雨の花(後編)
「気分が悪いのは、この子かな?」
藤澤がお千代の背中をさする芸者に尋ねる。
「はい、お千代と申します」
「お千代さんは宴席で、何か口にしましたか?」
「ええ、三十分ほど前に、先付で出された鰻の煮凝りを。お客様が苦手とおっしゃられ、お千代が代わりにいただきました」
「女将、その煮凝りを見せてもらえるか。器に盛り付けた状態のままで頼む」
藤澤の言葉に女将が目配せをすると、若い男衆が走り出す。そして硝子の器を手にとんぼ返りで戻ってきた。
洒落た硝子の浅い椀に、琥珀色に透き通る美しい煮凝りが盛り付けられており食欲をそそる。
煮凝りの下には飾りつけに「濃い緑の葉」が敷かれていた――。
「おそらく、これが原因だな」
藤澤が煮凝りの椀を繁々《しげしげ》と見つめた。
「食中毒でしょうか……?」
心配そうに眉を寄せる女将に、藤澤は首を横に振った。
「中毒は中毒だが、いわゆる食あたりではない」
藤澤が、お千代の横に腰を屈めた。
「お千代さん、もしかして煮凝りの下の葉も一緒に食べてしまったかい?」
お千代が、青い顔のまま小さく頷く。藤澤が女将の方に顔を向けた。
「女将、これは紫陽花の葉だな」
「はい、飾りに使う笹の葉が近ごろは手に入れ難く、庭にある紫陽花の葉を代わりに敷いておりました」
それを聞いた藤澤は、何か遠い記憶を呼び起こすように、ふっと宙を見上げた。
「毒の種類は花によりまちまちだが、紫陽花の葉には『毒』がある……」
周りの視線が藤澤に注がれる。女将は毒という単語に驚いたのか口に手を当てた。
「私も幼い頃、誤って葉を食べてしまったことがあるんだ。あの時は激しく吐いて、えらい目に遭った」
藤澤の目が遠い昔を懐かしむ色になる。
「町医者には『紫陽花には毒がある。たまに犬猫が食べて吐いとるわい』と、こっぴどく叱られたものさ……」
藤澤は立ち上がって女将の方を向き、表情を引き締めた。
「一枚であれば大事には至らんと思うが、念のために医者で診てもらいなさい」
藤澤が集まった面子をぐるりと眺めた。調子の悪そうな者は居ない。
「今のところ、他に症状が出た者は居ないようだな。皆に、葉を食べていないか確認を。今後、飾りに紫陽花の葉は使わぬように」
その後、万が一を考えて献立の一部が変更されたものの、艦長主催の宴席は滞りなく行われた。 心なしか、藤澤の料理の盛りが良い。
水菓子が出る前を見計らい、艦長が藤澤を手招きする。
「女将があちらの部屋にいる。歯を診てやってくれ」
艦長に連れられ、少し離れた小さめの個室に入ると、女将が正座をして待っていた。
「先程は、お千代を診て下さりありがとうございました」
女将が畳に擦り付くほど深く頭を下げた。
「いやいや、医者として当然のことをしたまでです。さ、歯を見せて下さい」
藤澤は女将の前に座り、往診鞄を開いた。鞄の中には、藤澤の好みまで把握した完璧な並びで診察道具が揃えられている。
内心で野々山に感謝しつつ、藤澤は手早く準備を整えた。
「では、少し失礼。口を開けて」
女将の顎に軽く手を添え、口腔内をライトで照らして観察すると、右上の第二小臼歯が黒く変色しているのが見えた。
「治療に使ったアマルガムの硫化か……。削って別材料へ置換、もしポーセレンインレイ(陶材の嵌め込み)ができれば、かなり見栄えが良くなるが」
ライトを切りながら藤澤が小さくため息をついた。
「今は作製が無理だ。開戦前にあった外国産の質の良い珪酸セメントも入手が難しい……」
「先生、私の歯はもう綺麗には戻らないのでしょうか……」
藤澤の呟きを聞き漏らさなかった女将が、すがるような目を向けた。人前に立つ商売柄、口元の見栄えは死活問題なのだろう。
「方法はありますよ。知り合いの伝手を当たってみましょう。横浜で開業している友人のところであれば、良いセメントが残っているかもしれない」
「藤澤先生、ありがとうございます」
女将はまた深く頭を下げた後、傍に置いてあった風呂敷包みをうやうやしく差し出した。
「鹿島艦長から、先生は甘いものがお好きだとお聞きしました。お千代の件も含めてささやかながらお礼の塩羊羹でございます」
藤澤は口元が緩まないよう細心の注意を払い包みを受け取った。
宴席がお開きになり、土産を片手に上機嫌で通船に乗り込んだ藤澤は、鹿島がいないことに気づいた。
横にいる砲術長にそれとなく聞いてみる。
「あの……艦長は?」
「今日は外泊だ。野暮なことは聞くな」
砲術長は髭を撫でつけ、苦笑をしながら藤澤に耳打ちをした。
――『奥羽』に戻った藤澤は、そのまま歯科治療室の方へと足を向けた。
もう深夜に近いというのに、扉の下から薄明かりが漏れている。
「太郎にぃ、ただいま」
ノックもせずに扉を開けると、野々山が驚いた顔で振り向いた。傍らには未整理のカルテが山と積まれている。
「まだ仕事をしていたのか。それより、土産だ」
藤澤はそう言って、ずっしりと重い風呂敷包みを野々山の手元へ差し出した。 包みを受け取り、開いた野々山が藤澤の方を見た。
「これはまた立派な羊羹ですね。明日以降のおやつにお出しいたしますよ」
「太郎にぃへの土産だと言ってるだろ」
野々山が、先ほどよりさらに驚いた顔で藤澤を見つめた。
「坊ちゃん、何か悪いものでも食べられましたか? ほら、小さい頃に『桜餅の葉っぱに似てる』と紫陽花の葉を食べてしまった時のように」
藤澤の背に、野々山が当てた手の温もりが蘇る。嘔吐に苦しむ背中をさすり、藤澤に一晩中寄り添ったのは野々山だった。
「昔話はやめろ。あと、あの時は朝まで付き添ってくれて……ありが……やはり土産はやらんことにした」
藤澤は少し耳を赤くし、羊羹の包みの方へ慌てて手を伸ばすのだった。




