↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
15/16

ショカコーラ(後編)

「歯が固定するまで数週間はかかる。その間は大人しくしていろ。前歯でものを噛むな。さてと、次は主計兵の方だ。……そこへ座れ」


 機関兵の再植処置を終えた藤澤は、診療台に座るよう阿久津に促した。阿久津が大人しく腰を下ろす。

 水兵服の袖から覗く右腕の筋肉が、左に比べて不自然なほど優位に発達しているのが見て取れた。


「頬に赤みはあるが、歯も顎の骨も、異常なし。……よし、あとは上官と適当に話し合え」


 阿久津は立ち上がり一礼すると、兵長の前へ機敏に歩いていく。


 阿久津の口腔内を一通り検分した藤澤は器具を置き、手洗い場へと向かった。

 石鹸の泡で指先をゆっくりと洗いながら背後で交わされる会話に聞き耳を立てる。


「阿久津、本当に理由もなく殴ったのか? もしそうなら、最低一週間は船倉(せんそう)で懲罰だぞ……」


 二人を連れてきた兵長の声には、困惑が混じっていた。主計科の先任者なのだろう。兵長の不自然な言い淀みに、藤澤が鏡越しに疑問の視線を投げた。


「兵長。何か、そいつを庇うような事情でもあるのか?」

「はっ。……阿久津は、その、肉の扱いが異様に上手く、士官用の肉の下処理を任せております。あいつが手を入れ始めてから、厨房の評判がすこぶる良くて……」


 藤澤は濡れた手を拭いた後、顎に手を当てて考え込んだ。


「そう言えば、最近……肉が美味いな。物資は不足してきているはずなのに、筋っぽさが消えて驚くほど柔らかい」


 藤澤は、壁際で再び直立不動に戻った阿久津を、探るように見つめ、阿久津の前へと歩み寄った。頭ひとつ分背の高い相手に対し、負けないようにと胸をぐっと張る。


「阿久津、海軍(ここ)に来る前は何をしていた?」

「食肉に関する仕事です」

「ふーん。それにしては物言いが随分と上品だな。野々山二曹、主計科で身上書をもらってきてくれ」


 藤澤の言葉に、阿久津の眉がわずかに動いた。


「……藤澤少尉。兵長に席を外すよう、お願いできないでしょうか」

「だそうだ」  

「治療室の外で待機いたします」


 藤澤の促しに、兵長は軽く頭を下げ歯科治療室を出て行った。


「食肉処理場に勤務していたのは本当です」


 その言葉を聞いた藤澤の唇が、きゅっと左右に開いた。

 綺麗な歯並びの白い歯が覗く。藤澤が、そっと自分の鋭い八重歯を指差した。


 阿久津が、諦めたように、短く言葉を吐き出す。


「……dentes(デンティス) canini(カニーニ)」


 阿久津の眉がほんの僅かに動いた。藤澤がニヤリと笑い、消毒ガーゼに貼り付いている動物の毛を摘み上げて、歯の抜けた兵の方を向き直る。


「お前ら、猫を隠して飼っているな。おい、機関兵、その猫に、チョコレートを食わせようとしなかったか?」

「へっ……? いや、その、珍しいもんなんで、ミケも喜ぶかと思って……」

「やはり猫を飼っていたか。猫にとってチョコレートは毒だ。まぁ、俺も生理学の講義で『毒になる』と聞きかじった程度だがな」


 藤澤は顎で、壁際に立つ阿久津を指し示した。


「……そこの主計兵の方が、よほど詳しいはずだぜ。なぁ、獣医殿?」


 機関兵は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で阿久津を凝視し、阿久津本人は、重い溜息をついて三白眼をぎゅっと細めた。


「……どこで獣医と分かりましたか?」

「まずは適切な歯の保管方法。あとはその物腰と右腕の筋肉。食肉検査場で枝肉のリンパ節を切り続けたからついたんだろ? 」


 藤澤が大きく歯を見せて笑った。


「まぁ、確信はなかったから『犬歯』を投げてみた」


 阿久津は、藤澤が机に置いたチョコレートの赤い缶に視線を落とした。


「猫や犬にとって、チョコレートに含まれる『テオブロミン』と『カフェイン』は中毒の原因になります。彼らはテオブロミンの代謝機能が極端に低いですから」

「つまり……どういうことだ?」


 戸惑う機関兵の問いに、阿久津は静かに、しかし断固とした口調で答えた。


「悪くすれば死にます。あのチョコレートは軍用でカフェインの量も多い。しかし……咄嗟(とっさ)とは言え、力加減を誤って殴ったことは謝罪します」


 阿久津は機関兵に対し、深々と頭を下げた。


「そういうことなら……仕方がねえな。こっちも無知で悪かった。殴り返してすまねぇ」  


 機関兵も、気まずそうに詫びを返す。


「で、なんで黙っていたんだ? 私に事情を話せば済むことだろう」  


 藤澤の問いに、阿久津の声がわずかに震えた。


「それは……猫の存在が大っぴらになれば、万が一があるかと思いまして……。軍紀を盾に、猫が海へ放り出されるようなことになればと、それが怖かったのです」


 治療室に、重苦しい沈黙が流れる。海軍において、彼の懸念は決して大袈裟なものではなかった。


 その沈黙を切り裂くように、重厚な鉄の扉が勢いよく開いた。


「――ほう。この私が、そんな冷血漢に見えるか?」


 立っていたのは艦長、鹿島豊大佐だった。その腕には、抱えきれんばかりのチョコレートの赤い缶がある。


「鹿島艦長……!」

「チョコレートがだいぶ余ってな。藤澤少尉、君にやろうと思ってわざわざ足を運んでみれば……面白い話をしているじゃないか」


 鹿島は治療室に一歩踏み込むと、戸惑う二等水兵たちを、鋭くそれでいてどこか愉快げな視線で射抜いた。


「猫を海に流す、か。……軍紀は厳格に守るべきものだが、私はそこまで情緒のない男ではない。よし、まずはその猫に会わせてもらおうか」

「野々山二曹、チョコレートをお預かりしろ! 猫に会う時邪魔になる。そして何より艦長の気が変わったら困る!」


 藤澤の悲鳴に近い叫びに、野々山が苦笑しながらも機敏に動いた。

 鹿島の腕から崩れ落ちそうになっていた赤い缶の山を、器用にすべて受け止める。


「承知いたしました、少尉。……艦長、これらはすべて歯科治療室にて『厳重に保管』いたしますので、ご安心ください」

「太郎に……ごほん、野々山二曹、私も猫を見に行く。留守は頼んだぞ!」


 機関兵の案内で治療室を出る鹿島の後を藤澤が慌てて追う。


「坊ちゃんは昔から動物がお好きですからねぇ」


 野々山がチョコレートを抱えたまま、温かな視線で藤澤を見送る。


 機関科の物置でこっそりと飼われていたミケは、実に見事な美猫であった。


 三ヶ月前、戦艦『奥羽』に運び込まれた資材箱に紛れ込んでいたのだが、その愛らしさで機関科や主計科の面々を虜(とりこ)にし、今日に至ったのだ。


 ミケは鹿島が近づくのを見るなり、「ミャア」と短く鳴いてその足元に頭を擦りつけ、まるで旧知の仲のように懐いてみせた。


「ははは、可愛いやつだ。……それに、どこかで見た顔だな」


 鹿島がひょいと抱き上げると、ミケは目を細めてゴロゴロと喉を鳴らす。

 鹿島はその柔らかな毛並みを満足げに撫でながら、確信に満ちた声で宣言した。


「舞鶴のよし子に似ている。……よし、お前の名は今日から『よし子』だ」

「……よし子」


 背後で藤澤が、そして阿久津が、力なくその名を復唱した。  

 戦艦『奥羽』の非公認マスコットが、艦長の「公認」を得たまさにその瞬間であった。


「艦長、私も触ってよろしいでしょうか?」

「ああ、いいぞ」


 藤澤が腕を伸ばすと、よし子がペロリとその手を舐めた。ざらりとした舌触りが懐かしい。


「ふふ、くすぐったいな」


 藤澤は破顔したあと、阿久津の方を見た。


「ところで、阿久津。お前はなんで海軍(うち)に居るんだ? 獣医であれば馬の医者として、陸軍(りくさん)に行ったら士官だろうに」


 藤澤の素朴な疑問に、阿久津は少し悲しそうな、それでいて遠い目をして「よし子」に一歩だけ近づいた。  


 すると、先程まで鹿島の腕でご機嫌だったよし子が、突如として「フーッ!」と背中の毛を逆立て、阿久津に向けて威嚇を始めた。


「……これですよ」


 阿久津は、伸ばしかけた手を寂しく下ろした。


「私はなぜだか、絶望的に動物に嫌われてしまうのです。下手に陸軍で獣医官になり、軍馬に迷惑をかけるよりはと、海軍に志願して参りました」


 その言葉を聞いた藤澤は、喉まで出かかった「お前、その話は本当なのか?」という言葉を飲み込んだ。


 動物に関する知識と、目の前の美猫の拒絶反応が、何よりの証明であった。


「……なるほどな。動物の体は熟知しているが、動物には毛嫌いされる、か。お前もなかなか大変だな」


 藤澤はそう言って、阿久津の肩を軽く叩いた。  


 自分の命を救ってくれた恩人に牙を剥くよし子と、それを悲しげに見つめる「元獣医」の二等水兵。


 藤澤は、野々山が待つ治療室に山積みされたチョコレートを思い出し、少しだけ阿久津に同情しながら、その場を後にした。


 歯科治療室の扉を開けると、そこには紅茶の芳しき香りが漂っていた。


「坊ちゃん、お帰りなさい。紅茶、淹れ直しましたよ」

「流石、太郎にぃだ。早速、チョコレートを頂くとしよう」


 藤澤はユニットの脇の机に勢いよく腰掛けると、先程食べ損ねた欠片(かけら)を摘まみ上げ口に放り込んだ。


「……うーん。美味いが、あまり甘くは無いな」


 不満げに眉を寄せた藤澤が、野々山を手招きした。


「ほら。太郎にぃ、口を開けろ」


 言われるがままに野々山が口を開けると、藤澤は大きめな欠片を放り込む。


 野々山は何度か咀嚼し、その苦味を味わうように飲み込むと、ふふっと表情を崩した。


「……少尉のチョコも、甘くないですね」

「うるさいな。……ちなみに、来月からは『中尉』だぞ」


 藤澤は不貞腐れたように言い返すと、紅茶をゆっくりと喉に流し込むのだった。

【ミニコラム】

挿絵(By みてみん)


 ショカコーラはドイツのチョコレートで、第二次世界大戦中はドイツ軍の戦闘糧食としても採用されました。


 現在は8分割されていますが、当時は円盤状で二枚入りだったそうです。

 さてこのショカコーラ、ドイツ軍では在庫管理のために3年間貯蔵し、4年目に出していたようで、写真の缶が流通するのは1943年ということになります。


 あれ、坊ちゃんがチョコを食べたのは昭和18年のクリスマス!!この缶、坊ちゃんが食べた後のものかもしれませんね。


(参考 チョコレートとショカコーラの豆知識)

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。