ラムネ(後編)
野々山は、夕食を終えて帰室した藤澤に鹿島の自伝を差し出した。
開いたページには、鹿島が米国で「ボウリング」という遊びを仲間と楽しみ、初挑戦にもきわらず一位だったという自慢話が綴られていた。
「この『ボウリング』という競技。坊ちゃんの推理と一致しませんか?」
「なるほど……これなら、あの床の傷にも合点がいく。床のスリップ痕はボールが転がった後だろう」
藤澤が、右手で拳を握り、左手のひらでそれを軽く叩いた。
「俺が不在の、就寝前の時間に遊んでいるに違いない。現場を押さえて追及してやるぞ!」
その夜。意気揚々と士官次室へ乗り込んだ藤澤だったが、なぜか十本の空き瓶を抱え、微妙な表情を浮かべ戻ってきた。
「坊ちゃん、何があったのですか?」
「いや、その……内藤中尉たちに誘われて一投してみたら、これがなかなかの快感で……。つい、瓶の補強を引き受けてしまった」
泳ぐ視線。野々山の声のトーンが一段、低くなる。
「それだけですか? 正直におっしゃってください」
「……成功の報酬に、ラムネを十五本くれると言うんだ。主計科からの依頼より三本も多い」
野々山の言葉から抑揚が消える。
「……で、具体的にどうやって『割れづらく』するおつもりですか。ここは歯科治療室であって、玩具の修理工場ではありませんよ」
呆れ果てた野々山の問いに、藤澤は治療台の上に広げた物資を指差して胸を張った。
「このくらいは簡単なことだ。瓶の内側に溶かしたパラフィンを流し込んで膜を作り、外側を包帯で薄く巻いて固定する」
藤澤がラムネ瓶を持ち上げ、外側を軽く叩いた。
「パラフィンが衝撃を吸収し、包帯が飛散を防ぐ……これぞ、藤澤式・防弾ならぬ防砕ラムネ瓶だ!」
歯科用のパラフィンワックスと包帯。本来なら、型取りや負傷兵の処置に使われるべき貴重な軍需品である。
「……貴重な医療物資を、そんなくだらないことに。内藤中尉たちに、そこまでして気に入られたいのですか?」
野々山の声に、微かな刺が混ざる。しかし、藤澤はそれに全く気づいた様子がない。
「内藤は関係ない! これはあくまで、ええっと……十五本のラムネを確保するための高度な技術供与……しかも、長期で見れば物品の破損も減らせる」
藤澤は野々山を上目遣いで見た後、なおも言い訳を続けた。
「それに、ラムネ瓶が割れて飛び散ったガラス破片で、士官が怪我をするのを防ぐための『安全対策』でもある。これは、いわば、歯科医士官としての威信をかけた作戦だ!」
追求から逃げるように、せっせとパラフィンを溶かし始めた藤澤の背中を見つめ、野々山は深い溜息をついた。
「……作戦、ですか。ではその『報酬』の十五本、私が厳重に管理させていただきます。坊ちゃんが一度に飲んで、お腹を壊さないように」
「えっ、あ、いや、それは……」
慌てて振り返る藤澤を無視し、野々山は消毒済みのトレイをガチャンと音を立てて片付けた。
その横顔は、少しばかりの不機嫌さと、溶けたパラフィンよりも熱い独占欲に満ちていた。
「えっと……そうだ、あとで士官次室に貼る標語を書かねば」
藤澤がようやく焦りはじめた時、治療室の扉がノックされた。
「私だ、入るぞ」
返事を待たずに扉が開き、染みついた煙草の匂い流れ込む。
――今宵の客は宇佐美軍医長だった。
【ミニコラム】
火が燃焼を続けるには「燃焼の3要素」が全て揃う必要があります。
三要素は「可燃物」、「酸素」、「熱源」です。火消しが建物を壊すのは「可燃物を除去」して燃焼を止める「除去消火法」になります。
一番メジャーな水による消火は、熱源の温度を下げ、燃焼物を発火点以下に下げる「冷却消火法」が主体で、プラス酸素の供給を止める「窒息消火法」の要素も持ちます。
ラムネ製造で出てきた「二酸化炭素」は酸素濃度を低下させながら燃焼面を覆い「窒息」と火炎から熱を奪う「冷却」によって消火します。電気火災や油火災で水が使いづらい状況で活躍いたします。
消火に使う二酸化炭素製造装置が設置されている戦艦では、それを転用することでラムネを作っていたようです。
戦艦大和で作られていたラムネを再現した飲料や、それをイメージしたラムネ菓子も売っていますので見かけたら買ってみて下さい。
ちなみに作者は危険物乙4を持っているので、多少消火に詳しいです(笑)




