砲身の危機(前編)
――昭和十九年、十二月
「今日はイタリアうどんか」
戦艦『奥羽』、士官次室での昼食時。
歯科医士官の藤澤芳樹中尉は、ピリッと辛いイタリアの細麺を食べながら、この後に出てくるデザートを思い浮かべて生唾を飲み込んだ。
「イタ公は早々に白旗を上げたが、飯に罪はない」
藤澤がメインの鶏肉を平らげ、そう独りごちた時だった。医科の衛生兵が慌ただしくガンルームに飛び込んできた。
「士官次室の皆さま、体調にお変わりはございませんか?」
面々は怪訝そうに顔を見合わせたが、不調を訴える者は一人としていない。
「気分が悪い者はいるか!」
ケプガンの内藤中尉が大声で問うが、挙手する者は誰もいなかった。
「……それならば良いのです。それと藤澤中尉、軍医長がお呼びです」
「えっ。デザートがまだ……」
「藤澤、諦めろ。貴様の分は俺が責任を持って片付けておいてやる」
内藤に背中を叩かれ、藤澤は後ろ髪を引かれる思いで席を立った。
「うう……スポンヂケーキが……。せめて一口でも食べてから行きたかった……」
通路を歩きながら、未練がましく菓子名を呟く。医務室がある区画に入ると、独特の薬品臭が鼻をついた。案内されたのは、意外にも手術室だった。
中では宇佐美軍医長ともう一人の若い軍医が、無影灯の下で血まみれの手を動かしている。
「おお、藤澤中尉か。主計科で数名、急患が出た。見ての通り、我々は虫垂炎で手が離せん。悪いが、お前が診てきてくれ」
宇佐美が術野に視線を落としたまま、早口に命じた。
「はっ……。しかし、歯科専門の自分に口腔以外の疾患が判別できるかどうか……」
デザートを食べ損ねた恨みと、専門外の面倒事を押し付けられた困惑が混ざり、藤澤の返答は歯切れが悪い。
「診察が終わったら部屋に来い。とらやの羊羹を出してやる」
その一言で、藤澤の背筋が音を立てんばかりに伸びた。
「直ちに全力で当たります!」
衛生兵に促され、藤澤が足を踏み入れたのは兵員居住区の一角だった。
数名の炊事兵たちが寝台に横たわり、一様に苦悶の表情を浮かべている。皆、下腹部を押さえて身をよじっていた。
元獣医の阿久津一等水兵と、藤澤の相棒役を務める野々山太郎二等衛生兵曹が、困り果てた様子で傍に立っている。
「腹痛か? 嘔吐の症状はあるか」
真っ先に食中毒を疑い、藤澤は野々山に問いかけた。主計科の連中が倒れたとなれば、まず疑うべきは「今日の飯」だ。
だが、野々山から返ってきたのは、予想だにしない答えだった。
「いえ……。それが、腹部ではなく『イチモツ』の激しい痛みだそうです」
「……なんだと?」
あまりに専門外、かつ想定外の報告に、藤澤は思わず聞き返した。
「一人や二人ではありません。ここにいる主計兵全員、股間に激痛があり、排尿すらままならない状態です」
「なんだそれは……。性病か? しかし、集団で一斉にそんなところを悪くするような、どんな病気があるというんだ……」
首を捻る藤澤に、阿久津が調査記録の紙を差し出した。
「罹患者の共通点を調べてみました。皆、イタリアうどんの調理に携わっております。ただ、味見をした者もいれば、していない者もおります」
藤澤が記録用紙に一通り目を通したのを見計らい、阿久津が続けた。
「一方で、調理をせず完成品を食べただけの者には、一切症状が出ておりません」
「さすが、元獣医は疫学の勘所を掴んでいるな」
藤澤は阿久津を賞賛し、寝台でのたうっている一人の若い水兵に近づいた。
「全く、何が悲しくて野郎のイチモツを検分せにゃならんのだ……」
ぼやきながら軍袴をずらし、褌をめくる。赤く腫れた無残な局部が露わになる。
「ふむ……。陰茎に炎症があるな。口腔粘膜の糜爛によく似ている」
藤澤はブルリと身震いすると、野々山が用意した消毒液入りの盥に手を浸した。
「……局所だけとは、不可解だな。よし、野々山二曹は洗浄の用意をしておいてくれ。俺はちょっと小便に行ってくる」




