湯の華(前編)
――昭和十九年、春。
佐世保の小料理屋で大学芋を腹一杯食べた藤澤芳樹歯科医中尉は、幸せの余韻に浸っていた。
「情けは人の為ならずとは、よく言ったものだ。店に個室があったから、太郎にぃとゆっくり飯も食えたしな」
以前、航空歯痛を解決してやった、若林一飛曹の姉の店から出た藤澤は、野々山太郎二等衛生兵曹が渡された土産の包みを見て、表情を崩す。
「ふふふ。艦に帰っても大学芋三昧だ」
「坊ちゃん、半分は艦長への頼まれものですよ」
「それは、分かっている。太郎にぃ、土産の包みは俺が持ってやる」
藤澤は野々山から包みをひったくるように奪い、意気揚々と歩き始めた。
まだ佐世保の夜は始まったばかりで、灯りがともり始めた大通りには人がごった返している。
上陸を許された様々な艦艇の将兵たちがここぞとばかりに羽を伸ばしているのが分かる。
海上生活で溜まった垢を落とそうと、風呂屋の前に長い行列ができているのが見えた。
二人がそれを横目に通り過ぎようとした時、列の途中から怒鳴り声が聞こえた。
「テメェ、佐藤、この野郎! よくも人の女房に手を出しやがったな」
「おい待て。俺の名は確かに佐藤だが、人の妻に手を出したことはないぞ」
「うるさい、つべこべ言うな!」
佐藤と呼ばれた男が突き飛ばされ、藤澤がそれに巻き込まれて倒れ込む。
尻から倒れ込む佐藤の、座布団になる形で、藤澤は地べたに伏した。
突き飛ばした男も、突き飛ばされた佐藤も共に水兵服を着ている。
藤澤は地べたで呻きながら、それでも包みは離さず、胸に抱えて守っている。
「大丈夫ですか、坊ちゃん!」
「太郎にぃ……大学芋は無事か!?」
「芋の心配をしている場合ですか!」
野々山が血相を変えて駆け寄り、藤澤の上に乗ったままの佐藤を、力任せに引き剥がした。
「貴様ら! 士官に乱暴を働くとは何事だ!」
野々山の一喝に、掴みかかっていた男も、佐藤も、弾かれたように直立不動の姿勢を取る。
夜の薄暗がりとはいえ、地べたに伏した藤澤の外套についた肩章――二本の金線に桜ふたつの「中尉」の輝きに気付いた瞬間、二人の顔から一気に血の気が引く。
二人の水兵が震え上がる中、藤澤は野々山の手を借りてよろよろと立ち上がった。すぐに包みの紐を緩め、竹皮の隙間から中身を覗き込む。
「……ふう。蜜が少し竹皮に染みたが、芋の形は崩れておらん。奇跡だな」
「坊ちゃ……いえ中尉、胸を打ったのではありませんか? 痛みは大丈夫ですか?」
「俺も芋も無事だ。……しかし、他人の女房に手を出した挙句、他人を巻き込んで砂まみれにするとは、実にけしからん奴だな」
藤澤が外套の土を叩き落としながら、佐藤と呼ばれた水兵をジロリと睨みつけた。
「佐藤、所属は?」
「第二十一駆逐隊、駆逐艦『初矢』乗組、佐藤衛生兵長であります!」
「ほう、野々山と同業か。で、そっちの男は?」
「はっ! 海防艦『伊王』所属、航海科、鈴木兵長であります!」
藤澤が大学芋の包みを野々山に預け、二人の方を向き直る。
「で、佐藤は本当に鈴木の妻を寝とったのか?」
「断じてそのようなことはありません! だいたい、この男と会うのは今日が初めてあります」
「嘘をつくな! お前は近所に住んでいただろう。博多の魚町ばい。唇の横にある黒子をはっきり覚えているわ!」
「俺は阿蘇の出身だ。お前のことなど全く知らん!」
二人の声が段々と大きくなっていく。お互い胸ぐらを掴みかかる勢いだ。
野々山の目に、道向こうからやってくる憲兵の姿が目に映った。
「貴様ら、何を騒いでいる!」
マントを翻し、やって来たのは憲兵下士官だった。憲兵が争う二人に近づき咎めようとした瞬間、人だかりの背後から聞き慣れた声がした。
「まぁまぁ、これは海軍の問題だ。ここは私の顔を立てて預けてくれないかね」
姿を現したのは、戦艦『奥羽』艦長、鹿島豊、その人であった。
私服の背広に、外套姿。ソフト帽を目深に被った洒落た出立ちで、鹿島は群衆を割って悠然と歩み出てきた。
夜の街灯の下でも、その彫りの深い顔立ちと、漂う色気は隠しようがない。
「陸軍の憲兵殿に、うちの跳ね返りどもがご迷惑をおかけして申し訳ないね」
鹿島は胸ポケットから手帳を抜き、チラリと憲兵下士官の目の前にかざした。 身分証にある「海軍大佐」の文字を認めた瞬間、先程まで尊大にマントを揺らしていた憲兵の背筋が、目に見えて強張った。
陸軍の軍曹か曹長あたりだろう。目の前にいるのが、連合艦隊の主力戦艦の「艦長」ともなれば、いくら縄張りを誇る憲兵とて無碍にはできない。
「海軍大佐殿でありますか……! しかし、街頭での私闘は重大な軍紀違反。憲兵隊本部へ連行の上、身元保証人に引き渡しといたしたく――」
「まあ、そう杓子定規に言わんでくれたまえ。若い連中が酒の勢いでぶつかっただけの、児戯に等しい喧嘩だよ。幸い、怪我人も出ておらん」
藤澤が軽く両手を挙げ、怪我がないことを示す。鹿島はふっと艶のある笑みを浮かべると、憲兵の肩にポンと親しげに手を置いた。
「憲兵殿も、この寒風吹きすさぶ中での警邏、誠にご苦労なことだ。……ところで、憲兵分隊長の柳田少佐はお元気かな? 彼とは先日、そこの料亭で熱く国防を論じ合ったばかりでね」
海軍大佐の威圧感と、上官の名を自然にチラつかせる老獪な手腕。 憲兵下士官の額に、じわりと冷や汗が滲み出た。
「……大佐殿がそうおっしゃるのであれば。以後は海軍側の責任において、厳格な処置をお願いいたします」
「無論だとも。貴官の配慮に感謝するよ」
憲兵は硬い敬礼を残し、逃げるように大通りの雑踏へと消えていった。
「さてと、藤澤中尉。大見得を切ったは良いが解決策は考えておらん。いつものキレで君がやってくれたまえ」




