光る歯(前編)
「こんな時間まで仕事熱心だな」
パラフィンを溶かす藤澤に、宇佐美が労いの言葉をかけた。
「ええ……まぁ。ところで軍医長、どういったご用件でしょうか?」
「艦長の自伝を借り受けに来た。一本、吸っていいか?」
野々山が静かに灰皿を差し出す。
「艦長の自伝なら手元にありますが、何でまた」
宇佐美が、煙草の箱を胸ポケットから取り出し、軽く振ってみせた。
「艦長がな、自伝を読んで感想を言えば、煙草を一ダースとウイスキー二本をくれると言うんでな」
宇佐美はそのまま、一本を取り出し、咥えてすぐに火をつける。
野々山が羊羹を抜いたとらやの袋に鹿島艦長の自伝を入れてうやうやしく差し出した。
「藤澤のところの助手は気が利くな。うちに欲しいところだ」
宇佐美は鹿島の自伝を取り出し、パラパラとめくりはじめた。
「女子だらけだな。ま、これを読んでヤニと酒なら悪くはなかろう。長い航海でこれが切れると、どうにもならんからな」
宇佐美が自伝を閉じ、煙草を揉み消した。最後の煙が薄く立ち上り揺らめいて消える。
「ところで藤澤中尉、幽霊の噂話は聞いたか?」
「ゆ、ゆ、幽霊ですか?」
藤澤の肩がびくりとした後、しゅんと縮こまった。
「ああ、最近、艦内のあちらこちらでボォッと淡く光る人魂の様な物を見かけたという話が……」
「ぐ、軍医長。そんな非科学的なお話よりも、そうですね……機銃掃射を受けた場合の救護計画など話し合うのはいかがでしょうか?」
宇佐美が喉の奥で笑い、げほりと咽こむ。
「すまん、すまん。中尉はこの手の話が苦手だったか」
「そ、そんなことはありません!」
「ま、おおかた、有機溶剤の使い方を間違えたか、酸欠で幻覚を見たかそのあたりだろうな。艦内の安全について近々見直すとしよう」
宇佐美は艦長の自伝を袋にしまい、治療室を出て行った。
「太郎にぃ、軍医長の話だけど、幽霊なんて居ないよな……」
「さあ。パラフィンや包帯を無駄遣いする悪い子のところには出るかもしれませんよ?」
「またそんな嫌味を言って……」
藤澤が野々山の方に舌を出した。それからプイッとそっぽを向いてラムネ瓶の補強作業をはじめる。
溶けたパラフィンをラムネ瓶に注ぎ、クルクル回して器用にコーティングしていく。
「坊ちゃん、お手伝いしましょうか?」
「いや、結構だ」
藤澤は、その後も黙々と作業を続け、最後のラムネ瓶に補強用の包帯を巻き終えたのは二十二時前だった。
「今からなら、士官次室に納品できるな。太郎にぃ、何か籠のようなものを……」
野々山に向かいそう言いかけてまた、プイッと横を向くと、さっきまでなかった籠が置かれている。
「太郎にぃ、ありがとな」
聞こえないほどの小声だった。そのまま、急いで瓶を詰めて廊下に出ると、遠くで消灯ラッパの音が鳴るのが聞こえた。
照明が間引かれ通路が暗くなる。鉄に反響する自分の足音が妙に大きく聞こえる。
「ゆ、幽霊なんて非科学的な話、二十世紀のこの世にありえんわ……」
独り言を言いながら、恐る恐る歩いて角を曲がったその先には――
「ひぃぃっ」
藤澤が小さく悲鳴をあげて後ずさった。籠が手から滑り落ちて、ガシャリと瓶が鳴る。
――通路の遠方に、フワフワと緑色に光る物体が浮いている。 目を凝らすとそれは――人間の歯の形をしていた。
藤澤は、足がすくんで動けなかった。その肩に、背後からにゅっと手が伸びる。
「ぎゃあぁぁぁぁ」
腰を抜かして、振り返るように見上げると、手の主は、野々山だった。
「太郎にぃ、あそこ、通路の奥に!」
「坊ちゃん、何も居ませんが……」
「おかしいな、さっきは確かに」
藤澤が尻をさすりながら立ち上がった。慌てて籠を覗くと、強化の甲斐もありラムネ瓶は一本も割れていなかった。
「良かった、瓶は割れていないな」
「坊ちゃん、ラムネの瓶より、まずはこの場を離れましょう。軍医長がおっしゃるように有毒ガスがあったら大変です」
「それもそうだな」
野々山は藤澤を治療室へ続く通路へと押し戻し、素早く瓶の入った籠を手に取った。
歯科治療室に戻った藤澤は、いつもの椅子に深く腰掛け、安堵の息を吐いた。
「坊ちゃん、気分は悪くありませんか?」
「ああ、大丈夫だ。それよりも太郎にぃ……もう消灯時間だが、急患がくるかもしれん。もう少し治療室を開けておいてもいいか?」
野々山は吹き出しそうになるのを堪え、静かに二度頷いた。
「それではお茶でも飲みながら、歯の暗号について考えますか?」
「そうだな、そうしよう!」
野々山が湯を沸かし、戸棚の奥から隠しておいた羊羹を取り出して包丁を入れる。
「そう言えば前に宇佐美軍医長が、『鳴瀬』の軍医長と知り合いだったと言ってたよな」
「そうですね。たしか後輩だったと」
「荼毘に付しても、あの刻印は残ると思うんだが……」
野々山が静かに茶を湯呑みに注いだ。
「坊ちゃん。色々考えるのは良いことです。ですが残された親や家族の気持ちも考えて下さいね」
「……分かってるよ」
藤澤が濃いめの茶をぐいっと飲み干す。
結局、野々山は、その晩は藤澤の震えがおさまるまで付き合う羽目となった。
――そして、翌朝。
朝食を終えた藤澤が歯科治療室の扉を開ける。いつもなら既に器具の準備を整えているはずの、野々山の姿がなかった。




