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奥歯の秘密(後編)

※前半、検死シーンですが前話に比べ描写が緩やかです。

 藤澤の手が止まった。目の前の遺体と野々山の姿が重なる。もし『奥羽』が沈んだら……。


 探針が手から滑り落ち、音を立てて床に転がった。それを素早く野々山が拾う。


「坊ちゃん、私はここにいますよ」


 他の者に聞こえない程度の囁き声だったが、藤澤はハッと我に返る。野々山の顔を見た藤澤の手の震えが止まった。


「汗で手が滑っただけだ」


 探針を受け取った後、平静を装い奥歯を覗く。


「ん、何だこれは?」


 大臼歯の側面にチラリと数字の様なものが見えた。


「野々山、頭部を下げて、下顎を少し広げてくれ。右上の第二大臼歯をよく見たい」


 野々山の片方の手が下顎に伸びる。開いた口のライトで照らした臼歯の側面には『31』の数字が刻まれていた。


 探針で表面に触れると、傷をつけた上に銀を流し込んでいるのが分かった。

 藤澤は何か引っ掛かるものを感じ、記録には残さずその数字を頭の中に留めた。


 四人目の検視、衣服は全て脱げ落ち手掛かりは何も無かった。


「野々山二曹、遺体の口を開けてくれ」


 口腔内を覗いた藤澤は思わず声をあげそうになった。

 右上の第二大臼歯、同じ場所に、同じ手法で数字が刻まれていた。今度の刻印は『4.0』だった。


 五人目に数字は無かった。念の為に一人目、二人目に戻るがやはり数字は無い。


 歯型の記録を終えたところで、施設の当番兵がやってきた。


「カルテは別室に用意してあります。その前に風呂にお入り下さい」


 藤澤は山口中尉とともに士官用個室風呂に野々山と金井一曹は下士官用の集団風呂へと案内される。


 石鹸を使い、何度も何度も手と身体全体を洗うが染み付いた死臭が取れない気がした。


 湿った髪のまま、本館の会議室に入ると二百冊のカルテが積まれていた。

 

 二等巡洋艦『鳴瀬』――宮城を流れる川を冠したこの船は遠く小笠原の海底に沈んだ。

 生存者はわずか八十六名。まだ百名以上が行方不明である。 


「まずは、所属が分かる二等衛生兵曹からだ」


 該当人物は二名。山口が一冊目のカルテを広げると、治療跡から身元はあっさりと分かった。


「私も拝見してよろしいでしょうか?」


 藤澤が、山口が広げたカルテを覗き込む。数字のあった歯には何の処置も書き込まれていない。


「『左下五』に治療痕があるカルテはこちらに寄せて下さい。『右上六』に治療跡があれば……」


 野々山がカルテを効率的に見られる様、分類の提案をしている。

 藤澤は、それを上の空で聞きながら、もう一人の二等衛生兵曹のカルテを開いた。治療痕が一致する。


――当たりだった。


 しかし、『4.0』が刻まれた歯に関してはやはり何も言及されていない。藤澤は私物の手帳を開き二人の名前と数字をそっと記録する。


 結局、医科歯科総出のカルテチェックの結果、一時間ほどで全員の身元が判明した。残りの三人はそれぞれ、主計少尉、機関兵、水雷兵だった。


「主計少尉の治療痕が、海軍病院にある記録より増えていましたが、寄港地で治療したとの情報がありました」

「そうか」


 野々山の報告に藤澤が頷く。

 治療の詳細までは分からないが、処置をした海南の歯科医科士官名に見覚えがあった。


 それは藤澤の同期、手越悠馬《てごしゆうま》だった。


「くそ、あのミステリ野郎か!」


 思わず声が漏れそうになる。手越は歯科大、そして海軍まで進路が同じ男だった。


 ミステリ小説狂で、常に何かを読んでいた。読み終わった本を藤澤に押し読みさせ、そして自分も小説家になるんだと物語を書き散らし、甘味を餌に藤澤に謎解きをさせていた。


「藤澤、まだまだ読みが甘いな」

「こんな破綻したトリック、誰が分かるんだよ!」


 読んだ後はいつも言い争いをしていた。


「アイツなら、くだらん謎を撒き散らしても、不思議はない……が」


 官報の戦死欄で『手越』の名を見つけたのはつい先月のことだった。


「とりあえず保留だ、保留」


 そう呟いてから山口の方を向き、姿勢を正す。

 手越が残したであろう謎は気になったが、身体に染み込んだ匂いを取ることが先決だ。藤澤は山口に帰艦前の寄り道を申し出た。


「山口中尉、最終の通船までにはまだ若干の時間があります。街の風呂屋に入ってから帰艦してもよろしいでしょうか?」


 山口がチラリと腕時計を確認した。


「まぁ、いいだろう。刻限には遅れるなよ。野々山二曹も行くのか?」

「はっ、ご許可頂けるのであれば」

「よし、許可する。今日はご苦労だった」


 外に出ると、日はすっかり落ち、雲の切れ間から星が覗いている。


 銭湯へと続く道で、藤澤は歯に刻まれた数字と手越の厄介な性格について野々山に話して聞かせた。


「……少し妬けますね」


 風に消される声で野々山が呟く。


「ん、太郎にぃ、何か言ったか?」

「いえ何も。31と4.0……少数点があると途端に分からなくなりますね」

「ああ、悔しいが全く分からん。ただ、手越は面倒な性格だが、遊びで人を傷つける奴では無い」


 藤澤が星空を見上げて歩調を緩める。


「それにだ、これを奥歯に彫り、なおかつ銀を流すのは、患者本人の協力が不可欠だ」

「二人とも衛生下士官というところに意味はあるのでしょうか?」

「それも分からん。ただ二人の出身と入営時期はバラバラだった。……あっ、風呂屋が見えたぞ!」


 藤澤が見えたばかりの銭湯の灯りに向けてワッと駆け出す。


「待って下さい、坊ちゃん。走ると危ないですよ」

「もう大人だ、転ぶものか」


 銭湯の前まで走った藤澤がピタリと足を止めた。


「太郎にぃ……艦(ふね)に財布忘れた」


 追いついた野々山がプッと噴き出す。


「はいはい、今日は私が奢りますよ」

「ラムネも良いか?」

「どうぞ」


 藤澤の顔がパッと輝く。財布を取り出しながら野々山がまた噴き出した。


「全く坊ちゃんは、祭りで私のお駄賃までラムネに消したあの頃とちっとも変わってないですね」

「そんなことは無いぞ。今日は銭湯の礼に太郎にぃの背中を流してやる。そして風呂に浸かって数字の謎を解こうじゃないか!」


 銭湯からの帰り道、少し涼しさを増した夜風が長風呂で熱《ほて》った身体に心地よく吹き付ける。


「のぼせる寸前まで考えたが、結局分からなかったな。まぁ、温《ぬく》もった分、ラムネは美味くなった」

「ええ、そうですね」

「時間はたっぷりある。『奥羽《うち》』に帰って考えようぜ」


 坂を下る二人の前遠くに、戦艦『奥羽』の光がぼんやりと灯っているのが見えた。

【ミニコラム】

 こちらに検視と歯の話を持ってくればよかったと後悔中。

 まだ論文段階ではありますが今年(令和8年)8月に東京科学大学が『たった1本の歯から出生年・死亡時年齢・居住地域・薬物使用歴・性別・DNA型の6種類の法医学的情報を統合的に取得できることを世界で初めて実証』と発表いたしました。すごいですね。


 ところで皆さまは『検死』と『検視』の違いがわかりますか? 

 『検視』は法律用語です。刑事訴訟法に基づいて行われる、遺体の外表面の調査のことを指します。

 一方の『検死』は定義が曖昧で、死因を調べること全般を指します。検視・検案・解剖をまとめていう場合もあります。ミステリを読む際に、ちょっと意識してみてくださいね。


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