痛みの行方(前編)
――昭和十九年、秋。
戦況は悪化の一途を辿り、戦艦『奥羽』も、かつてのような余裕はなくなっていた。
それでも、歯が痛くなることだけは、戦況とは関係がない。歯科治療室には、今日も患者が訪れていた。
「左上の奥歯が割れるように痛むんだ。早く抜いてくれ!」
藤澤芳樹中尉が昼食に行き、留守を預かる野々山太郎二曹は、高角砲の照準手であるベテラン下士官、柏木一曹に詰め寄られていた。
「藤澤中尉はただ今席を外しております。しばらくお待ちください」
「ならばお前が抜いてくれればいいじゃないか。頼むよ、なぁ」
「無茶を言わないで下さい」
二人が押し問答をしていると、デザートのセイゴプリンを食べて上機嫌の藤澤が帰室してきた。
「いったい何を騒いでいるんだ?」
「ああ、中尉。砲術科の柏木一曹が奥歯の痛みで受診されております」
「そうか、では診察台へ座ってくれ」
野々山が、柏木を診察台へと誘導する。藤澤が白衣を羽織り、診察台へと近づいた。
「痛みで頭がおかしくなりそうだ。早く悪い歯を抜いて楽にして欲しい」
明日には敵機襲来が予想される海域に入ることもあり、柏木は焦燥しきっている。
「まぁ、そう焦るな。まずは口を開けてくれ」
大きく開いた柏木の左上の奥歯を見るが、小臼歯も大臼歯も見た目には異常がない。藤澤が首を傾げた。
「痛むのは左上で間違いないんだな?」
「間違いない。奥から二番目の歯がズキズキと痛む」
藤澤は柏木の第二大臼歯を、ピンセットで垂直方向に叩いた。
「どうだ痛みが響いたか?」
「いや、特には変わらない」
今度は同じ歯を水平方向に打診をしたが、またもや異常なし。
念の為に左上第三大臼歯と第一大臼歯も調べたが、結果は同じだった。
口腔内を観察しても、あるのは左下第二大臼歯に被さるアマルガムのみ。耳下腺と顎関節を見たが、そちらにも異常はない。
「左上の奥歯はいたって健康な歯だ」
「こんなに痛むのに健康なわけが無いだろう! このヤブ医者が!」
「柏木一曹、言葉が過ぎます!」
野々山が咎めようと前に出たが、藤澤は手でそれを制した。
「痛みで追い詰められている者に軍規を説いても無駄だ。……だが柏木一曹、ヤブと言われても、健康な歯を抜くほど、俺は馬鹿ではない」
「……抜かないというなら、他の軍医に頼むまでだ!」
柏木が診察台から立ち上がろうとした瞬間、藤澤の平手がその肩を押し戻した。普段の飄々とした態度は消え、歯科医の目が柏木を射す。
「黙って座っていろ。まだ診察は終わっていない」
「先程、歯には異常がないと言っただろうが!」
「左上に異常はない、と言ったんだ」
藤澤は背後の野々山に短く合図を送った。




