カスター・プリン(前編)
――昭和十九年、一月。
「明日の昼はデザートに、カスター・プリンか」
戦艦『奥羽』、士官次室の掲示板。
藤澤芳樹歯科医中尉は、貼り出された翌日の献立表を見つめながら、ニヤニヤと口元を緩ませていた。
首元の襟章には増えたばかりの、二つ目の桜花が光っている。
――今月はまだ小遣いに余裕がある。賄方に掛け合って、追加の食費を払えば二個食えるだろうか。
濃厚な卵のコク、焦がしたカリメラ(カラメル)のほろ苦い甘み。想像しただけで口の中に唾液がじわりと溢れ出してくる。
「中尉、何をニヤついておられるのですか」
背後から声をかけてきたのは、当直明けの若い航海士、遠山少尉だった。藤澤は慌てて真顔に戻り、咳払いをする。
「いや、明日の海象を気にしていたところだ。……では、私はこれで」
「中尉、今夜は海が――」
遠山の話を振り切り、早足で次室を後にした藤澤は、角を曲がるやいなや、スキップ混じりの足取りで歯科治療室へと急いだ。
「太郎にぃ、明日の昼、士官用デザートにカスター・プリンが出るんだぜ? 最近久しくプリンを見てなかったからな」
その日藤澤は一日中、事あるごとにプリンの話を野々山に振っていた。
「ふう、今日は一日平和だったな」
「坊ちゃんが一日中プリンのことしか口にしなかったことを除けば、ですがね」
野々山がカルテの束を揃えながら、呆れたように小さく息を吐く。
「明日のプリンを楽しみに、今夜はさっさと寝るとしよう」
藤澤が大きく伸びをして治療室の扉を閉めた――まさにその数時間後、戦艦『奥羽』は暴れ狂う玄界灘の洗礼を受けることになる。
急激に発達した低気圧により、海は大時化に見舞われたのだ。
「うわぁっ!?」
藤澤は、地面に叩きつけられたような感覚に襲われて目を覚ました。ベッドからは落ちてはいない。
寝ぼけ眼を擦ると直ぐに次がくる。
上下に激しく揺れる艦内で、遠くから何かが激しくぶつかり合う音と罵声が響いてくる。
藤澤は急いで着替えると、治療室へと向かった。
通路を進む間も、下から持ち上げられ身体が重くなり、次に落下。
浮遊感を腹に感じた後、水面に叩き付けられたような衝撃。これの繰り返しである。
「太郎にぃ! 治療室の薬品棚は無事か!?」
「夕方のうちにすべて固定索で縛ってあります! 坊ちゃんは頭を打たないよう掴まっていてください!」
野々山の頼もしい声が響く。その後に続く顔面外傷者の治療。結局、一睡もできぬまま、夜が明ける頃、ようやく海は静けさを取り戻しはじめた。
――翌朝。
睡眠不足で目を腫らしている藤澤の元へ、ノックもそこそこに一人の男が滑り込んできた。
主計科の阿久津二等水兵だった。相変わらずの三白眼に、今日は疲労の色が濃く滲んでいる。
「……藤澤中尉」
「おお、阿久津。昨夜の時化は酷かったな。よし子は無事だったか?」
「ええ、よし子は毛布の寝床に籠城して無事でした。私は少し唇を切ってしまいましたが」
阿久津の顔に、下唇から顎にかけ三センチほどの裂傷ができていた。
「凄みを増したな、ますます堅気に見えなくなった」
「やめてください」
「ははは、悪い悪い。どれどれ、傷は浅いな。縫わなくても良かろう。口をあまり開かぬように」
手早く消毒を済ませたが、相変わらず阿久津の表情は暗い。
「どうした? 傷が痛むのか?」
「いえ、厨房の冷蔵庫に少々問題が起きまして……」
「冷蔵庫?」
藤澤が首を傾げると、阿久津は絞り出すような声で告げた。
「昨夜の猛烈な横揺れで、食材固定用の閂が破断しまして……今航海のために積み込んでいた生卵の木箱が、全滅いたしました」
治療室の空気が、一瞬にして凍りついた。
「……全滅?」
「はい。卵はコンクリートの床一面にぶちまけられ、細かく砕けた殻と黄身が混ざり合い、もはや選別も不可能な惨状です。衛生面から見ても、とても口には入れられません」
阿久津が深々と頭を下げる。藤澤の肩が小刻みに震えはじめた。
「きょ、今日のプリンは?」
「……本日の士官用デザート『カスター・プリン』は、中止となりました」
ピシリ、と藤澤の中で何かが砕け散る音がした。 藤澤はよろよろと椅子に腰掛け診察机に伏した。
「俺の……俺のプリンが…… カリメラが……卵のコクが……」
「中尉、気をしっかり持ってください。時化では仕方のないことです」
野々山が優しく諭すが、藤澤の耳には届かない。魂が口から抜けたかのように机の前から動けずにいる。
そこへ通路から重い足音が近づいてきた。
「……藤澤中尉は……おられますか?」
入ってきたのは、昨日士官次室で会った航海士の遠山だった。
遠山は顔面を苦悶に歪め、右の手のひらで頬骨から顎のあたりを必死に圧迫している。
野々山が素早く駆け寄り、診療台へと誘導する。藤澤も机を離れ、直ぐに診察台の横へと立った。
「怪我をしたのか? 口を開けてみろ」
藤澤が先任らしく堂々とした口調で告げると、遠山おずおずと口を開いた。
「痛っ……!」
遠山は、一センチ程度口を開けたところで、短く呻いて再び顔を押さえた。
「歯が……奥歯が猛烈に痛んで。それに顎が突っ張って、口がろくに開きません……」
「野々山二曹、探針と光源を。遠山少尉、指二本分くらいなら入るか?」
遠山が痛みに耐えながら、辛うじて口を隙間ほどに開ける。藤澤は小型電灯で口腔内を手早く照らした。
第一、第二大臼歯ともに、目立った齲蝕はない。打診痛もなく、歯肉の腫れも見当たらなかった。




