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齲蝕(後編)

「昨日の夜、母は『歯の痛みがない』と久しぶりにきちんと夕食を食べ、早めに床につきました」


 足立の姉は、着物の袖で目元を押さえながら声を震わせた。


「私が夜中に水を飲もうと起きた時には、まだ布団におりました。しかし、朝になって見ましたら姿が無く……」

 

 藤澤が物凄い勢いで母屋へ駆け込む。余裕がなく、土間にハの字になった靴を野々山が素早く揃えて後を追う。


――もしセメントが崩れて、中の亜砒酸が露出していたら!


 念のため風呂も含めて全ての部屋を見てまわったが、家の中に母親の姿は無かった。


「財布はありますか?」


 藤澤がやや落ち着きを取り戻して姉に聞いた。姉がはっと我に返り奥へと戻る。


「母の巾着と財布がありません」

「どこかに出掛けられたようですね。しかしあまり長く亜砒酸を入れておくのはよろしくない」


 藤澤が腕時計を確認し、言葉を続けた。


「それに私達も艦に戻る刻限があります。手分けをして探しましょう。お母様の写真を貸して頂けますか?」


 姉が居間の家族写真を藤澤に手渡す。足立が治療室で出したものと同じ写真だ。


「では、私は駐在所に届けを出しに参ります。母が一番行きそうな場所は寺本町にある父の墓だと思います」


 姉が、ばら紙に寺町にある墓所までの道のりを書いた。


「分かりました。私は野々山とそちらに行ってみます」


 足立家の墓所までは、藤澤の足で十五分ほどかかる場所にあった。冬の風は冷たいはずが、焦りも相まって首筋に汗が滲み出る。


「太郎にぃ……亜砒酸が漏れていたら、歯肉どころか歯槽骨(しそうこつ)や顎骨(がくこつ)まで壊死してしまう」


 藤澤が震える手で野々山の袖をギュッと掴んだ。今にも泣き出しそうな顔で野々山を見る。


「悪くすると血流に乗って、全身中毒を起こす可能性だってあるんだ」


 野々山が開いた方の手で、袖を掴んだ藤澤の手を上から握り込む。


「大丈夫ですよ坊ちゃん。四十時間で崩壊はしないでしょう。セメントに関しては、坊ちゃんの手技はいつも完璧ですよ」


 藤澤の手の震えがぴたりとおさまる。


「そうだな。俺は手技が上手いからな」


 落ちついた様子になり、袖を捲《まく》って腕時計の時刻を見る。


「最後の通船が出るまであと七時間もある。今日中に処置すれば何ら問題はないはずだ。よし、落ち着いて探すぞ」


 藤澤は野々山の手を離すと山門への階段を一気に駆け上がっていく。


「遅いぞ、太郎にぃ」

「いつぞやの蝉捕りを思い出しますね。張り切りすぎた坊ちゃんがお寺の参道で転んで……」

「そういう話は思い出すな」


 墓所についた藤澤がきょろきょろと周りを見回す。

 もうすぐ正月のためか、墓地の枯れ草は綺麗に抜れ、お供えのある墓も目立つ。


「あった、あそこだ」


 足立家の墓は、陽当たりの良い敷地の南端に位置していた。

 墓の前には生花が供えられ、湯呑みの水と小さな饅頭が一つ置かれている。


 藤澤が饅頭に顔を近づけ、表面に指を当てた。


「蟻もきていないし、まだ表面に湿り気がある。おそらく今朝供えられものだろう」


 藤澤は一旦饅頭から離れ墓に向かって手を合わせると、そっと饅頭を手に取った。


「母君(ははぎみ)のためだ、ご先祖も許してくれるだろう」


 そう呟いて饅頭を口に入れた。あっけにとられる野々山を尻目に、藤澤はお供えを味わうようにゆっくりと咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。


「これは松田屋だな、行くぞ」

「……坊ちゃん、いくら何でもお供え物を横の口から頂くだなんて、罰当たりにも程がありますよ!」


 野々山が呆れた声を上げたが、藤澤はすでに駆け出していた。


「罰《ばち》は後でいくらでも受ける! それより太郎にぃ、いま食べた饅頭の味だよ」


 藤澤は走りながら、自分の口元を指さした。


「餡(あん)の風味は悪い。砂糖が無くサッカリンを使っているせいだろう。だが皮の風味は完全に『松田屋』の味だ」

「まさか、坊ちゃんは呉の甘味のほとんどを?」

「呉だけじゃない、横須賀も佐世保もな。目ぼしい店の味はすべてこの舌が覚えている」


 藤澤が軽く舌先を見せて胸を張った。


「太郎にぃ、行くぞ!」


 二人は山門をくぐり抜け、松田屋を目指してひた走る。呉線の電車が走る通りの少し手前に、その店はあった。


 暖簾《のれん》がかかり店は開いている様子に見えた。入り口には「一人二つ迄」の張り紙がある。


 藤澤は餅菓子を二つ選ぶと、代金を払う。釣り銭をもらった後、藤澤が足立の母の写真を懐から取り出した。


「写真のご婦人に見覚えはありませんか?」

「この方なら朝早くに来られました。饅頭を二つ買われて行きましたね」

「ありがとう」


 礼を言い、菓子の包みを手に店の外へと出る。


「太郎にぃ、墓に供えてあった菓子は一つだったよな」

「ええ、一つでした」


 藤澤が立ち止まって天を仰いだ。


「『……帰ってくると分かっとりゃあ、お前の好きな饅頭をぎょうさん買っておいたんじゃがねぇ』だ、太郎にぃ」


 藤澤がため息をつき、また野々山の袖を掴んだ。


「足立中佐の母は、帰ってきた息子のために、饅頭を買い回っている。ただ今は配給もままならない統制下だ、廃業した店も多かろう」


 和菓子屋の入り口に貼られた個数制限の紙が風でかさりと鳴った。


「息子の真似事などするんじゃなかった……」


 藤澤の呟きは、北風にかき消されそうなほど小さく、しかしひどく重かった。


「……坊ちゃん」


 野々山が静かに口を開いた。


「後悔するのは結構ですが、それは今ではありません。まずはお母様を探しましょう」

「そうだな、よし次は天明堂に行くぞ」


 その後も二、三軒回ったが、どの店でも同じ答えだった。

 聞き込みの度に菓子を買うため、藤澤が持つ袋は数種類の和菓子が納まっている。


「太郎にぃ、だいぶ菓子が溜まったな。これだけ買ったということは自宅に帰っているかもしれん」

「確かにそうですね。一旦戻りましょう」

 

 二人は顔を見合わせ頷き合うと、どちらからともなく一斉に地を蹴った。息を切らせて商店街の端へと駆け戻る。


……が、そこに母の姿は無かった。時刻はもう昼に近い。


「太郎にぃ、今日中に処置できなかった場合に備えて、紹介状を書いておきたい。中佐の母であれば、共済病院の歯科医がうまくやってくれるだろう」

 

 玄関先に置いておいた往診鞄から便箋を取り出し、紹介状をしたためていると、暗い顔の姉が帰ってきた。


「本当に申し訳ありません」


 姉が深々と頭を下げた。藤澤がそれを慌て止める


「いえいえ、それよりお母様が英紀(ひでのり)さんとよく出かけた場所を教えて下さいませんか」

「弟が小さい頃は、港へよく軍艦を観に行ったものです。ただ、今は立ち入り禁止になっている場所が殆どです」

「では、港の方をまわってみます」


 藤澤は姉に紹介状を渡すと、茶を一杯だけ飲み、また母を探しはじめた。

 

 呉の港周りには高い塀が張り巡らされ、戦前のように散歩がてら軍艦を観るような雰囲気は微塵も無かった。


 藤澤と野々山は軍装であったため、咎められはしないものの、見回りの兵に軍医と衛生下士官が何をしにという視線を送られる。


 ダメ元で見張り兵に写真を見せたが、そのような老女は見ていないと冷たくあしらわれ肩を落とす。


「もうすぐ午後二時か。抜歯をする時間を考えたら締め切りぎりぎりだ」


 目隠し塀の上から、ほんの僅かに、沖に錨泊する『奥羽』の、電探を載せた無骨な艦橋が見えた。


「明日はあれで、南方へ出征か……ん、待てよ。太郎にぃ、駅だ、駅! 俺たちは海に慣れすぎていた。帰るも行くも普通は鉄道だ」

 

 藤澤が、汗で張り付く軍衣を脱ぎ小脇に抱えた。軽く深呼吸をした後、呉駅に向かって走る。野々山もそのあとを追って全力で走った。


 呉駅前、改札近くの小さな木陰に足立の母は立っていた。藤澤が息を整え声をかける。


「母さん、待たせたね」


 母がゆっくりと藤澤の方を見た。


「ああれ、英紀《ひでのり》。随分と遅かったねぇ。吉紀(よしのり)からお前が今日帰って来ると聞いてねぇ」


 母が震える手で、手提げから和菓子の包みを取り出した。


「お前の好きな松田屋のお饅頭、やっと買えたんよ……」


 差し出した拍子に、母の指が力なくほどけた。

 コロン、と包みが地面に転がり、中から少しいびつな饅頭が顔を出す。


「あっ……落としてしもうた。英紀の好きなお饅頭が……」


 母が悲しそうに顔を歪めたその瞬間、藤澤は躊躇なく膝をつき、砂のついた饅頭を拾い上げた。


「あっ」

 

 野々山が止める暇もなく、藤澤はその饅頭を口へと放り込んだ。


「坊ちゃん!?」


 背後で野々山が息を呑む。

 

 藤澤は、喉を詰まらせそうになりながらも、砂混じりの饅頭を力一杯噛み締め、涙と一緒に飲み込んだ。


「美味いよ、母さん。松田屋の饅頭、本当に美味い。……待たせてごめん。俺、もうお腹いっぱいだよ」

「……そうねぇ、よかったぁ。お腹いっぱい、食べたねぇ……」


 藤澤が野々山の方を向く。


「太郎にぃ、荷物は俺が持つ。母さんをおぶれるか?」

「はい、坊ちゃん」


 藤澤は母の肩に軽く手を置いた。


「部下が母さんを背負って家まで送ってくれる。着いたら歯を治そう」

「まだ歩けますよ」

「長く立っていただろ。部下は頼りになる力持ちだ。遠慮しないでくれ」

「足立英紀中尉には、いつもお世話になっておりますので」


 野々山が一礼し、母の前に背中を見せてしゃがんだ。


「ほいじゃあ、お世話になるかねぇ」


 二人は、母をつれて急ぎ歯科医院へ戻ると、早々に歯の処置をはじめた。

 藤澤の指先は、先ほどまでの焦りが嘘のように正確に動いた。


 セメント封鎖を、慎重に、かつ電光石火の速さで除去していく。

 窩洞(かどう)の奥の亜砒酸糊剤を完全に掻き出し、アルコールで綺麗に洗浄する。歯髄は狙い通り完全に失活していた。


「抜歯鉗子(かんし)」


 野々山から手渡された冷たい金属を握り、右上第二大臼歯をしっかりと捉える。

 メリっという小さな音と共に、母を苦しめていた齲歯(うし)が、根元から綺麗に抜き去られた。


「……終わりましたよ、母さん。もう母さんを苦しめる虫歯はどこにもありません」


 藤澤が清潔な綿球を傷口に当て、優しく口を閉じさせる。

 時刻は午後三時半。通船乗り場までは歩いて二十分の距離だ。


「野々山二曹、片付けを頼む」

「はっ」

「母さん、必ずまた帰ってくるから。それまで身体に気をつけて」


 藤澤が、診察台の母に腕を回し抱きしめた。母が藤澤の耳元で何かを囁いた。


「それじゃあ、残りの饅頭は遠慮なくもらっていくよ、母さん」


 姉への挨拶もそこそこに、藤澤と野々山は足立家を辞した。


「よし、太郎にぃ、遅れないように急ぐぞ。遅刻したら後発航期罪(こうはつこうきざい)だ」


 藤澤がまた走り出し、野々山が後を追う。


 太郎にぃが追いかけ抱き上げていた、小さな坊ちゃんの足は、なかなか追いつけない速さになっていた。

 

【ミニコラム】

歯内治療領域の亜ヒ酸は、1836 年に、Spooner が歯科医師として初めて歯髄失活の目的で使用し、その後、麻酔のない時代には歯髄失活剤として用いられました。


局所麻酔薬の進歩と、副作用が強いことから、日本では2005年に販売が終了しております。


作中に出てきた天明堂ですが、今も呉にあります。戦後の製品になりますが鳳梨萬頭(パイナップル餡入りお菓子)はめちゃくちゃ美味いので是非お試しください。広島駅や通販でも買えますよ!

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