ラムネ(前編)
――昭和十九年、初夏。
戦艦『奥羽』の歯科治療室で、藤澤芳樹歯科医中尉はラムネの甘味に酔いしれていた。
「ああ、うまい。軍艦でラムネが飲めるとは」
一口飲むごとにニヤニヤと顔を緩めている。
「消火設備の二酸化炭素発生装置を転用して、ラムネの製造を考えた奴は天才だな!」
「ラムネを味わうのは結構ですが、今日のカルテをきちんと整理してくださいね」
野々山太郎二等衛生兵曹が、治療器具の数を確かめながら藤澤に声をかける。
洗浄台の横にはまだ、手付かずのラムネが一本鎮座している。
「太郎にぃは、ラムネ飲まないのか?」
逆さにした瓶を振って、最後の一滴まで余すことなく飲み干した藤澤が、未開封のラムネと野々山の顔を交互に見つめた。
「そうですね。カルテを仕上げたら、ご褒美にこのラムネを差し上げます」
野々山の言葉を聞いた瞬間、藤澤はカルテの山を手に取り、机に向かった。
「いちまーい、にまーい」
皿屋敷のごとくカルテを数えながら、サラサラとペンを走らせる。
「じゅうごまーい! ほら終わったぞ、太郎にぃ」
椅子をクルリと回して藤澤が野々山の方を見た。
――ああ、坊ちゃんは本当に子どもの頃から変わらないな。
野々山は器具を洗う手を止め、手についた水を拭うと、ラムネを持って机の方へと運んだ。
ことりと音をたて藤澤の前にラムネ瓶がおかれる。
「へへ。では、いただきま……」
藤澤が瓶を開けようとした瞬間、治療室のドアが鋭く叩かれた。
「今来た奴は、無麻酔で治療するぞ」
藤澤の物騒な言葉を無視して、野々山がドアを開ける。
そこには主計科の阿久津一等水兵が立っていた。少し前に昇進したようだが、相変わらず目つきがすこぶる悪い。
「藤澤先生にご相談があって参りました」
「なんだ、よし子の歯でも抜けたか。それとも阿久津、お前が猫に嫌われすぎて噛まれたか?」
阿久津は、頬の引っ掻き傷を軽く押さえて一瞬俯いたが、すぐに姿勢を正した。
「いえ、猫ではありません。実はラムネについてなのです」
ラムネと聞いた藤澤と野々山が、同時に顔を見合わせた。
藤澤は、先程空になっていた自分の瓶を手に取ると、指先でピンと弾いた。チリン、と中に閉じ込められたガラス玉が涼やかな音を立てる。
「ラムネは主計科の管轄だろ。配給のラムネを飲みすぎて、齲歯の患者でも大量発生したか?」
「いえ、その……これを見ていただけますか」
阿久津が差し出したのは、無残にも真っ二つに割れたラムネ瓶だった。
「割れた瓶がどうかしたのか? 歯科とは全く縁がない話だ」
あまり興味のない口調で藤澤が尋ねた。
「士官次室のラムネ瓶破損率が高く、ラムネ係が嘆いております。物資不足のこの折、これが続くと若い士官へのラムネ配給が削減される可能性もあり……」
ラムネの配給が減るという阿久津の言葉に、藤澤の目の色が変わった。
「かしこくも陛下から賜った軍需品の一部であるラムネ瓶を、かように扱う不届きな奴は許せん! 断じて許せんぞ!」
語気を強めた藤澤だったが、すぐに落ち着いた口調に戻る。
「しかしだな……士官次室の中じゃあ、俺の席次は低いからな……」
今年になって中尉に昇進したばかりの藤澤より下位の士官は、兵科の少尉が三人と、機関少尉が一人だけだった。
言い淀む藤澤に、阿久津が二の矢を放った。
「解決してくださった暁には、主計科からラムネを一ダース進呈いたします。これは主計長の許諾を得ております」
「よし、俺に任せておけ!」
「ではご都合がつく時間に烹炊所までお越しください」
藤澤はドンと胸を強く叩いて、その後に少し咽せた。野々山がすかさず背中をさする。
やや不安な顔をしたまま治療室を出ていく阿久津を見送った後、藤澤はラムネを開けながら野々山に話しかけた。
「太郎にぃ。ラムネ二本やるから、手伝ってな」
野々山は器具を入れた棚の扉を静かに閉めた。
「ご命令であれば、どこへでもお供いたしますよ」
「そうこなくちゃな。さすが太郎にぃだ」
藤澤は一気にラムネを飲み干すと、満足げに口元を拭った。
「まずは、烹炊所で他の割れた瓶を観察するぞ」
机の上に勢いよくラムネ瓶を置くと、藤澤は遠足に向かう子供のような足取りで駆け出した。
「中尉、走ると転びますよ」
背後からの呼びかけなど耳に入らない様子で、あっという間に通路の角を曲がる。
野々山はため息をつきながら、治療室の扉に『往診中』の札を掲げ、藤澤の後を追うのだった。
野々山が烹炊所に到着した時、藤澤は隅に鎮座するラムネ製造機の脇、破損瓶の集積場の前にしゃがみ込み、係の兵と顔を突き合わせていた。
一つ、また一つと瓶を拾い上げ、真剣な眼差しでガラスの表面を透かして観察している。
「片側に小さな打痕や、微細なヒビ割れ。その対側に走る大きなヒビ……このパターンが多いな。まるで何かが衝突して、なぎ倒されたかのようだ」
藤澤は野々山の気配に気づき、パッと顔を上げた。
「太郎に……ごほん、野々山二曹。お前も一緒に見てくれ」
「はっ」
野々山が藤澤の横で片膝をつき、一本のラムネ瓶を持ち上げた。
「中尉のおっしゃる通り、高所からの落下というよりは、瓶同士が横倒しにぶつかって破損したように見えますね」
「野々山二曹もそう思うか。瓶を纏めておいたら、横揺れで倒れたのかもしれんな」
「だとしたら、保管方法の変更が必要ですね」
「まぁ、これは仮説だ。では士官次室へ現場検証に行くとしよう」
藤澤は満足げに立ち上がり、出口の方へと身体を向けた。その背後から、ラムネ係の感謝のこもった声が響く。
「中尉、本日はこんな蒸し暑い厨房まで足をお運びいただきありがとうございました」
「気にするな。探偵遊びも良い気分転換になる」
「それで……もしよろしければ、出来立てのラムネを一本いかがでしょうか」
藤澤の身体が、独楽のようにくるりとラムネ製造機の方へ向き直った。目尻が、隠しようもなく下がっている。
「それは……実にありがたい申し出だな」
藤澤の浮ついた声に対し、野々山が「ごほん」と大きく咳払いをした。
主人の「悪い癖」を嗜めるようなその響きに、藤澤は慌てて表情を引き締め、わざとらしく痰を切る様に軽く咳払いをした。
「……あー、うむ。そ、そこまで言うのであれば、無下に断るのも職人の志を折るようなものだ。馳走になろう」
「二曹もぜひ、どうぞ」
「……では、お言葉に甘えまして」
野々山が深々と頭を下げ、体勢を戻した時には、藤澤は既に一本目のラムネを飲み干し、二本目に手を伸ばしているのだった。




