ネズミの歯(後編)
「太郎にぃ、ネズミの歯を擬装しよう!」
言葉の意味が飲み込めず、野々山が瞬きをした。
藤澤は嬉しそうに診察机の引き出しを開け、ごそごそと印鑑入れを漁る。そして死蔵していた象牙印を取り出した。
「印鑑の尻の部分を少し切りとって、乳歯の様に加工してやる」
「本気ですか、坊ちゃん」
野々山が呆れたように眉をひそめた。
「自分の実印の端を削って甥っ子に送るだなんて、前代未聞ですよ」
「まあ、黙って見てろって」
藤澤は袖をまくり上げ、治療台近くに行くと、歯科用の技工用切断鋸とハンドピースを手元に引き寄せた。
「よく見てみろ、太郎にぃ。象牙というのはなゾウの切歯だ」
藤澤が印鑑を摘み上げ、野々山に見せた。ほんの少しだけ黄色みが混ざっているが白に近い美しい象牙だった。
「象牙質という名前があるように、象牙と人間の歯はよく似ている。下の乳中切歯なら、幅せいぜい四ミリ、高さ五ミリ程度。印鑑の尻をちょいと落とせば、余裕でお釣りがくる!」
「……やれやれ。言い出したら聞かないのは昔からですね」
ため息をつきつつも、野々山は手際よく作業台を片付け、光源の角度を藤澤の手元へと合わせた。
「やっぱり太郎にぃは気が利くな! さてと……」
象牙と向き合った瞬間、藤澤の目の色が変わった。 先ほどまでのふざけた気配が消え去り、極細の切削バーを構えた指先に集中力が宿る。
キィィィンと高いモーター音が治療室に響き渡った。
象牙の削り粉が微かに舞い、歯を削るのに似た独特の匂いが漂う。
藤澤はピンセットで印鑑から外れた象牙片をつまみ、ルーペ越しに息を殺して削り進めた。
「乳歯のポイントはな、永久歯と違ってエナメル質の厚みが薄く、丸みがある」
藤澤がいったん象牙の粉を払い落とす。
「生え変わりで抜けた乳歯は歯根が吸収されて短くなっている。ここを再現するのに、平坦かつわずかに窪ませて削り込まねば、本物らしく見えん!」
「……無駄な熱意が凄まじいですね」
「無駄とはなんだ! これは歯科軍医としての誇りをかけた精密技工だぞ!」
藤澤はその後も研磨機などを使い、微調整を続けた。最後に軽石粉で磨きあげた象牙片を手のひらに載せる。
「……できた」
野々山が藤澤の手のひらを覗き込み、思わず息を呑んだ。
藤澤の手にあるのは、どこからどう見ても、子どもの口からぽろりと抜け落ちたばかりの、小さく可愛らしい乳歯だった。
白く半透明の質感まで、完璧に本物の歯そのものだ。
「……見事なものですね。本当に抜け落ちた歯にしか見えません」
「だろう? これなら神様だって騙されて、丈夫な永久歯を生やしてくれるに違いない」
藤澤は満足げに胸を張り、机の引き出しから便箋を取り出した。
『海の向こうで、お前の抜けた歯を叔父さんが拾っておいた。今度こそ落とさずに、思い切り屋根の上に放れ。ネズミのような立派で強い歯が生えてくるぞ』
手紙を手早く書き上げ、ありあわせの小箱に象牙の歯を入れた藤澤はほっと一息ついて、大きく伸びをした。
「よし、明日の通船で実家へ発送だ。……ああ、肩が凝った。こんなに集中したのは医学校の卒業試験以来かもしれんな」
藤澤が自分の肩をトントンと叩きながら野々山の方を見た。
「神経を使ったら腹が減った。何か甘いものをくれ」
「羊羹が少し残っていた気がします」
野々山が立ち上がり、少し口元を緩ませた。
「ん、太郎にぃ、何か嬉しそうだな?」
「いえ、昔坊ちゃんが、『生え変わる』と『蠅に変わる』を勘違いされて大泣きしたのを思い出しまして」
「そんなことは思い出さず、早く羊羹を切ってくれ!」
「『よしくんが蠅に変わってしまったら、どうかバナナを食べさせてくれ』と涙まみれになりながら私の裾にしがみついて……」
「それ以上言うと、太郎にぃのこと嫌いになるぞ! いいのか?」
また赤くなって声を上げる藤澤の横で、象牙の端材で作られた小さな白い歯は、本物の乳歯のように誇らしげに輝いていた。




