↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
6/22

魅惑の果実(前編)

――昭和十八年、初夏。


「太郎にぃ。嫌《や》なことあった」


 戦艦『奥羽』の歯科治療室、患者が途切れると、藤澤芳樹少尉はいつものようにやる気なく頬杖をついていた。


 太郎にぃと呼ばれた野々山太郎二等衛生兵曹は、作業の手を止めることなく適当に受け流している。


「芳樹坊ちゃん、またですか?」

「こないだ鹿島艦長にもらった砂糖あったろ?」

「はい、ありましたね」

「あの砂糖、食べたら無くなった」


 野々山の手からぽろりと探針が流しに落ちカシャリと音をたてた。


「当たり前じゃないですか!!」

「もっと食いたかったんだ……最近、甘味もなかなか手に入れにくい。前にもらった間宮の羊羹はとても美味《うま》かった。艦長、あと百竿くらいくれないかな」


 口いっぱいに広がる甘みを思い出すと唾液が自然に湧き出る。藤澤が甘い記憶に酔っていたその時、治療室の扉がコンコンと音を立てた。


 藤澤は慌ててよだれを拭い、軍衣の襟を正す。藤澤の身だしなみが整ったのを見計らって、野々山が扉を開けた。


「鹿島だが、時間はあるか?」


 ノックの主は、夜の艦砲射撃を得意とする色男、鹿島豊艦長であった。噂をすれば影、なぜかその腕には『とらや』の紙袋が提げられている。


 藤澤の視線は、磁石に引きつけられる鉄のようにその紙袋へと吸い寄せられた。


「知り合いの娘さんの歯のことで、相談がある」


 羊羹(らしきもの)を凝視して動かない藤澤の背中を、野々山がすかさず軽くつねる。


「痛ッ! はっ艦長……何なりとご相談ください!」


 藤澤が跳び上がるように姿勢を正した。


「年頃の可愛らしい子なんだが、なんでも最近、歯が鮫さめのようにギザギザになってしまったそうでね」

「歯がギザギザ、ですか……」


 藤澤は復唱しながらも、意識の九割を紙袋に注いでいる。


「少尉の都合が許せば、明後日、横須賀に停泊した際に診察してやってくれんか?」


 鹿島が、ずっしりと重そうな紙袋をこれ見よがしに軽く振った。


「もちろんですとも!」

「それは助かる。これは礼だ、受け取ってくれ。……では、明後日にまた会おう」


 鹿島は紙袋を机に置くと、爽やかな笑みを残して去っていった。

 鹿島が去るやいなや、藤澤は飢えた獣のような速さで紙袋を手に取った。


「とらや! とらやの羊羹! このズッシリした重み、さては『夜の梅』が五竿入りか……!?」


 期待に胸を躍らせて袋の中を覗き込む。


 しかし、そこにあったのは黒光りする甘美な塊ではなく、分厚く、そして忌々しいほどに真新しい『最新歯科治療』の洋書であった。


「太郎にぃ、これを売って羊羹買ったら叱られるかな?」

「確実に叱られますね」

「だよなぁ……」


 藤澤は鹿島が来る前よりもやる気を無くし、力なく机に伏すのであった。


 それから二日後、近づいてくる逸見《へみ》岸壁を見つめながら、藤澤は魂の抜けたような顔をしていた。


「太郎にぃ、俺のやる気はマイナスだよ。マイナス」


 野々山にだけ聞こえるような小声で、藤澤がぼやく。


「羊羹ではなく洋書とは、艦長も本当にタチが悪い」

「頑張ってください、坊ちゃん。帰りに美味しい甘味《かんみ》でも買いましょう」


「気休めはよせ。最近は、あまり売っていないじゃないか」


 そんなやり取りをしているうちに、艦が錨を下ろす。遠くに工廠の長い煙突が細く煙を吐き出しているのが見える。


「今日はよろしく頼むよ」


 上甲板に洒落たスーツに帽子姿の鹿島が現れた。藤澤と助手役の野々山に声をかけ、颯爽と通船に乗り込む。

 港に降り立ち、タクシーで乗りつけた先は、横須賀随一の格式を誇るホテル。


 その特別室に、依頼人である母娘が待っていた。


 統制下であるものの、その部屋は別世界の豪華さだった。毛足の長い赤い絨毯に、シャンデリアが優しく光を落とす。


 母は深緑色のシンプルなワンピース、娘は学生服という質素な出で立ちであったが、母親の纏まとう空気から、野々山は彼女が「やんごとなき」身分……おそらくは華族の婦人であることを瞬時に察した。

 同時に、彼女が鹿島に向ける熱を帯びた視線から、二人がただならぬ関係であることも。


 そんな大人たちの思惑が交錯するなか、藤澤だけはテーブルに並んだ豪奢な茶菓子を穴が開くほど見つめていた。


「こちらが娘の菜々子です。夫亡き後、女手一つで育てたために、少々お転婆《てんば》ですの」

「まあ、お母様ったらひどいですわ」


 お転婆と言われた娘の菜々子は、わざと澄ました顔でそっぽを向いた。おさげ髪が小さく揺れる。

 高等女学校三年生くらいの年頃か、目がくりくりと大きく快活そうな美人である。


「歯科軍医の藤澤です。では早速、診察に入りましょう。菜々子さん、口を大きく開けて」


 菜々子の方に向き直った藤澤は、海軍士官らしい泰然自若とした態度を見せていた。

 

 菜々子が素直に口を開けると、藤澤は手慣れた動作でライトを当てる。

 しかし、その光は一瞬。前歯をなぞるように一瞥しただけで、すぐにスイッチを切る。


「ああ、これは『酸蝕症《さんしょくしょう》』ですね。レモンなどの強い酸を含んだ果実、あるいは胃液の逆流によって歯のエナメル質が溶ける症状です」


 藤澤が使い終えたライトを野々山に手渡した。


「まぁ、歯はそれほどギザギザにはなっておりませんね。エナメル質の白濁程度か……菜々子さん、何か心当たりありますか?」

「全くありませんわ」

「本当に? 酸っぱい食べ物を好んでいるなどありませんか?」


 藤澤の問いに、菜々子は小首を傾げて考え込んだ。


「強いて言えば、女学校のお友達が、昼食のあとにいつも果物を分けてくださるんです」


 菜々子は少し演技ががった口調になり、人差し指を立てる。


「でも、それはちっとも酸っぱくなくて、とっても甘いんですのよ」


 その言葉を聞いた瞬間、藤澤はぴくりと眉を寄せ、鋭く目を細めた。


「とっても甘い……?」


 茶菓子への執念はどこへやら、歯科医としての疑念が、一瞬にして藤澤の思考を支配する。


 酸蝕症は、文字通り「酸」が歯を溶かす病だ。本人が「甘い」と断言する食べ物で、ここまでのエナメル質の白濁は、通常考えにくい。


「菜々子さん。その果物は、具体的にどういったものです? ……たとえば、シロップ漬けの缶詰のようなものだったりしますか?」


 菜々子は、不思議そうに藤澤を見つめた後、微笑んで答えた。


「いいえ。見た目はレモンにそっくりな、果実そのものですわ。でも蜂蜜をかけたように甘いのです」

「生の果実なんですね」

「ええ。あとは『栄養にいいのよ』と言って、毎回小さな赤い実もくださるのですけれど……そちらは、ちっとも味がしませんの」


 藤澤はしばらく天井の一点を見つめていたが、やがて野々山の方を振り返り笑った。

 その笑顔には「褒めろ」という文字が張り付いている。


「菜々子さん。そのお友達のお父様やご親戚に、海軍士官や外交官……あるいは、外国へ頻繁に行かれる方はいませんか?」


 藤澤の問いに、菜々子は少し間をおいてからゆっくりと話はじめた。


「たしか、叔父様が植物学者で、戦争の前は世界中を飛び回っていたと伺っておりますけれど……」


 藤澤は確信を得たように野々山に向かい、再び勝利の笑みを見せた。


「……なるほど、そういうことか。実によく出来た――甘美なる企みだ」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。