齲蝕(中編)
足立が治療室を出た後、藤澤は野々山の横に駆け寄り、ニヤリと笑った。
「太郎にぃ、ご馳走だぜ? デザートがうまい店だとありがたいな」
「坊ちゃん、いくら砲術長のお母様のためとはいえ……いや、やはりこれは断れませんね」
野々山が少し目を細めて藤澤を見つめた。
「しかし坊ちゃんが、甘味を条件にせず引き受けるとは、珍しいですね」
藤澤の頬がほんのりと紅くなる。それを隠すように藤澤が大声を出した。
「砲術長の酒保の枠は大きいからな。少し長めの航海だ。貸しを作って損はないだろ」
野々山はくすりと笑い、何も言わずに往診鞄の用意を始めた。藤澤は劇薬を保管する棚の鍵を開け、治療に使う薬剤の調合をはじめた。
その日の夕刻前、寒風が呉の街を吹き抜ける中を藤澤、野々山は足立と共に歩いていた。
足立の実家である歯科医院は自宅と併設されており、商店街の端あたりにあった。
「まずは医院の中を拝見させて頂きたい」
「分かった。自宅の方から回って開ける。医院の入り口で待っていてくれ」
勝手口から自宅に入る足立と別れ、藤澤と野々山は歯科医院の玄関へと回った。
洒落た造りの建物だった。入り口の扉には色ガラス。「足立歯科」の文字が表面に浮かぶ。
「太郎にぃ、田舎で一緒に歯科医院をやるのも悪くないな」
藤澤が口の端をあげて野々山を見上げ、野々山は大きく咳払いをした。
「ほら坊ちゃん、砲術長が内鍵を開けていますよ」
ガチャガチャと鍵を回す音が夕方の道に響く。
ガラリと引き戸が空き、足立が顔を出した。少しだけ埃っぽい空気が流れ出る。
「しばらく使ってないから埃まみれだ。すまんな」
足立の招きで医院に入ると、薄ぼこりがあるものの、器具はきちんと整頓されていた。
少し掃除をすればすぐに治療に使える状態だ。
「少し片付けをしてよろしいでしょうか?」
藤澤の問いに足立が頷くと、野々山が窓を目一杯開く。そしてすぐに掃除用具入れを見つけ、雑巾とバケツを藤澤に差し出した。
「私は持ち込んだ器具を並べますので、中尉は診療台を拭いて下さい」
「それは私がやろう。藤澤中尉は専門的な部分を頼む」
足立は野々山の手から雑巾を奪うように取ると二つ並んだ右側の診療台を丁寧に拭き始めた。
「では、使えそうな薬品を探すとするか」
藤澤は薬品棚の扉を静かに開けた。
「歯科セメントの粉末が残っているな。これを練って使おう」
藤澤はそう言って薬品棚の扉を閉め、往診鞄へと向き直った。
パチン、と真鍮の留め金を外して鞄を開く。両手で慎重に小さな遮光瓶を取り出す。
「野々山二曹、艦で調剤してきた亜砒酸糊剤だ。気をつけて運んでくれ」
「了解しました。蓋の密閉、漏れ、共になし。いつでも使えます、中尉」
野々山が丁寧に瓶を確かめ、診療台脇のテーブルに置いた。
足立の協力もあり、半時間ほどで治療の準備が整う。
藤澤は診察室で、足立から借り受けた足立の弟、「英紀」の背広に着替えていた。
少し肩幅が余るものの、小柄な体躯に誂えたように馴染んでいる。
藤澤たちは医院から母屋の玄関に周る。足立が、ガラリと引き戸を開け奥に呼びかけた。
「母さん、英紀が……英紀が満州から帰ってきたよ」
奥の薄暗い廊下から、白髪を上品に結った老婦人が、足立の姉とおぼしき女性に支えられ姿を現した。
「母さん、ただいま」
「ああ、英紀……英紀なんかい。よく無事に帰ってきんさったなぁ」
足立の母は玄関で手を合わせると、はらはらと涙をこぼした。
母の顔は齲歯のせいか右頬が心無し腫れているように見える。
「帰ってくると分かっとりゃあ、お前の好きな饅頭をぎょうさん買っておいたんじゃがねぇ」
母が上がり框から、土間にいる藤澤の背中をさするように叩く。
「さぁ、立っとらんで、早う家に入りんさい」
母は、藤澤らを居間に通すと、台所へ行きお櫃に入った白飯と梅干し、そして海苔を持って戻ってきた。
「今日はご馳走はないけん、英紀が好きなむすびを作ってあげるけんね」
母はそう言って手を濡らすと、握り飯を作り始めた。
藤澤はその様子をにこにこと見つめ、作った側から手を伸ばす。
「ああ、母さんのおむすびは本当に美味いなぁ。兄さんも食べ……んちゃいや?」
「吉紀もお客さんも、遠慮せんと、どんどん食べんさいね」
「母さんは、食べんの?」
「ちょっと歯が痛くてのぅ」
吉紀と呼ばれた砲術長が、そこですかさず治療の提案をする。
「母さん、せっかく英紀が帰ってきたんじゃけぇ、痛む歯を治してもらいーや」
砲術長が藤澤の方を向いた。
「英紀、道具は隣の医院に揃っているな?」
足立の言葉を受け、藤澤がここぞとばかりに立ち上がり母に寄り添った。
「母さん、夕食にやわらかいものを食べたら、医院に行こう」
母はこくりと頷き、また握り飯を作り始めた。
夕食後、藤澤らは母を伴い、隣の医院へと赴いた。
母を診療台へと座らせた藤澤は歯科医の顔に変わり、歯鏡を母の口にそっと進めた。
「ああ、右上第二大臼歯か。やはり深いな。野々山二曹、まずは軟化した象牙の除去からだ。予定通り亜砒酸糊剤でいく」
野々山に指示を飛ばした後、藤澤は母の顔まで目線を下げた。
「母さん、やっぱり虫歯がありましたよ。痛みをとるお薬を歯に詰めれば楽に治療できますよ」
「英紀がそう言うなら、任せようかねぇ」
丁寧な前処置の後、藤澤は、亜ヒ酸を痛みの元凶である小さな穴の奥へと繊細に、それでいて素早く滑り込ませる。
「野々山二曹、セメントを」
野々山がヘラで手早く練り上げた歯科セメントが、藤澤のスパチュラへと渡される。
藤澤はそれを使って、瞬く間に亜砒酸の上を完全に封鎖した。
「よし、終わりましたよ、母さん。明日の夕方あたりなれば、嘘のように痛みが引きます。今日は痛み止めを飲んで下さいね」
藤澤は器具を置いて母の肩にやさしく手を添えた。
「明後日の朝、もう一度ここへ来て、眠った歯を綺麗に抜いてしまいましょう」
処置を終えた藤澤は振り返り、足立の方を見た。
「セメントが乾くまで、二時間ほど飲み食いは厳禁です。兄さん、お互い門限までは時間がある。居間でのんびり昔話でもしませんか」
帰りの通船、足立が藤澤にばつが悪そうに話かけた。
「結局、夕飯を奢れず、すまなかったな」
「いえ、握り飯が美味くて食べすぎましたからね。それにしても足立中佐が小さい頃は泣き虫だったとは……意外です」
「その話はもうよしてくれ。明後日、私は上陸できんが、母のことをよろしく頼む」
「承知いたしました」
通船を降り、藤澤と野々山が治療室に戻る途中、医務室の扉が軋む音をたてて開いた。出てきたのは宇佐美軍医長だった。
二人を見つけた宇佐美は、軽く目を開いた後、こちらへと手招きした。
「ちょうど良いタイミングだ。今日、線香をあげてきた」
「誰にですか?」
「『鳴瀬』の後輩軍医にだ。実家が呉でな」
藤澤と野々山は短く顔を見合わせた後、同時に宇佐美の方を向く。
「大臼歯の刻印は……」
「『E1』だ」
それだけ言うと宇佐美は通路の方を顎で示した。藤澤は無言で敬礼をし、静かに医務室を辞した。
「31、4.0、.70そしてE1か……法則性が見えんな」
「Eは第2乳臼歯ですが……」
「手越も俺と同じく独身だぞ?」
――結局、刻印の謎は解けぬまま、二日後、金曜日の朝。
予定通り午前八時半、藤澤と野々山は再び上陸した。空はよく晴れている。
「瀬戸内は岐阜の山と違って天気がいいな」
足立の母と話をしたせいか、藤澤は故郷のことを話題に出した。
「もうあちらは雪が積もっているでしょうね」
野々山が東の空を見上げ、目を細めた。
「母さま元気かな……」
藤澤が零したところで、足立の家が見えてきた。
「よし、太郎にぃ。どちらが速いか競走だ」
岐阜で過ごした幼い頃と同じ様に、藤澤が駆け出す。
先に着いた藤澤が、軽く息を整え足立歯科医院の扉を開ける。しかし。中に入るが、誰の気配もない。
「医院の方に居る約束なのだが……」
藤澤が困惑した顔で野々山の方を振り返った瞬間、医院の奥の方から、焦ったような足音が聞こえてきた。
現れたのは、青い顔をした足立の姉だった。
「母が、母が朝から居ないのです!」




