ショカコーラ(前編)
――昭和十八年、十二月。
「ドイツ、ばんざーい!」
甘味が生きる意味である、藤澤芳樹少尉は、いつになくご機嫌だった。
クリスマスを前に、同盟国であるドイツから「共に戦う日本の友へ」と大量のチョコレートが輸送され、その配給にあずかったからだ。
支給された缶入りチョコを机に置き、ニタニタと見つめている。
「太郎にぃ、とっておきの紅茶あっただろ。弗素の瓶の裏んとこ」
「はいはい、坊ちゃん。ちょっと待ってくださいね」
太郎にぃこと野々山太郎二等衛生兵曹が、やかんに水を入れ、慣れた手つきで薬品棚の奥から、茶葉の入った小さな銀色の缶を取り出した。
電熱線の上に置かれたやかんが沸騰するまでの間、藤澤は久しぶりに引き出しから一冊のノートを引っ張り出した。
表紙に描かれた『甘味横取リ犯探シ帳』に二重線が引かれ『数字ノ秘密探シ帳』に書き換えられている。
「31と4.0……日付や時刻というのはどうだ? 例えば4月31日だ」
「坊ちゃん、4月は30日までしかありません。ただ確かに31は日付けのようにも見えますね」
やかんからシューシューと音を立てて白い湯気がたちのぼる。
「ああ、お湯が沸きましたね」
茶葉に熱湯を注ぐと、戦艦『奥羽』の歯科治療室に、薬品の匂いを上書きするがごとく華やかな紅茶の香りが立ち上る。
「潜水艦で命がけで運ばれてきたんだ。一口一口、慈しむように食べなきゃバチが当たる」
紅茶を出された藤澤が表情を蕩けさせながら、赤い缶を開ける。現れた円盤状のチョコレートをパキンと割ると、黒光りする一片を摘み上げた。
カカオの濃厚な、そして少し尖ったような香りが鼻腔をくすぐる。藤澤の口内には、すでに唾液が溢れていた。
「さあ、記念すべき第一投――」
藤澤がチョコの欠片を口に運ぼうとしたその時、治療室の重厚な鉄扉が、まるで砲撃でも受けたかのような勢いで叩きつけられた。
「藤澤軍医! 急患です!」
水兵長に連れられてきたのは、口元を血で染め、顔を歪めた機関科の二等水兵。
そして、その横で頬を腫らし、不機嫌そうに視線を逸らしている主計科の二等水兵だった。
主計兵の方は、よく見ると右手の拳が赤く腫れ上がっている。
「……なんだ、騒々しい」
藤澤の手が止まる。チョコの欠片が、口からあと数センチというところで空を切った。
「喧嘩か。威勢がいいのは結構だが、俺のティータイムを邪魔した罪は重いぞ」
機関兵が、主計兵を指差しながら怒鳴り散らした。
「少尉! こいつ……この主計の野郎が、いきなり殴りかかってきやがったんです! 前歯が、俺の歯がッ!」
藤澤は溜息をつき、チョコを未練がましく缶に戻した。立ち上がった瞬間に歯科医の目になって機関兵を診療台へ促す。
「野々山二曹、光源を。……どれ、口を開けてみろ」
覗き込んだ瞬間、藤澤の眉がピクリと動いた。
右上の中切歯は、歯槽骨から綺麗に脱臼し、すっぽりと抜け落ちていた。そして臼歯の溝に、わずかなチョコレートの残渣がこびりついている。
「脱落した歯はあるか?」
問いかけると、それまで黙り込んでいた主計兵が、ポケットから清潔な手拭いに包まれた「歯」を差し出した。手拭いの内側は適度に水で湿らせてある。
主計兵の目は恐ろしいほどの三白眼だった。その瞳には、後悔の色など微塵も見えない。
「……ほう。保存状態は悪くない、再植すればいけそうだ。野々山二曹、処置の用意を」
野々山が脱臼した歯を速やかに保存液に浸け、手際よく器具を並べ始める。その間に藤澤は、主計兵を射抜くように見据えた。
「おい、主計。お前が先に手を出したのか」
「はい」
主計兵は短くそれだけを答えた。しばらく待つも続きはない。
「理由は?」
「……申し上げられません」
「変わった奴だな。名前は?」
「……阿久津勝二等水兵です」
阿久津はそれだけ答えると、一歩下がって壁際で直立不動の姿勢をとった。
その頑なな態度は、単なる軍規への服従ではなく、何かを死守しようとする固い意志のようにも見えた。
「機関兵、お前はどうだ。心当たりはないのか?」
藤澤は診療台に座る機関科の兵を覗き込んだ。ライトに照らされた顔面は、痛みのせいか、あるいは何かを隠している後ろめたさからか、落ち着きなく引き攣っている。
ふと、藤澤の目が止まった。目の前の兵が着ている水兵服の胸元に、わずかながらに動物の毛のようなものが付着していた。
藤澤はそれを摘みあげ、しげしげと見つめる。短めの白い毛に茶毛が僅かに混ざっていた。消毒ガーゼで指をそっと拭う。
「俺は、いや、私は、ただ……ね……いや、なんでもねえ! こいつが急に、狂ったみたいに殴ってきたんです!」
機関兵が慌てたように言葉を飲み込んだ。
「藤澤少尉、準備ができました」
野々山の落ち着いた声で、張り詰めた会話が途切れた。
藤澤は、未だに背後で石像のように立つ阿久津の視線を背中に感じながら、診療台にいる兵に短く「口を濯げ」と命じた。
――ここからは歯科医の仕事だ。
藤澤は野々山と目配せを交わすと、脱臼した中切歯の再植作業へと取り掛かるのだった。




