砲身の危機(後編)
「私もよろしいでしょうか」
阿久津が、軽く右手を挙げた。
「おう、連れションと行くか」
便所までの通路、阿久津が藤澤に歩み寄りながら声を潜めた。
「藤澤中尉。実は私も先ほど、イタリアうどんの調理を少しばかり手伝ったのですが……不思議と症状は出ておりません」
「何、それもまた妙な話だな。まあ、お前は動物に避けられる特異体質だ。菌のほうでも忖度して、お前を避けて通ったか?」
阿久津が微妙に悲しそうな顔になる。その時、二人の背後から不意に声がした。
「藤澤中尉、何やら楽しそうだな」
便所の手前で声をかけてきたのは、鹿島豊艦長であった。
「――っ! 艦長、このような場所へ巡検でありますか?」
「なに、食後の散歩ついでに艦内の見廻りだよ」
鹿島は鷹揚に頷くと、便所の扉を開けて小便器へと向かった。藤澤も小走りにその後に続く。
鹿島が威風堂々たる態度で股間から取り出した「それ」を、藤澤は隣で戦慄しながら凝視した。
「巨砲だ……」
思わず生唾を飲み込んだ藤澤は、この感動を共有しようと背後を振り返った。
阿久津はまだ洗面台で恐ろしいほど入念に手を洗っている。
「おい阿久津、何をぐずぐずしている。早く来い」
藤澤は極めて自然な動きで小便器を一つ空け、放尿を開始した。
促された阿久津が、鹿島と藤澤の間に入り、諦めたように軍袴の釦を開けた。
「ふむ……。確かに腫れてもいなければ、発赤も認められんな。……大きさは、至って普通だ」
藤澤は自らの放尿もそこそこに、阿久津の「それ」を検分するように覗き込んだ。
「いきなり診察を始めるのはやめてください」
「阿久津、貴様のは本当に何ともないな。他の主計兵たちがあれほど無残なことになっているというのに、この差は何だ」
「それじゃ、私はお先に」
頭を捻る二人を尻目に、用を足し終わった鹿島は、軽く手を洗って悠々と立ち去った。
藤澤と阿久津も洗面台へと移動する。用をたした後も、相変わらず阿久津は丁寧に手を洗っている。
「阿久津はやたらと丁寧に手を洗うな」
「調理をいたしますからね。それに動物に触れる仕事や食肉の検査もしていましたから、用を足す前後に手を洗う癖が……」
「ちょっと待て、それだ!」
藤澤がはたと手を打った。
「イタリアうどんに使った唐辛子の成分が手に付き、小便をする際にその手でイチモツを触る」
藤澤が洗い終えたばかりの自分の手をしげしげと見つめた。
「手の皮膚の角質は堅牢だが、局部には粘膜面が多い。弱い部分だけ唐辛子にやられたな。そういう視点で見れば、辛味で口腔内が爛れた時に近いのも納得がいく」
藤澤がしたり顔で続ける。
「阿久津は用を足す前に丁寧に手を洗ったので、難を逃れた。うん、矛盾がない。となると……原因は刺激物による接触性皮膚炎か」
阿久津は三白眼を見開き、熱心な様子で藤澤の説明を聞いている。
「調理法とイタリアうどんの味から察するに唐辛子の成分は脂溶性とみた。おい、阿久津、厨房からオリブ油を持ってきてくれ。俺は医務室からヒマシ油と亜鉛華軟膏を取ってくる」
医務室に駆け込み、棚から薬品を引っ張り出した藤澤は、意気揚々と兵員居住区に向かった。が、はたと足を止めた。
「そう言えば、衛生兵はみな出払っている……処置をするのは俺、か」
しょんぼりと居住区に戻り、野々山に処置について伝える。
「オリブ油かヒマシ油で原因物質を清拭し、亜鉛華軟膏を塗布してくれ……人手が足りんだろうから、俺もやる。そうだ、阿久津一水もやれ」
「はっ」
手際よくテキパキと動く野々山と阿久津に比べ、藤澤は渋々といった様子で処置のためにヒマシ油をガーゼに染み込ませる。
「俺は歯科医官だぞ。何が悲しくて……」
愚痴をこぼし掛けたところへ、主計長の星野少佐が顔を出した。
「藤澤中尉、今回はうちの者が苦労をかけた。礼になるかは分からんが……」
星野が差し出した包みは、羊羹だった。いつもなら躍り上がるはずの藤澤の肩が、微かに震えた。
「主計長……よろしいのですか? これは、あの……」
「ああ、最後の一竿でね。当艦で最も甘味を愛する男に食べてもらえれば、こいつも本望だろう」
それは先頃、南シナ海に沈んだ給糧艦『間宮』で調製されたものだった。
藤澤はそれから何も言わず、黙々と処置を続けた。
――その夜の歯科治療室。
藤澤は間宮羊羹を神妙な顔でずっと見つめていた。
「海の底ってきっと寒いよな」
「そうですね」
「なぁ、太郎にぃ。手越が残した暗号が気になるんだ。アイツは海の底に沈んだとしても陽の当たる場所に何かを残す、そういう奴なんだ」
艦が少し波に揺れ、白熱灯の灯りが揺らめいた。
「太郎にぃ、俺、軍医長が来たら相談してみようと思う」
「何を相談するんだ?」
いつの間にか、治療室の入り口に宇佐美軍医長が立っていた。
「報酬の羊羹を持ってきたが、随分と重い雰囲気じゃないか」
「実は……」
藤澤は堰を切ったように、『鳴瀬』の衛生兵の歯に刻まれた暗号と、同期の手越について話しはじめた。
宇佐美は煙草を吸いながら、それを無言で聞き続け、三本目の灰が落ちたところでようやく口を開いた。
「友人の遺したものを知りたい中尉の気持ちはよく分かる……だが、遺族に骨を見せてくれと頼むのは……」
「『鳴瀬』の軍医長も巻き込んであれだけ手の込んだことをしているのです。ただの識別用とは思えません」
宇佐美が四本目の煙草に火をつけた。煙を吐き出しながら独り言のように呟く。
「『鳴瀬』の軍医科が行った、大臼歯への刻印は、水死した戦死者の識別に有用であった……」
宙を見て、長く長く紫煙を吐き出す。
「軍陣医学発展のため、遺骨の検分をお願い申し上げたい……期待はするなよ」
宇佐美はとらやの羊羹を机に置くと、振り返らず治療室を出て行った。
藤澤は軍医長からもらった『とらや』の羊羹と『間宮』の羊羹を診察机に並べ、しばらく見つめていた。
「やはり間宮の羊羹はデカいな。ゆうにとらやの二倍はある。まさに巨砲だ」
野々山の方を向き、とらやの羊羹を差し出す。
「太郎にぃ、とらやを切ってくれ。間宮は、暫く取っておこう。そうだな……何か特別な日に、一緒に食おう」
「はい、坊ちゃん」
いつになく殊勝な態度の藤澤を気遣わしげに見つめ、野々山が羊羹を受け取った。
野々山は包丁を手に取り、慣れた手つきで羊羹を二つに切り分けた。小皿に載せて藤澤の前に置く。
藤澤は一片を口に放り込み、ゆっくりと咀嚼した。
「……甘いな」
「ええ、甘いですね」
野々山が淹れ直した熱い茶の湯気が、薄暗い治療室の空気を優しく揺らす。
「太郎にぃ」
「はい」
「また食おうな」
藤澤のぽつりとした呟きに、野々山は静かに頷いた。
「はい、坊ちゃん。いつまでも、お供いたしますよ」
北風が少しだけ『奥羽』の鉄壁を揺らして吹き抜けていった。
【ミニコラム】
唐辛子に含まれる辛味成分「カプサイシン」は脂溶性はで、粘膜刺激作用を持ちます。
同定されたのは戦後なので物質名は小説に出てきません。
ちなみにこの話は知人の消化器内科医が、「某君ハバネロを食べて小便に行き、内視鏡を始めたら局部が熱痒くなりはじめ、どうしよう助けてぇってなった」話に着想を得ています。ありがとう、内科医くま先生!




