齲蝕(前編)
――昭和十九年、年末。
日本海軍が誇る戦艦『奥羽』は重要任務を前にして、呉港にて整備、補給を全力で行っていた。
歯科治療室では、歯科医中尉の藤澤芳樹が退屈そうにあくびをしている。
「出航は三日後の朝かぁ。太郎にぃ、もう一回上陸して甘味でも食べに行かないか? 色々と買い物もしたいしな」
「お付き合いしたいところですが、私は坊ちゃんと違って下士官です。そうそう気軽に上陸できませんよ」
野々山が薬品瓶の数を確かめながら返事をする。
「えー、俺は太郎にぃと『でぇと』がしたい」
「そのような西洋の破廉恥な言葉、滅多に口にするものではありませんよ」
そう諌めながらも、野々山は少し表情を緩めた。内ポケットから手帳を取り出し予定を確認する。
「本日午後か、明後日の午前なら上陸申請できそうです」
「じゃあ、早速申請に行ってきてくれ!」
藤澤が嬉しそうに手を叩いた瞬間、診察室の扉を叩く音が響いた。
野々山が扉を開くとそこには髭の砲術長が立っていた。
「藤澤中尉、少しいいか?」
「はっ、足立中佐。急ぎカルテを用意いたします」
藤澤が慌てて立ち上がり、背筋を伸ばす。
「ああ、すまん。私自身のことではないのだよ。実は母の話でね」
「ご母堂についてですか……ではこちらにおかけ下さい」
少し気まずそうに頭を掻く足立に、野々山が椅子をひいた。
足立は診療机の前にある椅子にゆっくりと腰を下ろす。
「母は父に先立たれてから少し痴呆気味になってね、今は呉から近い坂村に嫁いだ姉の元に身を寄せている」
「ご母堂の歯について何かあったのですか?」
「ああ、昨日、私の寄港を受けて、母と姉も久しぶりに実家に戻り過ごしたのだが、母は虫歯が痛むらしく、あまり食が進まなかったのだ」
藤澤が軽く頷き、足立は深いため息をついた。
「母は昔から医者嫌いでね。歳をとってからは、それがいっそう顕著になっている」
「お力になりたいところですが、ご母堂を『奥羽』に連れては来れませんし、仮にできたとしても、医者嫌いであれば、なかなかに難しい」
足立がまた頭を掻き、藤澤の方をチラリと見た。
「実はうちの実家は歯科医院でね、亡くなった父の跡を、私の弟が継いでいたんだよ」
「では、その弟さんに……」
足立が何とも言えない微妙な表情をしている。言いかけた藤澤が口をつぐんだ。
「去年の夏に令状が来てね、入営して今は満州にいる」
足立が胸ポケットから一枚の写真を取り出した。
「親父が生きていた頃に撮った写真だ」
足立が差し出した写真には椅子に座った年配の男女――おそらく両親と、その背後に立つ和服の女性が映る。
軍服姿のまだ若い足立、そして学生服姿の若い小柄な男性の姿も見えた。
「歯科医院は休業中だが、建屋も設備もそのまま残っている……それに何より、藤澤中尉。貴官が弟の英紀によく似ているのだよ」
藤澤は足立の写真を手に取り、じっと見つめた。確かに背丈は同じくらいである。
「似ているかどうかは分かりませんが、私にも国に残した母がおります。やれることはやってみましょう」
「おお、引き受けてくれるか……上陸申請については、助手の分も含めて私から口添えしよう」
「では、少しお待ち下さい」
藤澤は薬品庫を確かめた後、白紙とペンを手にとり足立の元へと戻った。
「診てみなければ断言はできませんが、そこまで痛むとなると神経まで達した深い虫歯でしょう」
藤澤が歯の絵を描き、矢印で『亜砒酸』と書き込む。
「医者嫌いを考えると痛みが少ない方法で抜歯が良いと思われます」
「亜砒酸」の文字を見た足立が眉間に皺を寄せた。
「砒素を使うのか?」
藤澤が続けて、『24〜48時間後に処置』と書く。
「ご心配には及びません。全身投与ではなくあくまで局所です」
藤澤が歯の上に栓の絵を書き加え、足立の方を向く。
「亜砒酸が漏れぬよう、きっちりとセメントで封鎖いたします。二日ほど置いて亜砒酸を除去し、歯髄が失活していることを確認してから抜歯します。これなら痛みはかなり抑えられるはずです」
藤澤が人差し指で紙をトントンと軽く叩いて天井を見上げた。小声で何かぶつぶつと呟く。
「今日はまだ夜の通船もある……年齢を考えると少し短め……明日は野々山が抜けられない……そうなると」
藤澤がペンをさらさらと走らせる。
――水曜日(本日)十八時、夕食後に亜砒酸封入
――金曜日、九時処置と抜歯
書き終え、また独りごちる。
「金曜日は出航前日。最終の通船は十六時だが、昼には戻れるだろう」
藤澤は書き終えた下書きを清書して足立に渡した。足立がさっと目を通す。
「では、まず本日午後の通船で上陸としよう。私も同行する。礼として治療後に夕食を振る舞わせてくれ。帰艦の手配はこちらでしておく」
藤澤が野々山の方をチラリと見た。
「もちろん二曹の分もご馳走する」
「では上陸までに治療の準備をしておきます」




