痛みの行方(後編)
「野々山、氷をひとかけら用意してくれ」
「はい、中尉。すぐに取って参ります」
野々山が氷を入れる容器を手に厨房へと走る。藤澤は探針の柄を指先でくるくると回した後、柏木の顎に軽く手を添えた。
「口を開けろ。今度は下を診る」
「下だと? 痛むのは上だ! 下の歯なんぞ痛くも痒くもない!」
「いいから開けろ。下に何も無ければ望み通りの歯を抜いてやる」
その言葉に柏木は、渋々口を大きく開けた。
藤澤の視線が、左下の歯列へと滑り込む。 下顎第二大臼歯に古いアマルガムの補填が施されている。
噛み合わせの面は綺麗に磨かれているが、第一大臼歯との隣接面、歯頚部の境目に、肉眼では見落としそうなごく僅かな黒ずみがあった。
――これは詰め物の下で、中で爆発してるな。
藤澤は探針の鋭利な先端を、その微小な隙間へと迷いなく滑り込ませ、クッとわずかに圧をかけた。
「――っぎゃああああああっ!!」
柏木が診察台の上で背中を弓なりにして跳ね上がった。目にはじんわりと涙が滲んでいる。
「上だ! 上の歯が割れそうに痛む! 何をしやがった!」
「ほう、上の歯が痛んだのか? だが俺が突いたのは左下の七番だ」
藤澤は静かに探針を引きぬく。その時、野々山が氷を持ち戻ってきた。
「ば、馬鹿な……下を突かれて、何で上が痛むんだ……」
「関連痛――異所性疼痛とも言う。顔面の感覚を司る三叉神経は、名前のとおり、第一枝、第二枝、第三枝に分かれている。だが、その痛みの信号は、脳へ入る途中で同じ神経細胞に集まることがある。これが原因だ」
藤澤は自分のこめかみと顎を指先でなぞって見せた。
「下の歯髄が激しく炎症を起こすと、そこから上がった痛みの信号が三叉神経の中枢で、上の歯から来た信号と同じ神経細胞に集まることがある」
藤澤が自分の頭を軽く握った拳でコンコンと叩いた。
「そうなると脳は、どの歯から来た痛みなのか正確に判別できなくなる」
「俺の脳が、痛む場所を勘違いしていたと……?」
「そうだ。お前が『抜いてくれ』と喚いた左上の七番は、下からの誤報に巻き込まれただけの無実の歯だ。さて、歯髄の状態も確認するか」
藤澤が、ピンセットで氷を摘み上げた。雫が一滴ぽたりとたれる。
「まずは上だ」
藤澤が、柏木の左上第二大臼歯に氷を押し当てた。
「特に痛みはないな?」
藤澤の問いに柏木が頷く。藤澤は氷を一旦口から取り出す。
「次は下に当てる」
氷が左下第二大臼歯に触れた瞬間、鋭い痛みが「上の奥歯」に走り、柏木が顔を歪めた。
「左上の奥歯を抜いていたら健康な歯を一本失った上に、今夜も抜いたはずの上の歯の激痛でのたうち回っていたところだぞ」
柏木は顎を押さえたまま、呆然と藤澤を見つめた。怒りは完全に消え失せ、混乱の色が瞳に浮かんでいる。
「まあ、ここはヤブ医者に任せておけ」
藤澤が野々山の方を向き、指示を飛ばす。
「野々山二曹、局所麻酔薬と切削機の準備を。アマルガムを削開して髄室を開ける。まずはこれで痛みを抑える。根の処置は、その後だ」
藤澤は麻酔の注射器を構え、柏木の左下の歯肉へと針を刺入した。
「痛覚の欺瞞に騙されるなよ、照準手。目に見える標的のさらに奥に、真の敵が潜んでいることもある。……麻酔が効いたら五分で片付けてやる」
処置が終わる頃には、柏木の痛みもすっかり薄れていた。
「中尉、先程は失礼な物言いをしてしまい、申し訳ありません」
「激痛だったんだろ。気にするな。あと数回は治療が必要だ。また来るように」
「はっ」
柏木は深々と頭を下げ治療室を去った。
「坊ちゃん、お疲れ様でした。しかし、よく見つけましたね。まさか上ではなく、下の歯だったとは」
野々山が、皿に入れたかりんとうとお茶を藤澤の前に置いた。
「ま、俺は名医だからな」
藤澤は、ポリポリとかりんとうを齧りながらお茶を飲みくつろぐ。
「太郎にぃ、お茶のお代わりいいか?」
「はい、坊ちゃん」
「あれ、もうかりんとうを食べ切ってしまった……」
野々山が、急須にお湯を入れに行った隙に、藤澤は野々山の皿からかりんとうを一つそっと抜き取る。
「坊ちゃん、見ましたよ?」
「しまった、どっちの皿か混乱してしまった」
柏木の歯の痛みは治まった。だが、野々山のかりんとうが一つ減った謎はまだ解決していないのだった。
【ミニコラム】
三叉神経は第5脳神経で、その名の通り三つの枝を持ちます。
三叉神経は、眼神経(V1)、上顎神経(V2)、下顎神経(V3)に分枝しています。運動性と知覚性の混合神経であり、広く顔面をカバーします。
何かトリビアを書きたいところですが、馬渕は神経が苦手です。とりあえず第一領域に帯状疱疹が出たら焦ります。
また何か思いついたら書き足します(脱兎)




