甘い密約(後編)
藤澤はわざとらしく、咳払いをして説明を続ける。
「歯の表面を保護するエナメル質が削れ、内側の象牙質が露出してしまっている。歯ぎしりが原因だろう」
藤澤が米田の頬に指を当て、軽く圧迫する。藤澤は、先程までの柔らかい口調から少しずつ軍医的に態度をずらし始めていた。
「それで『象牙質知覚過敏症』を起こしている状態だ」
藤澤の流れるような説明を、米田は痛みを忘れて聴きいっている。
「なるほど、虫歯ではないのですね。……では、この痛みは治るのでしょうか」
「ああ、歯の表面を拭いてアルコールで脱水するだけでも随分軽くなる。必要なら人工象牙質を使おう。……ただ、な?」
藤澤は診療台に座る米田を見下ろし、これ以上ないほど、嬉しそうな笑みを浮かべた。
横に立つ野々山が軽いため息をつく。
「問題は、どうしてこんな夜更けに知覚過敏で飛び上がったか、だ。歯には小豆、襟には練乳」
藤澤がわざとらしく、語気を強めた。
「まさかとは思うが、主計科の倉庫番が、冷たい小倉餡のかき氷を、つまみ食いなんてことは無いよなぁ」
米田の白い顔がますます白くなり額に脂汗が滲み始める。藤澤は、そんな米田の肩に優しく手を置いた。
「安心したまえ、私は軍医だ。患者の秘密は守る。……見逃す代わりに、主計科の特権で、次の酒保の買い物枠をほんの少しばかり融通してはくれないだろうか。お互い、悪い話ではないだろう?」
「……っ、承知、いたしました……」
追い詰められた米田が涙目で頷いた、まさにその時。 治療室の重厚な扉が、音もなくスルスルと開いた。
「おやおや、藤澤少尉。主計科を脅迫して密約とは、随分と度胸があるじゃないか」
そこに立っていたのは、一部始終を聞いていた鹿島豊艦長であった。
「か、艦長!」
藤澤が背筋を伸ばし、慌て敬礼をする。
「主計科の横領も軍医の恐喝も、軍法会議に回せば一発で実刑だがねえ……」
鹿島は楽しげに笑いながら診療台に歩み寄ると、米田の肩をポンと軽く叩いた。
「まあ、お互い固いことは言いっこなしだ、少々のつまみ食いなど気にせんよ。それより米田一等主計兵曹。藤澤少尉の甘味枠と一緒に、私の分のウイスキーの枠も多少増やしておいてくれ」
鹿島が藤澤の方を見た後、また米田に向き直る。
「……これで全員、共存共栄というわけだ。異論はないね?」
「は、はっ! 喜んで融通させていただきます……!」
命拾いした安堵と、さらなる大物に目をつけられた絶望の混ざった顔で、米田が慌てて部屋を飛び出していく。
「さて、藤澤少尉。米田へのお仕置きはそれくらいにして、本題だ」
鹿島の顔が引き締まり、いつもと違う影が落ちる。
「横須賀に着き次第、海軍病院に行ってもらいたい」
「治療の応援でしょうか?」
「いや、詳しい話は現地でする」
「はっ」
鹿島が治療室を出て行った後、藤澤は安堵のため息を漏らし、野々山の横に進んだ。
「太郎にぃ、酒保の枠が増えたぞ!」
口元を緩める藤澤の額を、野々山が軽く指で弾いた。
「痛っ、太郎にぃ、何するのさ」
「こういう件に甘い鹿島艦長だから良かったものの、下手をすると懲罰ものですよ、坊ちゃん」
「お咎めなしだから良いじゃないか」
野々山がぐいっと一歩、藤澤に近づいた。
「それに、患者との距離が近過ぎました。襟元の染み、わざわざ匂いを嗅がなくとも聞けばいいじゃないですか」
不機嫌な顔をした野々山を見て、藤澤がまた甘い悪魔の笑みを浮かべた。
「太郎にぃ、もしかして嫉妬か?」
返事の代わりに、野々山はまた藤澤の額を軽く弾いた。
「それよりも坊ちゃん、艦長が言っていた案件は……」
藤澤の顔からも鹿島と同じく笑みが消えた。軽いため息を落とした後、治療室の隅にある小さな本棚へと歩む。
そして抜き出した一冊の本――『歯科法医学』
「治療でなく呼ばれるなら、おそらくこれだろう。白紙のカルテは多めに用意しておいてくれ」
【ミニコラム】
歯は口ほどにモノを言う。
……歯は口にあるなと思いつつ、第三回目のコラムです。
歯が個人識別に用いられることは、皆さまご存知だと思います。治療痕が有名ですが、先天性の歯の欠如や小さい歯、大きい歯なども識別に用いられます。
シンナーで歯が溶けることは有名ですが阿片も歯を侵します。そのほか先天性の感染症や、育成環境で歯に特徴がでることもあります(後のエピソードに出てきますので、ご期待ください)。
歯による個人識別は遺体の損傷が激しい場合に活躍しますが、そんな災害や事故が起こらないのが一番ですよね!




