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甘い密約(前編)

――昭和十八年、晩夏。


「太郎にぃ。寄港まであと何日だ?」


 戦艦『奥羽』の歯科治療室で、藤澤芳樹歯科医少尉は悲痛な面持ちで、野々山太郎二等衛生兵曹《にとうえいせいへいそう》に聞いた。


「確かあと三日ほどでありますが、どういたしましたか?」


 野々山二曹は乾熱滅菌器から硝子製の注射筒を取り出しながら応じる。


「酒保の買い物枠を使い切ってしまった。金はあるのに甘味が買えない……太郎にぃの枠を俺にだな……」

「私の枠ならもう既に、坊ちゃんが使い切りましたよ」


 野々山は作業の手を止めず、淡々と言い放った。


「えっ!? 嘘だろ、俺いつの間に太郎にぃの枠まで使い切ったんだ……」

「先週、キャラメルを箱買いしたのをもうお忘れですか。……諦めて、あと三日、大人しく診療に励んでください。寄港したら甘味でも食べに行きましょう」


 野々山の返しに、藤澤はしゃがみこんで嗚咽に近い声を漏らした。


「うっ、うっ。三日も甘味無しだと俺はもう儚《はかな》くなってしまうに違いない」

「なりませんから」

「いっそのこと食糧庫に忍び込んで……」

「軍医科の恥になるのでやめてください」


 その時、コンコンと小さなノック音が部屋に響いた。藤澤が慌てて立ち上がる。

  藤澤の体勢が整うのを見て、野々山が扉を開けた。


 そこには頬を押さえた一等主計兵曹が立っていた。某小説の「うらなり」の如く白い顔のひょろりとした男だった。


 主計科の肘章《ちゅうしょう》の白い桜を捉えた藤澤の目がキラリと光る。すぐに駆け寄り野々山を押し除けて扉を大きく開ける。


「これはこれは主計科の下士官殿、どうなされた」


 藤澤の態度が、一瞬にして絵に描いたような「親切な軍医」へと豹変した。野々山は背後で、その現金すぎる変わり身の早さを無言で見つめていた。


「主計科の米田一曹と申します。夜分に申し訳ありません……藤澤少尉。ちょっと、歯を診ていただきたく」

「もちろんですよ。で、どういった症状が?」

「いや、大したことはないんですが、どうも冷たい水が、その、歯に響くと言いますか」


 米田は、すがるような声を出して治療室へ滑り込んできた。


「なるほど、冷水痛か。それはお辛い。さあ、遠慮せずにそこの診療台へお掛けなさい」


 藤澤は猫撫で声を出しながら、まるで獲物を巣へ招き入れる蜘蛛のような手際で、米田を診察台へ座らせた。


 野々山が全く表情を動かさず、無影灯のスイッチを入れ、藤澤に手慣れた動作で歯鏡を渡す。

 藤澤はその金属の柄を握りしめ、獲物の口腔内へと迷いなく進めた。


「ほほう……、米田一曹。歯ぎしりをする癖はないかな?」


 歯鏡に映った歯を覗き込みながら藤澤が質問する。


「はい、確かに寝る時に多少歯ぎしりがあると妻に言われたことがあります……それと歯痛に何か関係があるのでしょうか?」

「ああ、大ありです。これは齲蝕(うしょく)、つまり虫歯ではない」

「虫歯でなければなぜ、この様に歯が痛むのですか?」

「それはだな……ん、歯間に何か挟まっているな。野々山二曹、探針(たんしん)をこちらへ」


 探針で米田の歯間をツンと突き、挟まっていたものを引っ張り出すと、米田が顔をしかめた。


 出てきた物を見るなり、藤澤が口元にニヤリと邪悪な笑みを浮かべる。


「これは小豆の皮か。それに襟元の染み……」


 藤澤は米田の襟元に顔を近づけて子犬のように鼻をひくひくと動かす。乳と砂糖の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。


「こちらは練乳だな」


 藤澤は野々山の差し出した膿盆(のうぼん)に歯鏡と探針を置くと、嬉しそうに口を開いた。


「小豆に、練乳……はて、はて。そんな献立が最近あったかね」

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― 新着の感想 ―
小豆と練乳とくればかき氷ですね、患者は冷たい水と言っているけど氷ではありませんか。
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