ネズミの歯(前編)
――昭和十九年二月。
呉に停泊中の戦艦『奥羽』の歯科治療室で、藤澤芳樹歯科医中尉は珍しく頭を抱えていた。
手には岐阜の実家から届いた手紙を握っている。
「坊ちゃん、どうしましたか?」
同郷出身の野々山太郎二等衛生兵曹が、藤澤の顔を覗きこむ。
「太郎にぃ、この手紙を見てくれ」
それは藤澤の兄からの手紙であった。
「もしかして……お見合いの話でしょうか?」
野々山が少し慌てた様子で尋ねた。藤澤はそれに気づかず話を続ける。
「いや、全く違う。兄貴の息子――要するに俺の甥っ子なんだがな。下の前歯が抜けたから屋根の上に放ろうとしたところ、庭の草むらに落として失くしたらしいんだ」
藤澤があきれ顔で、手紙を野々山に渡した。
「『屋根に投げないと強い歯が生えてこない! ネズミの歯になれない!』って、大泣きして飯も食わずに拗ねてるとよ」
「……それで、歯科医の叔父さんに泣きついてきた、と」
「そうだ。歯科医だからって、失くした乳歯をどうにかしろとは無茶振りがすぎるだろう」
ため息をつく藤澤に、野々山が小さく吹き出した。
「そう言えば坊ちゃんも、初めて歯が抜けた時は大騒ぎでしたね。お菓子を禁止されるのが嫌で、歯がぐらぐらしているのを必死に隠して」
「おい、太郎にぃ」
「とうとう抜けた際には、服を血まみれにして『よしくん、おじいちゃんになっちゃった。もうお菓子が食べられない』と大泣きしていたのを思い出しましたよ」
「そんな昔のことはもう忘れた!」
懐かしそうに目を細める野々山と対照的に、藤澤は耳まで赤くして拗ねたように口を尖らせた。
「だいたい、子どもの言うことだ。放っておけばそのうち忘れるだろ」
その時、コンコンと小さく扉を叩く音がした。
「小林です。野々山二曹にご相談が」
「太郎にぃ、客だぞ。隣の小林衛生兵長か」
藤澤は診察机の椅子に深く腰掛けたままで、野々山が対応のために扉を開けた。
通路に立つ小林衛生兵長の手には、金網の蓋がついた小さな木箱がある。中には二匹のネズミが身を寄せ合っていた。
「主計兵がネズミ上陸のために、捕獲したネズミを持ってきまして。受領の判を押す前に、少々見ていただきたく……」
「ほう?」
野々山が木箱を覗き込むと、小林が困惑したように眉を寄せた。
「毛は油で汚れていますが、何というか、妙に大人しすぎるというか……野生のドブネズミのような凶暴さがないのです」
「なるほど。捕獲したのではなく、艦の片隅で密かに『飼育』していたものではないかと疑っているのですね」
野々山の指摘に、小林は深く頷いた。
「ネズミ一匹で上陸一日とは、下士官兵も大変だな」
藤澤が小さく伸びをしながら、小林と野々山の方へ笑い混じりの視線を向けた。
「ええ。本来はペスト予防や糧食被害を防ぐための制度ですが、外出したさに自前で繁殖させたり、陸から持ち込んだりする不届き者もおりますから」
小林が苦々しい顔を見せ、小さくため息をついた。
「歯を見れば、野生か飼育かあたりがつくかもしれんな」
頼まれていない藤澤が背後から茶々を入れながら立ち上がった。
掃除用の古びた軍手をはめ、ネズミの入った箱に近づくと竹串を金網の隙間から差し入れる。
竹串を動かすと、一匹のネズミがキーッと小さく鳴き声をあげて串に齧り付いた。
「切歯が伸びているな。あまり硬いものを齧っていないのかも知れん。ただ、個体差もあるからこれだけでは飼育と断定はできん」
藤澤は竹串を抜き、しげしげとネズミの口元を見つめた。
「ネズミを持ってきたのは主計兵と言ったな。よし、ここは一つ主計科の獣医殿にお出まし願おうではないか」




