雨の花(前編)
「31と4.0か……いや全く分からん」
検視の翌日、藤澤は歯科治療室で、昨日の数字と向き合っていた。紙の上に推論を書いては消し、書いては消ししている。
「3.1と4.0なら、視力か……。いや、そんな場所に視力は書かないな」
野々山は、横須賀で補給された物品のリスト化に精を出しており返事がない。
「太郎にぃも何か考えろよ」
「私がですか? そうですね、消毒薬の在庫数とか?」
「そんなもんは歯に彫らんだろ。第一、在庫数は変動する」
「変動しない固定の数字となると、年次や何かの型式でしょうかね」
「年次に少数点は使わないだろう」
その時、治療室の扉がノックされた。藤澤は数字が書かれた紙をくしゃくしゃと丸め、慌てて屑籠へと捨てる。
野々山が扉を開けると、そこに居たのは鹿島艦長だった。
「藤澤少尉、昨日はご苦労だった。今晩は、私の宴席に付き合え。美味い塩羊羹が出る料亭だ」
鹿島が白い歯を見せてニヤリと笑う。何かまた依頼があるのだろう。
しかし、それを差し引いても魅力的な 「塩羊羹」という響きに、藤澤の瞳がキラッと輝いた。
「料亭でも、呉でもパラオでも、どこへなりとお供いたします」
「それは頼もしい。実は料亭の女将が歯の着色を気にしているのだ。腕の良い歯科医が居ると話したらぜひ一度会いたいと言われてね」
「歯のことならお任せ下さい」
「よし、交渉成立だな」
鹿島は片手を挙げ、軽く片目を閉じると、上機嫌な様子で歯科治療室を後にした。
「太郎にぃ、塩羊羹だってさ」
「羽目を外さない様に気をつけて下さいね」
「分かってるよ」
口ではそう言いつつも、藤澤は明らかに浮き足立っている。数字の事など忘れた様にご機嫌な様子だ。
「太郎にぃ、診察道具を適当に詰めておいてくれ」
「坊ちゃん、今回私は同行しません。道具がすぐに出せるよう、準備をしっかり見ておいてください」
野々山の説教に、藤澤が少し口を尖らせる。
「準備など見てなくとも大丈夫だ」
野々山は軽くため息をつくと、それでも取り出しやすいようにと、小さな往診鞄の中へ器具を丁寧に入れ始めた。
「歯の漂白であれば、ミョウバンはどういたしましょう」
「一応入れておいてくれ」
約束の刻限になり、藤澤が鞄を手に上甲板へ向かうと、出入り口から雨が吹き込んできた。通船の艇長が上から藤澤に声を掛ける。
「少尉、夕立がきております。雷もあるため、過ぎ去ってから通船を出します。しばらくお待ちください」
「せっかくの塩羊羹が遠のいていく……」
吹き込む雨を避けながら藤澤がボヤいていると、背後から爽やかな笑い声が聞こえた。
「藤澤少尉。天候には勝てんよ。横須賀の夕立は激しいが、通り過ぎるのも早い。雨が上がれば、格好の涼み時だ」
いつの間にか、私服の背広に身を包んだ鹿島艦長が立っていた。小脇には上陸用の私物の鞄を抱えている。
「艦長。雷まで鳴っていては、料亭に着く頃には夜になってしまいます」
「焦るんじゃない。雨上がりの庭を眺めながら食す塩羊羹は、また格別なものさ。それまでに、女将の歯をどう白くするか、しっかり考えておきたまえ」
それから半時間ほどして、嘘のように雨雲が割れた。夜空には星が輝いている。
「雨、上がりました! 通船、出せます!」
艇長の力強い声が甲板に響いた。鹿島をはじめ、数人の士官が通船に乗り込み、藤澤も後に続く。
雨に濡れた夜の横須賀の街へと、内火艇が滑り込んでいく。
艦長御用達の料亭「むらさき」は、港からほど近い場所にあった。
車は頼まず、雨上がりの道を一行は歩いて行った。水たまりに横須賀の灯りがゆらゆらと揺らめく。
「藤澤少尉、『むらさき』は初めてか?」
髭が自慢の砲術長が、藤澤に声をかけた。
「あ、はい。料亭自体、さほど経験がなく」
「そうか、まだ君は若いからな。数年前であれば横須賀ももっと華やかであったが、今は戦時だ。とは言え、明日からの活力に、こういった息抜きも必要だ」
「はあ……」
往診鞄を抱え直しながら、藤澤は曖昧に頷いた。
やがて、黒板塀に囲まれた格式高い門構えが見えてくる。
夕立に濡れた石畳の奥に、控えめな灯りを宿した看板がある。
――料亭「むらさき」。
その名の通り梅雨の頃には、庭を大輪の紫陽花が彩っていたのだろう。
だが、立秋を目前に控えた庭園の紫陽花は剪定がなされ、育ちきった青葉が生い茂っているだけで、花は跡形もない。
「いらっしゃいませ。鹿島様、『奥羽』の皆様、お待ち申し上げておりました」
出迎えたのは、すっきりと髪を結い上げた、いかにも格調高い料亭の匂いがする女将だった。
背後に控えた男衆や若い芸者たちが、一斉に頭を下げる。
「やあ女将。夕立に捕まってね、少し遅くなってしまった」
鹿島艦長が鷹揚に笑い、履き物を脱いだ。
「まぁ、お怪我などはございませんでしたか」
「少々の雨にやられるようでは、軍人は務まらんよ」
「ほほほ。これは差し出がましい心配をしてしまいましたわ」
女将は袖で口を隠して軽く笑った後、藤澤の持つ往診鞄に目を留めた。
「そちらの若いお方が、お話に伺っていたお医者様で?」
「ああ。我が艦が誇る腕利きの歯科医士官、藤澤少尉だ。女将の悩みを一発で解決してくれると思って連れてきた」
「これは藤澤先生、わざわざお道具までお持ちいただいてありがとうございます」
女将が足を揃え、深々と頭を下げる。
「あ、いえ。一応、念のためでして」
女将の丁寧すぎる挨拶に冷や汗をかきながら答える。
「さあ、どうぞお上がりください。『奥羽』の皆様のお席は、奥の離れにご用意してございます」
女将に促され、藤澤たちは畳の廊下を進んでいく。
「お暑い中歩いてお疲れでしょう、まずは冷たいお通しから始めさせていただきますね」
庭に面した座敷へと案内され、それぞれが席についた、まさにその時だった。
渡り廊下を隔てた賑やかな大座敷の方から、若い女の短い悲鳴が響いてきた。
「キャッ!?」
「おい、どうした!」
「しっかりしろ!」
続いて聞こえてきたのは、男たちの慌てふためく声だ。
入り口に一番近い席の藤澤が廊下に顔を出すと、若い芸者がうずくまり手拭いで口を押さえているのが見える。
「女将さん、大変だ! お千代が急に苦しみ出して……!」
若い男衆が真っ青な顔で叫ぶ。女将の顔から一瞬で血の気が引いた。
「藤澤少尉、診てやれ」
鹿島が上座から藤澤に声をかけた。
「しかし、私は歯科医でして……全身疾患は……」
「それでもだ。この中では少尉が一番医学に詳しいだろう」
鹿島の鋭い声に背中を押され、藤澤は往診鞄を手に取り座敷を出た。
若い芸者は、手拭いで口を押さえたまま苦悶の表情を浮かべている。同じ年頃の芸者が心配そうにその背中をさする。
藤澤の目は、手拭いに吐き出された「細かく千切れた緑の葉」にくぎ付けになっていた。




