魅惑の果実(前編)
――昭和十八年、初夏。
「太郎にぃ。嫌なことあった」
戦艦『奥羽』の歯科治療室、患者が途切れると、藤澤芳樹少尉はいつものようにやる気なく頬杖をついていた。
太郎にぃと呼ばれた野々山太郎二等衛生兵曹は、作業の手を止めることなく適当に受け流している。
「芳樹坊ちゃん、またですか?」
「こないだ鹿島艦長にもらった砂糖あったろ?」
「はい、ありましたね」
「あの砂糖、食べたら無くなった」
野々山の手からぽろりと探針が流しに落ちカシャリと音をたてた。
「当たり前じゃないですか!!」
「もっと食いたかったんだ……最近、甘味もなかなか手に入れにくい。前にもらった間宮の羊羹はとても美味かった。艦長、あと百竿くらいくれないかな」
口いっぱいに広がる甘みを思い出すと唾液が自然に湧き出る。藤澤が甘い記憶に酔っていたその時、治療室の扉がコンコンと音を立てた。
藤澤は慌ててよだれを拭い、軍衣の襟を正す。藤澤の身だしなみが整ったのを見計らって、野々山が扉を開けた。
「鹿島だが、時間はあるか?」
ノックの主は、夜の艦砲射撃を得意とする色男、鹿島豊艦長であった。噂をすれば影、なぜかその腕には『とらや』の紙袋が提げられている。
藤澤の視線は、磁石に引きつけられる鉄のようにその紙袋へと吸い寄せられた。
「知り合いの娘さんの歯のことで、相談がある」
羊羹を凝視して動かない藤澤の背中を、野々山がすかさず軽くつねる。
「痛ッ! はっ艦長……何なりとご相談ください!」
藤澤が跳び上がるように姿勢を正した。
「年頃の可愛らしい子なんだが、なんでも最近、歯が鮫さめのようにギザギザになってしまったそうでね」
「歯がギザギザ、ですか……」
藤澤は復唱しながらも、意識の九割を紙袋に注いでいる。
「少尉の都合が許せば、明後日、横須賀に停泊した際に診察してやってくれんか?」
鹿島が、ずっしりと重そうな紙袋をこれ見よがしに軽く振った。
「もちろんですとも!」
「それは助かる。これは礼だ、受け取ってくれ。……では、明後日にまた会おう」
鹿島は紙袋を机に置くと、爽やかな笑みを残して去っていった。
鹿島が去るやいなや、藤澤は飢えた獣のような速さで紙袋を手に取った。
「とらや! とらやの羊羹! このズッシリした重み、さては『夜の梅』が五竿入りか……!?」
期待に胸を躍らせて袋の中を覗き込む。
しかし、そこにあったのは黒光りする甘美な塊ではなく、分厚く、そして忌々しいほどに真新しい『最新歯科治療』の洋書であった。
「太郎にぃ、これを売って羊羹買ったら叱られるかな?」
「確実に叱られますね」
「だよなぁ……」
藤澤は鹿島が来る前よりもやる気を無くし、力なく机に伏すのであった。
それから二日後、近づいてくる逸見岸壁を見つめながら、藤澤は魂の抜けたような顔をしていた。
「太郎にぃ、俺のやる気はマイナスだよ。マイナス」
野々山にだけ聞こえるような小声で、藤澤がぼやく。
「羊羹ではなく洋書とは、艦長も本当にタチが悪い」
「頑張ってください、坊ちゃん。帰りに美味しい甘味でも買いましょう」
「気休めはよせ。最近は、あまり売っていないじゃないか」
そんなやり取りをしているうちに、艦が錨を下ろす。遠くに工廠の長い煙突が細く煙を吐き出しているのが見える。
「今日はよろしく頼むよ」
上甲板に洒落たスーツに帽子姿の鹿島が現れた。藤澤と助手役の野々山に声をかけ、颯爽と通船に乗り込む。
港に降り立ち、タクシーで乗りつけた先は、横須賀随一の格式を誇るホテル。
その特別室に、依頼人である母娘が待っていた。
統制下であるものの、その部屋は別世界の豪華さだった。毛足の長い赤い絨毯に、シャンデリアが優しく光を落とす。
母は深緑色のシンプルなワンピース、娘は学生服という質素な出で立ちであったが、母親の纏まとう空気から、野々山は彼女が「やんごとなき」身分……おそらくは華族の婦人であることを瞬時に察した。
同時に、彼女が鹿島に向ける熱を帯びた視線から、二人がただならぬ関係であることも。
そんな大人たちの思惑が交錯するなか、藤澤だけはテーブルに並んだ豪奢な茶菓子を穴が開くほど見つめていた。
「こちらが娘の菜々子です。夫亡き後、女手一つで育てたために、少々お転婆ですの」
「まあ、お母様ったらひどいですわ」
お転婆と言われた娘の菜々子は、わざと澄ました顔でそっぽを向いた。おさげ髪が小さく揺れる。
高等女学校三年生くらいの年頃か、目がくりくりと大きく快活そうな美人である。
「歯科軍医の藤澤です。では早速、診察に入りましょう。菜々子さん、口を大きく開けて」
菜々子の方に向き直った藤澤は、海軍士官らしい泰然自若とした態度を見せていた。
菜々子が素直に口を開けると、藤澤は手慣れた動作でライトを当てる。
しかし、その光は一瞬。前歯をなぞるように一瞥しただけで、すぐにスイッチを切る。
「ああ、これは『酸蝕症』ですね。レモンなどの強い酸を含んだ果実、あるいは胃液の逆流によって歯のエナメル質が溶ける症状です」
藤澤が使い終えたライトを野々山に手渡した。
「まぁ、歯はそれほどギザギザにはなっておりませんね。エナメル質の白濁程度か……菜々子さん、何か心当たりありますか?」
「全くありませんわ」
「本当に? 酸っぱい食べ物を好んでいるなどありませんか?」
藤澤の問いに、菜々子は小首を傾げて考え込んだ。
「強いて言えば、女学校のお友達が、昼食のあとにいつも果物を分けてくださるんです」
菜々子は少し演技ががった口調になり、人差し指を立てる。
「でも、それはちっとも酸っぱくなくて、とっても甘いんですのよ」
その言葉を聞いた瞬間、藤澤はぴくりと眉を寄せ、鋭く目を細めた。
「とっても甘い……?」
茶菓子への執念はどこへやら、歯科医としての疑念が、一瞬にして藤澤の思考を支配する。
酸蝕症は、文字通り「酸」が歯を溶かす病だ。本人が「甘い」と断言する食べ物で、ここまでのエナメル質の白濁は、通常考えにくい。
「菜々子さん。その果物は、具体的にどういったものです? ……たとえば、シロップ漬けの缶詰のようなものだったりしますか?」
菜々子は、不思議そうに藤澤を見つめた後、微笑んで答えた。
「いいえ。見た目はレモンにそっくりな、果実そのものですわ。でも蜂蜜をかけたように甘いのです」
「生の果実なんですね」
「ええ。あとは『栄養にいいのよ』と言って、毎回小さな赤い実もくださるのですけれど……そちらは、ちっとも味がしませんの」
藤澤はしばらく天井の一点を見つめていたが、やがて野々山の方を振り返り笑った。
その笑顔には「褒めろ」という文字が張り付いている。
「菜々子さん。そのお友達のお父様やご親戚に、海軍士官や外交官……あるいは、外国へ頻繁に行かれる方はいませんか?」
藤澤の問いに、菜々子は少し間をおいてからゆっくりと話はじめた。
「たしか、叔父様が植物学者で、戦争の前は世界中を飛び回っていたと伺っておりますけれど……」
藤澤は確信を得たように野々山に向かい、再び勝利の笑みを見せた。
「……なるほど、そういうことか。実によく出来た――甘美なる企みだ」




