↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/21

奥歯の秘密(前編)

※検死シーンがあります。苦手な方は後書きまでとんで下さい。ダイジェスト版があります。

 横須賀への上陸前、藤澤は軍医長の呼び出しを受けていた。

 軍医長の宇佐美《うさみ》は、この道二十年のベテラン外科医だが、機嫌が良いのか悪いのか分からない顔で、いつも煙草を吸っている男だった。


「艦長から聞いていると思うが、横須賀で検死業務だ」

「はっ、軍医長。艦長からは海軍病院に行けとしか聞いておりません」


 宇佐美軍医長がはっきりと舌打ちをするのが聞こえた。


「先日、八丈島付近で軽巡『鳴瀬』がやられた。輸送団を護衛している最中に雷撃を喰らってな」


 宇佐美が煙草のような、長い息を虚空に吐き出した。


「轟沈だ。後輩の軍医長は運がいい奴でな。周りの艦に引き上げられて、陸までもった。ま、白木の箱で帰宅済みだがな。しかし、殆どの将兵は未だ水の中だ」


 藤澤は口を開くことができず、ただ宇佐美の言葉を黙って聞いている。


「乗員と見られる水死体《ほとけさん》が昨日、伊豆に流れ着いた。だが、損傷が激しく身元が分からん」


 宇佐美が、藤澤の肩を軽く叩いた。


「ようは歯型の照合だ。頼んだぜ、歯科医殿。錨が降りたら直ぐに船を出す。医科は山口中尉と金井一曹を派遣する。お前んとこの……助手も連れて行くように。以上」


 藤澤が足取り重く歯科治療室に帰ると、野々山はすっかり上陸の用意を整えていた。


「解剖用の白衣は向こうで支給されると思いますが、襦袢《じゅばん》の替えは持参した方がよいかと」


 カルテ用紙に加えて、藤澤の着替えまでキッチリと用意されている。


「悪いな太郎にぃ。従兵みたいなことまでさせて」

「いえ、そのために海軍《ここ》にいますから」


 淡々と荷物をまとめる野々山の横顔を、藤澤はじっと見つめた。


 野々山はとうに兵役を終えていた男だ。それなのに、藤澤が歯科の嘱託学生になったと知るや、民間での職をあっさり放り出し、歯科助手の修行を経て再び海軍へ志願して戻ってきたのだ。


「坊ちゃん、ぼんやりしている暇があったら、器具の入った鞄を再点検してくださいな」


 小言をこぼす野々山を、藤澤はなおも見つめていた。


 野々山は、衛生の下士官となり、腕一本で歯科勤務を勝ち取ったのだ。


 そして新米士官である藤澤の元へ配属されてきた――すべては「坊ちゃんの世話を焼く」という、ただそれだけのために。


「ねぇ、太郎にぃ。俺のこと好き?」

「い、いきなり何を言い出すのですか」

「いや、太郎にぃが俺のために海軍に戻ったからさ。俺のこと大好きなのかと」


「坊ちゃんは目を離すと、道に迷ったり、肥溜めに落ちたり碌《ろく》なことをしませんからね」

「肥溜めは一回だけだろ! もう十年以上前のことを蒸し返すなよ」

「私にとっては昨日のことのようですよ。……さあ坊ちゃん、山口中尉がお待ちです。行きましょう」


 野々山が鞄を手に取り、促すように扉を開けた。上甲板に出ると晩夏の横須賀の空は、薄曇りであった。


 通船で上陸した後、軍用車で病院へと向かう。案内されたのは、病棟から離れ、敷地の外れにある小さな建物だった。生い茂る木が本館からの視線を遮っている。


「更衣室でこちらの白衣と前掛けにお着替えください」


 ハンガーに夏衣をかけ、更衣を済ませると薄暗く湿った通路を進む。


――解剖室。


 扉を開ける前から腐臭が漂ってくる。施設側の兵がゆっくりと押棒に手をかける。


 まず飛び込んできたのは解剖台の上の白い布。そして胃の腑をえぐる匂いと申し訳程度の線香の煙。


――遺体は五体だった。


「所持品や認識票は波にさらわれてほぼ消失、顔面の軟部組織の崩壊も激しく視覚的な身元確認は困難な状態です」


 施設の衛生兵の説明が終わり、金井一曹が、そっと白布をめくる。


 夏の暑さと海洋生物による侵食で、遺体は損傷が激しい。藤澤は、込み上げる胃液をグッと堪《こら》えて口呼吸をした。


 死後硬直の峠はとうに越えている。むしろ弛緩が問題だった。


「死後硬直は疾《と》うに解けている。……だが、組織が脆く保持が困難だ。加えて腐敗が進み、舌が腫れ上がって奥が見えん」

「開口器と、大型の舌圧子《ぜつあつし》を用意します」


 野々山が躊躇《とまど》いなく手を伸ばし、腫れ上がった組織を的確に圧迫して視野を確保する。


 藤澤は探針とライトを駆使し、後でカルテと付き合わせるために、治療跡を丁寧に探す。


 暑さと湿気で背中がべっとりと汗で濡れる。ただ、二人目が終わる頃には暑さにも臭気にも身体が慣れていた。


 三人目は背の高い男だった。顔は崩れて見えないが、短く刈り込まれた髪、かろうじて残った夏衣の片袖には赤の識別桜徽章が張り付いている。


――衛生下士官だ。

『奥歯の秘密(前編)まとめ』


 藤澤は軍医長の宇佐美から横須賀の海軍病院に行くよう説明される。任務は歯列照合による遺体の身元確認。

 八丈島付近で軽巡『鳴瀬』が沈没し、伊豆に遺体が流れ着いたためだった。

 海軍病院の解剖室で、藤澤は五体の遺体に向き合うが、野々山に似た体格の遺体を前に手が止まってしまう……。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
「周りの艦に引き上げられて、白木の箱で帰宅済み」とあるのは箱の中身は遺骨ではなく、遺品だったのでしょうか? 撃沈された場合、引き上げてみて死体なら、そのまま水葬すると思うので、軍服の名前を見て遺品だけ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。