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魅惑の果実(後編)

「たろ……ごほん。野々山二曹、何か書くものはあるか?」


「はい、こちらに」


 野々山が差し出した白紙のカルテを受け取る。藤澤は胸ポケットから万年筆を抜き放つと、迷いのない手つきでサラサラと絵を描き始めた。


「お友達がくれた赤い実は、こんな形ではありませんか?」


 そこには、大豆を二回りほど大きくしたような、つるりとした楕円形の実が描かれている。


「はい、まさにこの実ですわ。……これに、何か問題があるのでしょうか?」

「この果実は『ミラクルベリー』といって、それ自体にはほとんど味がありません」

「ええ、さきほど申し上げましたが、ほとんど味はしませんでしたわ」

「ですが、これを口にした後に『酸っぱいもの』を食べると、舌がそれを『甘い』と錯覚してしまう――人間の味覚を一時的に作り変えてしまう、魔法の果実なのですよ」


 鹿島が「ほう……」と、小さく感嘆の声を漏らした。


「お友達がなぜミラクルベリーを菜々子さんに食べさせたのか、その真意は分かりませんが……おそらく、あなたの美しさに嫉妬――痛っ!」


 得意げに「推論」を語ろうとした藤澤の靴先を、野々山が容赦なく踵(かかと)で踏みつける。余計な詮索は士官の仕事ではない、と目が語っている。


 菜々子はしばらく真剣な顔で考え込んでいたが、やがて意を決したように顔を上げた。


「果実を下さる薫子《かおるこ》さんは、初等部からの大切な親友ですの。昨日だって、ずっと菜々子さんと一緒に居たいわ、と」


 菜々子が藤澤の方に、まっすぐな視線を投げかける。その目からは強い意志が感じられた。


「……わたくし、薫子さんに直接理由を聞いてみます」

「そうですか。まあ、幸い歯は表面が少し溶けている程度ですから、レモンの丸齧りをやめれば大事には至らないでしょう」


 菜々子の決意とは対照的に、藤澤は、もはや事件の真相などどうでもよくなっていた。再びテーブルの茶菓子へ熱烈な視線を送りはじめる。

 見かねた野々山が「こほん」と大きめの咳払いをする。


「今日はご苦労だったな」


 鹿島が労いの言葉をかけ、促すように扉の方へ視線をやった。


「か、艦長。まだ茶菓子が……」


 藤澤はすがるような目で野々山を見たが、野々山は無慈悲に首を横に振る。


 藤澤は、魂の半分を茶菓子に残したまま、野々山に引きずられる様に部屋を辞した。


「あれ、絶対に美味しい菓子だった。めちゃくちゃに高いやつだよ、太郎にぃ……クッキーにドーナツにパウンドケーキ……ううう、食いたかった」


 ホテルを後に、港に歩む道すがら、藤澤が涙目で訴えた。野々山はそれを軽くいなす。


「美味しそうなのは見た目だけですよ。それにしても坊ちゃん、ミラクルベリーなんてよくご存知でしたね。感心しましたよ」

「ふん。こないだ鹿島艦長に押し付けられた本があったろ」

「あの洋書ですか?」

「ああ、そうだ。あれに味覚についての雑記として書いてあったんだよ」


 藤澤が不機嫌そうに鼻を鳴らして返す。藤澤はそれきり黙ってとぼとぼと歩きはじめた。


 五分ほど歩いた商店街の半ば、二人の行手《ゆくて》に小さな菓子屋らしき店舗が見えてくる。


「芳樹坊ちゃん。あそこの和菓子屋に『どら焼きあります』と貼り紙が……って、坊ちゃん!?」


 野々山が隣を振り返ったときには、藤澤の姿は既になかった。

 藤澤は、電光石火の速度で、すでに和菓子屋の暖簾(のれん)に吸い込まれていた。


――それから数週間後、鹿島艦長がまた例の『とらや』の紙袋を提げて治療室に現れた。


「……艦長。まさか、その袋には『最新』の何かが詰まっているわけではございませんよね?」


 藤澤の隠しきれない皮肉に、鹿島は愉快そうに笑いながら、袋の中からレモンを数個取り出した。

 そして、あの赤い果実――ミラクルベリーも。


「いやぁ、例の話を聞いて、知人の伝手(つて)で分けてもらってね。旬が終わったレモンもどうにか手に入れたよ」


 完全なる権力の無駄遣いだな、と藤澤が野々山に視線を送った。野々山は苦笑を堪《こら》えた視線を返す。


「さっそく昨晩、料亭に持ち込んでみたら、これが女子《おなご》に大ウケ。『お口の中が魔法にかかったみたい!』と、それはもうキャアキャアと大騒ぎよ」


 にやけながら「夜の戦果」を語る鹿島を、藤澤はゴミを見るような冷めた目で見つめている。


「……それと、これは菜々子さんから預かってきた礼状だ。藤澤軍医宛てに、とな」


 土産と礼状を置いて鹿島が去った後、藤澤は野々山の前で菜々子からの手紙を広げた。

 そこには、菜々子の親友である薫子の心の内が記されていた。


 それは「菜々子が美しすぎて、誰かのものになってしまうのではないか。そして自分の事は、すぐに忘れ去られてしまうのでは? そう考えると気が気ではなかった」という、あまりに重く切実な独占欲の告白であった。


「はーん。女心ってやつも、色々複雑だよな。……それより太郎にぃ、レモン切って。厚切りでさ」


 藤澤は読み終えた手紙を興味なさげに机へと放り投げた。そして、目の前のレモンと赤い実を前に、子供のように相好を崩す。


「俺も太郎にぃとは、ずっと一緒にいたいと思うぞ」


 藤澤のあまりに軽すぎる告白を、野々山は表情を動かさず聞き流す。


「はいはい。……厚切りですね」


 振り下ろされた包丁が、鮮やかな黄色い果実を二つに割る。果汁が飛び散り、みずみずしいレモンの香りが、しばし二人を包む。


「匂いだけでも、もう酸っぱいな。反射で唾液が出る」


 野々山が、半分になったレモンを輪切りに切り進める。


「まずは、ミラクルベリーを口に馴染ませてから、レモンを食うんだったな」


 藤澤は赤い果実を口に含み、しばらく経ってからレモンの輪切りを口に入れた。


「うをっ、甘い。まるで蜂蜜漬けにしたみたいだ。太郎にぃも早く食べてみろ」


 野々山も藤澤に倣い、レモンを齧る。一口噛んだ瞬間、かなり驚いた様子を見せた。


「偽りとは思えない甘さですね……」

「これは美味いな。太郎にぃ、口の中が甘いうちにレモンをどんどん食おう。追加で切ってくれ」

「はいはい、坊ちゃん」


 野々山がレモンを包んだ新聞紙を剥がした。大日本帝国海軍の華々しい戦果の記事がレモンの油で少し滲んでいた。

【ミニコラム】

 ミラクルフルーツは、西アフリカ原産のアカテツ科の果物です。

 ミラクルフルーツに含まれる糖タンパク「ミラクリン」は人の味蕾に結合し、酸味や苦味を甘味に変えます。その効果は30分程度持続いたします。


 ミラクルフルーツを乾燥させたものは5粒入り1000円程度で買えますのでぜひお試し下さい。Amazonでも購入可能。レモンがハチミツレモンに大変身いたします。

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― 新着の感想 ―
味覚を変える果物があるんですね!
今回の謎解き、歯がギザギザ(梅毒かな?でも先天性ではないなら違うか)から酸蝕症で甘くて酸が強い檸檬のような果物ってなんだろう?と悩みながら読んでいたのですが、ミラクルベリーだったのですね。ミラクルベリ…
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