空の悪魔(後編)
佐世保基地の一角、水上機駐機場に着いた藤澤は、若林一飛曹の顔を見るなり不機嫌になった。
「アイツ……顔が良い……」
野々山にだけ聞こえる小声で毒づく。若林一飛曹は小柄ながら、彫りが深く、凛々しい顔立ちをしていた。
「いかにも女にモテそうな面構えだ。気に入らん」
「大学芋のためですよ、少尉。それに私は、少尉の顔の方がずっと好きですよ」
「……そうかな」
野々山の甘い言葉に、藤澤の頬がゆるむ。それどころか鼻歌が出そうな表情にすら見える。
「『奥羽』の歯科軍医、藤澤だ。話は鹿島艦長から聞いている。さっそく歯を見せてもらうぞ」
「よろしくお願いいたします」
若林が頭を下げると、フワリと菫の香りが漂った。
「何かつけているのか?」
「恥ずかしながら香水を。飛行服は洗濯できませんので」
「ふーん、そういうものなのか。まぁ、ここに座れ」
藤澤は若林を椅子に座らせると、当番兵が持ってきた往診鞄から歯鏡と探針を取り出し、口腔内を丁寧に探り始めた。
「痛んだのはどこの歯だ?」
「はい、右上の奥歯です」
「今は痛むか?」
「いえ、全く痛みません」
藤澤が目を細めて奥歯を見つめた。
「冷たい水は歯に染みるか?」
「いえ、それもありません」
藤澤は、若林が示した場所にある「針先ほどの小さな穴」に狙いを定め、探針の先でコンコンと軽く叩いた。
「……多少怪しいが、これだけでは確定に至らん。どんな風に痛んだのか説明してくれ」
「はっ、その日も普段通りに飛行を開始。急速に高度を上げたところ、四千メートル付近で右奥歯に激痛がはしり……」
若林がガックリと頭を垂れた。その顔には、暗い影がさしている。
「やむ無く戦線を離脱いたしました」
藤澤はしばらく考えた後、傍らの鹿島を振り返った。
「鹿島艦長、海軍病院でレントゲンをお借りしたい」
「分かった、直ちに手配しよう」
また軍用車に乗り込み佐世保海軍病院へと移動する。道中、若林は言葉少なく俯いていた。
――佐世保海軍病院、放射線室。
藤澤と野々山は、巨大な照射装置の調整に追われていた。
本来は胸部や四肢を撮るための医科用装置だった。周囲の衛生兵たちからの「外部の歯科が何をしに来た」という冷ややかな視線が突き刺さってくる。
「フィルムがもったいないから、透視で直に覗け……か。ケチくさい話だな」
「少尉! 声が大きいです!」
周囲に聞こえるように毒づく藤澤を、野々山が慌てて嗜める。
「さてと、始めてくれ」
藤澤の合図で、暗室の中に放電音が響き、目の前の蛍光板がぼんやりとした緑色に輝く。
スクリーンに映し出された若林の第一大臼歯を、藤澤が指差した。
「……予想通りだ。中心部のわずかな透過、これはカリエス――齲蝕だな」
藤澤はX線の照射を手早く終わらせると、防護用の鉛板を脇に退け、若林へ向けて説明を始めた。
「齲蝕、いわゆる虫歯が原因で、歯の中に微細な気密室……つまり空気が詰まった穴ができている」
藤澤が傍にあった黒板を引き出し、白墨でスラスラと歯の模式図を描く。
「高度四千メートルの気圧は地上の約六割。ボイルの法則に従い、内部の空気は膨張する」
齲蝕による空洞部分に外向きの矢印が描き足される。
「結果、逃げ場を失った空気が歯髄神経を直接圧迫し激痛を生じさせた」
藤澤が勢いよく神経の上にバツ印をつける。
「これが上空でのみ歯が痛む『航空歯痛』の正体だ。適切な治療を施せば、症状は消える」
「……ありがとうございます」
若林が、深々と頭を下げた。その目には、小さな涙が光っていた。
「では、私は病院長に施設使用の礼を言ってくる。藤澤、あとの処置は任せたぞ」
出口に向かった鹿島が足を止め、軽く振り返る。
「ああ、藤澤少尉。次は横須賀で力を借りたい。詳細はまた艦でな」
鹿島が完全に部屋を出ていくのを見計らい、藤澤は椅子に座ったままの若林に、野々山すら遠ざけるような低い声で語りかけた。
「第一大臼歯は、噛み締めにおいて最も重要な歯だ。空中戦闘で急旋回し、G(加速度)に耐えるには、奥歯を食いしばることが不可欠だろう。……幸い、今の段階では、歯は温存できる」
「はっ……重ね重ね、感謝いたします」
「だがな、若林一飛曹。……このまま戦闘機乗りには戻れない治療も、選べる。……どうする?」
藤澤の瞳には、いつもと違う真剣な色が宿っていた。
「自分は空を選びます」
――後日の戦艦『奥羽』、歯科治療室。
皿に山盛りにされた、食べきれないほどの大学芋を突きながら、藤澤がぽつりと零した。
「結局、若林は普通の治療を選んだな……」
野々山の眉が少し寄り、藤澤を真剣な目で見つめた。
「坊ちゃん……どうして若林一飛曹にあんなことを聞いたのですか? 場合によっては、あなたが『抗命罪』や『戦意喪失の教唆』で処罰される恐れすらあったのですよ」
野々山のたしなめるような、しかしどこか心配するような問いに、藤澤は答えずただ黙々と大学芋を頬張った。
皿の半分が空く頃、藤澤が再び口を開いた。
「……去年の夏に、異動命令があっただろ。横須賀所属の某艦へのやつだ」
「ええ、ありましたね」
野々山は、あの日のことを鮮明に思い出していた。「太郎にぃと別れるのは嫌だ」と、軍衣の袖を濡らして夜通し泣きじゃくった藤澤の姿を。
「赴任に使った『水上偵察機《下駄履き》』が酷い鈍足でな。結局、出港に間に合わず、俺は佐世保に戻された。……だが、あの艦は先月、沈んだ」
藤澤の視線は、皿に残った最後の大学芋に向けられていた。
「一瞬の不運で、人は死なずに済むこともある。……若林にも、その不運を選ぶ権利があると思っただけだ」
藤澤は最後の一つとなった大学芋を名残惜しそうに口へ運び、ゆっくりと飲み込むと、静かに口を開いた。
「……太郎にぃ。食べたら、大学芋が尽きてしまったのだが」
野々山は何も言わずに立ち上がり、藤澤に背を向けた。パラフィンを溶かす電気炉のスイッチを入れ、仕事の準備をしている様に見える。
「太郎にぃ、まだ……俺は甘いものが食いたい。これだけじゃ足りない」
野々山は黙々と何かを混ぜる作業に没頭している。
椅子に深く沈み込み、駄々っ子のように拗ねる藤澤の鼻が、ふと新しい甘い匂いを感知した。
「……! これは、べっこう飴か?」
「艦長が『元木の鼻をあかせた礼だ』と、砂糖をたくさん融通してくださったんです」
野々山が差し出したのは、透き通った琥珀色の宝石。
今回の件、鹿島艦長が動いたのは若林の姉のためだけではなかったらしい。
かつて同じ芸者を巡って元木司令と争い、長期航海に出ている隙に彼女を奪われた……という、実に深い、海兵同期ならではの私怨があったようだった。
「……ま、理由はともあれ、砂糖に罪はないな」
藤澤は差し出された飴を口に放り込み、ようやく今日一番の、心からの笑みを浮かべるのだった。
「……ところで太郎にぃ。別れ際に鹿島艦長が、次は横須賀がどうとか言ってなかったか?」
「ええ。おっしゃってましたね。妙な依頼でなければ良いのですがね」
そんな二人の予感は、初夏の横須賀で見事に的中することになる――。




