空の悪魔(前編)
――昭和十八年、春。
「目当ての甘味が無い……もう駄目だ……」
久しぶりの佐世保停泊、老舗の菓子屋の棚は、空いている場所が目立つようになってきていた。
戦況の悪化に伴う物資不足で、思うように甘味が買えなかった藤澤芳樹歯科医少尉は、いつも以上にやる気を失っていた。
「店主が奥からわざわざ羊羹を出してくれましたし、良いではありませんか」
野々山の慰めにも関わらず、戦艦『奥羽』への通船乗り場に向かう足取りも重い。
「太郎にぃ……俺もう……海軍を、やめ……」
「恐ろしいことを、軽く口にしないでください!」
太郎にぃと呼ばれた野々山太郎二等衛生兵曹が、藤澤の口を後ろから慌てて塞いだ。
「むぐぅ……」
野々山が視線を桟橋の方へゆっくりと動かすと、その先で艦長の鹿島豊大佐がにこやかにこちらを見ていた。
状況を察した藤澤がコクコクと頷くと、野々山はようやくその手を離す。
「藤澤少尉、任務がある」
藤澤と野々山が桟橋に近づくやいなや、鹿島が有無を言わさぬ口調で告げた。
「はっ。直ちに!」
先程までの「甘味欠乏症」による猫背はどこへやら、藤澤は弾かれたように背筋を伸ばし、鮮やかな敬礼を返す。
横に並ぶ野々山も、瞬時に保護者から下士官の顔に戻っている。
「話は車の中でしよう。まずは乗ってくれ。……野々山二曹、君もだ。必要な物品は後で当番兵に運ばせる」
鹿島は戸惑う二人を、傍らに待機させていた軍用車へと半ば押し込んだ。
「診察を頼みたい者がいる。大村空のエースだ。……もっとも、そこの司令官殿に言わせれば、ただの『腰抜け』らしいがな」
車が砂利を噛んで急発進する。鹿島の不敵な笑みに、藤澤はまた厄介ごとかと心の中で舌を出した。
――患者は若林一等飛行兵曹。
大村海軍航空隊でも一目置かれる優秀なパイロットであった。が、先月の邀撃戦の最中、強烈な歯痛に襲われ、戦線を離脱。 ところが地上へ帰還した途端、痛みは嘘のように消え失せてしまった。
地元の歯科医による診察結果は「異常なし」。
これを受けた航空隊司令の元木大佐は、若林を「敵機を恐れて詐病を使う腰抜け」と断じ、栄光ある戦闘機乗りから、佐世保での地味な水上偵察任務へと異動させたのである。
「若林一飛曹の姉とは少々顔見知りでね。会うたびに自慢の弟の話を聞かされていたんだ。私には、彼が嘘をつくような人間には到底思えん」
――また女の話か……。
藤澤の顔から急速にやる気が抜けていく。結局のところ、この艦長は情に厚いのか鼻の下が長いだけなのか判然としない。
「そこでだ。我が『奥羽』が誇る名歯科軍医、藤澤少尉ならば、若林一飛曹の冤罪を晴らすことができるのではないかと考えてね」
「はぁ……期待していただくのは光栄ですが」
藤澤の返事は歯切れが悪い。鹿島が何かを思い出すような口ぶりで切り出す。
「若林の姉は佐世保で小料理屋をやっていてな。そこで出す大学芋が、おそろしいほどに美味いんだ。蜜がたっぷりで、口の中でとろけるぞ」
大学芋の話を聞いた藤澤の口元が緩む。黄金色の飴を纏った揚げ芋の照りが脳裏をよぎり唾をゴクリと飲み込む。
戦況が劣勢となり、まともな甘味を拝むことが難しくなりつつある今、これは藤澤にとって好機であった。
藤澤の瞳に光が戻り、背筋がピンと伸びる。
「……鹿島艦長」
「ん? どうした藤澤少尉」
「その任務、謹んで拝命いたします。医学的見地から、一飛曹の無実を完膚なきまでに証明してみせましょう」




