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ラムネ(中編)

 出来たてのラムネで喉を潤し、次なる目的地である士官次室への道すがら、藤澤は先程の余韻を反芻するように目を細めた。


「太郎にぃ、出来たてのラムネは本当に美味かったなぁ。あのシュワシュワした喉越しがたまらんよ」

「左様でございますね」


 野々山が静かに相槌を打つ。しかし、無機質な鉄壁が続く通路を進み、士官次室が近づくにつれて、藤澤の足取りは目に見えて重くなっていった。   


 意気揚々と前を歩いていたはずが、いつの間にか野々山の斜め後ろへと下がり、下士官用軍衣の裾をぎゅっと掴み込んでいる。


――行きたくない時の癖は、昔からちっとも変わりませんね。


「……明日に、なさいますか?」


 藤澤は、図星を突かれたように、ハッと裾から手を離した。


「い、いや。今から行くに決まっているだろう」


 虚勢を張るようにわざと語気を強めると、再び野々山を追い越して歩き始める。  


 士官次室の入り口にたどり着いた藤澤は、中を伺うようにそっと首を左右に動かした。夕食開始まであと三十分。幸いなことに、室内に人影はない。


 ようやく安堵の吐息を漏らした、その直後だった。


「よう、歯医者。夕食にはまだ早すぎるぞ?」


 背後から響いた快活な声に、藤澤の肩がびくりと跳ねた。


「ああ、内藤中尉……」


 声の主は、士官次室の主《あるじ》――ケプガン(士官次室幹事)である、内藤勇二中尉だった。

 日に焼けた精悍《せいかん》な黒い顔と対照的な健康そのものの白い歯が、口元から眩しいほどに覗いている。


「お供まで連れて何か用か?」

「最近、士官の齲歯(うし)が増えておりまして。啓発用の標語を次室にも掲示するよう軍医長より命じられ、その場所の選定に参りました」

「それはご苦労。……で、その標語はもう考えてあるのか?」


 藤澤は一瞬、言葉に詰まった。しかし、咄嗟にひねり出した「嘘」を真実にするべく、精一杯の威厳を込めて大声で標語を放つ。


「『食べたら漱《すす》げ』! これに尽きます!」

「……ッ、プハッ」  


 内藤の口から、堪えきれないといった風の笑いが漏れた。


「そうか……よかろう、掲示を許可する。俺はもう少し仕事があるからな」


 内藤はポケットを弄《まさぐ》ると、数個の黒糖飴を掴み出し、藤澤のポケットに半ば強引にねじ込んだ。


 そして、愉快そうに肩を揺らしながら通路の奥へと歩き去っていった。


「くそう、あいつはいつも俺を子ども扱いして馬鹿にする!」  


 内藤の背中が見えなくなると、藤澤は忌々しげに吐き捨てた。


「坊ちゃん、あれは馬鹿にされているのではなく……いえ、なんでもありません」

「ん? 太郎にぃ、なんだか機嫌が悪く見えるが?」

「……機嫌悪くなどありませんよ。それより人が戻ってくる前に、早く現場検証を済ませてしまいましょう」 

「そうだな。ラムネ瓶の破損原因をきっちり突き止めて、あのケプガンに責任を取らせてやる!」


 鼻息荒く宣言して士官次室に踏み込んだ藤澤は、這いつくばるような姿勢で、注意深く床の観察を始めた。


「太郎にぃ、この床の傷を写し取ってくれ」


 藤澤は、部屋の隅に近いリノリウムを指差した。ワックスが鈍く光る床に、鋭い三日月状の凹みがいくつも刻まれている。  


 野々山は手際よくその上に白紙を置くと、手慣れた手つきで鉛筆を寝かせ、紙の表面を一定のリズムで擦り始めた。


「……これだけの深さ。かなりの衝撃ですね」

「ああ。ここのワックスの擦れ方も、どうにも怪しい」


 藤澤は傷から数メートル離れた場所に残る、不自然に長く伸びたスリップ痕を指でなぞった。ワックスの層が白っぽく削れ、何かが猛スピードで滑走した跡を物語っている。


「よし、証拠は揃った。あとは治療室に戻って、このパズルを組み上げるとしよう」


 治療室に戻った藤澤は、最初に手渡されたあのラムネ瓶を執務机のランプに透かし、しげしげと眺めていた。


「やはり外傷性の水平的歯根破折にそっくりだな……。もし、不満が溜まった士官がストレス解消に瓶を床へ叩きつけたのだとしたら、破片はもっと細かく、そして広範囲に飛散するはずだ」


 藤澤が、ひび割れたラムネ瓶を白熱灯に翳《かざ》して見上げる。


「なぜあの一箇所にばかり傷が集中しているのか、その理由がどうしても掴めん」


 その時、治療室の扉が軽快にノックされた。


「私だ、開けてくれ」


 それは鹿島艦長の声だった。野々山が扉を開けると、そこには妙に上機嫌な様子で鹿島が立っていた。

 その手には、もはやお約束となった『とらや』の紙袋が提げられている。


「藤澤中尉、折り入って頼みがあるのだが」

「艦長、何なりとお申し付けください!」


 藤澤は期待に満ちたキラキラとした視線を紙袋に一点固定し、食い気味に答えた。


「実はな、最近密かに自伝を書き進めていてね。我ながらなかなかの出来だと思うのだが、客観的な感想が欲しくてな」

 

 鹿島が紙袋から取り出したのは、ずっしりと重そうな分厚いノートだった。  

 その瞬間、藤澤の瞳から光が消え去った。まるで煮え切らない死んだ魚のような目になる。


「直属の部下に見せるのは少々照れ臭い。そこで、歯科医士官である君にぜひ目を通してほしいのだ」

「……しかし艦長。最近は負傷兵の治療も立て込んでおりまして、なかなか拝読する暇が……」


 言いかけた藤澤の視界に、ノートの陰から本命の羊羹が姿を現した。


「……ないのですが、 艦長の自伝であれば、この藤澤芳樹、誠心誠意拝読させていただきます!」

「ははは、そうか。あまり肩肘張らず、気楽に読んでくれればいい。では頼んだぞ」


 鹿島が去った後、藤澤はノートのページをパラパラとめくり始めた。そして五分後、藤澤は机の上で見事に撃沈していた。


「だめだ。冒頭の三ページで、もう女子《おなご》が五人も出てきたぞ。太郎にぃ、代わりに読んどいてくれ。俺は夕飯に行ってくる」


 宿題を投げ出し、虫取りにでも行く子どものように部屋を飛び出した藤澤を見送り、野々山はノートを手に取った。


 鹿島の自伝は、奔放な女性遍歴もさることながら、兵学校時代からの歩みがユーモアを交えた洒脱《しゃだつ》な筆致で記されている。


「艦長は、米国に留学されていたのか」


 そこでもまた金髪の恋人との逢瀬が綴られていたが、ある記述に野々山の手が止まった。


「これは……!」

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