光る歯(後編)
「太郎にぃ……?」
物品の補充にでも行ったのかと待ってみたが、一向に現れる気配がない。
そうこうするうちに、甲板での転倒で上顎の歯肉を切った水兵が運ばれてきた。
「麻酔が効くまで待っていろ」
浸潤麻酔の薬液が奏効するまでの合間を縫って、藤澤は隣の医務室へと早足で向かった。
病床の並ぶ薄暗い区画、その端の寝台に横たわっていたのは、顔を赤く染めた野々山だった。藤澤の足音を聞きつけるなり、弾かれたように上体を起こす。
「坊ちゃん……いえ中尉。すみません……ゴホッ、朝から急に熱が……」
「太郎にぃ、大丈夫か!?」
駆け寄ろうとした藤澤の襟首を、横から伸びてきた手が無造作に掴んで制止した。
「近づくな。まあ、感冒だろうが、時期外れの流感の可能性もある」
宇佐美軍医長が書類に何か走り書きをし、傍らの衛生兵に手渡す。
「野々山二曹は解熱まで完全隔離だ。……分かっていると思うが」
宇佐美が、藤澤をひどく億劫そうに見据えた。
「見舞いになど来るなよ、藤澤中尉。貴官に倒れられたら歯科が立ち行かん。今日の処置には西村を使え」
軍医長の背後に控えていた若い衛生兵が、慌てて頭を下げた。
決して応援の兵の手際が悪いわけでは無かった。だが処置は普段の二倍時間を要した。
使い終わった器具の消毒を手伝いながら、藤澤は野々山の存在の大きさを噛み締める。
業務がひと段落したところで医務室に顔を出すと、宇佐美は艦内新聞に目を向けたまま一言だけ告げた。
「隔離室」
踵を返した藤澤を、宇佐美が呼び止める。
「酒饅頭、食うか?」
華麗な全周ターンだった。医務室に入った藤澤の前に酒饅頭の山が置かれた。
「主計科からの差し入れだ、遠慮なく食え」
藤澤は、嬉しそうに手を伸ばしかけ、ピタリと止める。
「野々山二曹には、後で持って行かせる」
呆れたようにも聞こえる宇佐美の言葉に、藤澤は酒饅頭を掴み、がぶりとかぶりついた。
ほんのりと香る日本酒が練り込まれた皮にたっぷり包まれた餡子が顔を出す。夢中で頬張り、二つ目の饅頭に手を伸ばそうとした時だった。
「時計の修理終わりましたっ!」
医務室の入り口から威勢の良い声が響いた。
「入ってヨシ」
宇佐美の応答で、若い機関科の兵が掛け時計を抱えて入ってきた。
「時計は元の場所でよろしいでしょうか?」
「うむ。よろしく頼む」
兵は「はっ」と短く応じると、台の上に上がって手際よく壁に時計を掛け、位置を微調整し始めた。
藤澤は酒饅頭を口にくわえたまま、ぼんやりとその作業を眺めていた。文字盤の数字と針には、夜間でも視認できるよう、新しく塗り直された緑がかった塗料が鈍く光っている。
「ご苦労だった。饅頭、持っていくか?」
宇佐美の言葉に、藤澤は慌ててもう一つ酒饅頭を口に入れた。
「ありがとうございます。ただ最近少し歯の調子が悪く……」
もう一つと伸ばした藤澤の手が止まった。口内の酒饅頭を急いで飲み込み機関兵の方を向く。
「今、歯の調子が悪いと言ったな。見せてみろ」
「今からですか?」
「ああ、今からだ。口を開けてみろ」
機関兵は緊張した面持ちで藤澤の前に進み、大きく口を開けた。藤澤が医務室のライトを借りて照らすと、右下の小臼歯に齲蝕を認めた。
「虫歯があるな。この程度であれば艦内で処置できる。後から歯科治療室に……」
ライトを切った瞬間、藤澤の言葉が止まった。
「おい、お前。筆を舐める癖は無いか?」
機関兵がしまったという顔をした。
「はい、時計に塗料を塗る際、筆先の割れを舐めて整えていました」
「やはりな。前歯の隙間が淡く光っていた。その癖、今すぐ止めないと、死ぬぞ」
藤澤の言葉に機関兵が困惑した表情を見せた。宇佐美は藤澤を黙って見つめている。
「蛍光塗料の中に含まれるラジウムは骨を侵す。アメリカの時計工場で筆を舐め続けた女工が何人も犠牲になっている」
機関兵の顔から、急速に血の気が引いていく。
「わ、私は大丈夫でしょうか」
「蛍光塗料を塗る作業をはじめてどのくらいたつ」
「まだ二週間で、塗った時計も数個です」
「ならば、ほぼ問題はないだろう。念の為、アルコールで拭いてやる」
藤澤は医務室にある消毒用エタノールとガーゼをつかむと、機関兵の唇と歯の表面を入念に拭い始めた。
「いいか、今後は水を含ませた布で整えろ。絶対に塗料を口に入れるな」
機関兵が真剣な顔で頷く。藤澤も真顔を崩さず続けた。
「それから、虫歯の穴に塗料が入り込んでいると厄介だ。午後一番で治療室に来い、きれいに削って詰めてやる」
「は、はい! ありがとうございます!」
処置を終えた機関兵は何度も頭を下げ、医務室を出て行った。
「……藤澤中尉」
それまで黙っていた宇佐美が、低く声をかけた。
「よく知っていたな。ラジウムガールズか」
「ええ、学生時代の講義で習いました。……それに昨夜、消灯後の通路の奥で、青白く光る歯を見まして」
「なるほどな。幽霊の正体見たり、だな」
「このまま摂取を続けていれば、ラジウムが顎骨壊死などを招き、最悪死に至りますからね。早く気付けて良かった」
満足気に語る藤澤を見ながら、宇佐美の口元が僅かに解けた。
「保護者が居なくても、やれるもんだな」
「……の、野々山二曹は私の保護者ではありません!」
吠える藤澤を無視して、宇佐美は、静かに皿に残った酒饅頭を指差した。
「手柄だ。残りは全部持って行け」
「よろしいのですか!」
「差し入れは受け渡し台から、面会は扉越しにだ」
藤澤は手際よく饅頭を包むと、宇佐美に会釈して小走りで隔離室を目指した。
重い鉄扉の小窓を、トントンと曲げた指で軽く叩く。
数秒後、熱で少し目を潤ませた野々山が、マスク越しに驚いたような顔を覗かせた。
「坊ちゃん……? いけませんよ、うつったらどうするんですか」
「これしきではうつらんよ。それより太郎にぃ、昨日の『幽霊』の正体が分かったぞ」
藤澤は厚い扉越しに、誇らしげに事の顛末を語って聞かせた。
ラジウムの毒性、時計の修理兵の光る歯、そして労災を見事に未然に防いだ自分の冴え渡る推理を。
野々山は熱に浮かされながらも、時折ふっと目を細めて相槌を打つ。
「……さすがは、坊ちゃんですね」
「ふふん、もっと褒めてもいいぞ。ほら、主計科特製の酒饅頭だ。そこの受け渡し台に置いておくからな。堅くならないうちに食えよ」
「藤澤中尉、患者が来室いたしました」
西村の呼び声が聞こえた。藤澤は再び軽く小窓を叩く。
「太郎にぃ、夜更かしさせてごめんな。早く元気になれよ。にぃが居ないと仕事がやりにくくてかなわん」
藤澤は、野々山の答えを聞かず、治療室へと駆けていくのであった。
【ミニコラム】
作中に「ラジウム・ガールズ」が出てきましたが、これは1917-1920年ごろにアメリカの時計工場で、ラジウムを含有する夜光塗料を時計盤に塗る作業に従事した結果、放射線中毒になった女性工場労働者のことです。
当時、ラジウムの健康被害は科学者や経営者の間で認識されていましたが、労働者達には「無害である」と説明され、時短のために筆を舐めて毛先を整えるように指導されていました。
結果、1922年の死亡例を皮切りに、女工たちはラジウムによる被曝で骨壊死や肉腫などを発症し、多数の犠牲が出ました。
この事件は裁判に発展し、労働安全衛生局の成立につながっています。




