚ねえ犬野郎が。てめえのデザインが選ばれねえのはな、たぶん総合力で何かが頭一個分足りないんだろうよ。今の陰険なやり口と慇懃無礼な態度で、そのことがよくわかったぜ!」


 そう吐き捨てると、君貴はシャンパングラスの中身をケン・イリエの顔とエルメネジルド・ゼニアのスーツにぶちまけてやった。それから誰になんの断りもなく、そのままホテルの大広間を出、ロビーを抜け、エントランス前でタクシーを拾った。彼の後ろを秘書の岡田が慌てたように追いかけてくる。


「遅かったな。何してた?」


「何してたって、仕事に決まってるじゃないですか!インターポールの事務総長や副総裁にゴマすりまくってたっていうのに……これでいくと、徒労に終わりそうですよ」


 君貴は運転手に、ポール・ボキューズのレストランへ行くよう頼んだ。そこで美味しい物でも食べれば、岡田の徒労も少しは報われるだろうと思ってのことである。


「まあ、今回のことが仮に俺の悪評に繋がって、暫く仕事が来なかったとしてもいい。とりあえず、ひとつのことがはっきりわかっただけでも、五日分の宿便が一気に出たくらいのスッキリ感があったからな」


「なんのことですか?」


 早速とばかり、岡田はスマートフォンでスケジュールをチェックしている。もし明日、コンペに参加しないのだとしても、理由を説明し、とにかく関係者各位に平謝りに謝らなくてはならない。


「俺の内縁の妻をあいつが誘惑しようとしてたってことさ。まったく、薄汚ねえ根性の尻なめクソ野郎だ!あの廊下に並んだ趣味の悪い蘭の花は全部、マキに処分させよう。あいつ、あんな程度のプレゼントで、俺のマキがよろめくような安い女だとでも思ったってのか?」


 意味がわからないながらも、岡田もようやく(ははーん)と理解できてきた。入江健→マキさんに蘭の花を贈って口説こうとしたらしい→自分に対する嫌がらせとわかり、ボスはイライラ→尻なめクソ野郎はゼニアの高級スーツにシャンパンを食らう……おそらくはそんなところだったのだろう。


「まあ、今回のコンペは、建築デザインを提出した時点で仮に選ばれなかったとしても、その分のお金くらいは出ますが……明日、誰かパリから呼んで、代わりにコンペに参加させますか?」


「いや、いい。ケン・イリエの奴の策略にはまった俺がバカだったというそれだけの話だ。なんにしても、あいつだってあれでクライアントの心証のほうは悪くなっただろうからな。俺としては、入江健の奴のデザインさえ選ばれなけりゃそれでいい」


 このあと、ポール・ボキューズの店で食事をし、すっかり気分のよくなった君貴は、翌日にはパリへ向かった。アール・ヌーヴォーとデコ建築のホテルを新しくショッピングセンターに生まれ変わらせるというプロジェクトに携わっているのだが、こちらの進捗状況のほうは概ね順調だった。とはいえ、そのうち何やかや当初のデザイン案では配管がどうの、電気工事がこうのと、必ずどこかで文句が出るだろうとは予期していたものの。


 また、この数日後――岡田はインターポールの建築デザイン案が阿藤君貴に決まったとの連絡を受け、携帯を切るなり快哉を叫ぶということになる。どうやら、入江健は自ら辞退したらしいのだが、君貴のデザイン案はテロ攻撃を受けた場合を想定して設計されたものであったため、その点が最も評価された点らしかった。もっとも、君貴は外観デザインについては、オスマン式建築にインスピレーションを得ていたため、その点は多少皮肉と言えなくもなかったが。


「だがまあ、これから細かい点について詰めていかなきゃならないだろうな。今の総ガラス張りの鏡のようなインターポールの建物は、一度中を見学させてもらったが、総務局、連絡・犯罪情報局、法務局、技術支援局……といったように分かれてる。事務総長の執務室と公邸のほうが最上階に設けられるだろうことに変わりはないだろうが、前以上に快適なオフィスで仕事をしてもらうためには、彼らの意見をよくよく聞かなきゃならんだろうし。何分、世界中の警察のトップクラスのエリートしか、インターポールには勤務なんて出来ないわけだからな……」


「まあ、なんにしても明日、もう一度リヨンへ飛んで、まずは直接詫びを入れるとしましょう!」


「そうだな」


 またひとつ、長期に渡る案件を抱えることになり――君貴は我知らず溜息を着いた。この間の夜も考えていたのだが、『内縁の妻』などという言葉は、口に出して言ってみると、なんとも女性を馬鹿にしている感じがした。とはいえ、君貴としては「仮にマキと結婚したところで、長い時間を一緒に過ごすことが出来ない以上……今と同じく結婚生活などないも同然の状況であることに変わりはない」としか思えないのだった。そこへ、「女と結婚するくらいなら、おまえと結婚する」と約束していたレオンが、マキと彼女の息子にすっかりメロメロになっているという今の状態がある。


 君貴は、秘書の岡田と仕事の打ち合わせののち、彼がホテルの部屋から出ていくと――まずはレオンに電話することにした。ケン・イリエの不気味な蘭攻撃については一応ケリがついたと、教えてやらねばなるまいと思ってのことだった。


『ああ、マキ?まだ仕事で帰ってきてないよ』


「パリと東京は、今七時間の時差があるんだっけか……まあ、それはどうでもいいとして、入江健の奴とは決着がついたよ。やっぱりあいつは俺に対する嫉妬か腹立ちから、マキが俺の内縁の妻だと突き止めて――彼女のことをなんとかしたかったのかもしれん。単にもともと好みのタイプだったのかとか、そういうことはよくわからん。とにかく、あいつには『人の身辺を嗅ぎ回る、薄汚ねえ犬野郎め!』と言ってシャンパンをぶっかけてやったよ」


『へええ……なんだか、劇的な展開だね。じゃあまあ、その点についてはもう心配しなくていいのかな。蘭の花は送られてこなくなったとはいえ、たまにマキが残業で遅くなったりすると、やっぱり心配でね。実はいつもGPSで追跡してるんだー。そしたら、そろそろ駅に到着したなとか、色々わかってやきもきせずに済むだろ?あっ、でもこのこと、マキには絶対言っちゃダメだよ。ストーカーの金髪ブタ野郎とか言われて、ここから追い出されたりしたら困るもん』


「まあ、マキはレオンが『ケン・イリエのこともあるし、マキが心配だったんだ』って言いさえすれば、許してくれるさ。それより、その後どうした?うまくいったか?」


 君貴は内心で溜息を着いた。ふたりが最終的にそうした関係になるのだとしたら、むしろ早くそうなって欲しかった。そうすれば、自分は仕事にだけ集中することが出来ると、そう思っていた。


『んー……まあ、僕は気長に待つつもりではいるんだ。マキの心の準備が出来るまでね。あとマキ、次に君貴が来たら、ふたり目のことを彼とも話しあいたいとかって。おまえ、帰り際にマキに何か言ったんだろ?』


「ああ。マキがあんまり可愛いことを最後に言ったもんだから……次に来た時には子作りしようみたいな意味のことは言ったさ。けど、それは単なるマキの逃げみたいなもんだ。レオンが次の女に行くための自分は中継点で終わるとか、何かそんなふうに思ってんだよ。つまり、そんなことでおまえと気まずくなりたくないんだとさ」


『えーっ!?なんだよ、それ。僕なんか毎日、禁欲生活を耐え忍んでるっていうのに。この間もさ、マキがバスルームから出てきたところに行きあっちゃって、あれはほんとヤバかったよ。むしろマキのほうが「あっそう」みたいな、素っ気ない感じなんだ。君貴からもそのうち遠まわしに、僕が理性をすり減らしてるとでも言っておいて。あと、僕のほうでは君貴が帰ってきた時にマキとホテルかどっかへ行ったとしても気にしないし、貴史と大人しくお留守番ってことで全然構わないんだからさ』


「それが、おまえと俺とマキの違いってやつだよ。あいつはたぶん、ひとりの男に対して身持ちの堅い貞淑な女だってことにしておきたいんだろうな。まあ、もし何か進展したら連絡してくれ。何分、レオンとマキがうまくいったとしたら、俺は暫く仕事に集中したいと思ってるもんでな」


『どうだろ。僕も一生懸命がんばってるんだけどさあ。マネージャーが毎日電話かけてきて、何がどうでも僕に仕事させようとするんだよね。あいつ、もしかしてマゾなのかな。自分で仕事取ってきて、僕が渋々受けて、でも渋々だからいつもブツブツ文句言ったりなんだりで、僕の我が儘にうんざりさせられるってだけなのにさ』


「まったく、ご愁傷さまだな」


 レオンとアメリカ人マネージャーのルイス・コーディの関係性がどのようなものかを知っている君貴は笑った。(確かにあいつにはマゾヒストの気があるんだろうな)と、ほぼそう確信しているくらいだった。


『君貴は、どう思う?ほら、僕とマキの関係性ってなんか逆転してるだろ?彼女のほうが週に六日、へとへとになるまで働いて、僕のほうが家事や育児をほとんどやってるっていう……マキにとってはそういう男はただ女々しいだけで、やっぱり君貴みたいにバリバリ働いてる男のほうに頼り甲斐を感じるってことなのかなあ』


「それは関係ないよ。マキはただ、経済的なことで俺に頼りきりになるのが嫌だから働いてるっていうそれだけなんじゃないか?住宅費がかからないだけで十分すぎるくらい毎月貯金も出来るとか、そんなふうにしか言わない女だからな。俺はそばにいてやれない分、マキがジャクリーン・ケネディばりに浪費してようと、頬をこけさせるだけで、それ以上何も言えないとしか思ってないんだがな」


『なんだよ、それ!』


 今度は、レオンのほうが愉快そうに笑った。


『まあ、ジャッキーも、ケネディが浮気性だったから、お金を浪費することでしか、心にぽっかり空いた穴を埋められなかったんだろうけど……マキはそういうタイプの女じゃないよ。彼女、色んな柄のタンガリー・シャツを持ってるだろ?で、どこそこで半額だったとか言って、大体似たようなのをまた買ってくるんだよ。千五百円とかそこらでさ。あとはそれにジーンズを合わせて毎日出勤してくって感じ。カバンは穴が開くまで同じのを使ってるし、靴も1,980円のが半額だったとかいうスニーカーを洗って履き続けてるんだからな。僕さ、よっぽどそういうの全部捨てちゃって、新しく買ってあげようかと思うんだけど……やっぱり、余計なお世話だと思う?』


「そうだろうな。あいつは自分が貧乏人だってことに、誇りを持ってるんだろうよ。じゃなきゃとっくに俺のほうで『こういうものを着ろ!』と言って着替えさせてるさ。だがまあ、妊娠してマタニティ・ウェアを着るようになってからは、暑い日はワンピースを着たりもするようになったな。まあ、それだって全部、ファストファッションの安物だがな」


『そっかー。僕も変なこと強制して、マキに嫌われたくないからなー。僕は今のところどうにかピアノや仕事から逃げてるけど……ほんとはさ、もしマキと結婚できたら、色々ラクになるんじゃないかと思ってたりするんだ。そしたら、暫く子育てや何かでコンサート活動その他についてはお休みしてるってことで、十分通るだろ』


「そりゃ、マキには別の意味で過酷で耐え切れないかもな。あのレオンさまがご結婚ってことになったら、相手はどんな女性だのなんだの、マスコミに追われることになるだろ?あとは、おまえの狂信的なファンにある日突然刺されるとか……」


『やめてくれよ!あーもう、わかった。結局僕は君貴ともマキとも結婚できない運命なんだろうな。でもそのかわり、今すごく幸せなんだよ。貴史はちょっと機嫌が悪かろうと、オムツにうんちしてようとなんだろうと可愛いしさー、マキは僕のやることなすこと全部やたら有難がってくれて、すっごく優しくしてくれるしさ。だから、そういうのをつい勘違いしちゃうんだよなー。マキもきっと僕と同じ気持ちなんじゃないかな、みたいに』


「まあ、がんばれ。マキには理解できんだろうが、俺はレオンとマキがうまくいって結婚しても構わないと思ってる。俺は建築っていう仕事と結婚してるようなもんだし、それはこれからも変わらないだろうからな」


『あ、でも僕も、マキには言っておいたよ。「君貴は君貴なりに、マキのことを間違いなく愛してる」みたいに』


「俺のことはいいから、おまえは自分のことだけ考えろ。じゃ、そろそろ仕事しなきゃならんから、切るぞ」


 ――君貴は電話を切ったあと、珍しく重い溜息を着いた。君貴は、マキと同じくらいレオンのことも愛していた。そして、それは彼のほうでも同じなのだろうとわかっている。ただ、君貴にもマキのことはわからなかった。もちろん、自分の体に対するコンプレックスがレオンを拒む最後の防波堤になっているのだとしても……一度その部分を乗り越えてさえしまえば、レオンとの間に第二子が出来るのは時間の問題だろう。


 確かに、三人の間でふたりがうまくいき、ひとりが締め出されるのだとしても――それが自分であることに、何故か君貴は安堵してもいたのである。君貴はこれまで、レオンの人生にも、マキの人生に対しても自分は責任があると心のどこかで思っていた。だが、このふたりの心から愛する人間を同時に幸せにすることは不可能だと思っていただけに……マキとレオンが男女としての関係を持ち、幸せになるのだとしたら、ある意味その責任から彼は解放されるということになるだろう。


 もちろん、だからとて、胸が痛まないというわけではない。寂しいと感じる気持ちもある。だが、君貴には仕事があった。彼は毎日多忙に過ごしてさえいれば――どんなことに対しても(なんとかなる。どうにか感情を処理して前に進める)自分を知っていた。けれど、こうなってみて初めて、『建築という仕事がいかほどのものか』といったようにも、初めて思っていたのである。


 君貴は、建築のデザインをし、それが採用されたとして『じゃ、あとは任せますんで、さようなら』とは言えない仕事の方式を自分自身に課している。ゆえに、『ここをこういうふうに変えて欲しい』、『やっぱりああして欲しい、こうして欲しい』といったオーナーやクライアントの意見を取り入れつつ、現実の工事現場のほうとも折衝し、すべての人間を納得させる方向性で物事を進めていかなくてはならないのだった。


 正直、彼自身、自分でも(よくこんなことやってるもんだな、俺も)と、時々失笑してしまうことがある。何分、何かひとつの建物が建て上がる際には、馬鹿高い金がかかるだけに――そうした利権といったものを取り巻く環境に敏感な人間が、より多く利益を得るためだけに、君貴にとっての「純粋な仕事にして、芸術作品」にあれこれ横槍を入れてくることなどしょっちゅうなのである。


 だが、今では君貴も、あのままプロのピアニストにならなくて自分は良かったのだろう……と思うことがひとつだけあった。もちろんピアニストにも、オーケストラとの協奏曲など、『ひとつの曲を一緒に作り上げていく』という過程はあるにせよ――建築というのはあまりにも大人数の人間が関わるゆえに、「自分ひとりの力」などというものは極めて小さく、人同士の協力なくしては何もなしえないということ……そのことを身をもって学べたということが、彼にとっては「ひとりの力によってピアノを弾く」ことよりも、人間として大きな器として成長する機会となることだった。


(まあ、元の性格がなんでもひとりでやるのが好きな、人と協力できない器の小さい人間だったという、本人がそのことに気づいてさえいなかったということだからな、俺の場合……)


 建築現場には、女性も多少出入りはするにせよ、基本的にはいまだに男の世界、男が主体となっている場所である。君貴は大学時代の夏休み、建築現場で実際にアルバイトしたことがあるが――現場の基礎工事というものが、あれほど体力的にキツく、大変なものだとは思ってもみなかったものである。毎日、朝から晩まで働き、家に帰ればただ寝るというだけの生活……そんな時、君貴がその後どうしたかと、母親としてやはり心配だったのだろう。ボストンでコンサートのあった耀子が様子を見にきたことがある。


 おそらくその時彼女は、信じられない光景を目の当たりにして驚いたに違いない。MITの建築科で学んでいることは父親経由で聞いていたとはいえ――息子が灰色の作業着姿で、全体的に薄汚れて見えるだけでなく、そのピアノを弾くはずの手もまた黒ずみ、爪の中まで汚れていたとすれば、無理もないことだったろう。


 しかもこの時、建築現場の仲間たちと、彼が話していた内容も悪かった。君貴はその工事現場において、冗談で『先生』と呼ばれていた。今はアルバイトの下っ端でも、いずれ大学を卒業した頃には自分たちを顎でこき使うんだろうな……よう先生、といったような意味で、『先生』と呼ばれ、からかわれていた。


『先生は、女のほうはどうなんだい?その顔じゃ、さぞやおモテになることじゃないのかね』


『いや、二年くらい前に振られて以来、もう女はこりごりだと思って……』


 ここで、5~6人の男たちの間から、ヒュウヒュウと口笛が吹かれた。君貴自身は、こうした多少馬鹿にされるような空気が、決して嫌いではなかったのだ。むしろ、慣れてくると居心地いいくらいだった。何より、女がいないという職場環境が、彼にとっては楽しいものだったといえる。現場の他の作業員のほぼ全員が、その逆のことを考えていたにも関わらず。


『なんだね?先生くらいの色男でも、振られることがおありになるのかい?』


『そりゃ、その女の頭がおかしかったんじゃないか?俺たちの先生を振るだなんて、たぶん脳味噌にキノコでも生えてたんだろうよ』


『それで、何が原因で振られたのか、俺たちの後学のために教えといてくれませんかね、先生』


『その子がヴァージンじゃなかったから、俺のほうからフッたのさ』


 君貴ももう、自分が何をどう言えば受けるか、わかっていた。それで、そんな言い方をしたのだが――思ったとおり、その場にいた全員が大爆笑していたものである。


 もっとも、母親がそんな会話を聞いているとあらかじめ知っていたならば、君貴もそんなことを言ったりはしなかったろう。建設現場の人間=体力自慢の荒くれ者……といったイメージが強いかもしれないが、実際は見た目はどうあれ、気のいいおじさん・兄ちゃん連中ばかりだったのだが――『適度に経験のある女のほうが俺は好きだね』、『先生にとっちゃ、結婚する時にはヴァージンっていうのは絶対条件なのかい?』だのと、彼らが引き続き煙草やコーヒー片手にしゃべり続けていた時のことだった。


『君貴っ!あんた、こんなところで何してるのっ!?』


 突然、上品な雰囲気の、ブランド物の服に身を固めた女性が間に割り込んできたもので、一同は一瞬唖然としていたものだ。それでも、君貴が(あ~もう、やめてくれ……)といった顔で天を仰いでいるのを見、誰もが彼女と彼の関係性について理解したようだった。


 結局このあと、工事現場の外で、君貴は自分の母親と大喧嘩した。『こんな小汚いアルバイトでもしないと、生活していけないのっ!?』といったことにはじまり、『あんたはピアニストになるんでしょ?それなのに、その泥で汚れたような手は一体なんなのよっ』、『母さん、あんたにこんな惨めな仕事をさせるために、今まで苦労して育ててきたんじゃないわっ!』などなど、前から、顔を合わせたとすればそう言うだろうと君貴にはわかっていた言葉のオンパレードだった。


 対する君貴も負けてはいなかった。『俺は人間を職業で差別するような奴は嫌いだ』ということにはじまり、『そりゃあんたは、ここまで育てたあんたのコピーのようなピアノの才能が惜しいのかもしれない。だが、ピアノのために家で料理もしないような女の生き方がそんなに偉いのか!?』、『これが本当の人間の労働ってもんだ。一生そんなことも知らずにピアノだけ弾いてる生活なんか、俺はもう真っ平ごめんなんだよっ!!』――最後にトドメとして、『とにかく、俺はあんたが北極の氷を斧で全部打ち砕こうがどうしようが、もうピアニストにはならない。そのことがわかったら、とっとと帰ってくれ!!』……この時の、母・耀子が浮かべた顔の表情を、君貴はこれから先も決して忘れることはないだろう。


 いや、無表情というのではなく、顔から表情がなくなるというのは、ああした顔のことを言うのだろうと思った。耀子はショックのあまり蒼白となり、次の瞬間には震えだしていた。まだ7月のことだったが、彼女はもしかしたら君貴の言葉通り、心は北極にいたのかもしれない。


『あんたかなんか、もうわたしの子じゃないわ……うちの実家の敷居を跨ぐようなことは、今後絶対許しませんからねっ!!』


 今度は、流石に君貴も言い返す気になれなかった。自分の母親があまりにも憐れだったし、すでに言い過ぎたと思い、反省してもいたからである。


 こうして、実際には性格的によく似たこの親子は、仲違いして以降、二度と会ってはいない。もっとも、父親からは時折連絡があったし、姉の美夏の夫の安藤修司とは、君貴は昔から仲が良かった。また、弟とも電話で話すことがあるため――家族全員と絶縁状態というわけではなかったにせよ、君貴は自分の母親とはすでに十年以上にも渡って口も聞いていなかったのだ。


 けれど、厄介なことには、一度自分に子供が出来てみると……以前から『自分は親不孝な人間だ』との思いはあったものの、よりその反省の気持ちが深まり、貴史の顔を見るたび、君貴は何故か母親のことを考える機会が多くなった。とりあえず、君貴は自分の息子にピアノを教え込むつもりはない。教養程度に教えれば十分だろう、といったように思っているが、阿藤家には音楽の分野で傑出した才能を持つ人間が多かったため、遺伝的な意味で(それで本当にいいのだろうか)と迷う部分もあった。


『君貴のお母さんはすごいね』


 阿藤耀子のピアノ・リサイタルを見てきたあとで、レオンはそう言っていたことがある。


『日本で大きなピアノの賞を取った時……天才美少女ピアニストなんて騒がれてたのに、すぐヨーロッパに渡っちゃったんだってね。ほら、耀子さんは背も低くて、日本人の中でも小柄なほうじゃない?だから、世界に通用するくらいの力強い演奏技術を身に着けるために、一からピアノの弾き方をそのあと矯正したんだよ。血を吐くような、地獄の苦しみだったろうね。ほら、一度ついたコンクールで賞を獲るためのピアノの弾き方っていうのは、早々簡単に直せるものじゃないからさ』


 他に、『その頃、君貴のお父さんもヨーロッパにいて、耀子さんがパリ、お父さんがイタリアにいたりすると――大体その真ん中あたりで落ち合ってデートとかしてたんだって』などと、君貴すら知らないことを言ったため、彼は当然『何故そんなことを知ってる?おふくろから聞いたのか?』と尋ねた。実はレオン・ウォンと阿藤耀子は音楽雑誌の対談などを通して知りあい、今ではお互いのメールアドレスまで知っているくらいの仲だったのである。


『それはね、耀子さんの本を読んだからだよ。って言っても、耀子さんが書いたわけじゃなくて、インタビューで聞いたものを本の著者の人があとからまとめたみたいな感じのものだけどね。そういえば、君貴のことも書いてあったよ。三人いる子供の中で一番才能があると思ったから、一番厳しくピアノを教えこんだって。でも、それが仇になってピアノをやめた時は残念に思ったけど、今は建築家の息子を誇りに思ってる……みたいな内容だったよ』


 もちろん、君貴にはわかっている。レオンはおそらく、『小さい時にお母さんが死んじゃった僕より、今も生きてる、あんなに素晴らしいお母さんがいるだけでも君貴は幸せなんじゃない?』と、遠まわしにそう言いたかったのだろう。


 姉の美夏には、現在ふたりの男の子がおり、弟の崇にも、よく出来た嫁との間に三人も子供がいる――だから、今孫がもうひとり増えたところで、母は大して喜びもすまい……君貴はそう思っていた。だがもし、姉の美夏も弟の崇も音楽家として芸術に身をすりへらすあまり、今も結婚していないか、あるいは結婚していたにせよ、子供がなかったとすれば――十年以上も昔に喧嘩したことも忘れ、自分は両親に孫の姿を見せにいったろうとは、君貴にしても思うのだ。


(そして、その時には俺も、『二度と実家の敷居は跨ぐなと言ったでしょ!』と言われようとどうしようと、『赤ん坊の顔に免じて許せや』といったようにしか思わなかっただろうな……)


 レオンの言っていたとおり、君貴は彼なりにマキのことを愛していた。貴史と彼女のことを連れて、一度両親に会わせるべきかと考えたこともある。若かった頃は特に、『あのままプロのピアニストになるより、自分は絶対有名な建築家になってやるぞ!』くらいの思い上がった気持ちというのは、心のどこかにあったに違いない。けれど、最近君貴が思うのは全然別のことだった。実の息子に会ってもろくに相手すらしないにも関わらず、『自分の子が生まれた』ということは、君貴をして彼の人生や生き方そのものに、大きな影響を与えることだったのである。


 たとえば、今から二十年して貴史が大きくなった頃……どんな景観の街並みなら、彼が「理想的」と感じたり、「幸せ」を覚えたりするだろうと、君貴は最近、かなり先の未来から現在を見て、都市計画的なものを俯瞰的に考えることさえあった。そして、そんなことを考えながら、今から五年後、イギリスで開催される予定の<SFパビリオン>の建物の設計をし――それからマキのことを思った。


 君貴は近ごろ、仕事で疲れて帰ってくると、単に自分が癒しと安らぎが欲しいと感じているだけであることに気づいていた。それから、(自分も年をとったってことなんだろうな)と感じる。ほんの三年ほど前、マキと出会った頃、彼は三十七歳の独身男性が大抵そうであるように、自分はまだ二十七くらいだ……といった年齢感覚で生きていた気がする。けれど、子供が出来た途端、実年齢がイコール本当にそのままの年齢、といったように追いついてしまったのである。


 それから、今ごろになって(ケン・イリエにも悪かったな)と、君貴はふと思った。マキのことを利用しようとした彼のことは許せないが、それでも納得した形で仕事が出来ず、フラストレーションが溜まっていたところに、妻との離婚といったことまで重なってしまったのかもしれない。しかも、君貴は彼の離婚理由については、手に取るように理解できた――おそらくは忙しすぎて、家庭を顧みているような余裕もなかったのではないだろうか?


 そうした意味では、自分も彼と同じ穴のムジナだ……という気がした。さらには、次に会った時には自分からあやまってもよいといったような寛容な心持ちにさえなっていたのだから不思議なものである。そして、彼自身、以前はなかったそうした心境をもたらしたものが何なのか――この時はっきり自覚してもいたのである。




 >>続く。








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